🍘71〗ー1ーオールドメディアと文化エリートによるZ世代の活字離れ論や若者劣化論。テレビ離れ。~No.199No.200 

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 2026年6月22日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「じつは「見下したい」だけ…? Z世代の「活字離れ論」を語る人たちが気づいていない「不都合な真実」
 真鍋 厚(評論家・著述家)
 「若者は本を読まない」は本当か
 近年、「活字離れ」が話題になるたびに、「若者が本を読まなくなっている(あるいは、そもそも読めなくなっている)」というような分析をよく目にするようになりました。
 確かに、可処分時間の奪い合いといった面からみると、SNSやゲームなどスマホを操作している時間が多くなったことは間違いないでしょう。ですが、それが一足飛びに「若者は本が読めなくなった!」と大騒ぎするようなそんな単純な話ではないのです。
 巷にあふれる「活字離れ論」は、往々にしてデータに基づかない「若者劣化論」として語られることが多い印象があります。その背景には、歴史的、経済的、そして心理的な3つの構造的要因があると考えられます。
 1つ目は、「読書を特権化したい人々の防衛反応」、2つ目は、「出版不況の犯人探し」、最後の3つ目が「モラル・パニック(特定の集団や行動が、社会秩序に対する脅威・悪として捉える)型ビジネス」です。
 実際の統計(例えば全国学校図書館協議会の「学校読書調査」など)を見れば、不読率(月に1冊も本を読まない割合)は1980年代~90年代のほうがむしろ高く、現代の子どもたちのほうが「朝の読書運動」などの影響もあり、よく本を読んでいるのです。
 © 現代ビジネス
 大学生に関しては、「読書時間ゼロ」の層が約半数を占めるというデータが耳目を集めますが、これは「読む層」と「読まない層」の二極化が進んでいるだけであり、平均値や世代全体の劣化を意味するものではありません。
 出版ジャーナリストの飯田一史氏は、『「若者の読書離れ」というウソ 中高生はどのくらい、どんな本を読んでいるのか』(平凡社新書)で、ネットやスマホの影響で読書率や読書時間が著しく減少しているという傾向は見られないとし、小中学生の書籍の読書率・平均読書冊数は、2000年代以降、V字回復をしたと指摘。
 「外部環境がいくら変わろうが、日本人の半分が本を読み、不読者を含めると平均で書籍を月1~2冊、1日平均30分前後読む。(略)そして高校生、大学生の不読率や読書量は、今では大人とほぼ変わらない」と述べています。
 では、なぜ「活字離れ=若者劣化論」という安易なステレオタイプが流布し続けるのでしょうか? 最近であれば、二言目には生成AIの活用などによる「タイパ(タイムパフォーマンス:時間対効果のこと)」が持ち出されがちです。
 歴史が証明する「若者劣化論」の無限ループ
 まず、1つ目は、「読書を特権化したい人々の防衛反応」です。
 歴史的に見れば、新しいメディアが登場するたびに、旧メディアにしがみつく世代が「文化の崩壊」を嘆くのは定番の光景でした。古代ギリシャのソクラテスが「文字の普及は人々の記憶力を奪い、精神を劣化させる」と嘆いた時代から、実のところ何も変わっていません。そして、現代の「活字離れ」論者が犯している最大の誤りは、「活字=紙の書籍」という極めて狭い定義に固執している点でしょう。
 筆者は、前回の「ライターが食えなくなる論」をテーマにした連載で、IT革命以降の状況を正しく把握するため、「テキストコンテンツ」という言い方を用いました。これは、インターネットの普及によって、活字を意味するものの範囲が無料で読める膨大な電子情報にまで拡大し、「書籍」(電子書籍リーダーを含む)という物理的な形態に収まらなくなっているという現状認識からです。
 「テキストコンテンツ」の消費量という観点から見れば、現代の若者は、スマホを通じてSNS、ウェブ小説、ニュース、ブログなど、人類史上最も多くの「文字」を日々目にし、自ら発信もしています。要するに、「書籍」をはじめとした紙媒体が「テキストコンテンツ」の市場を独占できた黄金時代が単に終焉したに過ぎないのです。
 新メディア登場に伴う「若者劣化論」は、歴史的に何度も繰り返されてきました。19世紀末〜20世紀初頭は、出版印刷技術の向上に伴い、安価な雑誌や通俗小説が流通し始めたとき、当時の知識人たちは「軽薄な読み物によって精神が頽廃(たいはい)していく」という考え方から青少年への悪影響を恐れました。
 以降、ラジオ(1920年代〜1930年代)、テレビ(1950年代〜1960年代)、マンガ・家庭用ゲーム(1980年代〜1990年代)という新メディアの普及を通じて、「劣化論」が装いを新たにして量産されていきます。日本のメディア史上、最も有名な「劣化論」は、「ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されている」 (『週刊東京』1957年2月2日号)と評したノンフィクション作家の大宅壮一でしょう。
 「ラジオを聞くと考えなくなる」「テレビばかり見てるとバカになる」「マンガばかり読むとバカになる」「ゲームをすると脳の前頭葉が破壊され、キレやすくなる」「SNSばかりしているとバカになる」「AIに依存して自分の頭で考えなくなる」……全く同じロジックが引き継がれていることに気付きます。
 その深層には、知識人・エリート層側にとっての「読書」の優位性が失われることへの漠然とした不安感もありました。これは「何が正統で高尚な文化であり、誰が知的で優れているか」という、社会の階層秩序を決定するゲームの支配権をめぐる、極めて政治的な闘争といえます。
 かつて社会学者のピエール・ブルデューが提唱した「文化資本(capital culturel)」が参考になります(『ディスタンクシオン 社会的判断力批判I・II』石井洋二郎訳、藤原書店など)。「文化資本」とは、家庭環境や生育歴を通じて身につく知識、教養、言語能力、趣味などの個人的資産のことで、以下の3つに分けられます。
 「文化マウント」のルーツとなったもの
 (1)「身体化された文化資本」=言葉遣い、身のこなし、マナー、読書や音楽鑑賞の習慣など個人の身体や内面に染み付いた教養や能力。(2)「客体化された文化資本」=書物、美術品、骨董品、楽器など物質的な形として所有している文化的な財産。(3)「制度化された文化資本」=学歴、国家資格、免許など社会や公的な機関によって公式に価値を認められ保証された資格や地位。
 これらは金銭や不動産のような「経済資本」と異なり、すぐに得ることが難しいという特徴があります。特に(1)や(3)はそうでしょう。(2)もお金で購入することはできますが、それを真に理解し使いこなすには、前述の「身体化された文化資本」が必要になります。「ある作品をどう鑑賞し、どう扱うか」を知っていることで初めて資本として機能するからです。
 ここで重要になるのは、文化資本による階層化・序列化です。
 「知的/無知」「上品/下品」といった表現で区別し判断することは、特権階級がその権力を維持し、自己の優位性を示すために行われる、いわば「文化マウント」の好例です。筆者がここで思い出すのは、皮肉なことに「読書は国策であった」という歴史的事実です。どういうこと? と驚かれる人がいるかもしれません。冒頭に触れた「朝の読書運動」のことではありません。
 時代は1世紀以上も前の明治にさかのぼります。出版文化・大衆文化研究家の永嶺重敏は、『読書国民の誕生 近代日本の活字メディアと読書文化』(講談社学術文庫)において、日露戦争後の疲弊した農村や町村の財政立て直しと、国民の道徳心を高めることを目的とした官製運動である「地方改良運動」の一環として、図書館設立の拡大があったと指摘しています。これは国民に近代的な読書習慣を定着させるための国家的事業でした。
 図書館は、「黙読」(黙って読む)と「孤独」(一人で読む)が支配する、近代以前には存在しなかった空間でした。それまでは、熱心に読書をする人であっても、音読的読書が主流で、もっぱら親しい人間や地域の人々に読み聞かせる、共同体的な営みだったからです。この未曾有の官製運動の推進により「自己と対話しながら内面的な読書を行なうように促されていった」(同上)のです。
 すなわち、「規律にしたがって自らの個性的興味に応じた個人的読書へと進むための訓練となった」のであり、「こうして、図書館という読書装置は、中産知識人読者層の世代を越えた再生産装置として機能した」のです(同上)。そう、「文化マウント」のルーツは、国民国家の創生と切り離せない「模範的な国民モデル」にあったのです。
 話が少し脇道にそれましたが、このような想像上の「文化のピラミッド」から、自分たちとそれ以外を差別化する契機が生まれたのです。しかし、テクノロジーの進化によってゲームのルールが変わり、「スマホの画面から秒単位で有益な情報を引き出し、動画を1.5倍速で処理しながらマルチタスクを行う」ことが強みになる世界が到来しました。こうなると、旧来の教養の価値は相対的に目減りします。「読書」という「特権的文化」の相対化です。
 「特権的文化」によって自尊心を保っている人々は、そのような現実に対して過剰反応に陥りがちです。とりわけ中高年層は「自分が親しんできた文化資本が尊重されない、スルーされること」を、「今の若者はコスパ志向で頭が悪すぎる」「スマホばかりで思考力が落ちている」と文化の危機(若者の劣化!)にすり替えて、自己防衛を図ろうとするのです。
 【後編】→じつは焦っているのは若者ではない…「若者劣化論」を語るエリートがじつは認めたくない「文化的特権」の崩壊
 じつは「見下したい」だけ…?Z世代の「活字離れ論」を語る人たちが気づいていない「不都合な真実」
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 6月22日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「じつは焦っているのは若者ではない…「若者劣化論」を語るエリートがじつは認めたくない「文化的特権」の終焉
 真鍋 厚
 評論家・著述家
 近年、「若者の活字離れ」や「読書離れ」が盛んに語られている。しかし、実際の統計を見れば、子どもの読書量はむしろ増加傾向にあり、若者全体が本を読めなくなったと断定できるには根拠が乏しい。そもそも現代の若者は、SNSやニュースサイト、ウェブ小説などを通じて、人類史上かつてないほど大量のテキストに触れている。では、なぜ「活字離れ=若者劣化論」は繰り返し語られるのだろうか。
 前編記事に引きつづき、本稿でも、歴史上何度も繰り返されてきた新メディアへの不安や、「読書=教養」という価値観を支える文化資本の視点を批評家の真鍋厚氏が読み解く。
 【前編】→じつは「見下したい」だけ…?Z世代の「活字離れ論」を語る人たちが気づいていない「不都合な真実」
 「文化エリート」たちが遅れているもの
 経済学的な視点から見れば、「若者劣化論」は出版業界の構造的欠陥から目を背けるためのスケープゴート(いけにえ)として機能しているところがあります。これが2つ目の「出版不況の犯人探し」です。
 日本の出版市場は1996年(約2.6兆円)をピークに縮小を続けていますが、その主因は「若者のマインド」ではなく、市場の構造変化にあります。かつて出版界の利益を支えていた雑誌(情報誌・漫画誌など)がインターネットやSNSに代替されてしまったこと。再販制度や委託販売制度という、昭和期に最適化された物流・返品構造のツケが回ってきたこと。可処分時間の奪い合いにおいて、他の娯楽コンテンツとの競合が激しくなったことなどです。
 出版業界やメディアは、「自分たちのビジネスモデルの不備」や「時代の変化への適応不足」を認めるよりも、「若者が本を読まなくなったから売れないのだ」と消費者のせいにするほうが、精神的にも経営的にも楽なのです。
 最後の3つ目が「モラル・パニック(特定の集団や行動が、社会秩序に対する脅威・悪として捉える)型ビジネス」です。
 自尊心を保ちたい
 メディア論や経済的インセンティブの視点から注目されるのは、「若者の劣化を嘆く本は、中高年層のフックになって売れる」という市場の論理です。「最近の若者はダメだ」という言説は、書籍の主な購買層である中高年層の自己肯定感を満たすのにうってつけのエンターテインメントになりつつあるのです。
 中高年が感じる「ジェネレーションギャップに対する不安」や「若者理解のニーズ」、そして「自尊心を保ちたい心理」が巧みにビジネスとしてマネタイズされている構造が透けて見えます。とりわけ新書をはじめとした書籍では、彼らに向けて「今の若者の劣化ぶり」を分析してみせ、「自分たちの世代の優越性」を刺激するような「危機感ビジネス」と化している面が否めません。
 ブルデューが看破した通り、「人は文化のゲーム〔遊戯、賭け〕の外に出ることはできない」(前掲書)からこそ、自分たちこそが「正統的文化」の継承者であると考える人々による闘争が生じるのです。「大衆(あるいは若者)よりも、自分たちは知的に優れている」という社会的な影響力の保持です。
 読書を通じて自己のスキルを磨き、それを社会的地位や「教養」という名の武器(文化資本!)にしてきた人々であればなおさらでしょう。近年、入門書やビジネス書のタイトルで流行っている『教養としての~』は、永嶺が『読書国民の誕生』で述べたような「模範的な国民モデル」の名残りといえそうです。
 そして、今起きている「AI要約」や「タイパ・コンテンツ」による「文化資本」のスキップは、既存の文化エリートたちにとって、まさに自分たちの存在基盤を根底から覆す「終わりの始まり」そのものなのです。
 この変化は、旧来の知識人から見れば、まさに「野蛮人(テクノロジーを使いこなす若者)によって、自分たちの聖域(正統的文化)がハッキングされ、駆逐されていくプロセス」に他なりません。だからこそ彼らは、自らのポジションを死守するための最後の抵抗として、「若者の劣化」「AIに頼ると頭が悪くなる」という呪詛(モラル・パニック)を撒き散らさざるを得ないのです。
 この場合の問題の本質は、「若者が本を読めなくてバカになっていること」ではありません。「自分たちが自己研鑽の末に得た『正統的文化』の価値が暴落し、『教養』をスキップした若者たちが、自分たちと同じ(あるいはそれ以上の)情報処理効率を手に入れていること」に対する、アイデンティティの動揺があります。
 若者たち(または自分たちより下の世代の人々)は別に「破壊してやろう」などと思ってはいません。ただ、目の前にある最先端の便利な道具を駆使して、効率的に世界や社会を理解しようとしているだけです。それは客観的に見れば、合理的な生存戦略に過ぎません。
 かつては文字が「新メディア」だった
 そもそも、ビッグ・ヒストリーの文脈を踏まえると、「劣化論」としてのメディア批判の最初の矢面に立ったのは、何を隠そう「文字」でした。それまでは口承文化(口承文芸)が主流であったからです。例えば、古代ギリシャの口承文化は、文字が普及する前に「声」と「記憶」によって神話や英雄譚を伝えるシステムでした。
 口承文化の起源は明確ではありませんが、少なくとも後期旧石器時代(約4万〜3万年前)と推測されています。文字の出現は紀元前3000年頃とされ、社会に広く普及するようになるのはずっと後になってからのことです。つまり、人類の歴史において、コミュニケーションの大部分は「文字」を使わない口承文化だったのです。神話や昔話から社会の規範に至るまで、共同体の絆を深めながら世代を越えて受け継がれました。
 「人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである」(プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫)
 このソクラテスが話したとされるエジプトの神々に関するエピソードは、「文字」=テキストコンテンツ自体が「人を劣化させる」可能性について言及したものです。
 新・旧メディアの対立構造に置き換えると、口承文化が旧メディア、文字文化は新メディアに相当するものであったと捉えることができます。人類史から見て、人々が普通に文字を読む(読める)ようになったのは、ごくごく最近のことなのです。
 現代の若者は決して「本を読めなくなった」のではなく、他の人々と同様に「テキストコンテンツの読み方、情報の選び方、そして体験の共有方法を変えた」だけなのです。むしろ、長文のウェブ小説をスマホで何万字も一気に消費する彼らの集中力は、侮れないものがあります。
 大きく変わりつつあるのは、「若者の能力」ではなく、「情報環境とメディアの生態系」です。この構造変化を捉えきれず、自らのノスタルジーと不満を「若者の劣化」という安易な言葉で片付ける言説こそ、知的怠慢であり、劣化と言わざるを得ません。
 もはや近代病の一種
 しかし、永嶺が前掲書で論じた官製運動によって形成された、近代的読書を「正統的文化」と信じてやまない「中産知識人読者層」の末裔に当たる人々の一部は、自らの文化の正統性を守るため「文化マウント」志向(テキストコンテンツにおける本>雑誌>ウェブ記事>ブログ>SNS・掲示板といったような階層・序列が分かりやすい)を強めて、態度を硬化させていくことでしょう。SNSでたまに見かける「オーディブルを読書と認めない」という投稿が典型です。
 このような振る舞いは、盲目の吟遊詩人ホメロス作とされる叙事詩『イーリアス』や『オデュッセイア』が、長期にわたり口承によって伝えられていたという、人類史の“常識”を知らない――国民国家以後の価値観を絶対化した――近代病の一種といえます。
 わたしたちの文化は、もっと柔軟で、もっと深く、広大なものなのです。
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 6月27日 MicrosoftStartニュース ABEMA TIMES
 「テレビ離れ」全世代で加速「世代間の共通記憶がなくなる」懸念も ひろゆき氏「高齢者向けばかりではコンテンツとして未来がない」
 「テレビ離れ」全世代で加速「世代間の共通記憶がなくなる」懸念も ひろゆき氏「高齢者向けばかりではコンテンツとして未来がない」
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 テレビ視聴の様子
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 テレビ視聴の様子
 NHK放送文化研究所が発表した最新の国民生活時間調査の結果が、メディア業界内外で話題になった。平日に15分以上リアルタイムでテレビを視聴した人の割合が、高齢層を含むすべての世代で減少したことが明らかになったためだ。視聴者のライフスタイルが激変する中、これまで日本社会の共通基盤として機能してきたテレビの役割が根本から揺らぎ始めている。リアルタイム視聴の減少がもたらす社会的影響や、岐路に立たされたテレビ局が今後進むべき生存戦略について「ABEMA Prime」で議論が行われた。
■全世代でテレビのリアルタイム視聴が減少
 「テレビ離れ」全世代で加速「世代間の共通記憶がなくなる」懸念も ひろゆき氏「高齢者向けばかりではコンテンツとして未来がない」
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 同研究所が公表したデータによると、平日にリアルタイムでテレビを見る人の割合は全体で前回比8%減の71%へと落ち込んだ 。世代別では、10〜15歳が42%(14%減)、16~19歳が27%(20%減)、20代が33%(18%減)、30代が43%(20%減)。さらに今回の調査では、これまで強固な視聴習慣を維持していた60代が84%(10%減)、70歳以上が92%(3%減)と、高齢層においても減少が確認された。すべての世代で同時に割合が減少したのは、現在の調査方法が導入された1995年以降で初の事態だという。
 元NHKのメディア研究者である村上圭子氏は、「減少の波が70代にまで達したのはショック」と述べる。ただし村上氏は、テレビを全く見ない人が急増したわけではなく、70代の平均視聴時間自体はむしろ30分伸びているという側面だと指摘。これは受像機の前に座って見るという「リアルタイム離れ」であり、録画やネット配信を含む広義のテレビコンテンツへの接触とは分けて考える必要性を訴えた。
 ネットメディア研究家の城戸譲氏も、この変化を「必然の流れ」とする。城戸氏は、スマートフォンが普及し、見逃し配信サービス(TVerなど)が定着したことを背景に挙げ、生活習慣とテレビの編成の間に生じているギャップを次のように指摘した。
 「一家に1台テレビを囲んでいた時代から、1人1台スマートフォンを持つ時代へと変わった。これまではテレビ局がいつ何を放送するかという『編成権』を独占していたが、現在は視聴者一人ひとりが自身の生活に合わせてコンテンツを選ぶ『編成権』を持つようになっている。テレビ局が1日単位でパッケージングした固定的な番組プログラム自体が、現代人の生活習慣に合わなくなってきたのではないか」。
 リアルタイム視聴の縛りが制約となる中で、地上波テレビの役割そのものが「最後まで番組をリアルタイムで視聴する場」から、新たな役割へと移行しつつある。城戸氏は、現在の地上波テレビが持つ機能を「動画配信サービスや各種サブスクリプションへの『入り口』、あるいはお試し視聴や宣伝の場」として再定義している。
 地上波のバラエティ番組等での出演者の発言がネットニュースやSNS上で拡散され、それに興味を抱いたユーザーがTVerなどの見逃し配信を視聴するという流れが定着しているという。
 「地上波での放送は、コンテンツを広く認知させるための最初のきっかけに過ぎない。今後は最初からネット上でオンデマンド視聴されることを大前提とした、デジタルファーストのコンテンツ作りに本格的に舵を切っていくことが致し方ない選択になる」と持論を展開した。
■テレビを見ないことで共通の認識・記憶がなくなる?
 「テレビ離れ」全世代で加速「世代間の共通記憶がなくなる」懸念も ひろゆき氏「高齢者向けばかりではコンテンツとして未来がない」
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 番組では、リアルタイムでの同時視聴が減少することによって引き起こされる、社会的な文化の変化についても議論が交わされた。
 パックンは、誰もが同時に同じ番組を視聴するスタイルが崩れることへの懸念を表明した。「ネット配信の利便性は重要だが、一斉配信されるテレビだからこそ可能だった国民の共有文化や共通する価値観が薄れていくことが心配だ。それぞれが見たいものだけをバラバラに消費するようになれば、社会全体で共有できる話題がなくなってしまう。翌日職場などで『昨日のあの番組見た?』と言い合えるような体験こそが、国民が一丸となり一体感を持つための極めて大事なツールだった」と語り、テレビが果たしてきた社会的統合の価値を強調した。
 衆議院議員・門ひろ子氏も、この「世代間の共通記憶」という概念が喪失されつつある現状に同調した。「世代を超えた共通の記憶があることで、ある種の世代間の一体感が生まれ、それが日本社会の安定に大きく貢献していた。現在の30代付近の世代まではそうした共通記憶があるものの、20代以下の若い世代にはそれがほとんど見られない」と指摘。その上で、「共通の記憶を持たない人々が同世代として社会を構成していく時代において、かつてテレビが担っていたような社会統合を今後どのようなサービスが代替していくのかは、政治の視点からも大きな課題だ」と危機感をにじませた。
 これに対し、2ちゃんねる創設者・ひろゆき氏は、現代の若者における共通文化のあり方がテレビから完全に別の場所へとシフトしている現実を提示した。「今の若い世代の文化的な共通点は、もはやテレビではなく『アニメ』。人気ドラマは人によって見る見ないが分かれるが、話題のアニメに関しては、非常に多くの若い世代の話題になっており、さらには世代の壁を超えて幅広く見られている。社会的な共通記憶を構築する機能そのものが、すでにテレビという装置ではない、ネットや別のエンターテインメントの領域で作られているのが実態だ」と反論し、テレビによる共通記憶の再生に固執する見方に疑問を呈した。
■アニメが好例 どこまで若者&海外向けに切り替えられるか
 さらに議論は、現在のテレビ局が抱えるコンテンツ制作における構造的な問題点と、将来に向けた生存戦略の課題へと及んだ。ひろゆき氏は、テレビ局が目先のビジネスに囚われるあまり、自ら未来の可能性を狭めている現状を次のように指摘した。
 「リアルタイムでテレビを熱心に視聴している層の大部分が高齢者であるため、画面に登場するタレントも自然と50代以上の高齢層ばかりになっている。かつての昭和の時代には、20代や30代の若手芸人たちが最前線で新しい文化を作っていたが、今のテレビは60代や70代の大御所タレントが中心に居座り、若い世代がテレビを見るような構造になっていない。テレビ局側もその現状を本気で変えようとする動きが見られない。高齢者はリアルタイムで視聴してくれるし、金も払うから高齢者向けのものをひたすら作り続ける方が短期的にはビジネスとして上手くいってしまう。結果として、自分たちで自分たちの首を絞めている」。
 この指摘に対して村上氏は、テレビ局側も過渡期としての模索を始めていると説明。現在のテレビドラマがTVer等を通じて多くの若い世代にネット上で視聴されているとし、「テレビコンテンツの作り方は、すでに地上波放送をファーストとするのではなく、ネットファーストの切り替えが進みつつある。若い人向けのコンテンツをネット向けに作り、それを放送でも流すという、バランスを切り替えながらの対応が始まっている」と述べた。
 また、今後のテレビ局の持続可能性を高めるための決定的な要素として「グローバル市場への展開」という論点が浮上した。ひろゆき氏は、日本のテレビ業界が持つ「国内市場への過度な依存と閉鎖性」を指摘する。
 「日本の『アニメ』が海外でもうまくいっているのに対し、テレビメディアが主導するプラットフォーム(TVerなど)は、海外からのアクセスを遮断し、閉じた仕組みを続けている。これは、まだ国内の売り上げや高齢者向けのビジネスだけで何とか回ってしまっているために、海外で戦おうという危機感が業界に生まれていないということ。仕組みを世界に向けて開放しなければ、コンテンツとしての未来はない」。
 これを受け村上氏も、国内の制作予算が減少傾向にある時代背景を踏まえ、「今後の戦略として、最初から国内市場に閉じず、海外展開することを前提としてドラマを作る体制に移行していくことが重要になる。それを怠り、国内だけでパイを奪い合おうとすれば、放送局はどんどん予算削減になってチープなコンテンツを作ってしまい悪循環に陥る。ビジネスモデルを変えていく最中だ」との見解を示した。
 (『ABEMA Prime』より)
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🌱23〗ー1ー令和の米騒動で対立した三つの正義。~No.63No.64 

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 2026年7月7日 YAHOO!JAPANニュース「「令和の米騒動」は誰がつくったのか。市場を歪めた「空気」と「ブラックボックス」の正体
 店頭には米が戻り、複数の銘柄が積み上がる。令和の米騒動は、品薄から価格下落と在庫増加の局面へ移っている(筆者撮影)
 「令和の米騒動」とまで呼ばれたコメ価格の高騰。しかし現在、その状況は一転している。RDS-POSデータによると、2026年6月21日時点の全国スーパーマーケットにおける米5kg商品の平均売価は3,179円。2025年秋以降の価格上昇は同年11月3日週をピークに下落基調へ転じ、ピーク時から約1,000円、率にして約25%下落した。
 この数字の急激な変化を見ると、ある違和感が生じる。そもそも米不足は本当だったのだろうか。そして、「令和の米騒動」は誰がつくったのだろうか、と。
 もちろん、価格高騰の初期には複数の要因があった。2023年夏の猛暑による2023年産米の品質低下、流通在庫の減少、小麦価格高騰を背景としたコメ回帰、インバウンドを含む需要回復などが重なり、実際に外食店では国産米の確保に苦労し、一時的に輸入米へ切り替える動きも見られた。当時、現場に「不足感」が存在したことは間違いない。
 しかし、その後の価格高騰から現在の価格下落に至るプロセスを振り返ると、市場全体が「不足」という空気を前提に動き過ぎた面も見えてくる。
 二段階で進んだ令和の米騒動
 令和の米騒動は、一度に起きた出来事ではない。「店頭から米が消えた問題」と、「価格が下がらなかった問題」は、似ているようで異なる現象だった。
 第1段階は、2024年8月の店頭品薄である。大阪府の吉村洋文知事が「倉庫に眠らせておく必要はない」として政府に備蓄米の放出を要望したのに対し、農林水産省側は「全国的には需給は逼迫していない」として慎重な姿勢を崩さなかった。
 背景にあったのは、南海トラフ地震臨時情報や台風接近などをきっかけとした消費者の買いだめだった。データ上は全国的な需給逼迫ではなかったとしても、消費者の目の前では米が棚から消失。この体感が、不安を一気に広げていく。ただし、2024年秋に新米が出回ると、店頭の品薄はいったん解消へ向かった。空の棚という意味での米不足は、ここで落ち着いたのである。
 ところが、問題はこれで終わらない。第2段階は、2025年の価格高騰である。棚には米が戻ったにもかかわらず、価格は下がらなかった。むしろ2025年に入っても高止まりを続け、「令和の米騒動」として報道はさらに加熱していく。
 石破政権は「コメ増産へ舵を切る」と表明した。しかし、その後に発足した高市政権では、再び「需要に応じた生産」を重視する方向へ軌道修正された。米を巡る政治のメッセージもまた、一枚岩ではなかった。
 流れを整理すると、以下の通りだ。
 令和の米騒動は「店頭の品薄」と「価格高騰」という二段階で進行した(筆者作成)
この二つを分けて見なければ、令和の米騒動の本質は見えにくい。
 対立した三つの正義
 騒動が大きく膨らんだのは、2025年春から夏にかけてである。2024年夏の店頭品薄は、新米の流通によっていったん落ち着いた。しかし、2025年に入っても米価は下がらず、むしろ高値が続いた。そこで改めて問われたのが、備蓄米をどう扱うのか、増産へ動くべきなのか、そして誰が価格を押し上げているのかという問題だった。
 当時起きていたのは、単純な「備蓄米を出すべきか、出さないべきか」という対立ではない。そこには、立場によって異なる三つの正義があった。
 第一は、消費者の正義である。
 店頭から米が消え、価格が上がる。「国に備蓄米があるなら、なぜ出さないのか」と考えるのは当然だ。消費者にとって重要なのは、全国の需給統計という抽象的なデータではない。目の前の棚に米があり、普段の価格で買えるかどうかという現実である。
 第二は、生産者の正義である。
 政府備蓄米を安易に大量放出すれば、市場価格を押し下げる可能性がある。肥料や燃料、物流費などのコストが高騰する中、人為的な価格急落は翌年以降の作付け意欲を削ぎ、農家経営を直撃しかねない。農林水産省が慎重だった背景には、日本の米作りの持続可能性を守るという行政の論理があった。
 第三は、政治とメディアの正義である。
 政治は消費者の不安に応えなければならない。メディアは店頭の異変を伝えなければならない。どちらも役割としては正しい。しかし、「米がない」という強い言葉が繰り返されるほど、社会全体の不安は増幅される。政治もまた、その空気に引きずられるように、分かりやすい政策メッセージを打ち出していく。
 誰か一人だけが悪かったわけではない。それぞれに正義があったからこそ、誰もブレーキを踏めないまま、騒動は巨大化していった。
 「不足」という空気は誰が膨らませたのか
 それでも、一つ疑問が残る。2024年秋には店頭の品薄は解消した。にもかかわらず、なぜ米価格は上がり続けたのか。そこでクローズアップされたのが、米流通のブラックボックスである。
 実際、2025年6月、小泉進次郎農水相は国会で、米の流通について「極めて複雑怪奇」「ブラックボックスがある」と指摘した。さらに社名こそ明かさなかったものの、営業利益を大幅に伸ばした大手卸売業者の存在にも言及している。
 もちろん、卸だけを悪者にするつもりはない。卸もまた、仕入れ価格の上昇や調達リスク、安定供給の責任に向き合っていた。全国に安定して米を届けるうえで、卸の役割は大きい。しかし、「米が足りない」という空気が価格を押し上げ、その価格上昇が一部のプレーヤーの利益につながっていたことは見逃せない。さらに「どこかで米が止まっているのではないか」という疑心暗鬼は、市場の不安を強めた。高値でも売れるという見通しがあれば、流通は強気になる。仕入れの現場や外食企業は、高値を受け入れざるを得なくなる。生産側も高値を前提に動く。消費者はさらに不安になる。
 しかし、高値は永遠には続かない。農林水産省の「米に関するマンスリーレポート(令和8年6月号)」を見ても、その反作用は数字に表れている。2026年4月末時点の民間在庫は249万玄米トンで、前年同月より81万玄米トン多く、直近10年で最高水準に達した。販売段階の在庫も65万玄米トンと、調査開始以来の最大値となった。
 民間在庫量(月末在庫)の推移。2025年産米は前年を大きく上回る在庫水準で推移した(農林水産省「米に関するマンスリーレポート(令和8年6月号)」より)
 グラフを見ても、2025年産米の在庫は前年、一昨年を大きく上回る水準で推移している。市場では不足が叫ばれていた一方で、結果として在庫は積み上がり、「コメ余り」が現実のものとなった。
 高すぎる米価は、消費者のコメ離れを再燃させた。2025年7月から2026年3月にかけて、1人1カ月あたりの精米消費量は前年同月比で減少が続いた。価格は上がった。しかし、その高値が需要そのものを冷やしたのである。
 今、起きている「コメ余り」は、不足の反対側に突然現れた現象ではない。高値が生んだ反作用と見るべきではないか。
 情報も市場のプレーヤーである
 市場は、実需だけで動くわけではない。ナフサや石油などの資源価格も、「足りなくなるかもしれない」という期待や不安が価格を動かす。価格が上がれば前倒しで買い、供給が戻れば在庫処分が始まる。市場は実需だけでなく、市場心理にも左右される。今回のコメも同じだったのではないか。情報は、市場を映す鏡ではない。情報そのものが市場の行動を変え、実需を歪める力を持っている。
 そして、メディアもまたビジネスである。アクセスが集まる記事ほど多く読まれ、収益にもつながる。危機や品薄、値上がりといったニュースが注目を集めやすい構造自体は否定できない。私は当時、米不足を煽る記事は書かなかった。しかし、同じメディアに携わる立場として、今回の騒動から学ぶべきことは多い。発信する側には、その影響力への自覚が求められる。受け手にも、「いま起きている事実」と「これから起こるかもしれない予測」を切り分けるリテラシーが必要になる。
 一次産業と外食の新しい関係
 ここまで見てくると、令和の米騒動は外食産業にとっても単なる食材高騰ではなかったことが分かる。価格が上がる局面では「確保できないリスク」に追われ、価格が下がる局面では「高値で仕入れた在庫」と向き合うことになる。問われたのは、仕入れをどこまで市場や流通任せにするのかという問題でもあった。
 一方で、今回の米騒動は、生産者と外食企業がこれまで以上に直接つながる価値も浮き彫りにした。外食企業の中には、産地や生産者との直接的な関係を築き、仕入れを単なる調達ではなく、店の価値づくりにつなげている企業もある。
 例えば、東京・中目黒に本社を置く株式会社MUGENは、生産者との関係性を重視した仕入れを続けてきた。同社は「なかめのてっぺん」や「鮨 つきうだ」「天婦羅 みやしろ」などを展開する外食企業である。飲食店運営に加え、米の仕入れや米のオリジナルブランドの商品開発、生産者・仲卸・消費者をつなぐ「ツナグ事業」にも取り組んでいる。
 もともとMUGENは、市場に出回りにくい魚介類などを店舗で活用し、生産者や卸との関係性を大切にした店づくりを進めてきた。その姿勢は、米にも通じる。米は日常的な食材であるがゆえに、産地や生産者の顔が見えにくい。しかし、外食の現場に持ち込まれ、料理として提供され、客の反応に触れた瞬間、その価値は見え方を変える。
 MUGENの店舗で提供される寿司。外食の現場では、生産者の思いが一皿の価値となり、お客へ届けられる(筆者撮影)
 かつて、代表の内山正宏氏の出身地である福井県美浜町の米農家が、MUGENの店舗を訪れたことがあった。その際、農家が作った米でおにぎりを作り、客に振る舞ったという。すると、店内から「おいしい」という声が次々に上がった。その時の農家の人たちが目を輝かせていた姿が印象的だったという。後で話を聞くと、長年米作りを続けてきたものの、自分の作った米を客が食べる瞬間に立ち会ったのは初めてだったそうだ。
 仕入れをブランドの一部に変える
 生産者から直接仕入れることは、単に中間コストを減らすためだけの手段ではない。誰が、どのような思いで作った食材なのかを店が理解し、その価値を料理や接客を通じて客に伝えることができる。そこに外食ならではの強みがある。
 生産者にとっても、市場価格の乱高下に翻弄されるより、信頼できる飲食店へ安定的に届け、食べた人の反応が見える関係は、大きな安心につながる。豊作の年も、不作の年も、互いに納得できる関係を築くことができれば、単なる価格交渉とは違う取引が生まれる。
 実際、農業経営者の中には、価格の乱高下を大きな経営リスクと捉え、直接販売や複数年契約によって自分たちの市場を開拓する動きもある。これは外食企業にとっても同じだ。仕入れ価格の乱高下は経営リスクであり、生産者との安定的な関係は、そのリスクを抑える手段になる。
 令和の米騒動は、価格だけでつながる流通の脆さを浮き彫りにした。米価が上がれば不安が広がり、下がれば在庫処分が始まる。そのたびに外食企業が振り回されるだけでは、経営は安定しない。
 これからの外食企業に求められるのは、安く仕入れる力だけではない。生産者とどうつながり、その価値をどう消費者に届けるのか。仕入れをブランドの一部に変える力である。外食は、単に食材を仕入れて提供する産業ではない。一次産業と消費者をつなぐ「編集者」のような存在でもある。
 情報が市場を大きく動かす時代だからこそ、生産者との信頼関係そのものが、外食企業の競争力になっていく。
 三輪大輔
 外食ビジネスアナリスト
 外食ビジネスアナリストとして、外食産業を中心に、企業戦略、DX、業界構造の分析と取材を行っている。2019年7月より「月刊飲食店経営」副編集長を務め、2021年12月には著書『外食業DX』を出版。現場取材で得た一次情報と、経営者視点を掛け合わせた独自の分析を強みとする。これまでにインタビューした経営者は外食関連だけでも500名近くに及ぶ。 「ガイアの夜明け」「ワールドビジネスサテライト」「情報7daysニュースキャスター」などの番組出演や、業界向けセミナーの講師経験も多数。企業のビジョンや方針発表書の言語化支援、導入事例コンテンツの制作など、情報発信の戦略パートナーとしても活動している。
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🍙34〗─9・③─東北の出生率は戦前が“驚くほど高水準”で戦後は急低下。~No.234 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2026年7月6日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「子供は労働力」「口減らしする必要もなくなった」戦前の東北の出生率が“驚くほど高水準”だった理由
 〈「九州は男尊女卑なので出生率が高い」この俗説が【ただの地域差別】に過ぎない理由〉 から続く
 「子どもは労働力」とされ、戦前は驚異的な高出生率を誇った東北地方。しかし江戸時代には飢饉による「口減らし」の歴史もあった。かつての多産地域は、なぜ戦後になって激変し、九州に逆転されたのか? 知られざる人口の近現代史を、京都大大学院で地理学を専攻する重永瞬氏の新刊『 新しい日本地理 地図・統計・移動から読み解く 』(講談社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 最初から読む )
 ◆◆◆
 九州の出生率が高くなったのは最近のこと
 ここからは、東北と九州を事例として、なぜ出生率の東西差が逆転したのかを考察する。沖縄については、もともと独立した国家があったことや一時期米軍の統治下にあったことなどから、本土の諸県との比較が難しい。また、近代以降の移住者が多い北海道も、ほかの東日本とは性格が異なる。
 そのため、本章では「東日本」・「西日本」という語を、北海道および沖縄を除いたものとして用いる。特に、東北を東日本の典型として、九州を西日本の典型として論じる。もちろん、「東」と「西」は単純に分けられるものではないが、そうした細かな留意点については本章の最後で述べる。
 図6-4は、東北と九州の出生率の推移を比較したものである。
 戦前は東北のほうが顕著に出生率が高く、九州は全国平均よりもやや上といった程度だった。戦後は全国的に出生率が急低下するが、その過程のなかで東北と九州の出生率は同水準となった。大都市圏のほうが出生率が低いという傾向は、ほとんど常に見られるものであるため、非大都市圏にあたる東北・九州は、おおむね全国平均よりも高い出生率を維持している。
 例外的に、1970年代は全国平均と同じくらいになっている。これは、東京大都市圏の拡大によって子育て世帯が関東近郊へ流出し、東京を除く関東での出生率が高まったためと考えられる。
 1990年ごろまで、東北と九州の出生率はさほど変わらなかった。しかしその後、徐々に両者の差は開いていった。全国的には、出生率は2005年にいったん底をつき、その後徐々に回復、2015年以降はまた低下という推移をたどっている(図6-5)。
 2005年以降の回復は特に九州で著しかった一方、東北は伸び悩み、2015年以降には全国平均よりもさらに激しい下降に見舞われることとなった。この時期の東北というとどうしても東日本大震災が頭をよぎるが、震災以前にはすでに差が開きはじめていることを考えると、それ以外の要因を考えねばなるまい。
 以上、この100年ほどの出生率の推移を概観した。東北と九州の逆転現象は、大きく二つの契機によって生じたと言える。一つは、戦中から戦後にかけての東北の急激な出生率低下、もう一つは、2005年以降の九州の相対的上昇である。この二つの事象は起こった時期が大きく離れており、当然その要因もそれぞれ異なると考えられる。
 なぜ戦前の東北は出生率が高かったか
 一つ目の要因から考えてみよう。なぜ、東北の出生率は戦後に大きく低下したのだろうか。これを考えるためには、まず戦前に東北の出生率が高かった理由から説明する必要がある。
 一般的に、農村は都市と比べると出生率は高くなる。子供が農業労働力として重宝されるためだ。また、家の跡取りとして男子を求めたり、不幸で跡取りが途絶えたときのために多くの子供を求めたりすることも関係している。これは日本に限らず、世界で広く見られる現象である。日本のなかでは都市化が遅かった東北もまた、明治から高度成長期まで長らく高出生率地域となっていた。
 ただし、江戸時代の東北はむしろ出生率が低かったことも付け加えておきたい。頻繁に飢饉に見舞われていた近世東北の農村は、多くの子供を養う余裕がなく、子作りを控えるか、できたとしても「口減らし」のために殺してしまうこともあった。
 近代になると、東北の農村では多くの子供が生まれるようになった。これは一つには食糧生産が安定したためであり、またもう一つの理由として、村で抱えきれない余剰労働力を都市へ送り出すことが可能になったことも大きい。出稼ぎは江戸時代からすでに行われていたが、近代以降の都市における工業の発達は、それ以前とは比べ物にならない人口移動をもたらした。また、北海道に行き、ニシン漁業や炭坑労働に従事する者も多かった。
 東北が多くの労働者を送り出していたのと比べると、九州からの出稼ぎはそれほど多くない(図6-6)。
 冬に雪で農業ができない東北とは違い、九州では春から秋にかけて稲を育て、収穫から次の作付けまでに野菜や麦、豆などを育てる水田裏作が広く行われていた。そのため、出稼ぎが東北ほど必要とされなかった。また、九州は福岡、熊本、長崎などの大都市に加えて筑豊の工業地帯もあり、東北と比べると都市化が進んでいた。そのことも、九州の出生率が東北よりも低かった一因であろう。
 なぜ東北の出生率は急低下したか
 こうした状況から一変して、戦後は東北と九州の出生率の差は格段に縮まる。その理由として考えられるのが、人口政策の転換である。
 戦前から戦中にかけての日本では、「産めよ殖やせよ」という言葉に代表されるように、国策として人口増加が奨励されていた。人口はすなわち国力であり、多くの子供を産むことが「お国のため」であった。
 しかし戦後になると、一転して人口を抑制する方向に舵が切られた。団塊世代が生まれた第一次ベビーブームさなかの1948年、「優生保護法」が施行され、人工妊娠中絶が合法化された。この法律は、障害者に強制不妊手術を施すといった差別的な規定があったため、のちに改正され、母体保護法と改称されている。
 優生保護法に加えて、厚生省は「家族計画運動」を行った。助産師や保健師を実地指導員として各地で活動させ、避妊の普及を進めた。その結果、1947年には4.54であった出生率は、10年で2.04にまで減少し、人口置換水準を下回るに至った。
 こうした人口政策には、二つの目的があった。
 人口政策の二つの目的
 一つは、無理な出産や堕胎から母体を保護するという個人レベルでの目的である。もう一つはよりマクロなもので、人口を抑制することによって、食糧や資源の不足を避けようという目的である。
 戦後日本の人口抑制政策には、GHQの強い関与があったという。過剰な人口増加が起こったことが、日本の海外侵略をもたらしたのではないか。このような考えから、産児制限が行われたとする指摘もある。
 家族計画運動は全国的に行われた運動である。しかし、その影響には地域差があったのではないか。母体の保護が目的であるならば、産児制限は女性が多くの子供を産む(あるいは産まざるを得ない)地域、すなわち出生率の高い地域でこそ必要となるはずだ。
 家族計画運動が行われた1950年代の出生率変化を見てみよう(図6-7)。1950年と1960年を比べると、もともとの出生率がより高い県ほど低下幅も大きく、もとが小さい県では低下幅は小さくなっていることが分かる。
 つまり、家族計画運動によって出生率は平準化の方向に向かったのだ。戦後に東北と九州の出生率が同水準になったのは、このような社会的状況から説明することができるだろう。
 重永 瞬/Webオリジナル(外部転載)
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 2026年7月5日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「九州は男尊女卑なので出生率が高い」この俗説が【ただの地域差別】に過ぎない理由
『新しい日本地理』より #3
 重永 瞬「九州は男尊女卑だから出生率が高い」という俗説。しかし京都大大学院で地理学を専攻する重永瞬氏は、戦前のデータを基にこの言説を真っ向から否定する。
 なんと1930年当時、出生率トップは青森県、現在の王者・沖縄県はワースト4位だったのだ。気候や男尊女卑では説明できない「西高東低」の謎。思い込みを覆す日本地理のリアルを、新刊『新しい日本地理 地図・統計・移動から読み解く』(講談社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/続きを読む)
 ◆◆◆
 低下の一途をたどる出生率
 現代の日本が抱える問題はいくつもあるが、そのなかでも人口減少は社会の広範にわたって影響をもたらす喫緊の課題である(図6-1)。
 人口の変化は、自然増減(出生数・死亡数)と社会増減(流入数・流出数)によって計算される。日本全体の人口を増やそうと思うならば、出生数を増やすか、国外からの移民を増やすかしかない。外国人については次章で扱うので、この章では出生について考えてみよう。
 まず、「出生率」という用語について説明をしておく必要がある。一般的に、「出生率」と言えば合計特殊出生率(TFR:Total Fertility Rate)のことをさす。ここでも、特に注釈が無い限りは出生率=合計特殊出生率のこととする。
 これに対して、単純に女性人口1000人あたりの出生数を求めたものは「総出生率」と呼ばれる。この値は女性人口の年齢構成に強く依存しており、若い女性が多いところでは高く、高齢女性が多いところでは低くなってしまう。そこで、出産可能年齢を仮に15歳から49歳までとし、年齢階級ごとの出生率を求め、それを足し合わせた値が用いられる。これが合計特殊出生率である。
 この指標は、1人の女性が一生に産む子供の数の平均に相当する。現在の日本における死亡率を加味すると、出生数が2.07であれば、人口は減りもせず増えもせず一定の値を保つ。これを人口置換水準と呼ぶ。日本の出生率は1974年に人口置換水準を下回り、2024年には1.15にまで低下した。出生率の低下は危機的な状況にあり、一刻も早い対策が求められる。
 もちろん、「出産」は本来、個人の選択に委ねられるべきものであり、強制されることはあってはならない。しかし、経済的事情や社会的環境などで「産みたくても産めない」人がいるのであれば、それは政策的に解決されるべきである。
 本書の主題はあくまで「地域区分」であるため、「いかにして出生率を上げるか」という視点での記述は行わない。本論が目を向けるのは、出生率の地域差である。それはすなわち、「人の生き方」に地域差があることを意味する。なぜ、同じ日本にあっても出生率の高い地域と低い地域が分かれるのだろうか。
 出生率は「西高東低」
 まず、2024年の都道府県別出生率を見てみよう(図6-2)。
 都道府県別の出生率が最も高いのは、沖縄県の1.54(2024年)である。跡継ぎとして男子を望む傾向が強いことや、米軍統治下において中絶や避妊が本土よりも普及しなかったことなどが沖縄県の高い出生率の理由として考えられている(* 山内ほか(2020))。
 反対に、大都市圏では概して出生率が低い。住宅の狭さや保育所不足、未婚率の高さなど、さまざまな要因が背景にある。一般的に、大都市の若年女性は学業や仕事に追われ、結婚や子育てに時間を割く余裕が持ちづらい傾向にある。
 出生率の地域差を見るとき、まず目立つのはこうした大都市圏と地方部の差である。しかし、人口減少率と同様、地方間の差も大きい。全体的に九州や中国地方など西日本では出生率が高く、東北や北海道など東日本では出生率が低い。特に、九州と東北は対照的である。なぜこのような差が生まれるのだろうか。
 この疑問を抱く人は多いようで、しばしば、次のような説明がなされる。
 「暖かい地域は性におおらかなので出生率が高い」
 「九州は男尊女卑なので出生率が高い」
 たしかに、現在の日本の出生率は気候と正の相関関係があり、南にいくほど高くなる傾向がある。沖縄県が出生率1位であることもよりその印象を強めている。
 「性におおらか」や「男尊女卑」といった価値観については定量的に測ることは難しいが、以上のような説明が流布していることを考えると、どうもそれなりの数の人にとって納得感のあるロジックであるらしい。
 しかし、本当にそうなのだろうか。過去に遡って考えてみよう。
 戦前は東日本のほうが出生率が高かった
 図6-3は、1930年の都道府県別出生率を示したものである。
 なんと、現在とは正反対の分布になっている。最も高いのは青森県(6.30)、最下位は大阪府(3.19)である。4.70という全国平均の高さも驚きだが、現在は1位であるはずの沖縄県が1930年時点では出生率3.69でワースト4位になっているのも目を疑う。
 こうした戦前の状況を踏まえると、「暖かい地域は性におおらかなので出生率が高い」という、気候と出生率を直接結びつける説明はまったく的外れであることが分かる。まさか、戦前は沖縄よりも東北のほうが暖かかったわけではあるまい。
 また、「九州は男尊女卑なので出生率が高い」という説明についても疑問が残る。
 戦前は東北のほうが男尊女卑だったのだろうか。現在の出生率の分布だけを見た推論は信頼性に欠けるし、いわんやそこから「出生率を高めるためには男尊女卑もやむを得ない」といった主張をするのはあまりに乱暴である。そもそも「○○は男尊女卑な地域」という物言い自体、地域差別につながりかねない危うい主張である。
 日本における出生率の分布は、戦前から現在に至るまで複雑な推移を見せており、簡単に説明できるものではない。人口学や社会学など多くの分野から研究がなされている現在でもなお、地域差を説明できる明快な理論は見出されていない。
 こうした状況を理解しつつも、本章では「出生率はなぜ『西高東低』になったのか」という問いについて、無謀にも説明を試みる。新書という媒体の都合上、論文のような厳密な議論は難しい。これから行う説明は、あくまで仮説という点を踏まえた上で読んでいただきたい。
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🍙39〗─1─敗戦後、旧財閥企業は焼け野原で何もかも失った日本を復興させ経済大国に押し上げた。~No.247 

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 2026年7月5日 YAHOO!JAPANニュース Wedge(ウェッジ)「日本の戦後経済をけん引した旧財閥の姿、ビジネスパーソンとして押さえておきたい歴史と現在地
 (TU IS/Getty Images・三井合名會社 / The MITSUI Public Relations Committee.(三井広報委員会), Public domain, via Wikimedia Commons/Mitsubishi...
 本書『教養としての三菱・三井・住友』 は、日本経済の歴史に大きな役割を果たしてきた旧3大財閥(三菱・三井・住友)グループの歴史と特徴を明確にした一冊である。各グループの輪郭をわかりやすく解説しており、「今さら聞けない」と思われる部分も含めて、現代まで続く大きな流れをつかむことができる。
 【画像】日本の戦後経済をけん引した旧財閥の姿、ビジネスパーソンとして押さえておきたい歴史と現在地
 日本に財閥の源流が生まれたのは幕末あるいはそれ以前からであり、明治以降、急成長して戦前の日本経済をリードした。大正、昭和、平成を経て令和へと時代が移ったいま、著者は本書執筆にあたって3グループと関わりがあったり、自身が属していたりする500人にアンケートしたところ、ビジネスの現場では、財閥解体から約80年を経たいまもなお財閥の論理が色濃く生き続けているという。
 例えば「三菱グループの企業は何事もグループ内で動くように見える」、「三井の人が最も多様性に富んでいる印象がある」、「住友はグループ発祥の地への配慮があると感じる」といった具合である。
 本書では、経済界で現在も共通認識になっている「組織の三菱」「人の三井」「結束の住友」という特徴を踏まえて、それぞれのグループが現代に至るまでどのような特徴を形作ってきたかをひもといている。
 グループ内が強く結束される三菱
 三菱グループは、明治初期に岩崎弥太郎が海運業で成功したのを契機に多くの企業群を発展させてきた。中でも、三菱UFJフィナンシャル・グループ、三菱商事、三菱重工業などは、日本を代表する巨大企業として存在感を発揮している。
 三菱の最大の特徴は、まさに「強い組織力」にある。強固なピラミッド型の組織構造を持ち、グループ全体の結束を固めている点が強みである。著者はこう記す。
 三菱は国家と民間の境界が曖昧になるような存在として、特権的な立場を築いていきました。(中略) こうした官商一体なあり方や、岩崎家による絶対王政が、「組織の三菱」と言われるような企業風土を作り上げたと言えるかもしれません。 グループ内には「三菱」の名を冠さないキリンホールディングスや明治安田生命などの有力企業も多数存在する。これらの企業の多くがかつて「三菱村」と呼ばれた東京・丸の内一帯にオフィスを構えており、このエリアの土地や建物を広く所有して“丸の内の大家”の役割を演じているのが三菱地所である。
 徹底した実力主義の三井
 一方三井グループのルーツは、江戸時代の「三井越後屋」にまでさかのぼる。他の財閥と同様に、戦後の財閥解体を経て出直した歴史を持つが、個々人の実力や組織人材の優秀さがグループの原動力となっている。
 三菱が堅固な組織とするなら、三井は「独立独歩」の気風の強い企業が集まる緩やかな連帯という性格が強く、その中でリーダーシップを発揮してきたのが三井物産であった。
 第二次世界大戦後、三大財閥はGHQ(連合国軍総司令部)の指令によって解散を命じられた。三井物産は、解体時に約200社もの新会社に分割されたため、グループとしての再結集や再生には多大な時間を要した。そうした苦境の中で、「人」の強みを活かしてグループの再生を果たした歴史がある。
 本書では、三井物産の徹底した実力主義を示す興味深いエピソードとして、次のような史料が紹介されている。著者はこう記す。
 「三井物産の歴史を紐解くと、かつて全社員を厳密に格付けし、優秀な順に番号を付与して、その序列に基づいて給与や役職を決定していたという驚くべき史料が残っています」 年功序列や情実でなく、個人の力量で判断するこの仕組みは、徹底した実力主義であり、「人の三井」を担保していると言える。
 生活や産業の土台を支える住友
 そして「結束の住友」とされるのが住友グループである。本書では住友の紹介にあたり、「浮利に走らず」(目先の利益を追わない)、信用を重んじる「信用第一」という理念を有名な住友の家訓(住友精神)から説き起こす。
 住友のリーダーたちは、社会の基盤となる生活や産業の土台を支えるために不可欠な存在であることを常に強く意識してきたという。中でも住友商事は、戦後の1945年に商事活動に進出し、現在の会社になったのが52年と他社に比べて遅いスタートだった。住友商事にはこんなエピソードがある。
 住友グループには、江戸時代からその伝統として商業(商事)を禁じてきた歴史があり、戦後に住友商事が発足する際には、グループ内で5時間以上にわたる激しい議論が交わされたという記録があります。 この家訓が強く根付いた結果、住友商事は他の商社のような投機的・積極的な行動を厳しく制限し、社内からは「経営陣はもっと冒険心を」という突き上げがあったほどです。 こうした堅実な社風ゆえに、他のライバル商社がひしめく資源分野などで苦戦したが、近年の積極的な投資戦略は大きな注目を集めている。
 一方、住友のルーツが「別子銅山」(愛媛県新居浜市)の鉱山操業にあったことから、住友化学や住友電気工業、住友金属鉱山など、グループ内には素材・材料関連の多くのリーディングカンパニーが名を連ねる。住友の名を冠していない企業でも、日本のモノづくりや先端技術のサプライチェーンを支えているのが住友グループの強みといえる。
 「ザ・JTC」の姿
 旧3大財閥グループに属する中核企業だけでも30社を優に超え、それぞれが日本経済、さらには世界経済に大きな影響を与えている。
 本書を通じて各財閥グループの特徴や企業風土の違いを体系的に知ることができる。近年、保守的な日本の大企業を指す「JTC」(Japanese Traditional Company)なる言葉がよく使われるようになったが、旧3大財閥グループの企業は強い収益基盤やブランド力などを備えた良い意味での「ザ・JTC」であろう。
 旧財閥グループを知ることは、日本の戦後経済史を理解することでもある。ビールの銘柄をはじめとして各グループにまつわる知識を理解しておくことはビジネスパーソンの基本であり、知っておいて決して損はないお作法である。
 池田 瞬
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 7月4日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「石油もない、鉄もない、国土の7割は山…それでも日本が世界屈指の経済大国になれた「勤勉さ」以外の勝因
 日本は資源を持たない小さな島国でありながら、なぜ経済発展できたのか。その理由は、地理的条件を見ると明らかだという。著作家・宇山卓栄さんの書籍『「地理で考える」は武器になる』(秀和システム新社)より、一部を紹介する――。
 【図表をみる】「日本が経済大国になれた“勝因”」
■「持たざる国」だけど世界最強の立地
 日本は、典型的な「持たざる国」です。石油は出ない。鉄鉱石も取れない。国土の7割は山地で、平地はわずかしかない。常識的に考えれば、このような地理的条件の国が、世界屈指の経済大国になることはあり得ません。通常、資源のない国は貧困に喘ぐか、大国の属国として生きるしかないからです。
 しかし、日本はこの地理的なハンディキャップを逆手に取り、奇跡的な繁栄を築きました。なぜでしょうか?
 「日本人が勤勉で手先が器用だったから」でしょうか?
 それは大きな要因ですが、地理学的には決定打ではありません。
 日本が勝てた最大の理由は、「世界で最も海運を利用しやすい国土形状」をしていたからです。資源そのものは持っていなくても、資源を「運んでくる」コストと、製品を「運び出す」コストが極限まで低い場所に工場を作れる。この一点において、日本は世界最強の立地条件を持っていたのです。
■アメリカより長い海岸線が武器に
 地政学には「シーパワー(海洋国家)」と「ランドパワー(大陸国家)」という概念があります。日本は、イギリスと並ぶ代表的なシーパワー国家です。
 海上輸送のコストは陸上輸送よりも圧倒的に安価です。日本は四方を海に囲まれているだけでなく、海岸線が極めて複雑に入り組んでいます(リアス式海岸など)。
 日本の海岸線の総延長は、約3万5000キロメートル。これは、広大な国土を持つアメリカ合衆国(約2万キロメートル)の海岸線よりも長いのです。この「長すぎる海岸線」こそが、日本の最強の武器でした。
 海岸線が長いということは、「天然の良港」が多いことを意味します。
 東京湾、伊勢湾、大阪湾、そして瀬戸内海。波が穏やかで水深が深いこれらの湾岸に、日本は製鉄所、石油化学コンビナート、自動車工場を林立させました。
■陸上輸送コストがほぼゼロという奇跡
 日本の主要な工場は、ほとんどが海のすぐそば、「岸壁」に建っています。地球の裏側(ブラジルやオーストラリア)から運ばれてきた鉄鉱石や石炭は、巨大なタンカーで日本の港に着き、そのままベルトコンベアで製鉄所の高炉へと放り込まれます。
 そして、出来上がった自動車や鉄鋼製品は、工場の裏手からすぐに船に載せられ、アメリカやヨーロッパへ輸出されていきます。
 つまり、日本国内での「陸上輸送コスト」がほぼゼロなのです。
 もしこれが、海を持たない内陸国や、海岸線が単調で港が作れない国だったらどうでしょうか。国境で荷物を積み替え、鉄道やトラックで何百キロも内陸へ運ばなければなりません。その輸送コストだけで、製品価格は跳ね上がり、国際競争力を失ってしまいます。
 日本が得意とする「加工貿易(原材料を輸入し、製品にして輸出する)」というビジネスモデルは、日本人のアイデアというよりは、「資源はないが、港はある」という地理的条件が強制した生存戦略でした。
■太平洋という「巨大な高速道路」
 さらに、日本の位置も絶妙でした。日本の東側には、世界最大の消費地である「アメリカ」が広がっています。
 太平洋は、かつては隔絶の壁でしたが、航海技術が発達した現代においては、巨大な「高速道路」です。日本は、この太平洋ハイウェイの入り口(インターチェンジ)に位置しています。
 もし日本が、ユーラシア大陸の奥地にあったら、戦後のアメリカ市場へのアクセスは困難であり、高度経済成長は起きなかったでしょう。また、西側には中国や東南アジアという巨大な成長市場があります。
 「太平洋」と「ユーラシア大陸」の結節点に位置し、無数の良港を持つ島国。この地理的幸運があったからこそ、日本は「資源を持たざる国」でありながら、「資源を自由に操る国」として振る舞うことができたのです。
 私たちが普段何気なく眺めている工業地帯の風景――海沿いに並ぶ煙突やクレーン――は、日本が地理的宿命に打ち勝つために作り上げた、一種の要塞なのです。
■資源に恵まれた国を苦しめる「呪い」
 もし、あなたの家の庭から突然石油が湧き出したら、どうしますか? おそらく、あなたは汗水流して働くのをやめるでしょう。勉強してスキルを磨くこともしなくなるかもしれません。ただ庭から湧き出る黒い液体を売るだけで、一生遊んで暮らせるからです。
 これは個人だけでなく、国家にも当てはまります。経済地理学には「資源の呪い」という有名なパラドックスがあります。石油や天然ガス、ダイヤモンドといった天然資源に恵まれた国ほど、経済成長が鈍化し、政治が腐敗し、内戦が起きやすく、国民が貧困に苦しむ傾向があるという現象です。
 サウジアラビア、イラン、ロシア、ベネズエラ、ナイジェリア……豊富な資源を持つ国々の中で、日本や欧米のような「安定した民主主義と、高度な産業基盤」を築けている国は、驚くほど少ないことに気づくはずです(ノルウェーなどの例外はありますが)。
 なぜ、神様からの贈り物であるはずの資源が、呪いとなってしまうのでしょうか? その理由は、「掘れば儲かる」という産業構造の安易さが、国家の足腰(製造業や人材)を弱らせてしまうからです。
■資源に依存し、「稼ぐ力」が育たない
 資源国が陥る最初の罠は、経済的なものです。資源輸出によって巨額の外貨(ドル)が流入すると、その国の通貨の価値は急上昇します。するとどうなるか。自国の製品が割高になり、輸出ができなくなります。同時に、海外から安い製品が入ってくるため、国内の製造業や農業が壊滅的な打撃を受けます。
 これを経済学用語で「オランダ病」と呼びます(かつて天然ガスを発見したオランダで起きた現象です)。資源以外の産業が育たず、すべての輸入代金を資源の売上だけで賄うようになる。いわば「資源一本足打法」の国になってしまうのです。
 この状態で資源価格が暴落すれば、国は一瞬で破綻します。ロシアやベネズエラが定期的に経済危機に陥るのは、資源に依存しすぎて、他の「稼ぐ力」を失ってしまった地理的副作用なのです。
■日本に「独裁者」が生まれにくい理由
 資源の呪いのもう一つの、そしてより深刻な側面は、政治体制への影響です。資源国では、高確率で「独裁」や「強権的な政治」が生まれます。
 なぜでしょうか? その答えは「税金」の仕組みにあります。
 日本やアメリカのような「資源のない国」の政府を想像してください。
 政府がお金を使うためには、国民や企業から税金を集める必要があります。国民に税金を払ってもらうためには、国民に働いてもらい、豊かになってもらわなければなりません。
 また、国民は「税金を払っているのだから、政治に口を出させろ(代表を送らせろ)」と主張します。つまり、「資源のない国」の支配者は、必然的に国民を大切にし、民主主義的なプロセスを受け入れざるを得ない構造になっています。
 しかし、資源国の支配者は違います。彼らの収入源は、国民からの税金ではありません。大地から湧き出る「石油」です。石油施設さえ軍隊でがっちりと守っておけば、莫大な富が手に入ります。国民が働かなくても、貧しくても、支配者の懐は痛みません。むしろ、国民が賢くなって政治に口を出してくるのは邪魔なだけです。
 「代表なくして課税なし」
 という民主主義の格言がありますが、資源国ではこれが逆転します。
 「課税なし、ゆえに代表もなし」です。
 政府は国民に課税する必要がない代わりに、国民の声を聞く必要もない。その結果、富は一部の特権階級に集中し、それを守るための秘密警察や軍隊が肥大化し、アラブ諸国の王族のような強権的なリーダーが君臨し続けることになるのです。
■「人間こそが唯一の資源である」
 日本、スイス、シンガポールといった、資源を持たない地理的に「貧しい」はずの国々が、なぜ今日、世界で最も豊かで自由な国になれたのか。
 それは、彼らが「人間こそが唯一の資源である」と覚悟を決めざるを得なかったからです。土地を掘っても何も出てこないから、人の頭脳を掘り下げるしかなかった。教育に投資し、技術を磨き、法制度を整えて、人が働きやすい環境を作るしかなかった。その、数百年におよぶ「地理的欠乏に対する工夫」の蓄積こそが、真の国富だったのです。
 一方、資源国は、その努力をする必要がありませんでした。資源が豊かすぎたがゆえに、人間を育てることを怠ってしまった。「地理」は時に残酷です。恵まれた環境が人を堕落させ、過酷な環境が人を進化させる。
 ビジネスにおいて、あえて厳しい環境(競合の多い市場や、制約の多い場所)に身を置くことが、長期的には最強の生存戦略になるかもしれない。資源の呪いは、そんな教訓を私たちに突きつけています。

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 宇山 卓栄(うやま・たくえい)
 著作家
 1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、著作家。テレビ、ラジオ、雑誌、ネットなど各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説。主な著書に『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社)、『朝鮮属国史 中国が支配した2000年』『韓国暴政史 「文在寅」現象を生み出す民族と社会』『経済で読み解く世界史』(以上、扶桑社)、『民族で読み解く世界史』『王室で読み解く世界史』『宗教で読み解く世界史』(以上、日本実業出版社)、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『世界史で読み解く天皇ブランド』(悟空出版)など、その他著書多数。

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⛻34〗─1─日本の仏教建築はどう変化した?「和様・大仏様・禅宗様」の違い。~No.132No.133No.134 

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   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の寺院建築は、中国からもたらされたが、中国との国交遮断によって日本の創意工夫で独自に発展してきた。
   ・   ・   ・   
 2026年6月29日 YAHOO!JAPANニュース 草の実堂「日本の仏教建築はどう変化した?「和様・大仏様・禅宗様」の違いをわかりやすく解説
 画像:和様。奈良県の浄瑠璃寺本堂 public domain
 6世紀の半ばに朝鮮半島から伝わったとされる仏教。
 飛鳥時代に花開いた仏教は、奈良・平安・鎌倉時代へと発展しながら、日本人の精神文化に深く根付いていきました。
 時代の変化によって新たな教義が生まれた仏教は、建築という分野においても時代ごとに大きな変化を遂げてきました。
 今回は、仏教建築の様式について紹介します。
 仏教の伝来と日本仏教の発展
 日本に仏教が伝わった年、つまり公伝年については、主なものとして2説あります。
 一つは『日本書紀』が記す552年、そしてもう一つは、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』による538年説です。
 いずれも欽明天皇の時代に、百済の聖明王から伝えられたとされます。
 仏教公伝後、蘇我氏や物部氏による崇仏論争が行われます。
 しかし結果として仏教は受け入れられ、聖徳太子や蘇我氏による飛鳥仏教が花開き、奈良時代になると国家を守るための鎮護国家の教えへと変化していきます。
 画像:東大寺大仏(撮影:高野晃彰)
 そして、最澄・空海による新たな仏教である密教が唐から伝えられ、比叡山延暦寺(天台宗)、高野山金剛峯寺(真言宗)が開かれると、両山は日本仏教の中心的な位置を占めることになりました。
 鎌倉時代になると、法然が浄土宗、親鸞が浄土真宗、一遍が時宗、日蓮が日蓮宗といった鎌倉新仏教を開き、さらに宋から禅宗の曹洞宗・臨済宗がもたらされます。
 このようななか、日本の寺院の建築様式は、時代の変化によって大きく変化を遂げていくのです。
 日本最古級の建築様式「和様」とは
 ではここからは、仏教建築の様式について説明しましょう。
 日本の仏教建築は、大きく分けると「和様」「大仏様」「禅宗様」に分かれます。
 これらの様式を時代で見ると、「和様」は飛鳥・奈良(天平)時代以来の流れを受け継ぎ、平安時代から鎌倉時代にかけても用いられました。
 一方、「大仏様」「禅宗様」は鎌倉時代に新たに伝わった様式です。
 画像:和様(京都札所めぐり)
 「和様」は、飛鳥・奈良(天平)時代以来の仏教建築をもとに、日本で定着していった建築様式です。
 名前からは日本古来の様式のように思われますが、その源流には中国や朝鮮半島から伝わった建築技術がありました。
 建物は基壇上に立ち、床は土間とし、木部や壁には彩色を施しました。
 大棟には鴟尾(しび)と呼ぶ飾りを置き、瓦を葺くつくりも見られます。
 柱には西洋建築にみられるエンタシスとよく似た、「胴張り」と呼ばれる膨らみが設けられます。
 この胴張りは、法隆寺金堂のような古代建築に特徴的に見られますが、時代が下るにつれて膨らみは次第に控えめになっていきました。
 画像:和様。滋賀県の西明寺本堂 public domain
 奈良時代も終盤になると、土間であった床に板を張るものができ、平安時代には周囲に縁がつくられるようになります。
 屋根も瓦のほか、檜皮(ひわだ)葺、杮(こけら)葺も現れるのです。
 鎌倉時代に誕生した「大仏様」と「禅宗様」
 平安時代末期、平重衡による南都焼き討ちにより、東大寺は大仏殿をはじめ多くの堂宇を失いました。
 鎌倉時代の初めになると、東大寺の再建にあたり、僧の重源(ちょうげん)が南宋の様式を伝えます。
 これが「大仏様」で、巨大な建築をできるだけ早く、合理的に建てるための建築様式でした。
 画像:大仏様。奈良県の東大寺法華堂礼堂 public domain
 「大仏様」と従来の「和様」の大きな違いの一つが、「肘木」の使い方です。
 肘木とは、柱などの上部に置かれる短い横木のことで、屋根からの荷重を分散させて支える重要な役割を持ちます。
 「和様」では、大斗の上に肘木を乗せていましたが、「大仏様」では柱に直接肘木を差し込む「挿肘木」が用いられました。
 画像:肘木・大斗など(京都札所めぐり)
 また鎌倉時代に、栄西による禅宗(臨済宗)伝来とともに日本に伝わった建築様式が「禅宗様」です。
 この様式の特徴は、大きく反り上がった軒をもつ屋根と、軒の下に組物を密に並べる詰組にあります。
 画像:禅宗様(京都札所めぐり)
 鎌倉時代に現れた「大仏様」と「禅宗様」ですが、前者が徐々に廃れていったのに対し、「禅宗様」はこの後も全国的に普及していきます。
 そして、和様を基本としながらも、その中に「大仏様」や「禅宗様」を取り入れた「折衷様」と呼ばれる建築様式が広まります。
 画像:折衷様。兵庫県の鶴林寺本堂 public domain
 さらに室町時代になると、「禅宗様」の細かい木割、装飾的な細部が「和様」に採用され、それが豪華な桃山時代の建築へと発展していくのです。
 寺院を訪れた際には、仏像だけでなく建物の屋根や柱、組物にも注目しましょう。
そうすることで、日本仏教の歴史がより具体的に見えてくるのではないでしょうか。
 ※参考文献
 京都歴史文化研究会(高野晃彰)著 『京都札所めぐり 御朱印を求めて歩く』メイツユニバーサルコンテンツ 他
 文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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🌱22〗ー1ー仏紙「ル・モンド」令和の米騒動で「日本人にとって『コメ』がただの食材ではないワケ」。~No.61No.62 

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 2026年6月30日 MicrosoftStartニュース クーリエ・ジャポン「仏紙記者が考える「日本人にとって『コメ』がただの食材ではないワケ」
 2025年、「令和の米騒動」に見舞われた日本列島。その様子を間近に見ていた仏紙「ル・モンド」の記者が、日本人のアイデンティティとも言える「米」の歴史と重要性をフランスの読者に伝える。
 【画像】稲を植える昭和天皇
 アジア各国の主食、「米」。だが、日本について言えば、それはただの「食糧」ではない。
 それは豊穣の象徴であり、共同作業の象徴でもあった。かつての日本の暦は稲作のサイクルに依拠したものであり、米は長らく富を測る尺度でもあった。稲作が何百年もの間、日本文明の礎とみなされていたのは、こうした背景からだ。
 その日本で、米が足りずに価格が上昇した。原因は一つではない。農家の高齢化や農村の荒廃、気候変動も関係しているという。また、過剰生産を避けるための減反政策や、米の輸入を厳しく制限してきた農業政策が裏目に出ている側面も否定できない。
 1993年には、米国が日本に米市場の開放を迫ったが、そのときは日本の農家や政党、世論が激しく反発した。その猛烈な抗議運動は、日本の農家が持つ政治的な影響力を示すものであると同時に(農業協同組合は長年、政権与党の自民党を支える存在だった)、日本人にとって国産米が持つ象徴的意味を示すものでもあった。
 結局、米国の圧力に対し日本は、米市場をわずかに開放しただけで、外国産米の輸入は、「ミニマム・アクセス(最低輸入量)」の枠内にとどまることになった。
 ところが2025年には、その日本が米不足を理由に外国産米を大量輸入せざるをえなくなったのだ。
 たしかに日本人の食生活は、この半世紀で多様化した。ファストフードや本格的な外国料理も食べられるようになり、1960年代は約120キロだった国民1人当たりの米の消費量も、2025年には約54キロと半減している。
 米不足の感じ方も世代によって異なる。若い世代にとって、米はもはや欠かせない食べ物ではない。たとえば村上春樹の小説に描かれる、どこか冷めたところのある若い登場人物たちの食生活に米が出てくることはほとんどない。
 一方、その上の世代では、米はいまも食事の中心だ。話し言葉では、炊いた米を指す「ご飯」や「めし」がそのまま「食事」を指すほどである。
 「米こそ日本の姿」になるまで
 酒と米は何世紀もの間、人が集まり、食事をともにして楽しむことの象徴だった。16世紀の絵巻物『酒飯論絵巻』にもそれは示されている。小説家の谷崎潤一郎は、1933年刊行の著書『陰翳礼讃』で「あの、炊きたての真っ白な飯」をこう讃えている。
 「一と粒一と粒真珠のようにかゞやいているのを見る時、日本人なら誰しも米の飯の有難さを感じるであろう」
 米に込められた象徴的な意味の数々は、8世紀に編まれた『古事記』や『日本書紀』の建国神話まで遡れる。当時の王権は、唐との繋がりを強め、その制度や慣習を多く取り入れながらも、中国に対抗しうる日本独自のアイデンティティを築こうとしていた。
 これらの神話によれば、稲は太陽神の天照大神からの贈り物だ。この女神が、日本列島を米に満ちた豊かな地にするため、自分の孫に稲穂を持たせて遣わした、ということになっている。その天孫の子孫である神武がヤマト王権の伝説上の初代天皇となるわけだ。
 文化人類学者の大貫恵美子によれば、日本の国土で作られた米は、太陽神の御霊を表し、中国とは明確に異なる日本独自の文化的アイデンティティの象徴となった。「日本人は、米の栽培を通じてアイデンティティを築いていったのです」と説明する。ちなみに稲作は紀元前10世紀に、中国あるいは朝鮮半島から日本列島に伝来したと考えられている。
 米はいまも皇室の儀式と密接に結びついている。天皇即位に伴う祭祀「大嘗祭(だいじょうさい)」では、新天皇がその年の初穂を神道の神々に供える。
 天皇は毎年5月、皇居の小さな水田で田植えをし、9月頃に稲刈りをする。そこで収穫された新穀は、「新嘗祭(にいなめさい)」で皇祖をはじめとした天神地祇に供えられる。
 啓示の書を持たない宗教である神道は、祭祀を中心に回る。米と酒は、その祭祀で供物とされるものだ。稲わらは正月飾りに使われ、稲わらを編んで作る注連縄(しめなわ)は、神域の入り口に張られる。ときに長さ数メートル、重さ100キロほどになる注連縄は、岩や木に巻かれれば、そこが神の領域だと示すものである。万古不変の姿を保つ岩や木といった自然の事物に神性が見出されているわけだ。
 江戸時代、水田は国学者たちによって理想化された。その筆頭が、国学の大家である本居宣長だった。国学者は古典の文献考証を足掛かりにして、中国由来の朱子学の影響に対抗しようとした。そのなかで重んじられたのが農業であり、それは、いにしえの道の表れだとされた。
 こうして米が日本のアイデンティティを象徴するという見方が庶民の間にも広まっていった。鎖国から開国へと転じ、19世紀後半になって西洋との交流が本格化すると、昔もいまも変わらない日本像がいっそう求められるようになり、「米こそ日本の姿」という見方はさらに強まった。
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 【続きを読む】東日本大震災で「失われた日常の象徴」となった米
 英紙も驚くニッポンの「ネコノミクス」─なにがここまで猫をビッグビジネスにしたのか
 仏紙「空気を読まなくてもいい『X』は、日本社会の巨大な『圧力鍋』だ」
 仏紙が問う「なぜ日本の建築家は、自国において亡命状態にあるのか」
 人気が高まりすぎてドイツで「豆腐」が品不足に陥っている
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🗡24〗─3─第1次大戦後、イギリスは同盟国日本に最新の航空技術を教え飛行教育団を派遣した。~No.76 

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   ・   ・   {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 第2世界大戦時、航空機を製造して実戦に投入していたのはアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ソ連、そして日本の7カ国のみであった。
 欧米の軍事専門家は、日本の航空技術を否定し、日本人は遺伝的欠陥からパイロットにはなれないと言うのが常識であった。
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 2026年6月30日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「「日本人は二流だから」…一次大戦後、イギリス空軍が「日本に航空技術を教えたワケ」
 神立 尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)
 第二次世界大戦が終結して半世紀以上が経った1998年から2002年にかけ、イギリス国立公文書館が公開した文書のなかから、日本にまつわる驚くべき事実が明らかになった。航空機がまだ発展途上だった大正10(1921)年、技術指導のため日本海軍が招聘したイギリス人将校、マスター・ウィリアム・フォーブス・センピル(William Fobes-Sempill)が、その後、日本のスパイとなって、イギリス軍の機密情報を日本側に流し続けていたというのだ。2012年、このことをテーマにしたイギリスのテレビ番組「チャーチルを裏切った男たち」(原題Fall of Singapore:The Great Betrayal。Brave New Media)が制作され、その日本語版(NHK BS世界のドキュメンタリーで同年12月18日放送)を私が監修した。
 センピルがいかにして祖国を裏切り、歴史に影響を与えたか、日本側の資料とともに振り返る。(第1回)
 霞ヶ浦飛行場で、センピル(前列中央、脚を組んだ人物)と日本海軍の航空隊員たち
 © 現代ビジネス
 イギリスから「飛行教育団」を招聘
 1903年、ライト兄弟が、世界で初めて有人動力飛行に成功した飛行機は、第一次世界大戦(1914-1918)で戦争に使われたこともあって、わずか10数年で急速な進歩を遂げた。
 日本でも、その可能性についてはかなり早い時期から注目され、明治43(1910)年12月、代々木練兵場で、日野熊蔵陸軍大尉がドイツから購入したグラーデ単葉機で、徳川好敏陸軍大尉がフランスから購入したアンリ・ファルマン機で、日本初の飛行に成功している。同年5月、海軍も金子養三大尉をフランスに派遣、45(1912)年には河野三吉大尉らをアメリカに派遣し航空技術を学ばせ、大正元(1912年7月30日より元号が大正になる)年11月、河野がカーチス機、金子がファルマン水上機で、それぞれ飛行に成功した。大正3(1914)年、第一次大戦の勃発とともに、連合国の一員としてドイツに宣戦し参加した青島攻略戦で、水上機母艦若宮からファルマン水上機が出撃したのが、日本海軍航空部隊の初陣である。
 大正7(1918年)、第一次大戦が終結すると、戦勝国となった日本は、翌大正8(1919)年、陸軍がフランスからフォール大佐の率いる教導団を招いて、埼玉県所沢、岐阜県各務原で、大戦で得られた戦訓をもとに航空戦術の指導を受ける。海軍もこれに便乗して講習を受けたが、対地作戦を主とする陸軍と、洋上作戦を考える海軍とでは求めるものが違う。そこで海軍は、軍令部航空部部員であった大関鷹麿中佐が中心となって、イギリスから飛行教育団を招聘し、長期間にわたって組織的、系統的な指導を受けることとした。イギリスを選んだのは、大戦中、操縦訓練での死亡率が他国に比べて低いという結果が出ていて、その訓練法を学びたかったからでもある。
 ウィリアム・フォーブス・センピル。英空軍大佐。日本海軍に航空技術を教え、のちに日本のスパイとなったとされる
 © 現代ビジネス
 「日本人は騎兵としては二流」
 大関中佐は英国駐在武官を勤めた経験があり、イギリス海軍にも知友が多く、あらかじめ候補者をマークしていた。イギリス側としても、1902年以来の同盟国で、第一次大戦をともに戦った日本に航空技術を教えることは、東洋の安定につながるばかりか、それだけ多くの兵器を購入させることができる。2012年に制作されたイギリスのテレビ番組「チャーチルを裏切った男たち」によると、イギリスでは、
 〈日本人は騎兵としては二流だと思われていた。その日本人に飛行技術を教えたところで一流のパイロットにはなり得ず、英国の脅威にはならない〉
 と考えられていたのだという。このいわれなき人種的優越感が、のちにイギリスの首を絞めることになろうとは、誰も予想していなかった。
 ともあれ、大関中佐が主導し、日本海軍が招聘したのが、スコットランド貴族(男爵)の跡継ぎで、第一次大戦でも活躍したウィリアム・フォーブス・センピル(1893-1965)である。センピルは、名門イートン校を卒業、1914年、第一次大戦が始まると英陸軍航空隊に入隊、飛行任務につき、のち海軍、空軍と転籍。28歳の若さで空軍大佐に昇進し、1919年に軍を退役していた。当時は爵位継承者を示すマスター・オブ・センピルと呼ばれており、父のジョン・フォーブス・センピルは国王ジョージ五世の侍従武官を務めていたという。
 1921年7月31日、神戸港に到着したセンピル夫妻(前列)
 © 現代ビジネス
 霞ヶ浦飛行場で、センピル(前列中央、脚を組んだ人物)と日本海軍の航空隊員たち
 © 現代ビジネス
 講習員の一員としてセンピルの教えを受けた菊池朝三中尉(のち少将、第一航空艦隊参謀長、戦後土浦市議)の回想によると、センピルは、大英帝国の統治下にあったインドの航空総督の内示を断っての来日だった。
 【後編を読む】昭和天皇や東郷平八郎も期待を寄せた、「日本海軍航空隊」の基礎をつくった「イギリス人貴族」
   ・   ・   ・   
 6月30日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「昭和天皇や東郷平八郎も期待を寄せた、「日本海軍航空隊」の基礎をつくった「イギリス人貴族」
 神立 尚紀
 カメラマン・ノンフィクション作家
 第二次世界大戦が終結して半世紀以上が経った1998年から2002年にかけ、イギリス国立公文書館が公開した文書のなかから、日本にまつわる驚くべき事実が明らかになった。航空機がまだ発展途上だった大正10(1921)年、技術指導のため日本海軍が招聘したイギリス人将校、マスター・ウィリアム・フォーブス・センピル(William Fobes-Sempill)が、その後、日本のスパイとなって、イギリス軍の機密情報を日本側に流し続けていたというのだ。2012年、このことをテーマにしたイギリスのテレビ番組「チャーチルを裏切った男たち」(原題Fall of Singapore:The Great Betrayal。Brave New Media)が制作され、その日本語版(NHK BS世界のドキュメンタリーで同年12月18日放送)を私が監修した。
 センピルがいかにして祖国を裏切り、歴史に影響を与えたか、日本側の資料とともに振り返る。(第1回)
 【前編を読む】「日本人は二流だから」…一次大戦後、イギリス空軍が「日本に航空技術を教えたワケ」
 センピルへの「破格の待遇」
 こんにち、「センピル飛行団」とも「センピル教育団」とも呼ばれる一行は、センピル自らが指名した英軍士官18名、准士官(兵曹長)12名の計30名。それぞれ、操縦、技術、兵器、整備、偵察、写真、落下傘、航空医学などのエキスパートだった。
 防衛省防衛研究所には、センピル一行招聘について、一人一人の団員との契約書から、宿舎の手配、歓迎会、観桜会への招待状、交通費の日本側負担についての関係機関とのやりとりなど、詳細な書類が残されている。
 それによると、センピルに支払われる報酬は、前金で1500ポンド(英国立公文書館HPによると、現在の43,586.55ポンド(現在の約600万円に相当するが、当時はこれで馬54頭が買えたというから、単純にレートだけでは比較できまい)、来日後の年俸は、日本の現役海軍大将の約2倍にあたる1万2413円76銭で、これが2068円96銭ずつ6ヵ月に分けて支払われることになっていた。副長のMeares中佐は、前金500ポンドに年俸はセンピルと同額、大尉クラスでも前金237.10ポンドに年俸2482円(日本海軍の大尉の約2倍)となっている。加えて、日本との往復に士官は一等船室(運賃定価片道1100円)、准士官は二等船室(同735円)があてがわれ、日本国内での移動や宿泊も、階級に応じた額を日本海軍が負担した。加えて、船賃は自己負担になるものの、妻帯者は妻子を同伴することを認められ、不慮の事故で死亡または負傷した場合の支給金についても、こと細かに定められている。当時としては破格の待遇と言えるだろう。
 センピルは土浦郊外に一軒家を構えて暮らした。和装のセンピルと妻・アイリーン。アイリーンは1935年、歿イメージギャラリーで見る
 センピルは大正10年6月11日、妻アイリーンと幼い娘、そしてメイドを同伴して日本郵船佐渡丸でロンドンを発ち、7月31日に神戸着。8月1日朝、列車で東京に到着し、上野から常磐線列車に乗って、同日午後には、海軍が造成したばかりの霞ケ浦飛行場に着任した。ほかの団員たちも、7月から順次、来日している。団員たちは特別に用意された外国人宿舎に居を構え、センピルは土浦郊外の一軒家に住むことになった。
 ここに、翌大正11(1922)年10月まで、1年3ヵ月にわたる「センピル飛行団」による講習が始まった。
 東郷平八郎元帥も視察へ
 センピルたちによる講習の模様を、皇太子(のちの昭和天皇)や、日露戦争の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥が、わざわざ霞ケ浦まで視察に訪れたことを見ても、海軍がこの講習にいかに期待を抱いていたかがうかがえよう。
 東郷平八郎元帥に飛行機の説明をするセンピルイメージギャラリーで見る
 こうして、日本海軍に大きな収穫を与え、センピルは翌大正11年10月に任務を終えた。記録によると、センピルは10月27日に東京発、箱根、京都を観光ののち、31日、門司を出港する伏見丸に乗船、帰国の途についた、とある。日本側に残る『英飛行団ノ功績ニ就テ』と題した文書には、
 〈団長センピル空軍大佐は資性極めて誠直謹厳、年齢未だ30に満たざる英国貴族にして、航空については実にその本国の権威ともいうべく〉
 から始まり、
 〈団長以下全員は挙げて我が海軍航空に一大革新を与えんことを期し、面目を賭して努力せしものにして、従って各部の実績は団員の期待に背かざるのみならず、我が当局の期待を超え、すこぶる見るべきもの多し。一行の功績は独り海軍のみならず実にわが国航空史上に永久に消ゆべきものにあらずと認む〉(現代文約)
 と、じつに用箋15枚にわたってその功績が綴られている。絶賛と言っていいだろう。
 1922年6月18日、皇太子(のちの昭和天皇)が霞ケ浦飛行場に行啓、センピルの案内を受けたイメージギャラリーで見る
 センピル一行が教えた講習員は、士官70名、兵から累進した特務士官・准士官6名、下士官兵142名におよび、彼らがのちに、日本海軍航空隊が発展する基礎をつくった。日本政府は、センピルの功績に対し、勲三等旭日中綬章を授与している。日本から帰国したセンピルは、各国政府にイギリス製兵器購入を助言する仕事についた。
 ワシントン軍縮条約のあおりを受け、空母運用へ
 センピル一行が日本で航空術の指導に明け暮れていた頃、日本の海軍力増強を脅威に感じていたアメリカの働きかけで、ワシントン軍縮会議がはじまった。この会議の結果、日本の主力艦(戦艦)保有数は、米英の6割に制限され、20年以上にわたって続いた日英同盟も1923年をもって失効することになった。
 ワシントン軍縮条約のあおりを受け、主力艦の保有枠を超えて建造中だった戦艦加賀と巡洋戦艦赤城は、空母に改装されることになる。だが、日本海軍は当時、空母運用についてのノウハウをほとんど持っておらず、飛行機の発着艦すら手探りの状態だった。
 フレデリック・ジョゼフ・ラトランド。第一次大戦の英空軍の英雄。航空母艦の指導に来日、のちにセンピル同様、日本のスパイとなるイメージギャラリーで見る
 そこで、在英国大使館附武官補佐官・高須四郎少佐(のち大将、第一艦隊、南西方面艦隊司令長官などを歴任)の口利きで日本海軍が招聘したのが、叩き上げの軍人で、英空軍を退役したばかりのフレデリック・ジョゼフ・ラトランド大尉である。ラトランドはセンピルより7歳年上、イギリス海軍航空隊の草分けの一人で、1916年、英独海軍が激突したユトランド(ジュットランド)沖海戦では航空偵察で敵艦を発見するなどの殊勲をたて、「ユトランドのラトランド」の異名で知られていた。巡洋艦の砲塔に取り付けられた臨時の飛行甲板から、世界初の発艦に成功したのもラトランドである。1918年、空軍に移籍、第一次大戦後は空母イーグルの飛行隊長を務め、1923年に退役、来日した。来日の理由について、ラトランドはのちに、
 「もう戦争は起こらないと思った。そこで軍を退き、生来冒険好きだった私は日本に行くことを決めた」
 と語っている。ラトランドは三菱航空機に籍を置き、東京にオフィスを構え、日本海軍に空母飛行甲板の構造についてのアドバイスをした。さらに、日本のパイロットに発着艦の技術を教えれば昇給させる、とのオファーにも応えた。
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 第1次世界大戦では、航空機と戦車が新兵器として登場した。
 日本軍は調査団をヨーロッパ戦線に派遣し、総力戦と新兵器を調査した。
 日本海軍は航空機を、日本陸軍は航空機と戦車の研究を本格化した。
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 大正10(1921)年~11年 ワシントン軍縮会議の結果、日本は主力艦(戦艦)保有数を制限された為に建造中だった戦艦加賀と巡洋戦艦赤城を急遽空母には改装した。
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 日本海軍は、航空機・空母による新しい時代が始まっているのに、戦艦大和を建造し大艦巨砲主義と一点豪華主義に固執した為に負けた、は誤りである。
 戦艦大和(昭和16年竣工)、戦艦武蔵(昭和17年竣工)をもって戦艦建造を取り止め、大和型3番艦の信濃は空母に改装し、以降は空母を建造した。
 日本海軍の主流派は大艦巨砲主義であったが、同時進行として航空機・空母主義も存在していた。
 日本軍は、戦争に勝つ為に一点突破、選択と集中ではなく、破壊的イノベーションと進歩的リノベーションで、資金と資材が制限されている中で柔軟に総ての可能性を追求していた。
 それが、日本軍の強みであった。
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