🍚171}─1─戦時中、日本人が国内外で犯した非人道的重犯罪。大雪遊水工事。~No.560No.561 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 軍国日本、日本軍部、日本陸軍は、悪い事をしたが良い事もした。
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 人助けをした善人の日本人は2割、犯罪をした悪人の日本人は3割、上官の理不尽な命令に盲従し若しくは周囲の空気圧力=同調圧力に押されて行動した無責任で無自覚な善人でも悪人でもない中途半端な日本人は5割。
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 現代の日本人と昔の日本人は、別人のような日本人である。
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 中国共産党は、孫子の兵法を駆使して、洗脳操作しやすい日本の親中国派・媚中派を利用して反天皇反日本及び反米反安保などの諸活動を活発化させている。
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 2020年8月14日・21日号 週刊朝日「政官財の罪と罰 古賀茂明
 終戦記念日に考えたい日本の罪
 毎年8月は太平洋戦争について考えるときだ。
 今回は北海道東川町の話を紹介したい。私は、同町の『大雪遊水公園』という大きな公園で、ある立像を発見した。その台座には『望郷』の2文字がある。その上には、遠くの空を望む青年の銅像が立つ。開拓民が、遠く離れた故郷に思いを馳せる姿かと思ったが、全くの見当違いだった。
 その碑文を要約して紹介しよう。『戦時中の国策として忠別川大雪山系石狩川の支流)に水力発電所が建設されたがmその発電用水は14kmのトンネルで導水されるために水温が上昇せず、下流の水田に冷害をもたらした。水を回流させて温度を上げるために遊水池建設が計画され、工事のために1944年(昭和19年)9月に338名の中国人が強制連行された。(真冬に氷水の中でという)劣悪な環境下で過酷な労働が強要され、終戦まで11ヵ月間に88名が死亡。大半は若人だった。異国の地で故郷の父母や親族のことを瞼(まぶた)にえがきながら斃れていったその無念さを思うと慚愧(ざんき)の念を禁じ得ない。この史実を後世に伝え、なお一層の日中友好の発展と永遠の世界平和を願い、88名の中国烈士の御霊に深甚(しんじん)なる祈りを込めてこの像を建立する。2000年7月7日 東川町長 山田孝夫』
 中国語訳と英語訳も並び、中国や世界の人々に、自分たちの犯した罪と恥を認め、『反省』と被害者への鎮魂、世界平和を祈る気持ちを伝えようとする感動的な内容だ。
 取材を続けてわかったのは、この恥ずべき『犯罪』行為を多くの関係者が隠そうとしたことだ。終戦後、88名の遺体が適切に葬られていなかったという疑いが生じたとき、何と、建設工事中に中国人労働者を使用した土建会社は、適切に葬ったと偽装するため、偽の遺骨を中国側に返還したことが後にわかった。北朝鮮と同じ行為だ。
 今回、この話を取り上げたのは、この銅像が建立された2000年当時には、日本の過去の過ちを堂々と認めることができる政治・社会環境があったということを示したいと思ったからだ。今、この銅像と碑文を残そうとしたらどうなのか。
 日本中から右翼が集結したり脅迫行為が起きて、東川町民も身の危険を感じ、町長も建立断念を余儀なくされたのではないだろうか。
 それほど、日本の社会は変化したということだ。このままでは、我が国は、平和を願うどころか、率先して戦争を始める国になっても不思議ではない。
 今、米中対立が激化し、遠くない将来に米中戦争勃発という事態も現実味を帯びてきた。国民の多くは嫌中派に転じ、過去の過ちを完全に忘れてしまえば、政府が米国とともに戦争を始めることを国民が止めるどころか、むしろ後押しすることになるのではないか。そうなれば、戦争の勝敗にかかわず、数十万、数百万の尊い命が失われる。
 今、東川町には、アジアから多くの留学生が集まっている。日本の過去の過ちを素直に認め、世界平和のために努力しようという姿勢は、この町の発展に大きく貢献するだろう。これこそ、日本国憲法が目指す平和国家のお手本ではないか。
 終戦記念日までの10日あまり、日本の過去の過ちに思いを致し、二度と戦争を起こさないために何をすべきか。じっくり考える機会にしたい。」
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 平和主義者の昭和天皇は、中国との戦争も、アメリカとの戦争も、反対し、回避を求めていた。
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 陸軍の主流派(親ポーランドソ連・ロシア派)は、ソ連中国共産党共産主義勢力との戦争を優先して、中国との戦争には反対で、アメリカとの戦争は消極的であった。
 主流派は支那通・親中国派として、日本・アジアへの共産主義の侵略を食い止める為に日本・中国・満州・モンゴル・イスラム教徒(ムスリム)を繋ぐ大アジア防共軍事同盟を画策していた。
 ポーランドは、親日派知日派としてソ連の情報を日本軍部に知らせていた。
 陸軍の少数派(親ドイツ派)は、ソ連軍・中国共産党・ロシア人共産主義者ではなく、ファシスト・中国(中国国民党)とアメリカ・イギリス・オランダなどの自由・民主主義諸国との戦争を強引に押しすすめていた。
 主流派は親ユダヤ派で人種差別反対派であった。
 少数派は反ユダヤ派で人種差別派であった。
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 ナチス・ドイツは、親中国反日派として日本軍と戦うファシスト・中国軍を軍事支援していた。
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 戦前の日本人は好戦的な人間で、軍部や軍国主義者に騙された被害者ではなく、その逆で戦争を軍部に強要し、兵士となって戦争に参加していた。
 ただし、極少数の反天皇反日的日本人が戦争に反対し兵役を拒否していた。
 大多数の日本人は、軍人以上に戦争に賛成していた。
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 戦時中、日本軍は人殺しの戦争犯罪と同時に人助けの人道貢献も行っていた。
 日本陸軍は、数万人のポーランドユダヤ人を保護しナチス・ドイツホロコーストから守った。
 日中戦争の激戦中にもかかわず、黄河揚子江の決壊大洪水で数百万人の被災者を救助し、河南省大飢饉では1,000万人以上の飢餓民を救援し、漢口大空襲では逃げ惑う数十万人を救出し、ペスト・チフスなどに感染した数万人を救護し、数多くの戦争孤児を保護し安全地帯で里親を探して預けた。
 中国では度々飢饉が発生して夥しい餓死者が出た為に、農産物増産の農業指導を行い食糧不足解消の手助けをした。
 それが、靖国神社の心であった。
 日本人兵士は、銃を持って攻撃してくる敵それが女性や子供でも戦って殺し、災害被害者は敵国民はもとより武器を放棄した敵兵士でも自己犠牲的に助けた。
 それが、靖国神社の精神であった。
 世界正義は、日本軍の戦争犯罪を取り上げ、日本陸軍の人道貢献を切り捨てた。
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 中国人強制連行跡地
 住所 上川郡東川町東6号南3
 1842(昭和17)年,当時の内閣は、日本の労働者不足による中国人民を強行な拉致で大勢の人を集めた、年齢も15歳から45歳でほとんどが農民だったそうだ。
 1944(昭和19)年9月に、東川の宿舎に到着する。
 338名の中国人が連行され、遊水地工事のために苛酷な強制労働を強いられた。
 有刺鉄線の張った高い塀、明かりのない窓、見張所が作られ、まるで監獄部屋とも言える収容所だったそうだ。
 冬にも暖房はなく、ヨレヨレの夏服一枚に、ワラで作った靴、ワラの手袋、そんな格好での過酷な労働。
 忠別川の川底の石を素手でかき集めて運ぶ、手足が凍傷にかかり悲惨な現状だったそうです。
 農業用水かんがい溝も従事していて、1945(昭和20)年10月に完成したとある。
こうした強制労働の結果、多くの中国人を死にいたらしめてしまう結果となり、殉難者は88名にも及んだ。
 1972(昭和47)年7月7日、旭川市日中友好協会と、中国人強制連行事件殉難慰霊石碑を建立して、何回かの大法要が行われている。
 遊水地は今もなお東川町、旭川市の農産業に多くの貢献をし、東川の米は北海道でもトップクラスの品質にもなった。
 遊水地の隣りには大雪遊水公園があり、整備されパークゴルフ場、芝生広場、花壇などがあり、夏には期間限定で農産物の直売所が設営される。
 ちなみに、東川町では忠別川から水を引いて、水力発電を行なっている。この水が地底のパイプを通り、水温が下がるためそのまま川に戻すと農業用水には適さないのである、そのため、いったん水を貯める遊水地が必要だったのである。
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 そよ風
 マスコミの偏向報道、教育の場での自虐史観授業等に日本の危機を感じています。
 先人達が命をかけて築きあげてきたこの素晴らしい国、日本を失わないため、私達は行動します。
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 みたままつり >
 7月
 13
 旭川の中国人強制連行像の嘘っぱち!
 カテゴリ:中国人強制連行碑
 町長が中国強盗団の御霊に
 深甚なる祈りを込めて建立した像
 旭川の大雪遊水公園に中国人強制連行像が建っていると
 いうので、行って来ました。聞くところによると、町長の、
 署名入りで、税金500万円近くもかけて作ったとか。
 ありましたよ、堂々とした人民服を着た像が。
 素晴らしい景色の公園の入り口のど真ん中に。
 武装盗賊団・囚人達を烈士と崇めた強制連行像が。

 碑文を見てみると、想像通りの妄言。
 国策(日本が)で88人の中国人を過酷な労働により死に
 至らしめた。私は、慙悸(死ぬほどのはずかしさ)の念を禁じえない。
 日中友好の為に、この歴史的事実を後世に伝える事が大事だ!
 ですって。
 ハイハイ出ました、反日碑のお約束。
 「悪い日本人はずっと伏せ!そうすれば友好してやるから碑!」
 この町長さんは、この像の下で、日本人が永遠に、
 三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)をしていれば
 中国人がどんどん来て、餌を与えてくれると思っているの
 でしょうね。

 私は、日本の子供達が永遠に中国の犬となり、
 伏せをして、餌をもらう姿を想像したくありません。
 こんな像を次世代に残す事こそ慙悸の念を禁じえません。
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 道新:高橋毅記者はしっかり歴史を勉強しなさい
 投稿者:的場光昭メール
 困った北海道新聞掲示板 投稿日:2013年 7月 8日
  平成二十五年七月八日朝刊23頁旭川上川版は、
 「強制連行 歴史忘れぬ」 「東川 中国人労働者の慰霊祭」の見出しで、
 大東亜戦争中に東川町で遊水池建設に動員された中国人捕虜に
 対して相変わらずの左巻き報道です。
旭川市から大雪山国立公園旭岳へ向かう幹線道路には
 「中国人強制連行跡地」「中国人殉難烈士」などと書かれた木柱や
 「中国人殉難烈士慰霊碑」の案内板が堂々と立っています。
 大雪遊水公園には、四百九十八万円もの町費を投じて造られた
 人民服姿の銅像「望郷」が、日本語・中国語・英語の三ヶ国語の碑文と
 ともに立っています。碑文の一部を紹介します。

  遊水池建設にあたり、労働力不足を補うために
 1994年(昭和19年)9月に338名の中国人が強制連行され、
 劣悪な環境の下で過酷な労働が強要された。そして終戦までの
 僅か11カ月余りの間に88名もの方々を死に至らしめたのである。
 その大部分は若人であり、異国の地で故郷の父母や親族の
 ことを瞼にえがきながら斃れていった。
 その無念さを思うとき、私達は、慙悸の念を禁じえない。
 私達は、この歴史的事実を後世に伝えなお一層の日中友好
 発展と永遠の世界平和を願うものである。
 ここに遊水池が大雪遊水公園と
 して改修、完成したのを記念して、88名の中国烈士の御霊に
 深甚なる祈りを込めてこの像を建立する。
 2000年(平成12年)7月7日 東川町長 山田孝夫

 一般の中国人が「強制連行」され、酷使されて死亡したのであれば、
 その「歴史的事実」は我が国の負の遺産として「後世に伝え」なければ
 なりません。しかし、外務省の公式資料「華人労務者就労事情調査
 報告書」を詳細にみると、東川町で使役されたのは華北労工協会
 扱いによる「訓練生」です。ここでいう「訓練生」とは八路軍共産党軍)
 の捕虜・帰順兵・土匪(武装盗賊団)・囚人です。東川の町史等にも
 「華人捕虜」「中国人俘虜」と明記されています。
 戦時捕虜や帰順兵はもちろん犯罪集団や囚人を強制労働させることは
 当時としては何等国際法上問題ではありません。国際法上明らかな
 違反である旧ソ連のシベリア強制連行には「抑留」(おさえとどめること。
 比較的短期間身体の自由を拘束すること。特定の人または物を国家の
 権内に置くこと)を使う一方で、国際法上問題のない東川町の
 遊水池建設に動員された中国人俘虜には強制連行を使う、旭川支社の
 高橋毅という記者の思考回路はどうなっているのでしょうか。
 ちなみに昨年来からの私の指摘によって、この問題に対して東川町
 では「強制連行」という言葉を用いていないはずですが、高橋毅記者は
 取材によってこの言葉を関係者から直接聞いたのでしょうか?
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 日本を悲劇の戦争に巻き込み、日本人を地獄の戦場に狩り出し、女や子供まで悲惨な死をもたらした、諸悪の根源は右翼・右派である。
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 現代日本の歴史が教える日本人像とは、失敗を繰り返すどうしようもないダメ人間、犯罪を止められない救いよがないバカ人間である。
 それが、凶悪非道な日本人重犯罪人史観である。
 そこでは、如何なる理由でそうした行動・行為を取ったかという日本側の弁明・弁護・言い訳は一切無視され、完全否定されている。
 真っ当な人間に生まれ変わらせる為には、日本的なモノを全て捨て去り、キリスト教に改宗するかマルクス主義を信奉するしかない、とされている。
 つまり、愚かな日本人を救えるのは、キリスト教共産主義の何れでしかないと。
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 キリスト教朝鮮人テロリストと日本人共産主義テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為に付け狙っていた。
 現代日本人は、天皇・皇室へのテロ攻撃という事実を知りながら重大問題とは認識していない。
 キリスト教朝鮮人テロリストの昭和天皇爆殺失敗事件は、警視庁前の桜田門で白昼堂々と行われて、歴史好きな日本人であれば誰でも知っている事実である。
 が、現代日本人は歴史が嫌いな為に歴史的事実を知らないし、歴史的重大事件を知ろうともしない。
 日本人は歴史が好きである、はウソである。
 日本人が好きなのは、史実を利用した創作時代劇である。
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⛼45】─1─戦国時代は合戦と土木であった。武田信玄の治水。~No.89No.90 

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 産経新聞iRONNA「治水に人知を尽くした武田信玄が刻む「戦国最強」への第一歩
 小和田哲男静岡大名誉教授)
 戦国武将で、後世、「治水名人」として知られたのが武田信玄加藤清正である。2人とも「土木の神様」などと呼ばれ、「信玄堤」「清正堤」として、その治水事業が語り伝えられている。本稿では、武田信玄の治水について見ていくことにしたい。
 信玄の領国である甲斐国には笛吹(ふえふき)川と釜無(かまなし)川が流れ、それが合流して富士川となって、駿河湾に流れ込んでいる。ところが、この二つの川は、源流から盆地部分までの距離が短いこともあって、少しまとまった雨が降るとすぐ洪水を引き起こしていたのである。
 信玄の父、信虎の時代は、そうした自然条件を克服することができず、水害被害で国が疲弊していったのである。結局、そうした信虎に代わり、いわゆる「信玄のクーデター」によって父を駿河に追放し、武田家の家督を継いだ信玄は、国内の安定のため、本格的な治水工事に取り組むことになった。むしろ、取り組まざるをえなかった、と言うべきかもしれない。
 現在、信玄堤の名で知られている堤防は、笛吹川の万力堤と近津(ちかづ)堤、釜無川竜王堤などがある。もっとも、実際には信玄が直接手がけたものではないが、いわゆる「信玄流法」になる堤防も合わせれば、かなりの数になる。
 では、信玄が得意とした「信玄流川除法(かわよけほう)」とはどのようなものだったのだろうか。ここでは、最も分かりやすい釜無川竜王堤を具体例として取り上げ、信玄の治水の実際を追いかけてみたい。
 竜王堤は釜無川の東岸に築かれた。今でも堤防はあるが、信玄の時代から何度も改修されているので、当時のままでないことはいうまでもない。ただ、場所そのものには変化がなく、技術的な特徴を追いかけることは可能である。
 釜無川の水源地は甲斐駒ケ岳で、甲信国境から南に流れ、いくつかの支流を合わせて次第に水量を増し、甲府盆地へ流れ込んでいる。その支流の一つが御勅使(みだい)川だった。
 この御勅使川、現在はこの字が書かれているが、本来は、「みだれがわ」あるいは「みだしがわ」だったのではないかといわれている。「みだれがわ」だと乱川、「みだしがわ」だと水出川で、いずれにしても洪水の元凶といったイメージがあり、御勅使川という字にしたという。実際、釜無川本流と御勅使川の合流地点が洪水常襲地帯となっていたのである。
 信玄の治水術で特筆されることの一つは、この御勅使川の流路変更だ。御勅使川が釜無川に合流する少し手前で、川を二つに分流させているのである。
 「将棋頭」という石堤を築き、水流を南北二つに分け、新御勅使川という流れを作り、その新御勅使川を釜無川に合流させているわけであるが、そこは高岩と呼ばれる崖が連続するところで、そのまま洪水になるようなところではなかった。しかも、そこに「十六石」という巨石を置き、御勅使川の流れを弱める工夫もなされていた。
 そしてもう一つ、信玄の工夫として特筆されるのが堤防部分だった。普通、堤防というと、川の水が土手を越えないように高さを保ちながら連続して築かれる。水量が多く、水が堤防の高さを越えそうになれば、堤防をますます高くするというのが一般的である。
 ところが、信玄堤は原理からいって違っていた。堤防を一直線ではなく、断続的に築いていったのである。
 こうすることによって、大水のときには堤防と堤防の間からあふれた水が堤防背後の遊水地に流れ込む仕組み流れになっていた。つまり、川の水を押さえ込むのではなく、爆発的にあふれ出るのを緩和しようというのが、そもそもの発想だったのである。
 こうして、新しい御勅使川と釜無川が合流する高岩付近から下流にかけて、およそ1800メートルの長さの断続的な堤防を築いた。その堤防には竹木を植え、簡単には崩れないようにしていた。
 しかも、注目されるのは、堤防上のところどころに神社を祀っているのである。村人たちが神社に参詣することを計算し、人々が土手の上を歩くことによって、堤防そのものが踏み固められるという効果も狙っていたことになる。
 この不連続の断続的な堤防を「霞堤(かすみてい)」といっている。これが「甲州流川除法」の特徴で、適当な角度をつけて雁行状に築かれ、これによって水勢を弱める効果もあった。
 信玄が父信虎を駿河に逐(お)って家督を継いだのが、天文10(1541)年6月のことだが、竜王堤の工事に取りかかったのが翌11年のことといわれている。信玄にとって、治水は喫緊の課題だったことが窺(うかが)われる。
 そして、竜王堤の場合、完成したのは弘治年間(1555~57)といわれている。いかに大規模な工事だったかが分かる。
 こうした大規模工事は、小規模な国人領主土豪の力では無理である。武田家のような大きな力を持った戦国大名権力の登場によって初めて可能となったわけで、信玄堤はそのことを端的に示したといえる。」
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 国土交通省 関東地方整備局 甲府河川国道事務所 
国の治水の祖、武田信玄
 かわづくり
 伝統的治水施設の保全と整備
 伝統河川工法
 わが国の治水の祖、武田信玄
昔から『河を治める者が国を治める』と言われていますが、平地の少ない甲斐の国では言葉のとおり治水の成功こそが領国の安定の基本でした。
 武田信玄公は天文10年(1541)に19歳で甲斐国の領主となりました。彼が領主となった前後の十数年は洪水が頻繁に起こった記録があります。当時は戦国時代でしたから領内の重要な情報は絶対に秘密とされていました。
 治水事業は領内の重大事ですから計画も施工も極秘のうちに進められたと思われます。治水技術は当時としても「ハイテク」に属するものですから公表される事はなく、枢密の者以外には知り得ませんでした。しかし、信玄公の「治水の法」はあまりにも素晴らしかったので、滲むように他国に伝わったようです。江戸時代には信玄公の治水の法は「甲州流河除法」と称され我が国における治水技術の始祖と讃えられ今日に至っています。戦国時代には秘中の秘としていた甲州流河除法を、今日は貴方だけにはお話しましょう。
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 信玄堤(しんげんつづみ)
 富士川上流にある信玄堤(しんげんつづみ)は、武田信玄甲府盆地を水害から守るために築いたと伝えられている。富士川は、南アルプスを水源として駿河湾まで流れる長さ128kmの急流河川であることから古くから水害を引き起こしていた。武田信玄甲斐国は、内陸部の甲府盆地にあり、富士川の上流である釜無川笛吹川の氾濫に悩まされていた。特に釜無川(かまなしがわ)は支流の御勅使川(みだいがわ)とともに盛んに流路を変えて盆地西部において水害をもたらしていた。
 甲府盆地の平地部は、いくつかの河川がつくった複合扇状地から成っており、その中でも釜無川 がつくった部分が大きな面積を占めている。扇状地を流れる河川は、全くの自然の状態では扇状地面を奔放に流れる。釜無川と御勅使川が扇状地を流れ、この2つの川が合流する地域では、自然のままでは洪水の危険性が非常に高い。
 信玄堤の工事は、天文11年(1542年)の釜無川、御勅使川の大氾濫が契機となって始められたとされている。古文書に、永禄3年(1560年)棟別役という諸役や税を免除される代わりに川除への集団移住(竜王河原宿)を促し堤防の管理に当たらせたと記録されているところから、工事が概ね完成したと推定される。約20年の歳月を要した大工事であった。堤防築造と御勅使川治水により洪水被害は緩和され、盆地西部や竜王では江戸時代初期に用水路が開削され新田開発が進み、安定した農業生産ができるようになったとされている。
 古来より「河を治める者が国を治める」という言葉がある。信玄は、無敵の騎馬隊、甲州流軍学などでよく知られているが、長きにわたる治水工事にも取り組んだことから大局を見る優れた人物であったことがわかる。信玄の治水技術は優れていたので、他国に伝わり、江戸時代には「甲州流川除法」と称され我が国における治水技術の始祖として讃えられている。
 信玄堤に関わる釜無川と御勅使川の治水工事のポイント:
 釜無川へ合流してくる御勅使川の激しい流れを、信玄堤のすぐ上流にある「高岩」と呼ばれる自然の崖にぶつけて御勅使川の流れを変えるところにある。その治水工事のイメージを以下に示す。
 この治水工事は、8つの要素から構成されている。
 ⓐ石積出し 御勅使川の扇頂部に巨大な「石積出し」を構築。乱流を防止し、御勅使川の河道を安定させる。
 ⓑ将棋頭  「将棋頭」ⓑ,ⓒで流れを分流させて勢いを弱める。
 ⓒ将棋頭   同上
 ⓓ開削   ⓓ地点を開削し、ⓑ,ⓒで分流された流れを釜無川へ導く。
 ⓔ十六石  ⓔ地点に十六の巨石を置き釜無川との合流を調整する。
 ⓕ高岩   釜無川の主流を誘導し,御勅使川の流れと共に「高岩」へ突き当て、その勢いを弱める。
 ⓖ信玄堤  「高岩」の下流に、信玄堤を構築する。弱まった流れを「信玄堤」がしっかり受け止める。洪水が発生しないように「出し」を前面に置き、二重の備えとする。「出し」には「一の出し」と「二の出し」があった。
 ⓗ堤 開口部 堤の開口部をつくり、万一堤防が決壊した場合は氾濫した水を川に戻す。
  参考文献:富士川の治水を見る(国土交通省 関東地方整備局作成)
       土木紀行 信玄堤(建設マネジメント技術2010年6月号)
 「聖牛」
 河川の水勢を緩和するために考えられた日本で有名な工法のひとつ。
 戦国時代のこの甲州が発祥の地と伝えられている。
 三角の形をしているのでこの名が付いたとされる。

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 第78回【構造】戦国大名の治水事業ー城を造るときに川の流れを変える!?
 お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは城と河川の関係。周囲を海に囲まれ、流れの速い河川を多数有する日本では、古くから水と上手に付き合うことが大切でした。それは、築城においても同様。城や城下町造りの際に治水を怠れば、せっかく造った町が水びたし…なんてことも。戦国〜江戸時代の大名たちは川とどのように付き合っていたのか、武田信玄徳川家康などの治水工事を例に築城と治水の関わりを紐解いてみましょう。
 戦国大名たちも頭を悩ませた治水事業
 国土の4分の3を山地が占める日本。豊富な山水は、川を流れて海まで至るわけですが、近年でも大きな洪水が甚大な被害をもたらしているように、我々日本人にとって、川とのお付き合いは人生を左右する大切なもの。今回は、戦国大名たちが城を築いて領地経営をしていくために、自然の脅威である川とどのように付き合ったのか? という点について見てみましょう。
 大名たちの権力が地方の各領地で確立されていった戦国時代、安定した領地経営には、治水対策がとても重要な仕事でした。治水事業を行うことによって生まれるメリットは、領民を洪水から守り、耕作地を確保できること。また、城と城下町の地盤の確保、川や堀をめぐらせることによる防御機能のアップ、さらに、運河や船着場を城下や城に確保することによる効率的な物資運搬などが挙げられます。
 このため大名たちは、川の水勢や水量を弱める工夫をしたり、川を付け替えて流路をコントロールするなど、その土地に合った様々な工夫を凝らして土木工事を行ったのです。土を切り盛りする治水の技術は、築城時の技術と共通点が多いので、築城名人=治水名人といってもいいかもしれませんね。
 では、具体例を見てみましょう。戦国大名による治水事業で最もよく知られているのは、甲斐国山梨県)の釜無川武田信玄が築いたとされる「信玄堤」(竜王堤)でしょう。
 「信玄堤」(竜王堤)は、古代から定住が困難なほどしょっちゅう洪水に見舞われ、水田地帯の少なかった甲府盆地に、武田信玄が約20年の歳月をかけて完成させた堤防です。単に頑丈な堤を築いただけではなく、釜無川に急流を送り込む御勅使川(みだいがわ)に大石を積んで勢いを弱めたり、御勅使川の中に堤を築き新たに川を掘り2本に分流。さらに2川の合流地点にいくつも大石を置いて水流をコントロールし、お互いに勢いを打ち消し合わせたり、その流れを崖に当ててさらに勢いを削ぐなどといった多くの工夫が凝らされています。また、丸太を組んで水流を弱める「聖牛」も、その技術が現役で活躍しています。
 そして釜無川にはドンと大きな堤防を据えるのではなく、小さな堤防を重なり合うように築き、ひどい大雨の時には水があふれることで決壊を防ぎ、被害を最小限に抑える工夫も。川の猛威にガチンコで挑むのではなく、威力を柔軟に利用しつつ治めるという、実に巧いやり方です。さらに施設の維持のため、管理する村人の税を免除。また堤の上を神社の参詣道にすることで参詣人やお神輿の行列が歩き、自然と堤が踏み固められるようにしたそうです。
 江戸を水の都に改造した徳川家康
 武田信玄の没後、この釜無川の治水事業を視察して大いに学んだのが、後の天下人・徳川家康です。新田開発が国家プロジェクトとなった江戸時代には、この武田の治水技術が「甲州流川除(かわよけ)法」として活用されそうですが、家康の治水事業として思い浮かぶのは、なんといっても江戸の築城と町造りです。
 豊臣秀吉の天下だった時代、家康は小さな港町だった江戸に国替えとなります。湿地が多い厄介なこの土地に大きな城と城下町を築くべく取り組んだ最大のプロジェクトが、利根川東遷といわれる治水事業。江戸の町が水浸しになるのを防ぐため、江戸湊(東京湾)に注いでいた利根川渡良瀬川に合流させ、茨城県鹿島灘に注ぐように川の流れを大きく変えたのです。
 この他にも、飲み水確保のための上水の開削、日比谷入江埋め立てと堀の整備、道三堀延長と日本橋川の開削、平川の氾濫制御と江戸城北面の外堀となる神田川の延長、江戸城北西の平川上流と溜池をつないで堀とするなど…。こうした江戸城(東京都)の拡充と城下町づくりは、家康が天下人となり、二代将軍秀忠・三代家光の時代まで引き継がれ、家康の入封から40年以上後に江戸の町をまるごと堀で囲む、巨大な惣構が完成するに至りました。
 豊臣秀吉加藤清正も苦心した城下町の治水
 また豊臣秀吉も、伏見城京都府)を築いた時に伏見城下を水陸両用の物流拠点とすべく、宇治川巨椋池おぐらいけ)に巨大な堤を築いています。槇島堤と小倉堤といいますが、総称して「太閤堤」と呼ばれています。槇島堤はほぼ現在の宇治川左岸堤防に、小倉堤は大和街道になりました。
 徳川譜代の重臣・井伊家の居城だった彦根城滋賀県)も、屈曲して氾濫しやすかった芹川を琵琶湖に直進させ、堅固な堤防を築いて城の守りを兼ねさせるという大規模な川の付け替え工事によって整備された城。熊本に入封した加藤清正も、白川・坪井川・井芹川の入り乱れた流路を直線化するなどして外堀・内堀に流用。土地の拡大もはかり、さらに城下町の運河も整備しました。また、富山県富山市の常西用水の川底に見える石積みは、佐々成政(さっさなりまさ)の治水事業の跡で「佐々堤(さっさてい)」と呼ばれています。
 全国には、戦国大名たちが自領を守りの堅い豊かな土地にすべく、苦心した治水事業の跡がまだまだあるはず。城の周辺では、ぜひ川の流れや堤防にも注目してみて下さいね!
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 執筆・写真/かみゆ歴史編集部
 「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。
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 ミツカン 水の文化センター
 機関誌『水の文化』32号
 治水家の統(すべ)
 武田信玄の総合的治水術
 扇状地における流水コントロールシステム
 かつて甲斐の国には、御幸祭が3つあったといわれている。おみゆきさんは「東御幸」。
 上は、一之宮浅間(あさま)神社境内での様子。「ソッコーダイッと」という掛け声で練り歩く。現在では境内と近隣を練り歩いた後、神輿はトラックで竜王の信玄堤まで運ばれ、二之宮美和神社、三之宮玉諸神社の神輿と合流し、三社神社の鳥居をくぐる。
 水を制するものは、国を制す。 戦国時代の勇武田信玄は、暴れ川を治め、新田開発することで富国を目指しました。 その仕組みは、実に雄大な規模です。 人心を掌握し、川除普請を実行した総合力に、治水の叡智を学びます。
 和田 一範さん
 独立行政法人土木研究所研究企画監博士(工学)
 和田 一範 (わだ かずのり)さん
 1955年川崎市生まれ。東京工業大学土木工学科卒業後、1978年建設省(当時)入省。建設省高知工事事務所長、宮城県河川課長、国土交通省甲府工事事務所長、国土交通省国土技術政策総合研究所流域管理研究官、愛媛大学教授防災情報研究センター副センター長を経て、現職。
 主な著書に『信玄堤 千二百年の系譜と大陸からの潮流』(山梨日日新聞社2002)、『グラフ信玄堤-千二百年の系譜と大陸からの潮流』(山梨日日新聞社2003)ほか。
 今も現役の治水システム
 人類というのは6000年にわたって水とつき合ってきているわけです。ところが治水の歴史を調べると、ナイル川のナイルメーターにしても、ほとんどが遺構になってしまっている。信玄堤に注目するのは、450年前にできてから、現在も使われているからなんですよ。
 我々は技術者として最新技術を使って河川とつき合っているんですが、千年以上も前から水と人とのかかわりの中で培ってきたノウハウを、是非伝えていきたいと思います。
 私は今から7年ほど前に、国土交通省山梨県全域の河川と道路を管理する甲府事務所長をやっていました。ここでは、富士川全川を担当しています。
 富士川というのは南アルプスから流れてきて、甲府盆地を流れている間は釜無川と呼ばれています。笛吹川というもう1つの大きな河川がありまして、この2つが合流した所から海までを富士川と呼んでいます。
 赴任してから、ここにある信玄堤が450年間機能していることを知ってびっくりしました。そこでいろいろと調査をしたところ、かなりの蘊蓄(うんちく)があることがわかりました。
 それをさまざまな所で話していたところ、地元の山梨日日新聞が本にしてみないか、と言ってくれて1年ぐらいかけて書いたのです。驚いたことに中村星湖文学賞という山梨県文学賞をいただいて、地元では一瞬ですがベストセラーになったという経緯があります。
 その流れで写真集もつくり、技術的提言とか、政策的提言を加えて、ドクター論文にも仕立てました。講演集は『河川文化−その19』(社団法人日本河川協会2005)という本にまとめられています。
 祭りをメンテナンスに利用
 武田信玄は、信玄堤を含むトータルな仕組みで、流水を統制しました。私はそれを「流水コントロールシステム」と呼んでいるのですが、このシステムは河川とのつき合い方を熟知した、かなりサスティナブルなものになっています。
 これらの施設も卓越していますが、メンテナンスにおいても大変素晴らしいシステムが考え出されています。それが、毎年4月15日に行なわれる、洪水期前の水防のお祭りである御幸祭、通称「おみゆきさん」です。
 信玄堤の完成より700年前まで遡る平安時代、西暦825年(天長2)にスタートしています。甲斐国司である文屋秋津(ふんやのあきつ)という人が、釜無川の洪水の報告を朝廷にしたところ、朝廷から勅使が来た。そして甲府盆地の中にある一宮、二宮、三宮という3つの神社で共同して、信玄堤のある場所に神社をつくりなさい、毎年お祭りをしなさい、と指示しました。
 それ以来、毎年続いている祭りです。ただ、1871年(明治4)に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により近代社格制度が制定されると、国が予算的な補助をする神社は一県に一つということになって一宮浅間(いちのみやあさま)神社以外の祭りは伝統の幕をいったん閉じました。二宮、三宮の祭りはどうしたかというと、地元の祭りとして続いてきました。
 私が所長のときにそのことに気づき、二宮、三宮に声を掛けたところ、結構みなさんが乗ってきてくれて。2003年、実に130年ぶりに再び三社合わせた御幸祭、三社御幸が復活しています。
 おみゆきさんがなぜメンテナンスシステムかというと、大変な人数が練り歩きますから、堤防の踏み固めをすることになるんです。香川県にある満濃池弘法大師が盆踊りをした、という言い伝えと同じ役目を担っています。
 この神輿が出る笛吹市の一宮浅間神社は、信玄堤から20kmも離れています。今は担いで歩いて行くわけにはいきませんから、トラックで堤まで持っていきますが、当時は練り歩きながら行って帰ってくると、次の日の朝になっていたといいます。
 この祭りの面白いのは、堤防付近の人ではなく、甲府盆地のいわば受益者がメンテナンスのために祭りを行なう、という点です。
 江戸時代の宝暦年間(1700年代中期)の絵巻物(一宮浅間神社所蔵)を見ると300人ぐらいの人が描かれていて、ちょっとした大名行列ぐらいの人数です。当時は年2回、春と秋に行なわれていました。
 三宮の玉諸(たまもろ)神社は由緒ある神社で、『古事記』に倭建命(やまとたけるのみこと)が甲府にやって来て、洪水を鎮めるために玉を埋めた、という伝説があります。絵巻物では三宮は神輿ではなく御幣を持って、抜き身の薙刀を持っています。これは何か深い意味があると思いますが、宮司さんにもうかがいましたが、ちょっとわからない、ということでした。
 どういうルートを歩いたかという明治年間の記録が残っていて、プロットした地図があります。3つの行列が合流して、隊列を組んで信玄堤の三社神社に向かいます。ルートを見ますと、信玄堤だけではなく、いろいろな河川の要所要所を踏み固めながらやって来ることがわかります。
 信玄はこの祭りを強く奨励しました。赤い着物を着て、化粧をし、女装した姿で神輿を担ぐという変わった祭りで、これは祀られているのが木花咲耶姫(このはなさくやひめ)という女性の神様で、男性の担ぎ手だと恥ずかしがるから、というのが通説です。いつからこうなったのかはわかりませんが、信玄の時代から女装するようになったのではないかと言われています。
 この神輿練りを毎年続けるのは、現代ではなかなか大変なんですよ。一宮神社は氏子さんが多いのでいいのですが、二宮、三宮はトラックの代金などを捻出するのに苦労しているみたいです。
 しかし、水防の自助、共助の観点からも、年に1回ぐらいは川と治水に関心を寄せるためにこうした祭りは大切だと思います。
 甲府盆地扇状地
 信玄堤は、釜無川甲府盆地に出てきた、ちょうど扇状地の扇頂部にある堤防です。山梨県甲斐市竜王という場所にあたります。
 この堤防の上に生えている木は、堤防が切れそうになったときにつくる「木流し工」という水制工をつくるのに使われました。この木も信玄が植えたと言われています。しかし、これは信玄堤のシステムの中でごく一部にしかすぎません。
 笛吹川扇状地に出てきた所に万力林というものがあり、これも信玄がつくったと言われていて、この2つで甲府盆地の治水を行なっています。
 富士川の氾濫シミュレーションを見ると、ここが切れると大変なことになることがわかります。決壊後1時間で、甲府盆地全体が水深1mの水浸しになるのです。
 4時間後になると、釜無川下流部にいたっては水深3mに達します。水深3mというのは1階の軒下より上になりますから、多くの死者が出る大災害になるということです。
 昔の流路が『甲斐国志』という江戸時代にまとめられた文献に載っているんですが、釜無川は今より東のほうに流れていました。御勅使(みだい)川という信玄堤を語る上で重要な支川があるんですが、もっと南を流れていました。つまり、甲府盆地の真ん中に向かって2つの川が流れ込んでいたということです。
 信玄の流水コントロール
 信玄の流水コントロールシステムを順番に説明しましょう。
 まずAの場所は(下図)、夜叉神峠という南アルプスの方面に上っていく県道に沿って流れる沢なんですが、御勅使川という非常な急流河川です。土石流が起き易く、この辺りは常に被害にさらされていました。ですから、ここのコントロールということが、非常に重要でした。
 それでAの場所に「出し」と呼ばれる石の水制をつくって、御勅使川が南のほうに流れていくのを防ごうとしました。文献には5つあったと記されていますが、現在は3つ残っています。
 これは石積みです。片端から積み始めて反対端まで行って戻ってくる「行ってこい積み」という積み方でつくられています。江戸時代中期の技術で、信玄の時代にはこういう積み方は無かった。信玄重たい神輿を担いで練り歩くことによって、土手が踏み固められる。着物は軟派だが、足許は硬派。水防の祭だけに、消防団も堤防に集結。が住んでいた躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館という城がありますが(現・信玄神社)、ここの石垣は稚拙な積み方で、江戸時代に入ってから見られるようなしっかりした石積みではありません。御勅使川の「出し」は、信玄の時代につくられたものを、徐々に直しながら使い続けていたと考えています。
 Bの場所には「白根の将棋頭」という施設をつくって、御勅使川を2つに分けています。2つに分けることによって、エネルギーを減ずる、というのが目的です。
 「将棋頭」は、C の場所にもあって、「竜岡の将棋頭」と呼ばれています。ここで、さらに川を2つに分けていました。
 将棋頭によって、2つに分けられていた御勅使川は、今は砂防工事によって新しい流路のみが本川となっています。廃川になった前御勅使川は、今は県道南アルプス線という道路になっています。
 八ヶ岳が噴火したときに火砕流が流れてできた段丘の先端を切り割って、ここに流路を通すようにしたのがDの場所です。ここを「堀切(ほっきり)」と言っています。
 さらに、この先に十六石という施設Eがあって、釜無川の流れをぶつけたと言われています。これはどんな形状だったか確認できないのですが、巨石を並べたとか積み上げたとか文献には書いてあります。これに御勅使川か釜無川の流れをぶつけたとあります。
 十六石は現存していません。地中レーダーを使って調べたところ、巨石が発見されたので、ここではないか、という場所に案内看板を出してあります。古地図を見ると、巨石を積み上げた水制施設のようです。流れを変えて高岩に当てるために、御勅使川ではなく、釜無川を十六石にぶつけたと推測されます。
 この流れを、やはり溶岩流が固まってできた「高岩」という崖にぶつけたのがF。高岩が切れた所は、通常の堤防の区間ですから、合流してきた御勅使川の勢いを受け止めきれずに、甲府盆地のほうまで流れていってしまう恐れがあるのです。
 ですから堀切も十六石も、流水をコントロールするために、合流した流れの勢いを高岩にぶつけるための仕組みでした。
 将棋頭で流れを2つに分けたときにできた前御勅使川も釜無川に合流しますが、合流地点は高岩より下流ですから甲府盆地まで行ってしまう恐れが生じます。
 そのため、釜無川と前御勅使川が合流したこの流れの勢いを、高岩にぶつかって跳ね返ってきた流れにぶつけることで、相殺しています。高岩にぶつかって跳ね返ってくる流れを「高岩跳ね」と呼んでいて、これをうまく利用しているのです。まさに水をもって水を制す、の実例です。
 信玄は、このように複合的なシステムを組み合わせて、流水をコントロールしています。
 信玄堤は霞堤
 Gの地点が信玄堤になります。
 堤防というのはつながっているのが普通だと思うのですが、これは切れているんですね。霞堤と呼ばれています。信玄堤は、こういった不連続の堤防を幾つもつくっている、という特徴があります。
 普通に考えると「間が空いていたら困るじゃないか」と思うかもしれませんが、大水になったときに隙間からじわっと水があふれて、再び隙間を通って川に戻っていくという仕組みです。あふれたといっても、時間はせいぜい1日から半日ぐらいですから、あふれた水がちゃんと戻っていくようにできているんですね。
 もしも堤防をつなぐとどうなるかというと、堤防の一番上まで水位が上がってきて、ある一カ所がボンと切れる。そうなると、切れた所が流路になって、甲府盆地の中心部に一気に流れ込むようなことになってしまいます。
 ですから、不連続にしてあるというのは、一カ所にエネルギーを集中させないようにするためでもあるんです。
 模型実験で検証
 将棋頭という流水コントロールの施設は、私の知る限り、日本にしかありません。それがとても不思議なんですが、なぜ信玄だけがこういう施設をつくったのか。
 強いて似たものを挙げると静岡県の大井川に舟形輪中というシステムがあります。これは屋敷林を舟の形にして、大井川があふれたときに家を守れるようにしたと思われます。しかし、舟形輪中には石垣などはありません。静岡は駿河の国で、信玄ともゆかりがありますから、つながりを探りたいところです。
 ドクター論文に載せましたが、私は模型実験で、流路に土砂が溜まっていって自然に砂州ができることを検証しています。
 こういう施設というのは、何もないところからいきなりつくろうとすると、大変な労力がかかります。河川の流路が蛇行していくとともに、自然に土砂が溜まっていった砂礫堆(されきたい)を利用して、石を張って補強をしてこのような施設をつくった、というほうが理にかなっていると考えています。
 1998年(平成10)に山梨県が行なった遺跡分布調査の報告書に、縦に並んでいる小さなレの字が載っています。現地に行くと小さな石垣積みのものが残っていました。
 山梨で堰(せぎ)というと用水路のことなんですが、徳島堰という用水路の水門とか分派施設を守るためにつくられた石積みだったんです。徳島堰というのは、江戸時代に入ってから徳島兵左衛門という人によって、1666年(寛文6)につくられた用水路です。徳島兵左衛門は将棋頭を見て、こういうものをつくって用水路を守ろう、と思いついたと推測されます。
 こんなに重要な施設が、今までまったく顧みられていなかった、というのも驚きですが、この発見は地元の新聞にも掲載されました。
 文久年間の古図を見ると、将棋頭が3つありますし、明治初期の大日本帝国測量図という最初期の5万分の1の地図を見ると、将棋頭のようにレの字の形のものが幾つも見られます。大きなものだけで4つあります。
 高岩の下流にも「出し」があります。現在のものは新しくつくられた「出し」ですが、おみゆきさんの石投げの儀式は、古来、この一番出しで行なわれていました。
 こうしたこともくわしい記録が無いのでよくわからないのですが、実は信玄堤に関するリアルタイムでの文献は残っていないんです。
 信玄は病死するんですが、その跡を勝頼が継ぎ、勝頼は織田信長に長篠(ながしの)の合戦で敗退します。その後韮崎城に籠りますが、最後は織田信長徳川家康の連合軍に天目山(現・甲斐大和の辺り)で敗れて、武田家は滅ぶわけです。このときに武田二十四将といわれる家臣たちは家康に雇われるんですが、このときに大事な文書はすべて処分されてしまったようです。
 信玄の経済政策で一番有名な甲州金と信玄堤に関する文献は、まったくありません。ですから文献に信玄堤のことが出てくるのは、江戸時代中期になってからです。
 武田信玄・勝頼に仕えた武将、高坂弾正忠虎綱(こうさかだんじょうのちゅうとらつな・高坂昌信)の日記といわれている『甲陽軍艦』にも、信玄堤のことは出てきません。ですから、治水の要である信玄堤は、トップシークレットだったのではないか、と思います。
 家康にも受け継がれたもの
 信玄はまた、信玄堤を守るために竜王河原宿という新田開発を行ない、開拓団を募りました。特区をつくり、税金を免除する代わりに、治水に当たらせました。これがいわば甲斐市竜王の起こりです。
 武田家が滅んで家康が甲府にやって来たときに、地元の庄屋さん方がこのシステムを継承するように陳情しています。
 家康は「信玄がつくった仕組みなら重要だから続けなさい」と言ってこれを認めました。いってみればライバルである前任者の施策を引き継ぐということですから、よほど優れた仕組みとして認識されていたんだろうと思います。
 江戸時代は、「甲府は江戸の奥座敷」と言われ、徳川の直轄領だったのですから、非常に重要視されていたということでもあります。
 また、信玄は釜無川の水制に「聖牛」という施設を盛んに用いました。丸太を三角形に組んで、「蛇籠(じゃかご)」という籠に石を詰め込んで重しにしました。今は金属の網で籠がつくられていますが、当時は竹製の籠でした。これに流水が当たることによって、勢いを削いだということです。この「聖牛」を日本で初めて使ったのは、武田信玄で信玄堤の改修だったといわれています。そのことは江戸時代の古文書『地方凡例録(じかたはんれいろく)』に書かれています。信玄の勢力拡大に伴って、大井川や安倍川、木曽川にも伝播していき、江戸時代中期、享保年間(1700年初頭)には全国に広まっていたといわれています。
 「聖牛」は環境にも優しいと、現代になって改めて見直されています。現在、信玄堤で見られる聖牛は、2002年(平成14)に整備されたものです。
 ただ解析してみますと、2年や3年に1回の洪水でひっくり返ってしまう程度のもので、昔はその度につくり替えていたようです。逆に言えば、誰でも人の手で簡単につくれた。当時の河川改修の目標外力というのが2年や3年に1回ぐらいの洪水に対応する、ということだったのでしょうから、これで充分だったわけです。
 我々が今、100年に1回規模の洪水に堪えることを想定しているのとは、安全度のレベルが大きく異なるということです。
 中国まで連なる治水の叡智
 さて、信玄は「聖牛」や「将棋頭」をどこから思いついたのでしょうか。調べていたら、世界遺産にもなっている中国・四川省成都に都江堰(とこうえん)という施設があって、信玄がつくった流水コントロールシステムに非常に近いことがわかりました。
 都江堰のことは司馬遷の『史記』にも書いてあります。『史記』は世界で一番古い歴史書といわれる文献です。都江堰や信玄堤を見ていると、当時の人たちが自然の猛威に対して、いかに共生していたかという叡智を感じます。その叡智を今の河川管理に役立てることはできないか、と考えています。
 河川整備によって安全度が上がると、先人の叡智は忘れられる傾向にあります。昔は洪水も頻繁に起こりましたから、「聖牛」なども誰でもつくれる技術だったのですが、10年に1度とか20年に1度しか洪水が発生しない状況になると、そうした技術の継承も廃れるし、自分が住んでいる場所が危ない地域だということも忘れてしまいます。つまり、叡智が失われていきます。
 あふれさせることで安全を確保していた霞堤は、現在の町中にも町道に形を変えて残されています。しかし、これが霞堤であるということを、地元の人たちはもう知らないんですね。
 三社御幸を復活させるときも、二宮、三宮の氏子さん方に声を掛けにいったのですが、「この祭りは治水のお祭りなんですよ」と言ったら、みんなびっくりしていました。
 では、先人の叡智を今の河川管理に生かすには、具体的にどうしたらいいでしょうか。
 自分の住んでいる地域が「何十年に1度ぐらいの確率であふれる」というような情報だけでは不十分で、「昔はこうなっていた、こういう所だった」ということを知ることで、その地域の危険性を把握しておくことが大切です。
 今は堤防で守られていますけれど、いったん切れたら、30分でここまで水がきてしまいますから、そのときにどこに逃げるのかを認識する。それと逃げるタイミングも難しい。家の前の道が浸かってきたらすぐに避難所に逃げるのか、浸かってきたらもう間に合わないから2階に逃げるのか。そういう個人に問われる判断は、ハザードマップからだけでは下せないでしょう。それは個々人の問題で、地域の人々が、その地域の災害の特性、昔からの土地柄を知って自らの避難行動として認識することが大事です。
 おみゆきさんを含めた「信玄の流水コントロールシステム」は、システム自体というよりも、地域の自助、共助活動の再認識に役立つという点が重要です。毎年、洪水期前に行なわれるこのお祭りは、現代、この地域に住む人々に、川とのつき合い方を呼び起こすための仕組みなのです。
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🍚173}─2─三河地震。戦争終結を早めた自然災害。昭和20年。~No.565 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 2018年1月7日 YAHOOJAPAN!ニュース「東南海地震三河地震、空襲、そして敗戦、さらに台風、地震、噴火。震災後の大混乱。
福和伸夫 | 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 一回前の南海トラフ地震東南海地震は、1944年12月7日午後1時36分に発生しました。死者・行方不明者は1223人と言われています。太平洋戦争開戦から 3 年の式典を翌日に控えた日で、戦時下だったため地震状況ははっきりせず、国民にも知らされませんでした。地震翌日の中部日本新聞の朝刊は、軍服姿の昭和天皇の写真が 1 面トップにあり、 3 面の片隅に「天災に怯まず復旧 震源地点は遠州灘」という見出しで小さな記事が報じられただけで、それ以降は全く報じられていません。
 ラジオ放送は、1925年に始まっていましたが、震災に関する報道があったとは聞きません。徹底的な情報統制で、国民には、地震の規模や震源、震度、被害量など、なんの情報も示されませんでした。被害状況の写真を撮ることも許されませんでしたから、被害写真も僅かしかありません。1か月後に発生した三河地震についても翌日の中部日本新聞の一面はルソンの戦況が記されているだけでした。
 一方、欧米紙では日本で起きた地震は大きなニュースになりました。ニューヨーク・タイムズは 1 面に「JAPANESE CENTERS DAMAGED BY QUAKE」の見出しを掲げ、「1923年の大地震関東大震災)よりも大きい」とか「日本列島では激しい揺れと津波が起きたはず」などと報じました。世界各地の地震計に基づいたデータが分析され、連合国には巨大地震の発生を隠すことができなかったようです。連合国の勝利間違いなしとの報道もされました。国内の状況とは対比的です。
 地震直後に名古屋の軍事拠点を狙った空襲
 東南海地震の翌週12月13日に、三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が大規模な空襲を受けました。この工場は日本の航空機エンジンの4割を生産する最重要拠点で、330人の死者がでました。この場所には現在、ナゴヤドーム名古屋大学医学部などが立地しています。これが名古屋を襲った初めての本格的な空襲でした。この日には、東洋一の動物園と言われていた東山動物園の猛獣が殺処分になりました。ただし、象は生き延び、戦後、全国から象さん列車に乗った子供たちが東山公園に訪れました。ちなみに東京の最初の空襲は前月の11月24日でした。
 名古屋は我が国随一の軍需都市だったため、軍需施設への空襲は、12月18日に三菱重工名古屋航空機製作所大江工場、12月22日と翌年2月15日の名古屋発動機製作所と空襲が続きます。私が卒業した小学校は工場から比較的近くにあり、名古屋で最も古い鉄筋コンクリート校舎が使われていましたが、当時の銃弾の後が多数残されていました。
 誘発地震三河地震の発生
 東南海地震の37日後の1月13日、三河地震が発生しました。未明の3時38分過ぎに、深溝断層や横須賀断層で発生したマグニチュード6.8の地震で、東南海地震の誘発地震だと考えられます。愛知県三河地方南部の旧幡豆郡碧海郡額田郡宝飯郡などで甚大な被害となりました。現在の西尾市安城市碧南市幸田町蒲郡市に当たります。死者は2,306名と東南海地震の倍にもなりました。
 地震発生時間が未明だったこと、東南海地震で損壊した建物が補修前に強烈な揺れが作用したことなどが原因したようです。また、集団疎開していた国民学校の学童50人以上が、疎開先の寺院の倒壊によって犠牲になりました。東南海地震で、学徒動員されていた中学生や女学生たちが名古屋や半田の軍需工場の倒壊で犠牲になったことを合わせ、戦時下故の痛ましいできごとです。
 大都市を襲った度重なる空襲から敗戦へ
 米軍の空襲は激烈を極め、市民を巻き込んだ中心市街地への空襲が始まりました。3月10日には、東京大空襲によって約10万人という1923年関東地震を上回る犠牲者を出し、再び首都は焼け野原になりました。名古屋も、東京大空襲の翌々日の3月12日には名古屋駅が炎上した名古屋大空襲、その後3月24日、5月14日、6月9日、6月21日と大規模空襲がありました。5月の空襲では、国宝・名古屋城天守閣や本丸御殿が焼失します。名古屋市は、全体で、63回の空襲を受け、被害は死者7,858名、負傷者10,378名、被災家屋135,416戸に及んだと言われます。
 東南海地震の被災地だった四日市は6月18日に、豊川市は8月に豊川海軍工廠への大規模空襲がありました。このように、東南海地震三河地震に見舞われた被災地は、震災復興も儘ならない中、戦災の渦中へと巻き込まれていきました。
 3月26日に始まった沖縄戦も6月23日に終結し、日米両軍合わせて20万人もの犠牲者を出しました。その後、全国各地が激しい空襲を受けます。その間、4月30日にはドイツのヒトラーが自殺、5月7日にドイツが降伏文書に調印します。そして、8月6日に広島市に、8月9日に長崎市原子爆弾が投下され、8月15日正午に昭和天皇による終戦詔書がラジオ放送され、敗戦を迎えました。
 1946年に台風と南海地震が追い打ち、そして、噴火、台風、地震
 翌1946年には、9月17日に三大台風の一つ・枕崎台風が襲来し、死者2,473人、行方不明者1,283人の犠牲者を出しました。特に、原爆被災地・広島で大きな被害を出しました。
 11月3日には、日本国憲法が公布され、新しい時代への準備も進みはじめましたが、12月21日には、昭和南地震が発生し、死者1443名の死者を出しました。東南海地震とペアの南海トラフ地震です。戦後の混乱期だったこともあり、被害実態は十分に分かっていません。
 1947年8月には浅間山の大爆発が、さらに、9月にカスリーン台風の来襲があり、利根川が決壊して首都圏が広域に浸水し、1000人を超す犠牲者を出しました。そして、1948年6月28日に福井平野を福井地震が襲い、3000人を超える死者を出しました。
 まさに泣きっ面に蜂という状況でした。
 震災と戦災の復興
 焼け野原と化した名古屋市は、精力的な都市再建が図られました。とくに、道路整備に力が注がれ、名古屋市中心部にあった18万9千基の墓や寺社を郊外に移し、焼け止まりのため日本の100m道路久屋大通若宮大通)を作りました。久屋大通の南に続く新堀川と合わせて、十字型の延焼防止帯になります。100m道路を中心に、縦横に広幅員の道路が整備され、その後のモータリゼーションを見据えた都市計画の優等生になりました。戦災、震災、洪水に見舞われた福井市も見事に復興し、不死鳥の町と言われています。
 震災や戦災は都市再生の大きな機会でもあります。我が国の多くの都市は、震災と戦災の後、見事な都市復興で、「仙台防災枠組」が位置づけた「より良い復興(ビルド・バック・ベター)」成し遂げたと言えます。
 福和伸夫
 名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授
 建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。」
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 皆で減災
 報告書(1944東南海地震 1945三河地震
 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成19年3月
 1944 東南海地震・1945 三河地震
 報告書の概要
 はじめに
 1944(昭和19)年12月7日午後1時に発生した東南海地震は、海洋プレートの沈み込みに伴い発生したマグニチュード7.9の地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。その37日後、1945(昭和20)年1月13日午前3時に内陸直下型の三河地震が発生し、死者は2,306人に達した。
 第1章 東南海地震の災害の概要
 1944年東南海地震は、歴史上繰り返し発生してきた駿河トラフと南海トラフ沿いを震源域とする地震であり、震度6弱相当以上となった範囲は、三重県から静岡県御前崎までの沿岸域の一部にまで及び、津波伊豆半島から紀伊半島までを襲った
 第2章 東南海地震の被害と救済
 三重県においては、熊野灘沿岸の津波被害、愛知県においては、埋立地である軍需工場が集中する地区での被害、静岡県においては、軟弱な泥質からなる沖積平野地区において住家被害が見られるなど、被害の様相はさまざまであった。
 第3章 東南海地震インパク
 東南海地震は、宝永地震安政東海地震震源域と比べると、地震空白域があることが指摘され、割れ残し部分(想定東海地震域)について地震予知を前提とした対策が進むこととなった。当地震震源の広がりについては、想定東海地震に備えるために今後とも検討を要する課題である。
 第4章 三河地震の災害の概要
 三河地震は、プレート内活断層から発生した地震の典型例で、明瞭な地表地震断層の出現、多数の前震等が確認されており、岡崎平野南部や三ヶ根山地周辺に最大震度7の局地的な大被害をもたらしたが、東南海地震と同様、「隠された地震」であった。
 第5章 三河地震の被害と救済
 戦時下であったため、行政による援助物資は数量的にも乏しく、被災後の生活を支えるには不十分であったこともうかがえる。軍用物資の輸送路の確保が急がれたため、復旧を支える緊急輸送路の確保は早く、軍による倒壊家屋の処理等も実施された。被災状況を撮影した写真が残されており、立て続けに起こった地震による被害を知ることができる。
 第6章 戦時下での地震
 東南海地震及び三河地震による被害は甚大で、軍需生産力にも大きく影響したため、地震に関する資料は極秘とされ、戦時報道管制の下、被害に関する報道は厳しく規制された。地元紙においては、物資配給・住宅対策といった被災者の生活支援に関する記事についてできうる範囲での報道が行われた。
 おわりに
 ・東南海地震での諏訪の被害等のように、震源から遠方であっても軟らかい堆積物が厚く積もる地域では、大きな揺れに見舞われることを物語っており、長周期地震動による高層建築物などの被害と共通の課題である。
 ・三河地震による地表地震断層は、ほぼ原状のまま残っている地点が残されており、地形・地質・測地・地震学的データを検証できる数少ない実例のひとつであるので、研究対象としてだけでなく、大地震発生を示す貴重な題材として今後、活用が期待される。
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 RIA
 三河地震から70年。いつ起きてもおかしくない東南海地震に備えて。
 1945年1月13日 1,000名を超す死者を出した大地震三河地震
 {震源地は三河湾 北緯34度42分06秒 東経137度06分48秒、深さ11km。三重県津市で震度5を記録したが、震源に近い現在の西尾市などでは震度6(現在の震度階級では7)であったといわれる。
 1ヶ月前の1944年12月7日に発生した昭和東南海地震の最大規模の余震とする説があるが、同地震に影響を受けて発生した誘発地震とする説もある。地震発生当初は昭和東南海地震(第一次地震)に対して第二次地震と呼称された
(出典:フリー百科事典-Wikipedia三河地震)}
 今日、1月13日は三河地震からちょうど70年にあたります。まだ記憶に新しい東日本大震災では多数の方が犠牲になっただけでなく、津波原発事故など地震を起点として様々な災害が日本を襲いました。未だその傷跡の大きさが度々報じられる中、いつ起きてもおかしくないと言われ続けている東南海地震について少し。
 「今後数年から数十年のうちに起きる」東南海地震
 地震予測の技術が上がっているとはいえ、いつ・何時・どの程度の規模で起きるかわからない地震。もう長く起こっていない東南海地震は溜め込んだ地震のエネルギーが一気に吐き出されるために甚大な被害を引き起こす可能性があり、随分前から警戒を呼びかけられています。
 {東南海地震(とうなんかいじしん)は、紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域(南海トラフの東側)で周期的に発生するとされている海溝型地震。規模は毎回M8クラスに達する巨大地震で、約100年から200年周期の発生と考えられている。東南海大地震(とうなんかいだいじしん)とも呼称される。
(出典:フリー百科事典-Wikipedia東南海地震)}
 紀伊半島から東西の広いエリアで影響を受けると言われるこの地震。愛知近郊も相当な被害が見込まれるということもあり、調べてみました。
 愛知県だけでも死者2万人超。
 揺れは県下全域にわたって震度5強以上とも!
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 6-3-1 三河地域における被害地震
 愛知県における主な被害地震を表6-3-1に示す。これらの被害地震のうち、三河地域における震度分布が詳細に求められている地震として、1707年宝永地震、1854年安政東海地震
 表6-3-1 愛知県に被害を及ぼした主な地震
 1891年濃尾地震、1944年東南海地震、1945年三河地震がある。図6-3-1-1、図6-3-1-2、図6-3-1-3に各地震の震度分布図を示す。また、1944年東南海地震における住家被害率分布を図6-3-2に示す。
 各地震三河地域における被害の概要は、以下のとおりである(愛知県防災会議, 1977; 愛知県防災会議地震部会, 1978, 1979a, 1979b, 1981)。
(a) 1707年宝永地震
 渥美郡幡豆郡碧海郡宝飯郡に家屋の倒壊、死者多く、社寺・土蔵などの倒壊被害が夥しく、堤防も破壊した所が多かった。三河地方の震害が大きかったが、特に震源に近い渥美郡の震害が著しく、野田7郷、吉田(豊橋)、二川など内浜内陸部に被害が多かった。渥美の野田・田原は震度7に達した。
 渥美の太平洋岸に津波の被害が大きく、また三河湾・知多湾・渥美湾にも津波が浸入し、田原や一色・寺津・平坂にも大被害を及ぼした。
(b) 1854年安政東海地震
 渥美湾沿岸沈下した。豊橋の吉田城本丸の多門・やぐら・石垣等大破した。三河地方一帯多数の家屋が倒壊した。
 山地地域を除き大部分は震度6であるが、幡豆および渥美の一部に震度7のところがみられる。この地域の地震動が特に強く震害が大きかった。
 三河湾遠州灘の沿岸に津波が来襲し被害があった。渥美郡浜通り津波の高さ8~10mあった(愛知県防災会議地震部会, 1981)。
(c) 1891年濃尾地震
 幡豆郡の被害が最も大きく、震度7になった所があった。渥美郡でも若干家屋の倒壊があったが、東加茂郡・南北設楽郡ではほとんど被害がなかった。
 液状化現象が幡豆郡の平坂村、萩原村、松木嶋村でみられた。
(d) 1944年東南海地震
 碧海・幡豆郡方面の被害が大きく、なかでも一色町・福地村の被害が大きく、全壊率が福地村では46%にもなった。道路や海岸堤防の被害も大きかった。渥美では田原や福江に家屋の被害がひどく、遠州灘側では赤羽根村の被害が大きかった。渥美・幡豆郡では噴砂泥水箇所が多くみられ液状化現象が現われた。震度7西尾市の一部でみられた。
 三河湾で1mくらいの津波がみられたが被害はなかった。
(e) 1945年三河地震
 震源地に近い幡豆郡の被害がめだち死者1,170人、負傷者2,520人を出し、住家の全壊3,693戸、同半壊6,388戸を出した。これに次ぐのは碧海・宝飯郡である。碧海郡では死者851人、負傷者1,134人、住家全壊2,829戸、同半壊6,950戸であり、宝飯郡では死者237人、負傷者151人、住家全壊333戸、同半壊が1,443戸である(愛知県防災会議地震部会, 1978)。その他の県にも被害は多少あるが、この地震で出来た著しい延長28kmの主断層付近に被害が集中した。断層の落差の最大は2mで、たてずれの逆断層であり、隆起沈降の地変も現われた。
 全壊率30%以上の町村は6ヵ町村(桜井村、明治村、三和村、福地村、横須賀村、吉田町)であるが、福地村は最大で68%に達した。字別では震度7が42部落に達した。
 三河湾に1m内外の津波が発生したが被害はなかった。
 上記5地震地震被害状況および震度分布について、三河地域における特徴を列記すると以下のとおりである。
①河川流域や旧河川敷、旧湖沼ないしは旧海岸部では液状化現象がみられ、これらの地点では家屋被害率も大きくなっている。
碧海郡幡豆郡などの沖積平野に家屋の被害が大きく、洪積層の土地では家屋の被害は少ない。
③1944年東南海地震での住家被害率と沖積層厚との関係を図6-3-3に示すが、被害率は軟弱地盤の厚さと相関がよい。
④震度分布をみると、局地的に震度7となる範囲が現れる。地震断層およびその周辺以外では、沖積層厚の大きいところに顕著となることがあり、地震動と地盤の震動特性による地域性が認められる。
 1945年三河地震は、三河地域を震源とする極浅発の直下型地震であり、他の4地震とは異なっている。震源が近いため、地震被害への地下構造の影響だけを判断するのは難しいが、当地震による地震被害の特徴をまとめると以下のとおりである。
地震被害分布の範囲は比較的狭いが、地震被害は地震の規模に比べて極めて大きい。
②住家全壊率が30%以上を示したところの大部分は断層の上盤側の地域である。また、断層の延長方向にあたる地域で全壊率や被害率の大きいところが見られる。
矢作川および矢作古川流域の沖積平野の軟弱地盤で全壊率が大きく、液状化現象も見られる。
④臨海部の埋立地干拓地の軟弱地盤では、沖積層厚が大きくなるほど被害率が大きい。
⑤半壊住家数が全壊住家数よりもはるかに多い地域が、比較的硬い地盤で地震動が強かったところに見られる。
 愛知県防災会議地震部会(1978)では、1944年東南海地震と1945年三河地震での住家被害率と地盤の微動卓越周期との関係を調べている。1945年三河地震では被害率のピークが卓越周期0.4~0.6秒に見られるのに対して、1944年東南海地震では被害率のピークが卓越周期1.0~1.2秒と比較的長くなっている。1944年東南海地震は海域に発生した大地震であるのに対して、1945年三河地震は陸域の直下型地震であることから短周期が卓越し、家屋の周期と地盤の振動周期とが共振しやすかったことによると推察している。
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 三河地震は、1945年1月13日午前3時38分23秒に、愛知県の三河湾で発生したマグニチュード6.8(Mw 6.6)の直下型地震である。 また、1945年の終戦前後にかけて4年連続で1,000人を超える死者を出した4大地震鳥取地震東南海地震、南海地震)の一つである。
 概要
 震源地は三河湾 北緯34度42分06秒 東経137度06分48秒、深さ11km。三重県津市で震度5を記録したが、震源に近い現在の西尾市などでは震度6(現在の震度階級では7)であったといわれる。
 1ヶ月前の1944年12月7日に発生した昭和東南海地震の最大規模の余震とする説があるが、同地震に影響を受けて発生した誘発地震とする説もある。地震発生当初は昭和東南海地震(第一次地震)に対して第二次地震とも呼称された。
 断層
 深溝断層(ふこうずだんそう)と横須賀断層によって起こされた地震で、断層は陸上部で18km、総延長は28km、最大の高低差は約2m、横ずれ変異量は約1mである。この地震で形成された深溝断層は、1975年に愛知県指定天然記念物に指定されている。深溝断層は逆断層で、隆起側での家屋倒壊などの被害規模が大きく、沈降側での被害は断層からの距離が10m以内に集中した。2013年現在西尾市の妙喜寺には、当時の地割れ(地表地震断層)が保存されている。
 北北西方向への延長線上には1891年濃尾地震を引き起こした根尾谷断層帯が存在し、更にその延長線上には1948年福井地震を引き起こした福井地震断層が存在する。
 被害
 震源が浅く、マグニチュード 6.8と規模が比較的大きかったにも関わらず、被害報告はごく僅かしか残されていないために、現在に至ってもこの地震について詳しいことは判っていない。しかし震源域の三河地域では、昭和東南海地震よりも多くの死者が記録されており、死者1,180人、行方不明者1,126人、負傷者3,866人。家屋の全壊は7,221戸、半壊1万6,555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他2万4,311戸とされる。なお、近年になって地震被害を報告した当時の帝国議会秘密会の速記録集が見つかっており、これによれば愛知県の幡豆郡碧海郡で死者2,652人に達したという。一方、碧海郡明治村の明治航空基地では顕著な被害は記録されていない。
 死者が多かったのは幡豆郡福地村(現・西尾市)234名、西尾町、三和村、横須賀村275名(以上現・西尾市)、碧海郡桜井町(現・安城市)、明治村325名(現・西尾市安城市碧南市)、宝飯郡形原町233名(現・蒲郡市)などで、平坂町(現・西尾市)では堤防が4メートル沈下して79ヘクタールの水田が海水に没したほか、矢作古川周辺では液状化現象も見られた。前述の被害が甚大な地区では、どの家族にも死者が出るほどの高い死亡率だったと言う。なお、震源を離れた葉栗郡や中島郡、名古屋市から一宮市付近でも一部で家屋の倒壊があった。また、三河湾で小規模な津波の発生が確認されている。
 局地的な被害はほかの直下型地震よりも深刻であった。被害状況は集落ごとに大きな差があり、ある集落は壊滅している一方で隣の集落はほとんど被害がないという状況も随所で見られたと言われている。37日前に発生した昭和東南海地震により構造上重要な「ほぞ」が外れた半壊状態の家屋が、物資及び人手不足から修理されず、新たな地震動により全壊に至った可能性が指摘されている。また、三州瓦の産地に近いことから、耐震性に欠ける瓦葺きの家屋が多く存在していた事も家屋の倒壊を促進したと考えられている。1日に40~50回の余震が発生していたため、家が無事な場合でも多くの被災者は屋内に戻ることが出来ない状態であった。
 救援活動
 地震が発生した当時は太平洋戦争中であり、当時の政府当局によって国民の戦意を低下させないことや軍需工場の被害を伏せるため(敵への情報流出も作戦へ影響する)報道管制が敷かれ、地震発生の報道はなされたものの被害規模やその後の状況などは多くが伏せられた。ただし、地元でもある中部日本新聞(現・中日新聞)は比較的多い報道を行なったほか、名古屋大学教授らからなる震害地学術調査団を現地に派遣している。 地震被害の報道がなされなかったことで、近隣地域からの救護団も無く更に、地震直後の行政による組織的な救援活動が実施されたとの記録は残っていない。しかし、明治航空基地や海軍基地の軍関係者による小規模な救助及び復旧活動が行われたとの証言が残っている。
 地震発生から2カ月後から行政(県)の手配による「工作隊」が組織され復旧活動が進められた。
 前後の地震活動および宏観現象
 1月7日頃から始まった前震活動は1月11日頃から活発化し、形原町西浦町では有感地震5〜6回を含む前震(マグニチュード5.9、5.2を含む)が発生していた翌13日には一旦沈静化した。余震活動も非常に活発であり、近年余震が特に多かったといわれる新潟県中越地震を凌ぐ数の余震が観測された。最大の余震は、本震発生後3日目に発生したM6.4の地震である。
 また前震や余震の前後に三ヶ根山周辺(地震断層の直上)で夜空が発光するなどの宏観異常現象が確認されたとの報告がある。当時は灯火管制が敷かれており、人工の灯りである可能性は低いとされる。
 江戸時代の三河地震
 1686年10月3日(旧暦・貞享3年8月6日)に遠江三河の沖合いでマグニチュード6.5〜7の地震が発生し、被害はこの2国におよんだ。遠江三河地震と呼ばれる。なお、1685年に記録されている三河地震は、根拠となった『渥美郡史』の誤字であり、発生はしていないと考えられている。また貞享3年の地震は1707年宝永地震の先駆的な地震として発生した可能性があり、広義の前震の可能性があるとされる。
 1861年2月14日 文久西尾地震 - M 6.0が発生。震源域は1945年三河地震と似ている。
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📉30】─1─中国が科学論文数で初の世界一 文科省調査、米国抜く 日本は低迷。~No.65No.66 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 学力の低下は、英語力ではなく日本国語力である。
 子供の言語力で、英語・カタカナ用語に重点を置き日本国語・変換用語を軽視すれば、学力の低下は止まらない。
 その顕著な例が、武漢ウイルス感染防止対策に大人達が乱用したカタカナ用語である。
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 2020年8月7日 産経新聞「中国が科学論文数で初の世界一 文科省調査、米国抜く 日本は低迷
 中国が自然科学分野の論文数で約40年にわたり首位だった米国を抜き、初めて世界1位になったとの調査結果を、文部科学省の科学技術・学術政策研究所が7日、発表した。科学研究における中国の躍進を反映した形だ。
 論文の発表数は国の科学力を測る指標の一つ。同研究所は厳密な審査を経て発表された年間約160万本の英文の論文を分析し、10年前と比較した。
 2016~18年の平均の年間論文数は、2位だった中国が30万5927本となり、データがある1981年から首位だった米国の28万1487本を上回った。日本は6万4874本で、ドイツに抜かれ4位に落ちた。
 中国は20年前に9位だったが、材料科学や工学を中心に急上昇。論文の総数だけでなく、他の論文に引用された回数が多く、特に質が高いとされる論文の数でも、米国を猛追して2位に上昇した。「科学技術進歩法」を制定し、科学研究に積極的に予算を投入したことが背景にある。
 大学の研究費は2000年以降、米国が1・8倍、日本は横ばいだったのに対し、中国は10・2倍に急増。また、米国に多くの留学生を送り込み、帰国してからも留学時代の成果を生かして論文を量産しており、これらが伸長を後押ししたと同研究所は分析している。
 論文数は主要各国で増えているが、日本はこの20年間ほぼ横ばいで、同研究所は「日本の伸び悩みは深刻で研究力が停滞している」と指摘した。」
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🍚173}─1─昭和東南海大地震(東南海地震)。犠牲者推定1,223人。昭和19年~No.564 * 

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 現代日本人、特に、靖国神社を否定し反対する日本人には、当時の日本人の思い、心情は理解できない。
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 2019年12月6日 msnニュース 朝日新聞社「75年前の揺れは… 昭和東南海地震を名古屋大が再評価
 © 朝日新聞社 1944(昭和19)年12月7日に起きた昭和東南海地震の震度の分布図(名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之客員教授提供)
 75年前の1944(昭和19)年12月7日に起き、東海地方に被害をもたらした昭和東南海地震による各地の震度分布を、名古屋大のチームが改めて整理した。チームは「その地域の揺れやすさを示している。揺れが大きかった地域は(今後の大地震への)注意が必要だ」としている。震度7相当の地域があると推定されてきたが、愛知県の西尾市静岡県菊川市袋井市の3カ所で「震度7」だったという。
 当時は戦時中で、地震の情報は広く伝えられなかったとされるが、チームによると、名古屋帝国大と名古屋地方気象台、中央気象台、東京帝国大の地震研究所などの研究者がそれぞれ現地を調査し、三つの報告書をまとめていたという。チームはそれらの報告書や先行研究などをもとに、住宅の壊れ具合から各地域の推定震度を導き出した。
 震度7だったのは、岡崎平野にある愛知県西尾市付近、静岡県菊川市付近と袋井市付近。いずれも河川がある地域で、泥質のやわらかい堆積(たいせき)物の積み重なりで揺れが大きくなったと考えられるという。また、埋め立て地のある名古屋市の南区や港区でも震度6弱程度の揺れがあったという。」
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 昭和東南海地震は、1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分から、紀伊半島東部の熊野灘三重県尾鷲市沖約 20 km (北緯33度8分、東経136度6分)から浜名湖沖まで破壊が進行した(震源としては「熊野灘」)M7.9のプレート境界型巨大地震。単に「東南海地震」または「1944年東南海地震」と呼ばれることがある。また当初は遠州沖大地震と呼ばれていたが、東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けたことを隠匿するため、「東南海地震」に変更したとする説がある。
 1945年前後にかけて4年連続で1000名を超える死者を出した4大地震鳥取地震三河地震、南海地震)の一つである(#震源域も参照)。一般に死者・行方不明者は1223名を数えたとされる。
 東南海地震震源域で発生した前回の巨大地震である安政東海地震から90年ぶりでの発生となっている。

 被害 人的被害
 流失家屋 3129戸
 浸水家屋 8816戸
 焼失家屋 3129戸
 火災発生 26箇所
 地震による家屋の倒壊、地震直後に発生した津波により、三重県、愛知県、静岡県を中心に、推定1223名の死者・行方不明者を出したとされているが、死者数は重複があり、918名とする説もある。これは、太平洋戦争中でもあり、戸籍などの謄本が津波により消失しているため現在でも正確な実数は把握できない。行政機能が麻痺したため、死亡届を出さずに、現在に至っている例も散在する。
 この地震によって関東大震災のような大規模な火災は発生しなかった。これは建物倒潰が比較的少なかったこと、発震時刻が昼過ぎであり火を使っている場所が少なかったこと、天候が穏やかで風が弱かったこと、更に戦時中でいつ本土空襲が起きてもおかしくない状況であり、人々の緊張が高まっていたことなどが要因として挙げられている。
 半田市中島飛行機の山方工場、名古屋市南区三菱重工の道徳飛行機工場はこの地震によって倒壊し、それぞれ死者130人、60人の被害を出した。この二つの工場は紡績工場を買収して軍需に転用したものであったが、飛行機工場としては狭く、間仕切りや柱を鋸で引いて取り除くなどして空間を確保していた。耐震性を無視した改装工事が倒壊の原因になったとされる。

 誘発地震
 本震に影響を受け、震源域及び余震域から離れた地域でも規模の大きな誘発地震が発生している。
 1944年12月19日 満州国(当時)と朝鮮(当時)の国境付近、西朝鮮湾近傍で M6.8の地震
 東南海地震の47日後の1945年1月13日 愛知県蒲郡市付近を震源とする三河地震(M6.8)。
 1946年12月21日 の昭和南地震、Mw8.1-8.4、深さ24km。同じ潮岬沖で発生した南海トラフのプレート境界型地震は、東南海地震とは逆の西に進行した。死者1330人。串本では地震後約10分で津波が到達し、また最高潮位6.57mであった。
 1948年
 4月18日 1時11分 和歌山県南方沖で M7.0[10]。昭和南地震と本震(昭和東南海地震)での割れ残った領域での地震[9]。
 6月28日 福井県嶺北地方を震源とする福井地震(M7.1)。

 戦時下における地震被害の隠蔽
当時、日本は太平洋戦争(大東亜戦争)の最中で、軍需工場の被害状況などの情報が連合国に漏れることを恐れた軍部は情報を統制した。翌8日がマレー半島侵略3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された(12月8日の各紙の1面トップはいずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められている)。
 地震についての情報は、3面の最下部のほうに申し訳程度にわずか数行触れただけで、具体的な被害状況は一切伝えられなかった。
 『伊勢新聞』12月8日付朝刊は「天災に怯(ひる)まず復旧 震源地点は遠州灘」の見出しを付けたが県下の一部に被害が出たという極めて小さい記事となっている。一方、『伊勢新聞』の紀南版は地震の影響からか、8日付は「印刷機械その他故障のため休刊」となり、9日付は「全紀南地方に強震 津波による被害各地に発生」の見出しで「各地とも相当被害がある」としたが死者数や流失戸数などには触れられていない。
 被害を受けた各地の住民や、学徒動員され半田市中島飛行機の工場で働いていた学徒らには、被害について絶対に人に話さないように、とする戦時統制に基づく通達の厳しい緘口令が行政側からまわった。そのため他の地域からの救援活動もなく、被災地は孤立無援となった。
 一方、地震は各国の地震計により観測・記録された。そのため翌12月8日のアメリカ合衆国の『ニューヨーク・タイムズ』や『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』はこの地震について大きく伝えた[39]。ニューヨーク・タイムズは、12月8日付朝刊で「中部日本で悲惨な地震」として3面にわたる記事を掲載し、12月9日付で「日本政府は……大きな軍需施設が被害地区に含まれていることを認めながらも、被害を少なく見せようとしている」との記事を載せている。
 この地震の状況を心理戦としてドラゴーンキャンペーン作戦として宣伝ビラ投下作戦をアメリカ軍が実行している(B29から投下された宣伝ビラには毛筆で「地震の次は何をお見舞いしましょうか」と書かれていた、という土屋嘉男の証言がある)また、後述の津波被害の資料となるアメリカ軍機による3日後に撮影した航空偵察写真が残されており、連合国側は状況を全て把握し、特に軍需工場等の戦略拠点の被害状況を注視した。地震から6日後の12月13日夜には、津波の被害にもさらされ惨事となっている名古屋地域の航空機工場を中心とする一帯に、アメリカ軍は大規模な空襲を行っている。
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 軍国日本は、相次ぐ巨大な自然災害に襲われ甚大な被害を出していた為に戦争どこではなくなっていた。
 広範囲にわたる被災地を復興の為には、早期に戦争を止める必要があった。
 昭和天皇を中心とした宮中派は、戦争終結させるべく動きはじめた。
 昭和天皇の、天皇の戦争責任や天皇戦争犯罪はない。
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 日本民族日本人の真の敵は、人ではなく自然災害であった。
 それ故に、日本神道宮中祭祀は、自然を怖れ敬い、自然を崇拝をしていた。
 日本の自然崇拝は、世界的なアニミズムとは違う。
 日本神道宮中祭祀の自然崇拝は、縄文時代の大地母神崇拝の流れを汲んでいる。
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🍥目次1〗─壱・D─令和の御代。食糧輸入国日本の食料安全保障。食糧自給率低下。〜No.1  

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 当ブログは、歴史の定説を恣意的に書き替える為に作成している歴史修正主義民族主義のブログである。
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 日本人は、事実に基づいた歴史が嫌いで、作家の奇抜な発想と斬新な解釈による時代劇が好きである。
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 戦前の日本は、人口爆発と凶作で食糧が不足し、国民を飢えさせない為に東南アジアから食糧輸入を増やそうとしたが、アメリカ・イギリス・オランの日本資産凍結と石油禁輸で食糧購入と食糧輸送が遮断された為に、餓死により戦死を選び、米英蘭に対して戦争を始めた。
 太平洋戦争は、対共産主義の安全保障ではなく食の安全保障の戦争であった。
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2020-08-03
🥗273}─1─日本の災禍は終わらない。復興過程は漸騰型と優柔型。〜No.848No.849 
2019-10-16
🥗274}─1─海水温上昇によるシビア・ウェザー(過酷な天候)が日本を襲う。第15号台風。〜No.850No.851 
2019-10-19
🥗275}─1─2019年の台風19号被害と八ツ場ダム建設問題。〜No.852No.853  
2019-10-25
🥗275}─2─台風19号。完成した堤防も決壊、遅れる河川整備〜No.854No.855  
2019-11-19
🥗278}─1─巨大な風水害が人口激減の日本を襲うと、老人が後期高齢者を助けねばならい。〜No.856No.857  
2019-12-22
🥗279}─1─安倍政権が日本の食と農を米国に売り渡した。〜No.858No.859  ㊶ 
2020-07-15
🥗260}─1─現代の日本社会は自然災害や疫病に弱い。豪雨。〜No.860No.861 ㊷ 
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2020-07-03
🍥2】ー1ー中国は新型コロナ騒動に紛れて危ない食品を日本に輸出している。~No.2No.3No.4No.5No.6   
2020-07-21
🍥3】ー1ー国内食べ物市場に蔓延する汚染輸入食品の数々。~No.7No.8No.9No.10No.11 
2020-07-27
🍥3】ー2ー危険な農薬が付着した食品が知らぬ間に日本に輸入されている。~No.12No.13No.14No.15 
2020-08-05
🍥4】ー1ー中国から日本やアメリカに不審な種子が届く。~No.16No.17No.18No.19 

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🍥4】ー1ー中国から日本やアメリカに不審な種子が届く。~No.16No.17No.18No.19 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
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 2020年8月5日12:46 産経新聞「中国から不審な種子届く、米各地で相次ぎ 詐欺手口との見方も
 神奈川県三浦市の男性に届いた不審な種子(同市提供)
 【ワシントン=住井亨介】注文した覚えのない種子が入った不審な郵便物が中国から届くケースが米国などで相次ぎ、問題視されている。米農務当局などは外来種の繁茂や、種子に付着した病害虫が蔓延(まんえん)することを危惧し、栽培しないよう呼び掛ける一方、電子商取引上の詐欺手口との見方を強めている。
 米紙ウォールストリート・ジャーナル(電子版)によると、7月下旬以降、少なくとも米22州、カナダ、英国などで数百人が種子入りの郵便物を受領。米農務省によると、種子はカラシやアサガオ、キャベツ、ローズマリー、バラなどこれまでに14種が特定されている。
 種子が入れられたパッケージには「中国郵政」と書かれた送り状が貼られ、バーコードなども印刷されている。中国から送付されている可能性が高いという。
 送り主の目的は不明だが、これに関して米農務省は4日までに、「『ブラッシング詐欺』以外にないことを証拠が示している」と発表した。
 ブラッシング詐欺は、通販サイトの出品者が高い評価を得るために行う詐欺行為で、身に覚えのない商品を送りつけ、届いた人物の名義で、商品の“やらせレビュー”を書く手口だ。高評価を得た出品者が信頼性を高め、その後の出品時に商品を販売しやすくする目的がある。」
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 8月5日13:12 産経新聞「不審な種子「そのままの状態で植物防疫所に相談して」菅氏が呼びかけ
 会見に臨む菅義偉官房長官=5日午前、首相官邸(春名中撮影)
 菅義偉官房長官は5日の記者会見で、注文した覚えのない種子が中国から全国に届く事例に関し、不審な種子を受け取った場合には「そのままの状態で、最寄りの農林水産省植物防疫所に相談してもらいたい」と呼び掛けた。」
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