🍠28〗─7・B─関東大震災で清澄庭園に逃げた2万人が助かった。~No.95 

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 2023年5月31日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「関東大震災清澄庭園に逃げた2万人が助かった理由……「樹木の防火力」の歴史的事実
 福嶋 司
 大江戸線清澄白河駅の近くにある清澄庭園。池と緑のある静かなこの庭園が、関東大震災で2万人の命を救ったことはあまり知られていない。
 清澄庭園に逃げた人たちはなぜ助かったのか?その理由は池と、「樹木の防火力」だった。
 【*本記事は、福嶋司『カラー版 東京の森を歩く』を抜粋・編集したものです。】
 紀伊國屋文左衛門から徳川慶喜岩崎弥太郎の所有へ
 都営地下鉄大江戸線清澄白河駅で下車して歩くこと5分程度で清澄庭園に着く。
 一帯は深川界隈でも特に緑の少ないところで、清澄庭園は貴重な緑空間である。また、園の近くの霊巌寺には将軍吉宗の孫、白河藩主であり、「寛政の改革」を進め、大田南畝(おおたなんぽ)からその政治姿勢を「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」と狂歌に詠まれたことでも有名な松平定信の墓がある。
 この清澄界隈に人が住むようになったのは寛永年間(1624~1643)の頃からである。
 徳川家康が現在の大阪から連れてきた漁民は佃島に住んだ。そこが手狭になったことから、漁民は対岸のヨシ原のこの地を開拓して新たに深川漁師町を作った。
 その後、清澄庭園の地域は一時、紀伊國屋文左衛門の別邸となった。紀伊國屋文左衛門と言えば、海の荒れた日が長くつづき、紀州からのミカンが江戸に届かず、価格が暴騰していた時に多量のミカンを江戸に運んだり、10万人が焼死した明暦の大火の後に木曾谷から多量の木材を江戸に運び大儲けをしたことでよく知られている。
 また、下総国(現在の千葉県など)関宿の藩主久世大和守の下屋敷として長く使われ、幕府崩壊後は徳川慶喜前島密の所有地となった。
 明治11年(1878)には三菱財閥を興した岩崎弥太郎が一帯の土地約三万坪を買い取って造園し、「深川親睦園」と名付けて社用に供した。その後、回遊式庭園を築造し、明治24年(1891)に現在のような清澄庭園が完成したという。
 このように、この場所は所有者を変えながら、長い歴史を刻んできたが、清澄庭園の歴史で特筆すべきは、関東大震災時のこの庭園のありようであろう。この庭園の森は、逃げ込んだ2万人もの人の命を救った。だがこのことはあまり知られていない。
 大震災と、この庭園の果たした避難場所としての役割について、文献をもとに少し詳しく紹介しよう。
 避難場所の選択が命の分かれ道に
 大正12年(1923)9月1日午前11時58分44秒、相模湾震源とするマグニチュード7・9の大地震が発生、さらに二次災害として各地で火災が発生した。
 火事は3日間燃えつづけ、当時の東京市内の約半分の地域を舐め尽くし、東京市全体の62パーセントに当たる家屋が焼失した。
 行方不明者を含む死者は9万3886人に及んだが、死者の約90パーセントが焼死であったという。火災は熱旋風(熱竜巻)を発生させる。着火物を含んだ強風や火の粉が逃げまどう人びとを上から襲った。火災の熱風は地表も這い、衣服を焼き、髪も焼いた。着火飛来物は人の首さえも飛ばした。
 人びとは火に追い立てられて広い空地や樹木を持つ公園に逃げ込んだ。当時の東京市の人口は約248万人であったが、そのうちの70パーセント以上が公園などに避難して助かったという。
 しかし、逃げ込んだ場所の条件の違いが生死を分けた。
 ここで陸軍被服廠の跡地(現在の墨田区横網町公園一帯)と旧岩崎邸(現在の清澄庭園)の例を比較してみよう。
 陸軍被服廠跡は隅田川沿いにあり、被服廠が赤羽に移転した跡地には公園の造成が計画されていた。当時は4ヘクタール以上の空き地で、周囲に鉄骨の板塀と幅1メートルほどの溝がある広場であった。そこに火から逃れて4万人もの人が逃げ込んだ。火事の延焼速度はそれほど速くない。人びとは長期戦になることを予想し、布団や家財道具を持ち込んだ。
 広い場所に避難し、ほっとしたのもつかの間、周囲から3回の高熱の熱旋風が襲来した。火は持ち込んだ布団や家財道具に引火し、外と内からの火で火の海となった。人びとは逃げ場を失い、結局3万8000人もの焼死者が出た。窒息死者と周辺の焼死者を合わせるとこの地域では4万4315人が亡くなったという。しかも、そのうち、性別判別ができた人は13・6パーセントしかなかったといわれ、火災のすさまじさを示している。
 一方、避難してきた2万人もの命を守ったのが旧岩崎邸、現在の清澄庭園である。
 清澄庭園
 © 現代ビジネス
 旧岩崎邸は陸軍被服廠の跡と同じ隅田川のほとりにあり、面積は約4・8ヘクタール、同じように周囲を民家に囲まれていた。しかし旧岩崎邸は中央部に池があり、邸の周囲を煉瓦塀と土塁が取り囲んでいた。さらに、土塁の上にはスダジイタブノキイチョウなどの木々が樹林帯を形成し、邸内にも多くの樹木が植えられていた。ここにも外部からの火災の熱が容赦なく襲ってきたが、その熱を周辺部の樹木が防ぎ、避難した人びとを安全に守ったのである。
 北村信正氏の『清澄庭園』のなかには被災状況と樹木の防火の効果を詳しく知る龍居松之助の話が紹介されている。その一部を引用しよう。
 「東南の両地境の塀にそって植栽されたシイが所々焼けており中にあるイチョウの如きは9月下旬には既に新らしく芽を出していた。(中略)内庭に入ってみたが、これはまた意外な大損害である。見渡す限り真赤で、庭木の青いものは殆んど無く、下草物が少しずつ青い色をみせてはいるが、それとて数える程である。殊にマツ、カエデの弱いのには呆れるの外なく、マツの如きは島にあるものや池水に接しているものまでまっかである。しかし園の北方から物すごい焔がおそい来った時、これらの庭木が死ぬまで奮斗してここに逃げこんだ人命を救ったことを思えば我々はこのまっかになっている立てる枯木に深く感謝せねばならぬ」(現代かな遣いに改めるなどした)。
 この話からは邸内の庭木が相当な被害を受けたことがわかる。しかも、周囲が鬱蒼とした樹木から構成され、それらが熱風を遮断して内部への流入を防いだことも明確に紹介されている。ここに植えられていた常緑樹の葉は厚く、落葉樹にくらべて多くの水分を含んでいる。木々は葉から水分を蒸発させ、熱を防ぎ、そして、葉は枯れたのである。
 樹木の種類によって異なる耐火性
 この例からもわかるように、樹木、樹林には大きな防火力が期待できる。
 そもそも防火とは、熱源ともののあいだに空間を設けて燃えないようにすることであり、燃焼物の排除と熱の遮断や水などで冷却する消防である。
 そのうち、燃焼物の排除、空間を作る防火対策はすでに奈良時代から意識されていた。天平宝字元年(757)に施行された養老令のなかの第二十二「倉庫令(そうこりょう)」では「凡倉。皆於高燥処置之。側開池渠。去倉五十丈内。不得置館舎」として、倉庫の周りに50丈(約150メートル)の空間を設けて類焼を防ぐための対応が求められている。
 また、樹木による熱の遮断や熱の冷却についてもすでに経験的に意識されていた。各地で見られる生け垣や屋敷林などはその効果を期待したものである。
 そのために植えられた樹木は地域で異なっていた。伊豆地方ではサンゴジュ、関東地方ではアカガシ、スダジイシラカシなど、東北地方ではヒバ、山陰の石見地方ではクロマツなどである。それらの木は「火伏木(ひぶせのき)」と呼ばれた。
 アカガシ
 © 現代ビジネス
 後述の自然教育園内の土塁の上に植えられたスダジイ、アカガシはまさに火伏せの役目を期待したものである。
 スダジイ
 © 現代ビジネス
 また、常緑樹ではないが、消火の働きをしたことがわかっているものもある。神社や寺に植えられたイチョウの大木がそれである。
 火災時に多量の霧や水を降らせ、建物を守ったことから「霧吹きイチョウ」、「水吹き公孫樹」、「火食いの木」などと呼ばれているイチョウが全国各地にある。イチョウは落葉樹であるが、葉が厚く、多くの水分を含んでいることから防火効果を発揮したものである。
 では、樹種の性質によって火に対する強さ(耐火性)は違うのであろうか。
 山下邦博氏は「針葉樹と広葉樹の発火性の相違について」という論文のなかで、多くの樹種で実際の燃焼実験の結果を報告している。それによれば、炎を出して燃える有炎発火の開始温度は、常緑針葉樹が平均400度、落葉広葉樹が500~570度、常緑広葉樹が575~600度であった。
 また、無炎発火の温度ははるかに低く、常緑針葉樹は375~400度、落葉広葉樹は425度、常緑広葉樹は400~465度であった。常緑広葉樹は高い温度でやっと燃えはじめ、常緑針葉樹は他の樹種にくらべてはるかに燃えやすいこと、落葉広葉樹は中間にあることが示されている。
 東京23区内で「本当に安全」な避難場所
 では、どのような状態の森が防火に効果を持つのであろうか。
 関東大震災直後に当時の山林局技官、田中八百八氏が「大正の大地震及大火と帝都の樹園」、河田杰(まさる)・柳田由蔵氏が「火災ト樹林並樹木トノ関係」という報告書を作成している。それらのなかで安全であった避難場所や火に強い樹木、樹林のあり方を考察している。
 これによると、防火の観点からは、常緑樹を主体とした樹林帯で、枝葉が多くあり、階層を作っている森林が望ましいこと、避難場所としては、そのような樹林に囲まれた3万坪(10ヘクタール)以上の面積があると安全と結論している。
 樹木による枝葉の耐火性と熱遮断効果など延焼防止効果に着目した報告である。耐火力は難引火性・難燃性を示すもので、植物の含水量、蒸散力、熱伝導率などが影響する。一方、遮断力は植物の衝立てとしての火の遮蔽効果で、樹形、葉・枝の形、密度など樹木の形状的な特性によって決まる。
 1789年、私たち(福嶋司と門屋健)は関東大震災直後に先の山林局技官により調査された26ヵ所のうち、面積規模と形状を考慮して、数寄屋橋公園坂本町公園、湯島天神神田明神、深川公園、横網町公園築地本願寺浅草公園清澄庭園日比谷公園の10ヵ所を選び、現在の面積、樹林の現状、樹種などを調査して現状の防火力を診断し、「樹木の構成と配置からみた都市公園の防火機能に関する研究」として報告した。
 それによれば、耐火性、遮断力を総合評価して避難場所として安全と判定できたのは日比谷公園清澄庭園だけで、多くの人が亡くなった横網町公園、深川公園、築地本願寺浅草公園などは依然として不安な状態であることが判明した。
 また、その後、東京23区全域の防火力診断と避難場所になると考えられる場所を抽出するために「東京二三区内の樹林の防火力分布図」を作成し、診断を試みた。図はその結果の一部である。
 東京23区の防火力分布図の一部。中央部皇居から西に、東宮御所新宿御苑明治神宮など緑色で表示された大規模な森が見られる
 © 現代ビジネス
 緑色が樹林で黒が不燃建物地域、褐色が可燃建物地域、黄色が樹林を多く持つ住宅地である。この図の中央部に緑色の皇居があり、かつての大名屋敷や寺院などの大きな森の緑が見られる。その周りは不燃建物の黒が取り巻いているが、離れるに従い褐色の可燃建物地域が広がっている。
 山手線の内側と周辺には昔の藩邸跡、神社仏閣などの大規模な緑地があり、避難場所としての効果が期待できる反面、北区、荒川区練馬区、中野区、杉並区、大田区などでは森が少なく、あってもその面積が小さいため安全な避難場所となり得る緑地が少ないこともわかった。
 地震の二次災害として発生する火災では、家屋や電柱の倒壊により道路は遮断され、水道設備は使えなくなる可能性が高い。その場合、これらの植物や森が防火力を発揮することはまちがいない。
 公園や街路樹では美しさを求めてか、落葉対策か、あるいは電線に触れるからか、理由はさまざまだが、樹木の枝が剪定されていることが多い。枝の剪定は防火力の低下にもつながることを知り、どのような樹木配置と剪定方法が防火力発揮のために効果的なのかを考える必要があると強く思う。
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⚡41】─9─日本市場で売れる家電は中国や韓国のメーカーであって日本メーカーではない。〜No.209No.210 ㉖ 

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 賢い日本人消費者は、同じ性能であれば値段の安い日本メーカーより中国や韓国のメーカーを選ぶ。
 日本メーカーは、日本人消費者に嫌われ売れなくなった為に、白物家電を中国や韓国の国際メーカー売って撤退している。
 日本市場には、中国製・韓国製そして台湾製が溢れ日本製は減少している。
 現代の日本メーカーが作る似たり寄ったりで変わり映えしない平凡な日本製には、昔の地方色の強かった日本企業が作ったいイノベーションとリノベーションに満ちていた日本製品ほどの魅力がなく、それ故に世界はもちろん日本人からも買ってもらえない。
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 2023年5月30日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「日本の「薄型テレビ販売1位」中国メーカーの正体 東芝テレビ事業買収、シャープと明暗分かれる
 浦上 早苗
 ハイセンスの薄型液晶テレビ(撮影:尾形文繁)
 © 東洋経済オンライン
 シャープの2023年3月期連結決算が、台湾の鴻海精密工業(ホンハイ)に買収された2016年以来6年ぶりの赤字に転落した。
 【写真】取材に応じるハイセンスの李文麗社長
 そのシャープを抜いて薄型テレビの国内シェアで初めて首位に立ったのが、2018年に中国の家電大手ハイセンスグループの傘下に入ったTVS REGZA(旧東芝映像ソリューション)の「REGZA(レグザ)」だ。
 シャープと相乗効果が発揮できない鴻海に対し、ハイセンスグループはハイセンスジャパンとレグザが協力体制を築いて日本のテレビ市場でシェアを3割超に伸ばしており、明暗が分かれている。
 レグザ買収で上昇気流に
 「家電王国の日本で知名度ゼロからスタートして、ようやく3分の1のシェアを取るところまで来た」
 ハイセンスが日本でテレビ販売を始めた2011年以来、日本メーカーの高い壁と戦い続けてきた李文麗社長は達成感をにじませた。
 調査会社GfKジャパンの2022年(1~12月)の市場規模データ(販売台数実績を基に推計)によると、日本の薄型テレビ市場において、ハイセンスのシェアは前年比1.4%ポイント上昇し9.3%。東芝とレグザは合わせて同3.4%上昇の23.6%。これらのハイセンス傘下を合計すると、33%のシェアだった。
 李文麗(りぶんれい)/1972年生まれ、中国・青島出身。95年、青島大学電子工学科卒業、Hisense国際有限公司入社。2001年、Hisense USA、03年、Hisenseオーストラリア、07年、Hisenseヨーロッパ、11年、Hisense韓国オフィス、ハイセンスジャパン代表取締役社長・CEOに就任。51歳
 © 東洋経済オンライン
 転機は2018年。ハイセンスが債務超過に陥っていた東芝のテレビ事業を129億円で買収し、技術革新に共同で取り組んだ。原材料の調達や製造を統一し、レグザはコストを削減しながら、新商品の開発やマーケティングに資金を投入できるようになった。
 一方ハイセンスはレグザと映像エンジンを共同開発し、画質を大きく向上させた。李社長は「ハイセンスは日本市場において、日本の画質基準に合致する唯一の海外ブランドになった」と胸を張る。
 レグザに比べると知名度が劣るハイセンスブランドは、同社が得意とするスポーツマーケティングで認知拡大を図っている。
 2018年、2022年とサッカーワールドカップの公式スポンサーに就き、日本では三浦知良選手をアンバサダーに起用、調査会社イプソスによると、日本での認知度は2021年の38%から2022年には43%に上昇した。
 スポーツマーケティングでは各国人気の競技とタイアップする現地化を進めており、2023年はプロ野球横浜DeNAベイスターズのスポンサーに就任、WBC優勝で一段と盛り上がる野球人気を追い風に消費者への浸透を図っていく。
 「海外ブランドに不安を持つ消費者と、商品を扱う販売店に少しでも安心してもらう」(李社長)ために、商品にはほかのメーカーより長い3年保証をつけている。こうした努力が徐々に実を結び、ハイセンスブランドも販売台数のシェアでパナソニックソニーと3位争いをするところまできた。
 「日本ブランド」気にしない若年層取り込む
 アメリカ、オーストラリア、ベルギー、韓国勤務を経て日本のトップに着任した李社長は、「日本の家電メーカーが1980年代から世界的ブランドとして君臨する中で、日本人消費者の品質への要求も世界トップレベルになり、日本市場は海外ブランドにとって難易度が高い市場」と指摘する。
 2000年代に入ると日本メーカーの勢いは弱まり、レグザ、シャープ、三洋電機白物家電などが中台メーカー傘下に入ったが、それでも「全体でみると日本の消費者の日本ブランド志向は依然として高く、日本ブランドしか使いたくないという人も多い」(李社長)。
 ハイセンスは薄型液晶テレビ以外にもさまざま手がけている(撮影:尾形文繁)
 © 東洋経済オンライン
 ただ、若年層はブランド選択で国を気にする傾向が薄れ、中国ブランドも以前より受け入れられるようになっているという。
 ハイセンスグループはレグザを「収入が比較的高い年配消費者向けのミドル~ハイエンドブランド」、ハイセンスを「コスパを重視する若い消費者向けのミドル~ハイエンドブランド」と区分して展開しており、ネットやSNSの口コミで情報を入手・比較して商品を選択するZ世代の台頭が、ハイセンスのシェア拡大の一因になっている。
 ハイセンスグループの躍進は日本市場にとどまらない。調査会社Omdiaによると、グローバルでの同グループの2022年テレビ出荷台数は前年比16.1%増加の2454万台で、前年の4位から2位に順位を上げた。
 鴻海がシャープを買収した2016年には、シャープがハイセンス向けのテレビ用液晶パネル供給を9割削減し、大きな打撃を与えると報じられたが、当時の事情を知る関係者は「調達先を変えて対処し、まったく影響はなかった」と振り返る。
 日本市場の重要性
 李社長は「日本ではレグザから引き継いだテレビと、新たに立ち上げた白物家電の2つの開発センターで技術者約160人が日本市場の要求をクリアする技術開発に取り組んでおり、グループ全体の底上げにつながっている」と、日本の重要性を強調した。
 李文麗社長(撮影:尾形文繁)
 © 東洋経済オンライン
 ただ、テレビ市場の縮小という逆風はどのメーカーも逃れられない課題だ。スマートフォンタブレットなど動画を見る端末とコンテンツ配信の双方が多様化し、テレビは必需品とは言えなくなりつつある。
 2020~2021年は新型コロナウイルスの流行による巣ごもり需要でテレビ市場が伸びたが、買い替え需要を先食いした側面もあり、2022年以降は反動減が続くと見られている。
 李社長は、「当社は2023年の日本のテレビ販売台数が510万台と、2018年の水準まで減ると予測している」と分析しつつ、「一方で2023年の販売金額は2018年から18.6%上昇し4680億円を見込んでいる。ゲーム、フィットネスなど『テレビ番組を見る』以外の使い方が広がり、高機能、大画面を求める消費者が増えるためで、将来的には遠隔診療などにも利用されるだろう。多様な利用シーンに応じた進化を遂げれば、まだまだ伸ばすことができる」と自信を示した。
 製造業、とりわけ家電分野は日本メーカーの退潮が鮮明だが、李社長は「最終製品の生産は中国、韓国、将来的には東南アジアにシフトしていくだろうが、購買や技術協力を通じて、日本の技術力は以前と変わらずすばらしいと思っている」と評価する。
 ハイセンスの日本人技術者は、日本市場だけでなくヨーロッパ、アメリカ、中国などグローバルで展開する先端技術の開発にも取り組んでおり、「一般的に知られにくい部分だが、部品など原材料の技術力は中国企業が及ばないところがある。日本メーカーはより付加価値の高いハイテク技術、産業にシフトしていくべき」と提言した。
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🌌32}─2─日本の海岸は中国や韓国・北朝鮮のゴミで汚染されてきている。~No.146No.147No.148 @ 

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 日本人が捨てた大量のプラごみは、太平洋に流れ出している。
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 昔の日本は、伝統文化として自然を大切に守っていた。
 現代の日本は、口と裏に自然を大切にせず、経済発展や生活向上の為に自然を破壊している。
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 日本は、古代から中国大陸や朝鮮半島のゴミで汚染されてきている。
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 2019年10月4日 産経新聞「海岸漂着、プラごみ半数超 29年度、環境省10地点調査
 環境省は4日、海岸の漂着ごみに関する平成29年度抽出調査の結果を公表した。個数でみると、北海道・函館、長崎・五島など全国10地点全てで、ペットボトルやレジ袋、漁具といったプラスチックごみの割合が半数を超えた。調査地点は異なるが、28年度と傾向は変わらず、プラごみの海洋流出が続いている実態を裏付けた。
 プラごみは、ほかに発泡スチロール、食品トレー、包装袋などがあり、海流に乗って流れ着く。調査によると、東京・八丈島と宮崎・日南はプラごみの割合が90%を超え、山形・遊佐、松江、五島の3地点も80%を上回った。
 兵庫・淡路など6地点は、ペットボトルごみの割合が最も高かった。ラベルを言語別に分類した結果、八丈島、五島、日南の3カ所は、中国や韓国などの外国語表記が半数以上を占めた。」
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 2023年5月26日 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ中韓からの〝漂着ゴミ〟賠償を請求せよ! 日本の海岸線が汚染、大宣伝する「海洋強国」の厚顔無恥「見つからなければケンチャナヨ
 長崎県対馬の海岸には、韓国の生活ゴミが大量に漂着している
 韓国の最大野党「共に民主党」を中心とする「反日左翼」勢力は飽きることなく「放射能怪談」を叫んでいる。その一方、プラスチックゴミなど韓国の海洋投棄により、日本の海岸線が汚染されている事実に関して、彼らは何も語らない。
 【写真】アニメの聖地「ラピュタの島」友ケ島の海岸に打ち寄せた漂着ごみ
 山口県日本海側に流れ着くゴミについて、テレビ山口が報じていた(5月21日)が、その記事を読んで驚いた。韓国の海洋投棄に対しては何ら批判することなく、地元の回収ボランティアの活動を称賛するばかりなのだ。
 日本に漂着するゴミ問題は、韓国や中国に強く抗議しない日本側にも相応の非があると思わざるを得ない。
 海洋のゴミには、日本人が投棄したものもある。先日も海上保安士が船内で調理した魚の内臓や骨を海に捨てたとして書類送検された。魚の内臓や骨なら、別の魚のエサになり、骨は微生物により分解されるだろう。
 が、プラスチックゴミや重金属はそうはいかない。
 日本海側の漂着ゴミの8割は「外国発」と環境庁は見ている。中国の投棄物は九州西海岸、韓国発は日本海側だ。
 韓国政府は長らく、島根県竹島の南西の日本の排他的経済水域EEZ)を人糞・家畜糞尿、その他の産業廃棄物の「投棄海域に指定」して、投棄を続けてきた。
 朝鮮日報(2008年2月12日)は、こう正直に伝えている。
 「1988年に55万立方メートルだった投棄量が、2007年はその13・5倍にまで急増した」
 「汚物を海に捨てるのは、輸送費以外の処理費用が掛からないからだ」
 海洋へのゴミ投棄を禁じるロンドン条約に韓国が加盟したのは1993年のことだった。しかし、必要な立法など国内手続きを進めなかった。ようやく国内手続きが完了したのは、加盟から22年も過ぎた2015年末だった。
 その間、韓国は国際舞台で「海洋強国」とか「グリーン大国」と大宣伝を続け、12年のロンドン条約総会では副議長国の座に就いた。「厚顔無恥」とか「鉄面皮」では言い足りない。
 国内手続きが完了したので海洋投棄はなくなったのか。とんでもない。長崎県対馬や山陰の海岸線をみれば明らかなことだ。時期によっては、塩酸や過酸化水素水の容器が大量に押し寄せる。どちらの薬品も天然塩の生産や、海苔の養殖に使われる。塩や海苔の生産には使ってはならないことになっているが、「見つからなければケンチャナヨ(大丈夫)」なのだろう。
 そして、空の容器が大量に溜まったところで、船に積み込み、対馬海流にドボンとしか想像できない。
 「政府は禁止したが、民間のことは…」とは、韓国政府のお得意のセリフだ。民間の脱法行為を取り締まるのは政府の責任だという、法治主義の感覚が薄いのだ。
 こうした韓国に対して、日本政府は環境相会談で〝愚痴〟めいた話をしたことはある。が、「厳重抗議」をしたことはない。
 まずは「正真性がこもった謝罪」を求め、回収・リサイクル費用に、景観を損ねたことに対する慰謝料を合わせた「賠償金」を請求するべきだろう。(室谷克実)
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📉4】─2─日本のブラック学校の深すぎる闇の正体は全体主義(マルクス主義)。〜No.7 ① 

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 2023年5月26日 MicrosoftStartニュース 現代ビジネス「日本の学校の「深すぎる闇」…私たちが「理不尽なこと」を受け入れてしまう「根本原因」の正体
 内藤 朝雄
 なぜ日本の学校から「いじめ」がなくならないのか? 学校と社会はどう違うのか? どうすれば解決するのか?
 「多くの人が意外と知らない『学校』とはなにか…『いじめ』が生まれる『深刻な構造』とは」につづき、いじめ問題の第一人者・内藤朝雄氏がさらなる分析を展開する。
 (※本稿は現代ビジネス編『日本の死角』を一部再編集の上、紹介しています)
 なぜ日本の学校から「いじめ」がなくならないのか…たった2つの「シンプルかつ納得の理由」
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 全体主義が浸透した学校の罪と罰
 学校は「教育」「学校らしさ」「生徒らしさ」という膜に包まれた不思議な世界だ。その膜の中では、外の世界では別の意味をもつことが、すべて「教育」という色で染められてしまう。そして、外の世界のまっとうなルールが働かなくなる。
 こういったことは、学校以外の集団でも起こる。
 たとえば、宗教教団は「宗教」の膜で包まれた別の世界になっていることが多い。オウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。
 また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年にあさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、同じかたちの膜の世界がみられる。
 そこでは、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。
 学校も、オウム教団も、連合赤軍も、それぞれ「教育」「宗教」「共産主義」という膜で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界をつくっている。そして外部のまっとうなルールが働かなくなる。よく見てみると、この三つが同じかたちをしているのがわかる(図1)。
 日本の学校の「深すぎる闇」…私たちが「理不尽なこと」を受け入れてしまう「根本原因」の正体
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 このようにさまざまな社会現象から、学校と共通のかたちを取り上げて説明するとわかりやすい。あたりまえすぎて見えないものは、同じかたちをした別のものと並べて、そのしくみを見えるようにする。たとえば、学校とオウム教団と連合赤軍をつきあわせて、普遍的なしくみを導き出すことができる。
 なぜ「理不尽」を受け入れてしまうのか
 こうして考えてみると、学校について「今まであたりまえと思っていたが、よく考えてみたらおかしい」点が多くあることに気づく。
 これらのポイントに共通していえるのは、クラスや学校のまとまり、その場のみんなの気持ちといった全体が大切にされ、かけがえのない一人ひとりが粗末にされるということだ。全体はひとつの命であるかのように崇拝される。
 この全体の命が一人ひとりの形にあらわれたものが「生徒らしさ」だ。だから学校では、「生徒らしい」こころをかたちであらわす態度が、なによりも重視される。これは大きな社会の全体主義とは別のタイプの、小さな社会の全体主義だ(図2)。
 日本の学校の「深すぎる闇」…私たちが「理不尽なこと」を受け入れてしまう「根本原因」の正体
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 大切なことは、人が学校で「生徒らしく」変えられるメカニズムを知ることだ。それは、自分が受けた洗脳がどういうものであったかを知る作業であり、人間が集団のなかで別の存在に変わるしくみを発見する旅でもある。
 ある条件のもとでは、人と社会が一気に変わる。場合によっては怪物のように変わる。この人類共通のしくみを、学校の集団生活が浮き彫りにする。
 学校の全体主義と、そのなかで蔓延しエスカレートするいじめ、空気、ノリ、友だち、身分の上下、なめる―なめられる、先輩後輩などを考えることから、人間が暴走する群れの姿を明らかにすることができる。学校という小さな社会の全体主義とそのなかのいじめを考えることから、人間の一面が見えてくる。
 わたしたちは長いあいだ、学校で行われていることを「あたりまえ」と思ってきた。あたりまえどころか、疑いようのないものとして学校を受け入れてきた。
 だからこれを読んだ読者は、「こんなあたりまえのことをなぜ問題にするのだろうか」と疑問に思ったかもしれない。だが、その「あたりまえ」をもういちど考え直してみることが大切だ。
 理不尽なこと、残酷なことがいつまでも続くのは、人がそれを「あたりまえ」と思うからだ。それがあたりまえでなくなると、理不尽さ、残酷さがはっきり見えてくる。逆にあたりまえであるうちは、どんなひどいことも、「ひどい」と感じられない。歴史をふりかえってみると、このことがよくわかる。
 これを読んで心にひっかかっていたものが言葉になったときの、目から鱗が落ちるような体験を味わっていただければと思う。
 なぜ日本の学校から「いじめ」がなくならないのか…たった2つの「シンプルかつ納得の理由」
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 5月26日 MicrosoftStartニュース プレジデントオンライン「『こころ』も『羅生門』も不要なのか…高校国語で"文学"がどんどん減っていくことの大きすぎる弊害
 齋藤 孝
 ※写真はイメージです
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 文学はビジネスの役に立たないのか。明治大学教授の齋藤孝さんは「文学が非実用的・不要不急だというのは残念な誤解だ。文学は仕事に必要な『人の気持ちを読み取る力』を育てることができるものだ」という――。
※本稿は、齋藤孝『格上の日本語力 言いたいことが一度で伝わる論理力』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
 高校現代文が「文学国語」と「論理国語」に分かれる
 文学というと「非実用的」「不要不急」というイメージを持ってしまう方が少なくないようです。これはとても残念な誤解です。
 その誤解が、いま国語教育の現場でも広がっています。高校の現代文の領域では、契約書や自治体の広報といった実用文の読解を中心とする「論理国語」と、これまでのような小説などを中心とした「文学国語」に分かれ、大学入試や単位システムの問題から、ほとんどの生徒が「文学国語」を取らず、「論理国語」のみを学ぶことになるのではないか、と危惧されています。
 これは文部科学省が2018年に告示し、2022年春にスタートした新学習指導要領にもとづいた政策です。
 こうした選択制がはらむ危険性はきわめて高いと考えます。というのも、選択しなくて済むなら生徒は自分の苦手な科目は勉強しなくなってしまうものだからです。論理国語のみを選択すれば文学国語は弱くなり、文学国語のみを選択すれば論理国語が弱くなるのは必然です。私は、「論理国語」と「文学国語」を選択制にするのではなく、これまでのように高校1年では「国語総合」を必修とした上で、2年生以降で、発展的な内容を学ぶ際も、文学的テキスト、評論文、古典など満遍なく読むようにすべきだと思います。
 実用的な文章が必要なら、加えればいい
 もし実用的な文書を読む力や、社会の中で起きていることに対応していくことがより必要だ、というなら現状の国語の中にそういう部分を加えれば良いわけです。文学的な文章と、実用的な文章を分け、ゼロかイチかを迫るような必要はありません。
 思い起こすのは、1990年代から高校で本格的な理科・社会の科目選択制が採り入れられた失敗例です。たとえば、1970年頃までは普通科に通う高校生の9割が物理を履修していましたが、現状は1割台に低下しています。
 学校というのは本来、家庭ではうまく継承することのできない、文化的に非常に価値のある「文化遺産」を継承していく場所なのです。物理学という、人類の智が集められた文化遺産を、高校生の8割以上が勉強することなく卒業していくのは由々しき事態です。国民のほとんどが「物理」の何たるかを知らないのに、「科学立国」を唱えてもムリがあります。
 同じように、数学も文化遺産ですし、国語においても『源氏物語』や漢文、そして夏目漱石に代表される近代文学文化遺産です。生徒に得意分野だけをつまみ食いさせるのではなく、すべてを必修で学ばせるべきです。
 国語が「心を強くする」役割を担ってきた
 もし教育政策を決めている人たちが、「文学」は実用的ではないと考えているなら、実用的とか社会で役に立つ、ということをあまりに安易に考えすぎていると思います。
 いま日本社会で求められている力は、パソコンの取り扱い説明書を理解したり、お客さんの注文にマニュアル的に応えたりする、といった能力ではありません。そういったAI(人工知能)にまかせられるような能力ではなく、インターネットで「検索」しても出て来ないような、「想定外」の状況にどう柔軟に対処していけるかどうか、という「生きる力」です。その土台となるのが「心の力」なのです。
 心が弱ければ、どんな仕事も長続きしません。逆に心が強ければ、失敗をしてもそこから学び、仕事を覚えていくことができます。心を強くするのは、道徳だけでは担いきれません。そもそも高校に道徳は、教科としては存在しないのです。これまでその分野を担ってきたのが、実は国語だと私は思っています。夏目漱石の『こころ』や芥川龍之介の『羅生門』や中島敦の『山月記』を読むことで、人間の心の複雑なメカニズムを学び、心の基礎体力をつけることができるのです。
 仕事のできる人は「人の気持ちがわかる」
 仕事をする上で、国語力は非常に役にたちます。というのも、仕事で重要なことは、相手の感情の動きをとらえることだからです。会議の中でも、いまこの人の心情は賛成に傾いているのか、反対に傾いているのか、様々な心理的要因を汲み取りながら、その場で臨機応変に読み取ることができない人は仕事が不自由になります。
 売る側から買うお客さんの側に、立場を変換して考えてみたり、柔軟に提案の仕方を変えてみたり、といったことは、これからますます大切になってくる「コミュニケーション力」の基礎です。コミュニケーションの基礎になるのは、「人の気持ちがわかる」ということです。
 「ああ、こういうことを言うと、人は傷つくんだな」とか、「今この人はこんな表情をして、言葉では表面上こんなことを言っているけれど、内心はこうなんだろうな」とか、心の繊細な部分を感じ取るのは文学の専門なわけです。
 そうしたことは契約書や会議の議事録では勉強できません。すぐれた文学は、読者の目の前で事態が同時進行的に動いていくわけですから、まさに「生きた教材」なのです。
 これまでも「想像力」を育てる試みは行われていた
 もちろん、新学習指導要領の「問題発見、解決能力」「提案力」といった部分をより強化しなければならない、という方向性は間違っていないと思います。そして問題発見や、提案をするための前提となるのが、「想像力」です。
 ただ、そこはこれまでも授業の中で色々な試みが行われてきたのです。たとえば『羅生門』のラストは、「下人の行方は、誰も知らない」となっていますが、「その先がどうなるか、続きを考えてみましょう」とか、森鴎外の『高瀬舟』を読んで、この時代から安楽死が問題になっていたんだ――、どうすべきか自分なりに考える、といった授業も可能でしょう。あるいは新聞を題材に、実用的な日本語を読解し、論点を見出すような授業も実践されています。
 しかし、そうした問題発見・提案型の取り組みが今ひとつ目立たなかったのは、主観的な部分が含まれるので採点がしにくく、入試には馴染みにくかったからです。
 架空の高校の「生徒会の規約」を読み解く例題
 2021年から、大学入試センター試験に代わり、「大学入学共通テスト」がスタートしました。国語の出題方法も大きく変わると見られていましたが、小説作品が2年連続で出題されたことは歓迎すべきでしょう。しかし本番に先立って行われたプレテスト(試行調査)を見る限り、実用的な志向が強く打ち出されています。たとえば架空の高校の生徒会の規約を読み解き、その規約を改めようとする生徒と教師の会話をもとに、記述式の解答をする、といった例題が出されました。
 では、こうした問題作成の方向性は、論理的思考力を測り、実践的な日本語運用能力を高めることにつながっていくのでしょうか?
 試験というのは、それが何の力を測るためか、ということ以上に、その試験に向けてどんな準備をすればよいかが明確になっていることが必要です。私は大学の新入生に毎年聞いていますが、彼らは全員これまでのセンター試験はよくできていて、それに向けてどんな対策が必要かは分かっていた、と答えます。しかし、共通テストの問題点は、それに向けて準備をするのが難しいということです。また、「現代国語」しか教えたことのない国語教員の間では、「論理国語」に対する当惑が広がっている、というのが本当のところではないでしょうか。
 文化遺産の継承という役割が疎かになる
 単に、PISA型学力に対応しなければならない、といった場当たり的な出題では、予備校的な受験対策で簡単に見切られてしまい、生徒はそのマニュアルだけを覚えていくことになっていくかもしれません。あるいは学校現場も共通テストの出題をにらみながら、より得点を取りやすいよう教える中身をシフトさせていく、といった可能性もあります。それでは、本当に日本語能力を高めるのとは、むしろ逆行することになります。
 漱石や鴎外のような文豪の作品、あるいは『源氏物語』や『枕草子』のような古典的な作品は、作者の人格の大きさ、文学世界の広さから来る「凄み」があります。現代的な話し言葉に近づいた文章ばかりが教科書に載るようになると、離乳食のようになってしまいます。ましてや、契約書のような、誰が書いたかもわからないような文章ばかりを読まされるようになると、国語が担ってきた文化遺産の継承という役割がきわめて疎かになる。そこを、私はいちばん危惧しています。
 国語力を高めるためには、「文は人なり」を実感できるテキストが大切なのです。

                    • 齋藤 孝(さいとう・たかし) 明治大学文学部教授 1960年静岡県生まれ。東京大学法学部卒業後、同大大学院教育学研究科博士課程等を経て、現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。ベストセラー作家、文化人として多くのメディアに登場。著書に『孤独を生きる』(PHP新書)、『50歳からの孤独入門』(朝日新書)、『孤独のチカラ』(新潮文庫)、『友だちってひつようなの?』(PHP研究所)、『友だちって何だろう?』(誠文堂新光社)、『リア王症候群にならない 脱!不機嫌オヤジ』(徳間書店)等がある。著書発行部数は1000万部を超える。NHK Eテレにほんごであそぼ」総合指導を務める。 ----------

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 5月26日 YAHOO!JAPANニュース Forbes JAPAN「日本の教育現場が「ブラックすぎる」と言われるわけ
 日本の教育現場が「ブラックすぎる」と言われるわけ
 今年度の始業時点での教員不足は、小学校で20.5%、中学校で25.4%にものぼる
 教育は、将来を担う若者を育成するうえでとても重要な役割を担っている。
 日本の教育制度は海外で評価され、実際にエジプトで導入されている一方で、国内では教員に関する多くの問題が山積みになっている。
 今回は、日本の教育現場にどんな問題があるのか解説していく。
■教員不足が顕著
 末冨芳・日本大学教授らの共同調査によると、今年度の始業時点で教員不足が生じている割合が、小学校では20.5%、中学校では25.4%にも上ったそうだ。
 不足している教員の穴は、本来学級担任でない教員を充てたり、教科の免許を臨時で発行し対応したりしているとの回答が多かった。
 こういった状況が続けば、教育の質の低下は免れず、学校教育の在り方自体が問われるようになるかもしれない。
■残業が多すぎる
 教員不足の要因の1つとして、労働環境がブラックな傾向にあり、新しく教員を目指す人が減ってきていることがあると考えられる。
 文科省が令和4年度に実施した調査によると、国が残業の上限として示している月45時間を超えて残業している教員は、中学校で77.1%、小学校で64.5%もいるようだ。また「過労死ライン」と言われる月80時間の残業に相当する可能性のある教員は、中学校で26.6%、小学校で14.2%もいる。
■過去には過労で亡くなった教員も
 今から17年前には、過労により亡くなった教員もいる。その教員は当時、生徒指導専任を始め17にも及ぶ業務を担当しており、その中の半分は「責任者」だったようだ。亡くなる1カ月前の時間外労働は、なんと208時間にも及んでいた。
 この教員の妻は、TBSの取材に対し、今も教員の長時間労働が変わらない現状を見て「今もまったく同じことが起きている。働き方をちゃんとしないといけないと思う」と話している。
■コロナ禍が終わり事態はさらに深刻に?
 こうした状況に対し、教員の働き方に詳しい立教大学の中原教授は、NHKのインタビューで「教員の勤務時間が異常に長く、現場で取り組むには限界が来ている」と指摘。今後は、国が法律や仕組みを整えて変革を進める必要があると話している。
 コロナ禍が終わり中止していたイベントが復活することで、教員の勤務時間がさらに増加するリスクもある。
 教育の質の低下の影響
 教員の問題は長年指摘されてきたが、未だにその多くが改善されていない。
 結果として教員不足が深刻化し、将来を担う子どもたちが適切な教育を受けられなくなる可能性が高まっている。
 学校教育は日本の未来を支える重要な役割を担っているため、多くの人が教員を目指すよう、国はより力を入れて制度の改善に取り組まなければならない。
■教員の部活動の負担軽減
 国は、教員の部活動に関する負担を軽減する目的で、休日の部活動の指導を地域のスポーツクラブに移行する取り組みを始めている。
 部活動の指導の時間を減らしたいと考えている教員は57.2%おり、地域社会や民間企業に部活動をゆだねるべきだと考えている教員も51.2%いる。
 ただ、地域への移行によって金銭的な負担が増え、スポーツを続けることができなくなるという生徒もおり、経済的な問題に対する解決策も模索する必要がある。
■日本の未来のために
 教員の労働環境を改善するためにはどうすればよいのか、また、教員志望者を増やすにはどのような施策が必要なのか。
 日本の未来のために、国を挙げて向き合わなければならない。
【参考】
朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASR5B4R91R5BUTIL01K.html
NHK
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230428/k10014052081000.html
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230428/k10014051861000.html
参議院
https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2019pdf/20191101018.pdf
・TBS NEWS DIG
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/461965?display=1
・ベネッセ教育総合研究所
https://berd.benesse.jp/up_images/research/Sido_SYOTYU_05.pdf
 ※この記事は、2023年5月にリリースされた「エシカルな暮らし」からの転載です。
 エシカルな暮らし
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🦋5〗─3─日本の製造業は過度な価格競争を選択して地盤沈下した。1990年代。~No.13 

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 2023年5月25日 YAHOO!JAPANニュース 東洋経済オンライン「日本企業の「付加価値ビジネス」は限界なのか、過度な価格競争が招いた「製造業」の地盤沈下
 製造業が行ってきた「付加価値ビジネス」は日本経済の屋台骨だった(写真:cba/PIXTA
 日本経済の衰退が叫ばれて久しい。とりわけ、製造業の地盤沈下が進んでいる。製造業大国・日本が世界を席巻していたのは1980年代のことだ。
 UNCTAD(国連貿易開発会議)によれば、日本の世界の貿易における輸出総額のシェアは、1985年には9.01%で世界3位だったものの、2022年には2.99%と5位まで低下している。
 なぜ日本の製造業は衰退してしまったのか。その理由として、少子高齢化や海外戦略の失敗、労働生産性の低下などが挙げられるが、いずれも的確な答えになっているとは思えない。
 そもそも、日本の製造業では、資源に乏しい日本特有のスタイルが確立されていた。素材を海外から輸入し、付加価値の高いものづくりによって利益を上げていた。いわば「付加価値ビジネス」とも呼ばれる産業構造になっていた。
 その付加価値ビジネスが徐々に機能しなくなり、企業の稼ぐ力が衰退。日本の製造業が苦難に陥っている、と言ってよいだろう。モノやサービスがあふれている現代では、商品の付加価値が高くなければ価格競争で勝負するしかなくなる。そのため、日本は国内外で価格競争に陥りがちとなり、その結果、30年にわたるデフレ経済を強いられてきた。
 なぜ、日本企業が稼ぎ出す付加価値は少なくなってしまったのか。そもそも企業の付加価値とは何なのか。日本の得意としてきた「付加価値ビジネス」について検証してみよう。
■企業の付加価値とは何か
 もともと企業の付加価値額の計算方法は、「加算法(日銀方式)」や「控除法(中小企業庁方式)」など数多くの計算方法があり、統一されていないのが現実だ。たとえば、経済産業省の「企業活動基本調査速報(2021年実績)」でも付加価値額が算出されている。同調査対象の企業(約3万3700社)の売り上げは702.5兆円、付加価値額は136.3兆円だった。同調査の付加価値額は次のような計算式で求められている。
●付加価値額=営業利益+給与総額+減価償却費+福利厚生費+動産・不動産賃借料+租税公課
 企業会計上の「粗利益(売上総利益)」に似ている概念だが、商品やサービスの売り上げから仕入れなどに要した費用や人件費、諸経費などを差し引いたものと考えればいい。高い成長率を達成している企業の多くは、この付加価値額(粗利益)が成長とともに増えていくのが普通だ。
 一方、中小企業庁の控除法は、売上高から経費を差し引いた金額を付加価値額として算出する。
●付加価値額=売上高-外部購入価値
 これを言い換えれば、売上高を増やして経費をカットすれば企業の付加価値はアップすることになる。日産自動車を短期間で立て直したカルロス・ゴーン元CEOのような経費カットが、付加価値向上の切り札と思われてきた。
 人件費がカットされて、給料の高い正規社員が減少し、非正規雇用者が急増。さらに売上高を増やすために、価格競争に参入する企業が主流を占めた。その結果、日本は海外の格安の労働力に頼ることになり、日本の製造業の多くは生産拠点を海外に移すことになる。
■付加価値創造の切り札はイノベーション
 日本は、商品開発や新しいサービスの開発で付加価値を高めるのではなく、海外の格安な労働力でモノを作って、より安い価格で商品を提供するほうを選択してしまった。ユニクロダイソーが格安のビジネスモデルを展開し、日本企業の多くが価格競争への参加を強いられた。これが、デフレの原因のひとつと言ってもよいのかもしれない。付加価値をつけるか、価格で勝負するかが、ここ30年の選択の分かれ目だったというわけだ。
 その点、ドイツやオランダなど欧州企業は、いたずらに価格競争に参加せずに、商品やサービスの付加価値を上げることで生き残ってきた。日本は、IT社会の到来やデジタル化といった「メガトレンド」に乗り遅れることが多かった。自動車産業も、ガソリン車からEV(電気自動車)にシフトしなければいけなかったのに、ハイブリットという技術でガソリン車に固執してしまったために、EVというメガトレンドに乗り遅れつつある。
 要するに、付加価値を創造する最もオーソドックスな方法は、価格競争や目先の付加価値をつける変革ではなく、新しいイノベーションにいかに乗り遅れないか。「付加価値創造=イノベーションだ」と言っていいかもしれない。
 日本の付加価値創造力のなさはデータに如実に表れている。日本生産性本部が発表した「労働生産性の国際比較」によると、日本の時間あたりの労働生産性(就業1時間あたりの付加価値)は49.9ドル(2021年OECD調べ、購買力平価換算)。85.0ドルの労働生産性があるアメリカの6割程度しかなく、OECD加盟国38カ国中、第27位となっている。
 年間の労働生産性(就業者1人あたりの付加価値)でも、日本は8万1510ドル(818万円、2021年、同)しかなく、ポーランドハンガリーといった東欧諸国と同程度。順位も1970年以降で最低の29位。従業員1人の付加価値を稼ぎ出す労働生産性が確実に低下していることを物語っている。
 日本では最近になって働き方改革が注目されるようになったが、労働時間に制限を設け、少ない労働時間で高い生産性を生み出すシステム作りをしなければならない。例えばドイツでは、平日の労働時間を理由のいかんにかかわらず最長でも10時間までに制限している。OECDの中では、最も少ない労働時間だ。
■ドイツに大きく遅れた日本の製造業
 ドイツは、日本の製造業を語るときによく比較される対象国のひとつだ。現在日本はGDP世界3位だが、4位のドイツとの距離は急激に縮んできている。このままでは、追い抜かれてしまう可能性が高い。
 なぜ日本はドイツに抜かれようとしているのか。日本は大企業に比べて中小企業の生産性が低く、日本全体の地盤沈下に拍車をかけている。一方、ドイツでは従業員が500人以下の中小企業が国際競争力をつけて世界で活躍している。
 日本の製造業が衰退しつつある中で、ドイツはいまも製造業大国の地位を確保している。冒頭で示した世界の輸出シェアでも、ドイツは6.6%(2022年)程度を維持している。中国の台頭(同14.4%)が著しく、シェア自体は下げたものの欧州共同体(EU)の中心的な地位はゆるぎない。
 ドイツは長年、「独り勝ち」という指摘をされてきた。かつて日本は、ドイツに比べて人口や企業数、GDPのいずれも約1.5倍程度だった時代があった。しかし、現在のドイツは、年間労働時間が日本の3分の2しかないのに賃金は日本の1.5倍もある。
 この理由を、日本と異なり価格競争に関心を示さなかったからだと指摘する人は多い。家電やカメラ、時計、スマホなどの製造から撤退。日本のように既存製品の生産に執着せず、韓国や中国といった新興勢力と価格競争もしていない。その分、ITなどデジタル化を進め、医療機器やバイオテクノロジーなど付加価値の高い製品開発に集中的に投資してきたのだ。
■企業の付加価値はどうすれば上がるか
 一口に企業の付加価値を上げると言っても、いわゆる特効薬はない。とはいえ、日本の場合「労働生産性が低い」「雇用の流動性が低い」「中小企業が多い」「新商品や新市場を開拓するパワー不足」「デジタル化の遅れ」といった課題はわかってきている。
 そんな中、企業への刺激となりうる取り組みも出てきた。東京証券取引所が上場企業に対して「PBR(株価純資産倍率)改善」を要請したのだ。PBRは純資産に対する時価総額の大きさを示す指標。投資家が事業遂行のために企業に委託している資金を「純資産額=投下資本」と考えれば、株式時価総額から純資産額を差し引いた額は付加価値とも言える。つまり、PBRが高ければ、それだけ付加価値を生んでいるというわけだ。
 東証が重い腰をあげたことで、海外投資家は即座に反応した。4月には2兆2300億円(東証プライム市場)の海外投資家による買い越しがあり、5月19日の日経平均株価は3万808円とバブル後高値を更新している。
 こうした動きを受けて、上場企業を中心にPBRの向上を意識した経営スタイルが確立されていくはずだ。PBR向上のためには、人件費のカットや生産効率の向上といった部分に加えて、新商品の開発や新市場の開拓、イノベーションへの取り組みが必要になってくる。
 日本では政府による数多くの補助金制度がある。たとえば、政府によるデジタル投資支援策ひとつをとっても、経済産業省中小企業基盤整備機構中小企業庁、日本政策金融公庫、厚生労働省といった省庁が複数の補助金制度を用意して、お金をばらまいている。
 企業のイノベーションを生み出すためには、単に補助金をばらまくだけでは不十分だろう。本当に企業の付加価値を上げるための制度作りを、省庁をまたいで展開すべきだ。
 岩崎 博充 :経済ジャーナリスト
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 「日本株の本格的な再評価」がついに始まった
 日本人は低い食料自給率の深刻さをわかってない
 日本が企業の国際競争力低いのに「高評価」の意外
 円資産しか持たない人が大損するかもしれない訳
   ・   ・   ・   
 日本人労働者の賃金が上がらないのは、日本企業がアナリストやメディアの助言を信じたからである。
 日本社会は、生産者優位社会から消費者優位社会に変貌し、物価は消費者に優し低価格帯に押さえられた。
 日本企業は、生産者を低賃金で重労働を強制できる外国人労働者や日本人の非正規雇用労働者・派遣労働者契約社員を大量に採用した。
 そして、日本企業は非人道的ブラック企業となり、日本社会はブラック化していった。
   ・   ・   ・   
 製造業大国日本が選んだ付加価値ビジネス戦略は、低価格販売による競争力強化であって新世代イノベーションでも次世代リノベーションでもなかった。
 グローバルこそ正しい選択とするアナリストやメディアは、日本の価格競争力を阻害する重大なリスクは高給取りの日本人正社員と価格を押し上げる国内生産であると提言した。
 日本企業は、経済学権威の助言に従い、乏しい資金を国内投資から海外投資に切り替え、国内工場を閉鎖して日本人正社員を大量リストラし、生産拠点を労働賃金の低い中国に移して国内空洞化を深刻化した。
 日本経済は、アメリカを見習い、アメリカ化を強める為に、唯一の強みであった製造業を捨て初心者・素人に近い金融業、つまり財テクへと変貌あせて巧妙・狡猾な外国ファンドの餌食となり、数多の世界的な優良日本企業が倒産・売却されて消えていった。
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🍙62〗63〗─1─M7.7、強震の日本海中部地震と津波被害。昭和58(1983)年。〜No.316No.317No.318No.319No.320No.321 

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 健忘症を国民病とする日本人は、歴史を教訓として生かせず忘れてしまう。
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 2023年5月22日 MicrosoftStartニュース 河北新報津波で100人犠牲の「日本海中部地震」、知っていますか? 40年前の河北新報が伝えた5月26日
 津波で100人犠牲の「日本海中部地震」、知っていますか? 40年前の河北新報が伝えた5月26日
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 1983(昭和58)年の日本海中部地震から26日で40年となります。秋田県で83人、青森県で17人、北海道で4人の計104人が亡くなり、うち100人が津波で命を落としました。40年前の大惨事を伝える河北新報の記事や写真で、地震発生直後を振り返ります。(編集局コンテンツセンター・三浦夏子)
■「M7.7 強震、東北襲う 大津波死者・不明が続出」
 激しい揺れが街を裂き、津波が人をのみ込んだ。二十六日正午すぎ、東北、北海道を襲った強い地震。押し寄せる津波。秋田、青森両県を中心に大きな被害が出た。分かっただけでも両県で死者十二人、行方不明者五十九人(午後三時現在)。秋田市内では石油コンビナート内で火災が発生。国鉄も両県内で全面ストップ、電話線も寸断され、市民生活がマヒ状態に陥っている。(昭和58年5月26日河北新報号外)
■発生当日に号外発行
 1983年5月26日午前11時59分、男鹿半島沖から津軽海峡の西側までの範囲を震源に、マグニチュード(M)7・7の大地震が発生しました。午後0時7分には青森県深浦町で、午後0時8分には秋田県男鹿市津波の第1波を観測しています。秋田地方気象台のホームページでは、最大6・6メートルの津波が襲ったと紹介しています。地震発生当日の26日に河北新報が発行した号外では、被害の全容がつかめない状況の中、鉄道や電話線など人々の生活に欠かせないインフラが止まってしまったことを伝えています。
 翌27日になると被害がより詳しく分かるようになりました。秋田県内では遠足で男鹿市を訪れていた旧合川南小(北秋田市)の児童13人が津波の犠牲になりました。
■「遠足の学童さらう 2人死亡、11人不明 一瞬の高波、惨事」
 日本海中部地震が起きて間もなくの二十六日午後零時十五分ごろ、男鹿市の加茂青砂海岸に遠足に来ていた秋田県合川町合川南小の四、五年の児童と引率の教師ら四十九人が津波に襲われ、大半は救助されたが、児童二人が死亡、十一人が行方不明になった。地震が静まったことで安心して海岸の岩場で昼食を取っていた時のことだった。一行がいた岩場から海岸沿いの道路までは十メートルにも満たない距離だったが、突然襲いかかった津波に逃げる間もなく、子供たちは次々と波にさらわれた。(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
 突然押し寄せた高波に、子供たちはあっという間に二百メートル沖合に流され、海岸に居合わせた人たちが総出で小舟を出して救助に努めたが、結局、全員を助け出すことはできなかったという。
 救助された子供の一人は「津波があまり急に押し寄せてきたため、気づいたときは岸からだいぶ遠いところに流されていた。小舟に乗った人に助けられたとき、友達の赤や青の帽子がいっぱい波に浮かんでいた」と当時の模様を話している。
 合川南小の児童らはこの朝、マイクロバスで合川町をたち、日帰りの予定で男鹿海岸に遊びにきていた。好天に恵まれ、海辺で喜々として遊んでいた子供たちを突然襲った津波。楽しい遠足は、瞬時にして地獄に変わってしまった。
 友達を魔の海に奪われ、目を真っ赤に泣きはらして帰りのバスに乗り込む山の子の姿は、周りの人々の涙を誘っていた。(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
 男鹿市では男鹿水族館を訪れていたスイス人観光客の女性1人も津波が原因で亡くなっています。秋田県内では他に、能代市東北電力能代火力発電所の護岸工事をしていた作業員36人が犠牲になりました。紙面では次のように紹介しています。
■「工作船、次々に転覆 能代港、42人が帰らず」
 秋田県地震による津波で、能代港で東北電力能代火力発電所建設のため護岸工事をしていた大型工作船数隻が転覆、乗っていた作業員らが海に投げ出され、海中でケーソンの据え付け工事に当たっていた作業員も波にさらわれた。このため七人が死亡、三十五人が行方不明(二十六日午後六時半現在、秋田県災害対策本部調べ)となった。
 同工事は海面を仕切る外壁護岸約三千三百メートルを造るもので、この日は約三十隻の大型工作船を動員、二百七十、八十人の作業員が護岸用ケーソン(幅十一メートル、長さ二十メートル、高さ八・五メートル)の据え付け作業を続けていた。
 秋田県能代港事務所によると、津波の第一波が能代港に押し寄せたのは地震発生から約二十五分後。地震と同時に、現場では避離を図ったが、十数人がケーソン据え付けのため潜水作業中だったことと、沖合に避難しようとした工作船津波に襲われ、転覆して惨事を大きくした。
 津波は目視されただけで八度も同港を襲い、沖合に避難できなかった工作船は海岸へ押し上げられ、河口付近に係留されていた漁船数十隻は、米代川を逆流する高さ約二メートルの津波にもまれながら一キロも上流の橋脚に衝突して沈没。
 遭難者の救助作業は、津波の心配がなくなった午後三時半過ぎから始まった。同僚の安否を気遣う作業員らが港の高台に集まり、港内を捜し回る救助船を見守っていたが、薄汚れた海面に作業員らの姿はなかなか見つからず、人々の焦りは募るばかり。完成を間近に控えて津波に直撃された作業現場では巨大なケーソンが二十数個も大きく傾き、見る影もないありさま。(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
 5、6メートルの津波が襲った青森県深浦町には、記者が現地を歩きリポートしています。紙面からは経験したことのない災害が港町を一瞬で襲い、混乱に包まれたことが分かります。
■「キバむく濁流 『逃げろ』悲痛な叫び 目前で車も船もひとのみ」
 青森県深浦町の深浦漁港には、地震の数分後、津波の第一波が押し寄せた。
 「津波だ。逃げろ」。割れたショーウインドーの後片付けを始めたばかりの商店の主婦が叫ぶ。盛り上がった海は、防波堤にせばめられ高さ三メートルほどの岸壁をあっという間に乗り越え駐車中の無人の車が1台波にのまれた。四十トンクラスの底引船一隻は大きく傾き沈没、十五トンクラスのイカ釣り船二隻が深浦漁協事務所わきに押し上げられた。十トン未満のマス釣り船は木の葉のようにくるくる回りながら数隻が濁流にのまれた。
 平和な漁港は一瞬にして混乱のるつぼに投げ込まれた。
 高台にある深浦小学校では同町、消防、警察の避難命令を聞いて身一つで避難して来る人でごった返した。寝たきり老人を軽トラックの荷台に乗せて来た主婦は「こんなに怖いと思ったことはない」と余震の度に身を震わせた。一人で昼食を取っていたというお年寄りは「八十になるが、津波は初めて。何回押し寄せれば気が済むのか」と眼下に繰り広げられる津波の横暴を恨めしそうに見下ろしていた。(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
 「初めて津波を見た」「惨事招いた津波軽視」。紙面の見出しにはこんな言葉が多く見受けられます。死者104人という大きな被害を出した原因を当時の紙面では次のように分析しています。
■「観測網に大きな穴 『まさか』低い警戒心 前兆なし戸惑う研究陣」
 日本海側の地震としては、史上最大級の地震となった「日本海中部地震」(秋田県地震)は、観測網が貧弱でほとんど予測できなかった上、戦後、大きな津波の襲来を受けた経験がなかったことなどが災いし、悲惨な被害をもたらした。東北地方は、度重なる大地震で大きな被害を受けていながら、今回は、地震予知対策のエアポケットを狙われ、過去の教訓を全く生かせなかったと言えよう。
 仙台管区気象台がまとめた「東北の地震記録」によると、東北地方の西方海上は「時々、マグニチュード(M)7前後の地震が起こり、海岸で数メートルの地盤隆起を伴うのが特徴」とされている。歴史的にみても、M5以上の地震は、記録に残るものだけでも、西暦八三〇年の大地震以来、現在まで三十六を数える「大地震多発地帯」となっている。
 しかし、戦後は、新潟県地震(昭和三十九年、M7・5、死者二十六人)、長岡地震(同三十六年、M5・2、死者五人)などが大地震として記憶に残る程度。地震に伴う大きな津波被害を受けることも少なかった。
 このため、津波常襲地帯の三陸沖や東海沖に比べると、地震津波に対する警戒心は低く、予測体制も著しく劣っていた。今回の「日本海中部地震」は、いわばノーマーク地帯を襲った。(昭和58年5月27日河北新報朝刊)
■「惨事招いた津波軽視『日本海には津波が来ない』 不備な警報、避難手遅れ」
 「あれだけの大地震なのに津波を予想して逃げなかったというのは、こっちでは考えられない。地震津波という意識を持ち、防災避難訓練を重ねることが必要だ」ー。二十三年前のチリ地震津波で最も大きな被害を受けた宮城県志津川町役場では、今回の日本海中部地震の被害を津波に対する無知がもたらした”人災“ととらえている。
 仙台管区気象台の調べによると、昭和になって以来、秋田県沖で発生したマグニチュード6以上の地震は計六回。このうち、津波が発生したのは三回だけで、いずれも規模が小さく、震害の大きさに比べ、津波被害は微々たるものだった。
 そこから「日本海には大津波は来ない」という錯覚、迷信が生まれていなかったのか。観測網も非常にお粗末だ。今回の場合、東北地方の津波の最大波高は青森県深浦町の五十五センチ。ところが目撃者や専門家の分析では、実際の波高は三メートル以上という指摘が多く、観測数値との落差があまりに大きかった。(昭和58年5月27日河北新報夕刊)
 最後に、昭和58年5月26日午後0時から午後9時10分までの各地の被害をまとめた記事を掲載します。記事からは刻々と状況が変化していく様子が分かります。
■「ドキュメント 7.7ショック」
 26日午後零時0分 東北、北海道にマグニチュード7・7の地震発生。震源秋田県沖で深さ約40キロ。秋田、むつ、青森県深浦で震度5の強震を記録。
 同 東北新幹線有壁地震計が40ガル、新水沢変篭所で82ガルを記録して一ノ関ー盛岡間の送電がストップ。走行中の下りやまびこ15号が盛岡―北上間で、上り同20号が一ノ関ー北上間でそれぞれ緊急停止。
 零時2分 青森、秋田、山形の3県で計3万6千戸が停電。
 零時5分 秋田市の石油コンビナートにある東北電力秋田火力発電所重油タンクで火災発生。私鉄局管内の全線区で運転を中止、線路の点検を開始。東北自動車道全線50キロ規制。
 零時7分 青森・深浦で津波第1波を観測。
 零時10分 東北管区警察局が「秋田沖地震津波対策本部」を設置。
 零時15分 東北の日本海側に大津波警報発令。
 零時18分 気象庁は北海道、東北、中部地方日本海沿岸に津波警報を発令。
 零時25分 第2管区海上保安本部(塩釜)が青森、秋田、酒田の各保安部に非常配備体制を指示。
 零時30分 青森県北津軽郡小泊村が住民に避難命令。小泊川河口近くの村役場は津波のため床上皮水。消防庁が「秋田沖地震災害対策連絡室」を設置。
 零時50分 気象庁津波の最大の高さは青森・深浦の41センチで、当初予想された大津波は来なかったと発表。秋田県警男鹿半島の加茂青砂海岸に遠足に来ていた同県合川町合川南小の生徒、先生ら計43人が津波にさらわれ生徒2人が死亡、11人が行方不明の連絡。
 1時15分 青森県警に同県北津軽郡市浦村十三湖で魚釣り中の十数人が波にさらわれ5人が行方不明の連絡。全線ストップの秋鉄局管内で長井線米坂線が運転再開。
 1時17分 秋田県警秋田市雄物川河口付近でボートが転覆、子供2人が行方不明の連絡。
 1時20分 青森県警に同県鰺ケ沢町で防波堤改修工事中の作業員10人が海中に転落、3人死亡との連絡。
 1時22分 酒田で津波の高さ120センチ(目視)を記録。
 1時35分 盛岡ー古川間が不通となっていた東北新幹線が上下線開通。
 1時36分 青森・深浦で津波の高さ55センチを記録。
 1時40分 青森県警に同県北津軽郡小泊村袰内漁港でワカメ取り中の女性が波にさらわれ行方不明との連絡。
 2時 秋田県警能代市東北電力能代火力発電所の護岸工事現場で作業船数隻が転覆、5人死亡、35人行方不明との連絡。
 2時5分 政府は関係19省庁による「秋田沖地震対策本部」の設置を決定。
 2時20分 東北電力秋田火力発電所の火災鎮火。
 2時30分 青森県警に同県北津軽郡小泊村の小泊漁港で漁網修理中の男性ら2人が波にさらわれ行方不明との連絡。
 3時 警察庁が死者20人(秋田15人、青森3人、北海道2人)、行方不明者75人に上っていると発表。
 4時30分 酒田の津波の高さ47センチに。東北管区警察局の集計によると死者18人(秋田15人、青森3人)、行方不明者は78人(秋田68人、青森10人)に。
 5時20分 青森・深浦の津波の高さは35センチに。
 6時 東北管区警察局の集計によると、死者は秋田23人、青森三人、行方不明者は秋田52人、青森11人に。
 7時 余震続く。仙台管区気象台によると、余震回数は計172回を記録、うち有感地震が39回。男鹿市の加茂青砂海岸と能代市の護岸工事現場の捜索打ち切り。
 8時 秋鉄局管内の奥羽線(秋田―青森)、五能線男鹿線阿仁合線と盛鉄局管内の大畑線、津軽線が依然不通。
 8時40分 気象庁震源地を秋田市西方沖約160キロと発表。
 8時58分 東北沿岸の津波警報解除。
 9時 秋鉄、盛鉄両局管内で不通となっていた計6線区のうち大畑線は29日復旧の見通しが立ったものの残りの5線は依然メドが立たないまま。
 9時10分 阿仁合線が開通。
 (昭和58年5月27日河北新報朝刊)
 20代の記者にとって津波と言えば、東日本大震災が一番に思い浮かびます。日本海側にも津波が襲ったと知ったのは、新潟市内の大学に進学した際、父親からなるべく海から離れたアパートを選ぶよう教えられた時です。日本海中部地震という名前を知ったのも恥ずかしながらその時でした。
 今年3月まで赴任していた秋田総局では、日本海中部地震に関する取材をしましたが、風化を強く感じました。「日本海側は災害少ないから」「日本海には津波が来ないから」。秋田県内で何度か耳にした言葉は、40年前の紙面に掲載されていた「俗説」と似ていると思います。
 5月5日に石川県珠洲市震度6強の地震が発生するなど日本ではどこに住んでいても災害のリスクはついて回ります。26日を前にいま一度、防災グッズを確認するなど災害への備えを考えてみませんか?
 日本海中部地震が発生した昭和58年5月26日の号外
 © (C) KAHOKU SHIMPO PUBLISHING CO.
 40年前に発行した号外では地震により崩れた建物や陥没した道路が伝えられている
 © (C) KAHOKU SHIMPO PUBLISHING CO.
 火災が発生した東北電力秋田火力発電所秋田市)のタンク(昭和58年5月26日河北新報号外)
 © (C) KAHOKU SHIMPO PUBLISHING CO.
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🦋3〗─3・C─日本は1989年から借金大国、1965年までは無借金国。〜No.7 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 アナリストやメディアは、「借金も財産のうち」としてもてはやして日本民族の「借金は恥」や「株式投資はギャンブル」を消し去って、借金しても「財テク」に狂奔する事を奨励した。
 借金は、生活苦によるヤミ金融から財テクによる公式金融機関に代わり、借金額も跳ね上がった。
 高額の借金を持っていた、金融機関は倒産させない為にさらに融資をしてくれる。
 政府は、雇用を確保し、失業者を出さない為に救済してくれる。
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 2023年5月22日 MicrosoftStartニュース 東洋経済オンライン「日本を増税でも賄えない「借金大国」にした真犯人、1965年までは「無借金国」だったのに
 日本はいつの間に借金大国になってしまったのでしょうか(写真:PIXTA
 消費税が上がるたびに、「こんなに税金を上げていったいに何に使うのか」思ったことがあるかもしれません。実際、増税は現在の税金ではまかないきれないものがあるからこそ行われるもの。『アベノミクスによろしく』などの著書があり、賃金問題や労働環境、経済政策などに詳しい弁護士の明石順平氏が、『働くときに知っておきたい「自分ごと」のお金の話 データで見る日本経済の現在地』より、税金の使い道について解説します。
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■日本の「借金」はいかに膨らんでいったのか
 給与明細に記載された給料から差し引かれている所得税などの額を見て、あるいは10%までに引き上がった消費税のことを考えて、「税」というものを呪った経験があると思います。そして、日本の景気がよくならないのは「すべて重税のせいだ」と思う人もいるかもしれません。しかし、税金のせいで景気がよくならない、税金が悪い、という考えは本当なのかどうか、データを見ながらいま一度考え直してみたいと思います。
 国の支出に対する収入源の1つとして税収があるわけですが、今の税収では賄いきれない、しかもこれ以上の増税はできないとなると、国は借金をするしかなくなります。日本が借金大国であるということは、誰でもどこかで耳にしたことがあるでしょう。その額(国債及び借入金現在高)は、2022年3月末時点で実に1241兆3074億円にもなっています。借金がどのように膨らんでいったのか、戦後までさかのぼって見てみましょう。
 実は、戦後しばらく、日本は無借金財政でしたが、1965年度に戦後初めて国債を発行しました。これは、1964年度に東京で開催されたオリンピックの反動で翌年から不景気になり、税収が不足したからです。
 ただ、それ以降も建設国債が毎年発行されました。国債発行で集めたお金で公共投資を行い経済成長できれば、自然と税収が増えて借金も十分に返せると見込んでのことでした。実際に、1954年12月~1973年11月頃は高度経済成長期と呼ばれる日本経済が一番成長した時期で、この間は毎年のように減税をしながらも、経済成長率が高かったので、税収は増加していました。
 しかし、高度経済成長期を終えた頃に、国債発行額が大きく増えてしまいます。その原因の1つはオイルショックです。1973年10月6日に始まった中東での戦争をきっかけに中東の石油産出国がいっせいに石油の価格を上げました。石油は色々な輸送機械の燃料に使われるし、あらゆる商品の原材料でもあります。だから、石油の値段が急激に上がれば物価も急激に上がることになります。
 石油が安く手に入るということが日本(世界もですが)の経済を支えていたので、この石油危機の影響で世界中の経済成長率が鈍化しました。狂乱物価ともいわれる物価の上昇に給料が追いつかず、消費も停滞します。経済成長ができていないと税収も足りなくなるので、増税が必要になります。
 でも、国民の生活が苦しいときに、増税ができるでしょうか。誰もそんなときに増税をうたう政治家を支持しないでしょう。だから、借金をしてその場しのぎをする。こうして、借金が増えていったのです。
社会保障費も増大していった
 オイルショックの他に、借金が増えたもう1つの理由は、社会保障費の増大です。一般会計における社会保障関係費増加率と、社会保障関係費が占める割合の推移を見てみましょう。
 1973年度から、社会保障関係費が大きく増加しているのが分かります。増加率でいうと、1973年度が30%超、1974年度が40%超で、1975年度もまた30%を超えています。3年連続で一般会計における社会保障関係費の上昇率が30%を超えるような現象は後にも先にも発生していません。
 これだけ社会保障費が上昇したのには、急激な物価上昇も影響しています。物価が上がれば、それに合わせて社会保障費も上げていかないと追いつかないためです。しかし、社会保障関係費の一般会計に占める割合が1973年度あたりから急激に上昇していることから、その原因が物価の上昇だけではないことを示しています(物価の上昇だけが原因であれば歳出全体も増大するので、割合が急激に高くなることはありません)。
 社会保障費は、それまでは歳出に対する割合が15%ぐらいだったのに、1975年には22%を超えるほどに膨らんでいます。その原因は、この時期に老人医療の無料化、医療保険における高額療養費制度、年金額の物価スライド制が導入されたことなどが影響しています。
 こうして社会保障費が増大した背景には、東京都などの地方公共団体首長選挙で、老人医療の無料化をうたう候補者が相次いで勝利するといった現象が起きたことがあります。危機感を抱いた自民党は選挙で勝つために社会保障費を増大したのです。1973年は「福祉元年」とも言われています。
 ですが、その社会保障費を賄うために必要な増税はされませんでした。国民の反発を招くと選挙に負けるからです。こうして税収と歳出の差がどんどん開いていく状況に対して、自民党は1979年に消費税を導入しようとしましたが、国民の猛烈な反対に遭い、断念しています。
増税をしてこなかった「影響」
 こうして増税をしてこなかった影響は、上記のグラフを見るとよく分かります。税収は増えているけど、それ以上に歳出が拡大し、「ワニの口」のような形で、だんだんその差が広がっています。バブル期には、好景気で税収が増えたために税収と歳出の差は一時的に縮まりましたが、バブル崩壊後は景気対策のために減税し、国債の発行額もまた増えていきました。
 これまで、どれだけ減税されてきたのか、税制改革をしなかった場合の所得税法人税の推計値と、実績値を比較したグラフを見てみましょう。
 バブル崩壊前から所得税法人税の減税が始まっていますが、崩壊後からだんだん差が大きくなって、こちらもワニの口のようになっています。とくに所得税減税の影響が大きく、1999年度以降は改正しなかった場合との差額が10兆円以上になっています。よく見るニュースなどでは法人税の減税が強調されることが多いものの、実際には、所得税の減税の影響のほうがはるかに大きいのです。
 よく、消費税導入以降の消費税収と、法人税の減収額が比較されたグラフをもって「法人税減税の穴埋めに消費税が使われた」と言われることがあります。下のようなグラフを見たことがないでしょうか。法人税収が史上最高の19兆円を記録した1989年度を起点にした法人税収の減収額と、消費税収を比較したものです。
 たしかに、消費税収が法人税減収額を穴埋めしているように見えるグラフです。でも、これと同じようなグラフを、実は所得税でもつくることができるのです。所得税収が史上最高を記録したのは、1991年度の26.7兆円。ここを起点にした所得税の減収額と消費税収を並べて見てみると、このようになります。
 いかがでしょうか。所得税のほうが、むしろ法人税より減収幅が大きいことが分かります。そして忘れてはいけないのは、法人税所得税が減収しているのは、減税だけではなく景気後退も原因にある、ということです。つまり、減収の原因のすべてを減税に負わせるのは大変なミスリードだということが分かると思います。
■「今さえよければいい」という発想のツケ
 バブル崩壊以降、借金を減らして財政を再建させようと政府が取り組んだことはありましたが、いずれも金融危機を前に頓挫してしまいました。特に、2008年に起こったリーマン・ショック、さらにそこからの回復途上に起きた2011年の東日本大震災によって、日本はさらなる税収の減少と国債発行増大に苦しむことになりました。そのうえ、2020年からのコロナ禍により、国債発行額は異次元のレベルになっています。
 借換債を含む国際総発行額でいえば、2020年度は250兆円超え、その後も3年度連続で200兆円超えの状態が続いています。その根本原因は、本当は増税しないといけないのに、選挙に勝つことを最優先して、歴代政権が嫌なことを後回しにしてきた点にあるのです。
 今さえよければそれでいいという「キリギリス路線」を先人達が1970年代後半に選択し、それが修正されないままここまで来てしまいました。今はもうこの世にいない先人達にとっては、自らの負担を上回る利益を享受できたのですから、合理的な選択だったと言えるでしょう。そのツケはそう遠くない未来我々が払う羽目になります。
 明石 順平 :弁護士
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