🍙26〗─3─拓北農兵隊。戦災集団疎開者が辿った苦闘の記録。~No.170No.171 

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 2021年10月8日号 週刊朝日「注目の本棚
 『拓北農兵隊 戦災集団疎開者が辿った苦闘の記録』
 石井次雄 著 旬報社
 〝新緑の開拓地は拓く(略)暖かい手を伸ばす〟。B29の焼夷弾爆撃ですべてを焼き尽くされた市民は、藁にもすがる思いだっただろう。『拓北農兵隊』募集広告である。拓北農兵隊とは、第二次大戦の大空襲で焼き出された人々を北海道へ集団帰農させる政策だ。疎開と食糧増産を兼ねると言えば聞こえはいいが、無謀なものだった。
 著者は当時の新聞や入植者の手記を辿り、その時代と苦悩を明らかにする。『食料も住宅もある沃地(よくち)』という約束だったが、厳しい寒さと飢え、農業に適さない土地の開墾は苦しみの連続だった。
 著者自身も横浜大空襲で罹災し、入植。比較的恵まれた地に7年過ごしたが、横浜に帰郷している。
 知られざる〈戦後〉の貴重な記録であり、国策に翻弄され、苦難を生きる人々の歴史は今も地続きであることをあらためて思う。」
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拓北農兵隊—戦災集団疎開者が辿った苦闘の記録
知られざる拓北農兵隊の記録
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 十勝毎日新聞社
平和再考 戦後76年、拓北農兵隊
 2021/08/14 10:36
 太平洋戦争の終結前後、全国から北海道へ集団で帰農した戦災疎開者がいた。政府の無謀な開拓計画の下、「拓北農兵隊」の名で十勝にも入植したが、不慣れな農業と厳しい生活を強いられ多くが離農した。近年は体験者による証言や記録が書籍となって発刊され、2019年に放送されたNHK連続テレビ小説なつぞら」にも登場。光が当たりつつあるその歴史から、戦争にほんろうされた人々の姿が浮かび上がる。15日は「終戦の...
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 郷土史 ていね
 第 64 号
 平成 25 年 4 月 17 日
 手稲郷土史研究会会報
 第 83 回(平成 25 年 3 月 13 日)定例会の研究発表要旨
 拓北農兵隊手稲分隊の入植の経過と苦悩
 星置 村元 健治 氏
 ~今何故に拓北農兵隊か~
 拓北農兵隊が昭和 20 年(1945 年)手稲曙地区に入植して早、70 年近くなろうとしている。今や同地区はすっかり住宅化されて昔の面影を残すものも無いが、東京杉並区の 16 戸の戦災被災者が、この地区に入植し、血と涙と汗の果てに今日の曙の繁栄の基礎を築いたのは紛れも無い事実だ。
 そのことが意外と知られていない。とりわけ若い人はまったく知らない。
 開拓に関わった当事者も残り少なくなった今日、その取り組みをきちんと掘り起こし、後世に伝える必要があろう。
 簡単に、拓北農兵隊手稲分隊の概要を紹介すると、1945 年 7 月に東京の杉並区の農業経験の無い様々な職歴の戦災被災者達が、疎開と食糧確保のため政府(内務省)が立てた北海道に入植させる事業(北海道集団帰農者募集)に応募して、手稲村の曙地区に入植し、様々な困難を乗り越えて、今日の繁栄の基礎を築いたというもの。
 戦争末期の混乱の中で、受け入れ態勢も十分でない中で緊急かつ応急的に事業が進められたために、宣伝計画されていた内容には程遠い現実が待っていて入植被災者たちは塗炭の苦しみにあった。
 それらは住居、食糧、土地問題に象徴されたので、改めてこれらの苦悩について紹介することにしたい。
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 中日新聞
 焦土逃れ、裏切られた入植者 太平洋戦争末期〜戦後、都市部から一家で北海道へ
 2021年3月31日 05時00分 (3月31日 05時01分更新)
 鵜沢さん一家が暮らしていた小屋=1945年ごろ撮影、本人提供
 鵜沢さん一家が暮らしていた小屋=1945年ごろ撮影、本人提供
教員になり、子どもたちに囲まれて笑顔の鵜沢希伊子さん(中央)=1950年ごろ撮影、本人提供
 北海道での日々などを語る鵜沢希伊子さん(左)と良江さん=東京都調布市
 76年前の1945年、空襲で焦土となった都市部から逃れて北海道に入植した一団がいた。「拓北農兵隊」と呼ばれた人たちだ。好条件を並べられて地元を離れたものの、政府のあまりの無計画ぶりに苦しい生活を強いられた。過酷な自然環境の中で生き抜いた人たちは当時をどう振り返り、今の国の状況に何を感じるのか。当事者の証言を基に、知られざる戦後史をたどった。(木原育子)
 「拓北農兵隊」知られざる歴史 ずさん国策、痩せた土地自立難しく
 「あんなにつらく、暗い日々はなかった。寒いを通り越して肌が刺すように痛かった」
 東京都調布市で共に暮らす鵜沢希伊子さん(90)と妹良江さん(84)が北海道での日々をこう振り返る。
 姉妹は戦中、東京・神楽坂で両親と弟ら一家七人で暮らしていた。一九四五年四月十三日深夜、米軍の爆撃機B29が来襲し、運命を変えた。火が噴き、風が走り、焦げた油煙の臭いが鼻を突く。七人は火の海を逃げ惑い、幸い全員助かったものの自宅は全焼。学童疎開や親族宅に身を寄せるなどし、終戦を迎えた。
 九月四日、一家は上野駅から北へ向かう臨時列車に乗った。拓北農兵隊に父が応募していたからだ。他の列車はすし詰め状態な...
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 タウンニュース
 南区版掲載号:2019年8月15日号
 ※ただいまサイト内検索に不具合が生じております。復旧までしばらくお待ちください。
 六ツ川在住石井次雄さん
 戦災疎開「北の開拓」知って
 農兵隊の奮闘を著書に
 六ツ川在住の石井次雄さん(79)が7月、戦災集団疎開者が北海道開拓に奮闘する歴史を綴った著書『拓北農兵隊』を出版した。NHKで放送中の連続テレビ小説なつぞら」で農兵隊が取り上げられたこともあり、本が話題になっている。横浜大空襲を経験し、農兵隊として北海道へ渡った石井さんは「平和について考えてほしい」と話す。
 「拓北農兵隊」は第二次世界大戦の空襲で焼き出された被災者を対象に政府が募集したもの。応募者は荒地ばかりの北海道を開拓するように送り出された。石井さんは「多くの人が北海道開拓に貢献した事実を伝えたい」と本に込めた思いを話す。
 現場の声届けたい
 本は2017年にも同タイトルで自費出版したが、約400部と小規模なものだった。読者から「『拓北農兵隊』という聞き慣れないフレーズに引き付けられた」など、高い関心が寄せられたことで改編出版を決めた。「戦災者のエピソードを加え、より現場の声が届く内容にした」と話す。北海道の図書館などに足を運んで資料を収集。出版は定年まで勤めていた旬報社に相談し、協力を得た。本はA5判、239ページ。
 空襲後 夕張へ
 石井さんも拓北農兵隊で北海道に渡った一人だ。睦町に住んでいる時に横浜大空襲で焼き出された石井さん一家6人は1945年、北海道夕張郡長沼村に移住。当時5歳だった石井さんは年の離れた兄姉と農業に励んだ。1年間かけて荒れ地を耕した後、米、ジャガイモ、トウモロコシなどを栽培。周囲の大人が一から丁寧に教えてくれたので乗り越えられたという。「人間関係に悩んだ人もいる中、自分は本当に人に恵まれた」と振り返る。一家は53年に南区へ戻った。
 平和考える契機に
 読者からは、「平和のあり方を考えさせられた」といった感想が届いている。農兵隊として南区から移住し、現在も北海道で暮らす志茂敏郎さんは「移住して数年間は生きることで精一杯だった。この本は平和であり続けることがいかに大切かが分かる」と述べる。
 戦時中の生々しい記憶が今でも脳裏に焼き付いている石井さん。「空襲で焼け野原となった横浜の姿は一生忘れない」という。8月上旬に発生し、複数の死者が出た米・オハイオ州の銃乱射事件を聞き、「平和の秩序を乱す」と眉をひそめる。「本を読んだ人が『平和』とは何かを考えるきっかけづくりになれば」と話す。
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 郷土をさぐる会トップページ     第14号目次
 故浜巌氏の遺稿文と戦後緊急開拓のあらまし
 岩田 賀平 明治四十三年十二月十日生(八十五歳)
 一般には戦後開拓事業と理解されていますが発端は、太平洋戦争末期の昭和二十年三月閣議により『本土空襲激化に伴う大災の罹災者の疎開強化』の方針が決定され、戦災者の生活安定と食糧の増産等と戦力の強化を図ることになったものです。
 北海道は集団帰農の全国でも主要な受け入れ先に指定され、第一陣二〇一戸は昭和二十年七月六日に東京を出発、そして昭和二十年十月までに三四一九戸が全道に分散入地しました。
 戦争は昭和二十年八月十五日に終戦となりましたので、名称を『戦後緊急開拓事業』と改称し、対象者には復員軍人、戦没者遺族、工場離職者、外地引揚者を加え、北海道では数次の計画変更があって、五カ年で三十五万町歩、七万戸を策定推進するものでしたが、実際には昭和二十四まで二万七千余戸が入地したのでした。
 これは開墾土地が少ないこと、農業未経験者であること、更に敗戦の荒廃で農機具、肥料等の農業資材が皆無に近い欠乏下での営農など不可能に近く、加えて未曾有の大凶作の食糧難ではその日その日の生活が言語に絶する苦しいものとなったためでした。
 従って、五カ年間のうちに脱落者は四十六%にも達したと言われています。
 本町の集団帰農者は団長佐藤大四郎氏以下十九戸で、正確な入地時期は定かではありませんが、前期の三四一九戸の中に含まれていたものと考えられます。
 浜巌さんの遺稿は、この様な時代を背景に東京から集団引揚者の一員として昭和二十年九月三日に東中に落着かれ、無我夢中で最初の一年を生き抜かれた段階での回顧録です。
 北海道行きが決って想像と夢を措いた北海道での農業と、一ケ年を体験した敗戦下の現実が社会情勢と共に如実に語られた一編ですが、戦後五十年を経た今日、私達はこの一編を読んで濱 巌さんの農業への将来展望を適確に見通しており、又上富良野の歴史の一頁として記憶に留めると共に、飢餓―強権供出時代から飽食―米過剰、自由化時代の図式が描かれる今日、今昔の感に耐えないばかりでなく、国に於ける農業の位置づけに、そして一定の自給率環境保全、都市と農村の両立、調和を考える機会にしたいとつくづく感じます。

 昭和二十年七月六日出発の東京第一陣以後、東京、神奈川、愛知、大阪などの各地から前後『二十四回、三四〇〇世帯、一万七〇〇〇人』の人々が北海道の各地に入植しました。しかし馴れない気候と開墾や農作業、そして不十分な衣食住、農業資材等の厳しい生活環境の中で、開拓地に入植された人々は自己の生活確立、食糧増産、そして日本の戦後復興に寄与されたのです。
 ※ 十九戸入植しましたが十七戸しか現在判明していません。
 機関誌 郷土をさぐる(第14号)
 1996年7月31日印刷  1996年7月31日発行
 編集・発行者 上富良野町郷土をさぐる会 会長 高橋寅吉
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