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数千人の戦争孤児は、浮浪児として政府や大人達に見捨てられ上野駅など大都市の主要駅で餓死していた。
戦争の犠牲者である女性や少女は、生きる為に売春をおこなっていた。
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少年少女が大人の犠牲になる事は、現代日本でも変わりない。
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2024年8月15日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「戦争が生んだ「浮浪児」は3万5000人 当事者が語る路上生活【石井光太】
上野駅の地下道で寝ている浮浪児たち
終戦75年の夏を、日本はコロナ禍の只中で迎えようとしている。
昭和20年8月15日、日本人は今と同様に先行きの見えない社会に対する不安にさいなまれていた。戦争が終わったからといって、すべての人々が平和の訪れに心を躍らせていたわけではない。一部の人にとっては、戦後の数年間、いや数十年間は、戦禍を生きるよりつらいことだった。
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その一例が「浮浪児」と呼ばれた戦災孤児たちだ。戦争で親や家を失い、路上でホームスとして生きた子供たちのことである。...
戦争が生んだ「浮浪児」は3万5000人 当事者が語る路上生活【石井光太】
上野駅の地下道で寝ている浮浪児たち
上野駅の地下道で寝ている浮浪児たち(1946年12月30日撮影)(他の写真を見る)
終戦75年の夏を、日本はコロナ禍の只中で迎えようとしている。
昭和20年8月15日、日本人は今と同様に先行きの見えない社会に対する不安にさいなまれていた。戦争が終わったからといって、すべての人々が平和の訪れに心を躍らせていたわけではない。一部の人にとっては、戦後の数年間、いや数十年間は、戦禍を生きるよりつらいことだった。
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その一例が「浮浪児」と呼ばれた戦災孤児たちだ。戦争で親や家を失い、路上でホームスとして生きた子供たちのことである。
かつて私は『浮浪児1945- ―戦争が生んだ子供たち―』(新潮文庫)で、上野駅の地下道や闇市で戦後を生き抜いた子供たちの証言を集め、ルポルタージュとして刊行した。
そのうちの一人の元浮浪児の言葉である。
「戦争によって家族を失った子供にとっては、終戦からが地獄の日々のはじまりだったんだ。大人は『自由になった』と喜んでいたけど、一人じゃ生きられない子供にしてみれば『国に捨てられた』が本音だった。それから長い間、俺は野良犬以下の暮らしをすることになったんだ」
野良犬以下の暮らしとは、何だったのか。元浮浪児たちの証言から明らかにしたい。
浮浪児と呼ばれた子供たちは、終戦から3年後に出された推計によれば、全国に約3万5000人(「朝日年鑑」)いたとされている。年齢は3、4歳から13、14歳くらいまで。もっとも多かったのが小学生くらいの年齢だ。
子供たちが家を失った経緯は、昭和20年に浮浪児になった子と、昭和21年以降になった子とで大きく異なる。
前者は、終戦の年に日本各地で受けた空爆によって家族と死に別れた子供たちだ。家に爆弾が落ちて親が亡くなったり、火の海の中を逃げている最中に生き別れたり。あるいは、疎開から帰ってきたら家族が全滅していたと判明し、一人で路上暮らしをはじめた場合だ。
後者は、親による虐待の被害児だ。父親は戦場から帰還したものの、戦闘のトラウマで心が荒み家庭内暴力をくり返したり、アルコールやドラッグに溺れたりした。それが原因で、ないしは貧困につながり、家出をした子供たちが浮浪児になったのだ。
彼らがもっとも多く集まったのが、上野駅の地下道だ。主に東京大空襲で家を失った人々が数千人単位で足の踏み場もないほど暮らしており、その1~2割が子供たちだった。みんな何年も体を洗えず、アカにまみれて、男の子か女の子かも見極めがつかないほどだった。
上野駅の前には闇市(現在のアメ横のあたり)が広がっていて、日用雑貨から食べ物、それに違法な薬物までもが白昼堂々と売り買いされていた。浮浪児たちはそこでおこぼれに預かったり、露店の手伝い、靴みがき、新聞売りといった仕事をして食いつないでいた。
子供たちの話を聞くと、上野公園のノラ猫や不忍池のザリガニを食べたという話をよく聞く一方で、口をそろえるのが「残飯シチュー」が最高においしかったということだ。
浮浪児の一人は言う。
「残飯シチューっていうのは、米軍の残飯なんだよ。食堂のゴミ箱の中身を袋に入れてもってきて、大きなナベでそのままごった煮にする。時にはゴキブリや避妊具がまじっていることもあったけど、米兵の好物のビフテキの入ったそれは、ほっぺたが落ちるほどうまかった」
路上で餓死寸前の時に食べた残飯の味が、生涯食べた中で一番美味だったという者も少なくない。
ただ、上野にはライバルも多い。仕事を得られるかどうかは競争であり、現金を持ち歩いていれば年長の子たちに奪われる。そのため、浮浪児の中でも幼い子たちは「ドサ回り」と言って、汽車に無賃乗車して地方を転々とした。
夏は涼しい東北、冬は暖かい九州の農村や漁村を回り、施しを受けて生きていくのだ。村の大人たちの中には、戦争で主人や跡継ぎを失った人も少なくなかった。そんな人たちの中には、浮浪児を養子として引き取る者もいた。
ある元浮浪児は語る。
「ドサ回りのたどり着く先は二つに一つだった。いい大人に拾われて養子になるか、人買いに捕まって売り飛ばされて奴隷みたいに働かされるかだ。疲れ果てて谷や海に飛び込んで自殺しちゃう子もいたよ」
だが、こうした子供たちは「自殺」ではなく、「戦災死」とされた。国は浮浪児の生存を確認していなかったので、人目につかないところで命を断てば、戦時中に死んで行方不明になったものとして処理されていたのだ。
終戦から2年、3年と経つにつれ、浮浪児と呼ばれる子供は、戦災孤児に家出少年たちが加わって、その数は膨れ上がっていった。冬になると上野駅の地下道では、毎日何人もの人間が寒さや飢えで命を落とし、生き残った者もスリ、恐喝、強盗などをしなければならなくなった。
浮浪児は言う。
「子供たちの一部が生きていくために悪さをしはじめた。それで街の人たちはみんな俺たちを敵視するようになった。『浮浪児は悪党だ』と見なして追い払い、連合軍の兵士は万引きしただけで銃で撃ってきた。警察だって俺たちを捕まえて食べ物のない施設に放り込むんだ。施設にいたって餓死するだけだから、みんな逃げたけどな」
そんな中でも、浮浪児たちに救いの手を差し伸べた人々もいた。
たとえば、傷痍軍人や「パンパン」と呼ばれた街娼たちだ。彼らは同じく生きるために上野駅の地下道に住みついたり、夜の街頭で春をひさいだりしていたが、行き場のない浮浪児たちを哀れに思い、声を掛けた。同じ戦争の犠牲者として放っておけなかったのだろう。
ある街娼は浮浪児たちを自分の家に住まわせ、ある傷痍軍人は毎日子供たちを集めては読み書きや計算を教えた。子供たちの将来を考えた時、最低限の教育が必要だと考えたのだ。
上野公園に住みついていたトランスジェンダーの人々と仲良くしていた子供たちもいた。戦後間もない頃、トランスジェンダーの人々は差別用語である「おかま」と蔑まれ、社会の外へ追いやられていた。その一部が上野公園の森にバラックを建てて暮らしていたのである。彼らは自分たちを色目で見ない浮浪児たちをかわいがり、食事を分けたり、仕事を紹介したりした。
また、一般市民の中にも手を差し伸べた人たちがいた。その一人が、石綿さたよ(終戦時48歳)だ。十代の三人の娘を持つ主婦だった。彼女は娘たちとともに上野駅へ行っては、浮浪児らを中野区にある家に連れ帰り、衣食住を提供して我が子同然に育てた。
後に、この家は「愛児の家」という児童養護施設となり、100人以上の浮浪児を迎え入れることになる。戦後の極貧の中で、さたよは私財を投げ打ち、親戚に借金を重ねてまで子供たちを育てたのだ。
終戦時中学一年生だった三女の裕(ひろ)さんは言う。
「子供たちは何年も駅で暮らしてきましたから、盗みが癖になってしまっている子もいましたよ。でも、母がくり返し愛情を注いだことで、子供たちもだんだんと信頼して、いい子になっていきました。僕たちを助けてくれたママさんを裏切っちゃいけないっていう気持ちになっていったんです。この時に愛情を感じられたから、みんな大人になっても健全に生きていけたんでしょうね」
さたよが浮浪児たちを救った背景には、夫の女癖の悪さに長年苦しんでいたことも関係していた。
傷痍軍人にせよ、街娼にせよ、トランスジェンダーにせよ、さたよにせよ、浮浪児を救ったのは人の心の痛みがわかる人たちだった。彼らの善意が、何万人という浮浪児たちの命を支えたのである。
終戦から5年、朝鮮戦争による特需とともに、日本は少しずつ戦後の暗い時代を抜け出していく。それとともに、浮浪児たちも一人また一人と上野の街を離れていった。
だが、彼らを待ち受けていた人生は決して楽なものではなかった。身寄りのない彼らは激動の時代を一人で生き抜かなければならなかった。
ある人物は高度経済成長の波に乗って建設会社を立ち上げ、一獲千金の夢を成し遂げた。後に、彼は手に入れた財産の一部を、自分を育ててくれた「愛児の家」に寄付した。
彼は自分の人生が、さたよの愛情なしでは成り立たなかったと確信していたのだ。施設には、すでに戦災孤児はいなくなり、虐待を受けて親元から引き離された子ばかりになっていた。彼はそんな子供たちに自分から声を掛け、かわいがったという。
一方で、人生につまずいた元浮浪児たちも少なくなかった。熊谷徳久という人物は大人になってから殺人事件を起こして死刑囚となり、石原伸司という元暴力団組長も79歳になって事件を起こした後にかつて浮浪児仲間が身を投げた隅田川に飛び込んで自殺した。
生きるためにあらゆることをした。時に野良犬を殺して食べ、握り飯一個と引き換えに体を売ってまで――。残された資料と当事者の証言から、元浮浪児の十字架を背負った者たちの人生を追う。戦後裏面史に切り込む問題作 『浮浪児1945-』石井光太/著
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先日、長年ホームレス支援をしてきた稲葉剛さん(つくろい東京ファンド代表理事)と一緒になった時、こんなことを言われた。
「石井さんの『浮浪児1945』を読んで思い出したんですが、僕がホームレス支援をはじめた90年代には、元浮浪児だったというホームレスの人たちがたくさんいました。バブルで仕事を失ったんでしょうね。『子供時代にもホームレスで、歳を取った今もホームレスだよ』なんて話していました」
浮浪児として教育を受けられなかった彼らの中には、社会の隅で苦汁をなめてきた者も多い。そうした者たちが歳を取ってから不況の波に呑まれ、低収入の仕事さえ失うことになったのかもしれない。
こうした人々の生きざまについては拙著『浮浪児1945』を読んでいただきたいと思う。加えるなら、さたよが善意で設立した児童養護施設「愛児の家」は現在、孫の徳太郎さんが継いでいて、子供たちの養育に継続して力を注ぐ。
コロナ禍の中、徳太郎さんはこう言う。
「今回、コロナを体験して思ったのが、戦争だろうと伝染病だろうと、社会がどんな状況にあっても、僕たちは未来を担う子供たちを支えなければならないということです。戦後に祖母が国の支援もほとんどない中で浮浪児たちを救ったように、今も困難にある時にきちんと子供たちを守れるかどうかが、将来の日本を守るということにつながるのだと思っています」
終戦から75年。日本は新型コロナウイルスという新たな問題に直面している。だが、私たちが優先して守らなければならないことは何一つ変わっていないのだ。
石井光太(いしい・こうた)
1977(昭和52)年、東京生まれ。著書に『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体――イスラームの夜を歩く』『絶対貧困――世界リアル貧困学講義』『レンタルチャイルド――神に弄ばれる貧しき子供たち』『ルポ 餓死現場で生きる』『遺体――震災、津波の果てに』『蛍の森』『浮浪児1945- ―戦争が生んだ子供たち―』『「鬼畜」の家――わが子を殺す親たち』『43回の殺意――川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか』などがある。
週刊新潮WEB取材班編集
2020年8月15日掲載
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敗戦後の日本人は、戦争孤児、海外引き揚げ者、戦争未亡人達など弱者に対して偏見と差別で冷たかった。
日本人は惻隠の情を持っているはウソである、それは建前であって本音ではない。
日本人の本性は薄情である。
現代日本は、戦争孤児の悲惨を歴史の闇に葬っている。
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🍙30〗─1─戦争孤児(駅の子)と戦争乞食の餓死・病死・自殺。昭和南海地震。昭和21年8月~No.193No.194No.195・ @
2018-05-20
🍙30〗─2─戦争孤児、引き揚げ孤児、混血孤児達は、国家・政府・大人から見捨てられた。~No.196No.197No.198・ @
2019-06-02
🍙30〗─3─戦後の日本人は、戦争孤児を餓死させハーフ孤児を見殺しにした。〜No.199・
2024-07-27
🍙30〗─5・A─戦争孤児の少女達を襲う悲惨・地獄。〜No.201
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