🍙19〗─3─海軍短期現役士官(短現)=文系主計将校は、戦争を支え、戦後復興と高度経済成長を成し遂げ、日本を経済大国に押し上げた。〜No.83 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の最高学府の学生や高学歴出身知的エリートは、当時の学生やエリートに比べてレベルが数段落ちる。
 何故なら、現代日本人は文系か理系かの一方しか興味がないが、当時の日本人は文系と理系をそれなりに関心を持っていた。
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 戦後復興と高度経済成長による経済大国は、文系と理系の均衡で成功した。
 日本の強みは、文系と理系の均等な融合である。
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 戦後のモノ作り力・凄技は、戦時中の強制徴用制度で行われた学徒動員・勤労動員・女子挺身隊に対する理系基礎技術のたたき込みにあった。
 強制徴用制度は、日本では成功して経済大国にしたが、朝鮮=韓国・北朝鮮では失敗して経済最貧国にした。
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 2018年12月23日号 サンデー毎日「対立軸の昭和史 保阪正康
 『戦争』と『高度成長』の14年
 『短現』隠されエリート集団 戦後の『たたかい』
 歴史の中には対立があり、また対立が次の歴史を生んでいく。現代史研究の第一人者が昭和史のさまざまな『対立軸』を取り上げ、過去を新しく見直す新連載。第3回は『短現』(海軍短期現役士官)たちが、無謀な戦争を支えた経済への反省から、戦後いかに経済復興を牽引したかを明らかにする。
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 昭和の終わりごろなのだが、私は高度経済成長時にその舵取りを行った短現(短期現役士官制度)の出身者たちへの取材を進めたことがある。大体は第一線を退いていたのだが、彼らの絆は強く、確かに海軍魂のような精神を持っていた。同時に太平洋戦争が、彼ら主計将校の目から見ると『無謀』という側面があったことを具体的に指摘していたのが印象深かった。
 彼らがどのようにして高度成長の舵取りを行ったかについては、おいおい記述を進めるが、太平洋戦争がいかに無謀であったかをはじめに指摘しておくことにした。これは高度経済成長時代の目で見ると考えられないほどの愚行という以外になかった。前号でも語ったが、高度成長に3つの段階があったように、満州事変から太平洋戦争終結までの14年間にも3段階があった。満州事変から日中戦争開始前までの期間を『開始期』、日中戦争から太平洋戦争の開始前までを『挫折期』、太平洋戦争の開始から終焉までを『崩壊期』と評すべきと記した。この太平洋戦争開始時の日本とアメリカの国力の差、あるいは兵器生産の差を見ていくと、まるで大人と子供の差とでもいうべきであった。昭和15(1940)年の鉄の生産量は日本が500万トン、アメリカが6,500万トン、石油の生産量は日本が20万キロリットル、アメリカは3,100万キロリットルである。戦争が全く勝ち目などない状態の時の昭和19年の国力比では、航空機の生産機数が日本が2万6,500機、アメリカは9万機である。造船は日本が175トン、アメリカが1,900トンである。さらに戦車になると日本の生産台数は259輛、アメリカは2万9,500輛であった。むろんこんな数字は国民には知らされていない。
 しかし主計将校は当然ながら知らされていただろう。国力比では20対1と言われている状況を知って、主計将校たちはどのような感想を持っただろうか。
 さらに言えば、国民所得に対する軍事費の占める割合は、日中戦争の始まった昭和13年にはおよそ16%にすぎなかったのに、昭和19年には国民所得が569億円なのに対して軍事費はついに735億1,500万円にまで達した。つまり国民所得を超えて戦費が必要な状態になったのである。こうした分析は、中原繁敏著の『大東亜補給戦』などにより、戦後は明らかにされたのだが、戦時中では極秘の資料でもあった。しかし主計将校たちはこのような数字に触れていたのだが、その時にどのような感慨を持ったのかは彼らが残した資料では明らかになっていない。
 こんな数字で戦争を行うという姿勢が、経済を学んだ主計将校に不信を持たれたのは不思議ではない。彼らが、こんな数字で戦争を続ける軍事指導者を内心で密(ひそ)かに軽蔑したであることは容易に想像できる。実際に匿名だとの条件で、『戦争の原価計算のできない軍事国家を二度と作ってはいけないというのが、短現で学んだ者たちの共通の認識だ』と証言した元主計将校の官僚もいる。
 『日本軍の保有物資は3ヶ月分のみ』
 国力比そのものは、国家機密であり、一般の国民は知らされていない。もしそのような情報に関心を持ったなら、スパイとして逮捕されたに違いない。しかし主計将校たちにはそうした国家機密の一部は知らされていた。短現出身の主計将校たちは、そのような秘密に触れても、その当時はアメリカの国力そのものを見つめる目を持っていないため、いずれは日本がアメリカを軍事的に制圧して戦いは終わるだろうとの思いを持っていた。
 私は短現出身の元主計将校に、昭和の終わりから平成の初めにかけて相次いで何人かと会った。彼らは短現制度のもと、海軍内部で暮らしているうちに海軍魂なるものに触れ、少しずつこの戦争の実態がわかってきたと言っている。私の会った元主計将校は東京商大(現・一橋大)の出身なのだが、軍人たちは戦費がどのようにして捻出されるのかは十分に知らずにいて、大量の紙幣を生み出せばいいのではあいかとの感覚であったと言う。『よく戦争などに踏み切ったものだ、と私も思うようになりました。これも主計将校として知ったのですが、当時(開戦前夜)日本は年間400万キロリットルの石油を消費していたそうです。その9割は輸入ですが、一般的には知られていませんでした。この輸入先はアメリカが中心で、需要の70%から80%はアメリカからでした。つまりアメリカと戦争するということは、まったく世界戦略などわれわれの常識の外にあったということですからね』と振り返ってもいた。
 こういう自分本位の考え方に、主計将校はなじめなかった。軍人たちが気持ちよくこちらと巧みに接触してくることはなく、主計将校などはカネの計算をしていればいいと見られていたというわけであった。
 主計将校たちは、たいていは次のような形で国家機密に触れることになった。これは短現の第12期生たちの著した同期会誌(私家版、昭和57年刊)である『激動の青春 学窓から短剣へ』からの引用になるのだが、呉工廠に送られた主計将校は次のように書いている。
 『(昭和20年に入ると)戦局はとみに悪化し、会計科長から軍の機密だがと前置きして、「わが軍の保有物資は約3ヶ月分を余すのみである。9月には本土決戦を覚悟せねばならない」と申し渡されました』
 膻須賀工廠で購買関係の仕事をやらされらが、実務は古参の書記がやっていて、とくに仕事らしいことはなかったという。その将校が書いている。
 『仕事らしいことは、何ひとつした記憶はない。記憶に残っていることといえば、青森県八戸に軍馬30頭を買いに出張して、無事任務を全うしたことぐらいである。その実、軍服を着て書記のお供をしたというほうが当たっているかもしれない。燃料不足のため自動車を荷馬車に切り替えるのが目的の目的の軍馬購入なのだが、情けない。しかもヤミ屋を東京から同行した。海軍の威信も地におちたもんだとあきれらている』
 主計将校は、開戦当時は本来の仕事である主計(経理など)の仕事を進めていた。ひとつの戦で傷ついた艦船の修理に、失った鉄はどこから調達するか、このコストは修理するとどれほどの価値があるぼか、などを計算するのであった。こういう戦争の原価計算などはいつの時期にも必要なはずだが、しだいにそんな計算はしなくなっていく。たとえしようにも正確な情報が伝わってくるわけではない以上、計算が成り立たなくなってくる。
 軍事ではなく経済で国民を保護する
 国力の差は歴然としていて、戦争の中盤から後半にかけては、さらにその差は広がっていった。昭和16年から20年8月までの間、日本は国内体制のすべてを航空機製造に向けていくのだが、それでも6万8,000機をつくった。しかしアメリカおよそ29万機を製造して、日本との戦いにつぎこんできた。ドイツ敗退後は日本は世界の主要国の国々と交戦状態になっていくのに、戦備といえば鉄・アルミニウムなどすべての機材が不足しているので、充全に航空機をつくることはできなくなった。
 それを補うのがつまりは特攻作戦であった。主計将校たちは、自分たちとさして年齢の違わない特攻隊員の死を目撃するようになる。当然ながら複雑な感情が湧いた。膻須賀の海軍施設部に配属された主計将校は、次のように書いている。いささか長くなるが、しかしこの一文は参考になるので引用しておきたい。
 『特攻基地(注・神之池)の実際のすさまじさであった。初め親子飛行機の子にあたる、翼に爆弾をつけた一人乗りの特攻機を見たとき、これに乗り込む隊員の気持ちを思って胸が詰まった。連日の訓練でもよく事故による犠牲者が出た。まだ技術的には未熟な者が多かったにもかかわず、特攻隊員の多くは、予備学生出身であった。熟練度の高い海兵や少年飛行兵の生き残りは、本土決戦の日に備える取っておきの戦力として温存されているという噂であった。航空用ガソリンの逼迫でろくに練習もさせてもらえない隊員が、優秀な装備を誇る敵船隊にこのような親子飛行機で特別特攻をかけても、その成果はほとんど望み得ないことは自明であった。何のため死ぬのか?死に甲斐すら、あやふやな彼らであった。(略)
 なによりも異様なのは彼らの眼光であった。とても常人のものとは思えなかった。無理もない、彼らは若い身空で100%の死の宣告されていたのだから』
 国力の差は、このような非人間的な現実を生じてしまったのである。主計将校という立場は、この現実を記憶の底に沈めて、そして戦争と向きあったのである。彼らが平時の社会で『軍事』ではなく、『経済』で国民の生命を保障しようと考えたことは、それ自体よく理解できる。
 短現出身の主計将校ではないが、この世代の一人として、戦後は太平洋戦争のいびつさを批判し、同世代で特攻隊員として逝った学徒に、強い思いをこめて昭和研究に勤しんだ森本忠夫は、『魔性の歴史』や『特攻』という書を著している。森本は戦後、京都大学経済学部を卒業したあとに、東レに入り、主に国際貿易の先頭に立って高度成長を支えた一人でもあった。そのうえで晩年は著述に没頭している。
 森本は戦争という時代に生きた我々は、つまりは『国家的ゲバルトによる強制』だった断定している。森本は、あの戦争の内実を調べれば調べるほど、アメリカとの国力の差をさらに具体的に調べていったうえで、現実を分析するときの『無知、愚行、狂気』という尺度を批判するのである。『国家の総力をあげて戦う』との意味は、軍事費と国民総生産(GNP)の関係を冷静に見つめることだとして、ビジネスマンとしての分析を行っている。アメリカは戦時下にあっても軍事生産を伴っての新しい技術への投資を進めている。つまり軍事産業をテコにそこに新製品、新技術を持ちこんで、科学技術総体の力を強めていくのである。
 反して日本は、生産設備そのものが不足していて、そこに新技術の開発など考えられなかった。
 森本は、『日本とアメリカとの国力の差は、単に軍事力に開きがあるのではなく、その基本的な潜在力のあまりにも大きな開きに愕然としてしまう』というのである。航空機や戦車の製造する能力に差があるだけでなく、その生産プロセスでより高い次元を目指すような体力がアメリカには備わっているというのであった。昭和30年代からの高度成長は、アメリカの戦時下潜在力のひとつであり、それは当時からすでに行われていたということになる。
 『短現』の世代に共通する理念
 この潜在工業力を昭和40年代に実らせた高度成長は、短現出身者の能力が生かされたことになるのだが、本来ならこういう主計将校たちも戦時下でその能力が発揮されるような『場』があったなら、日本社会はまた異なった力を持つ国家になりえたのであろう。
 戦争の14年に、実は平時につながる発想や技術、さらにはそれだけの心理的な余裕を持ちあわせていたのなら、日本はまず14年間も戦わなかったであろうが、そのような発想は確かに一部の将校は持っていたのである。戦後は大学教授、そして神奈川県知事などのポストを歩んだ長洲一二は、やはり短現第12期生であったが、この期の一人が長洲の先見性を書き残している。
 この戦争の原因は何か、とその人物が長洲に問うと、『(長洲は)この戦争が満州事変以来、日本が採ってきた無謀な大陸政策の不可避的な結果であることを説明してくれた』というのである。
 『見通しなんか立っているものか。政府は毎日困った、困った、と言っているだけさ』
 長洲もまた戦争の次にくる14年を、あるいは考えていたのかもしれない。
 こう見てくると、短現の世代に共通する理念が浮かびあがってくる。まさに『戦争をひっくり返しての経済によって富む国づくり』である。
 『海軍精神(たとえば「五分前の精神」)はさして役立たなかったにせよ、短現の仲間との戦後の交流がもっとも大事な財産です。大蔵次官のときに、通産、厚生、文部といずれも短現の仲間、これが役立った』と大蔵事務次官、その後日本たばこ産業株式会社の社長などを務めた長岡実は証言している。
 長岡らの実働部隊が、高度経済成長は、をどのように進めたか、何より具体的に調べていくことにしたい」
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 2018年12月23日号 サンデー毎日「対立軸の昭和史  保阪正康
 第1回 『戦争』と『高度成長』の14年
 戦後復興は、大蔵官僚たちの復讐でもあった!
 近代日本の歴史空間を改めて散策していくと、さまざまな感慨を持つ。今年は明治維新150年というわけだが、この間の日本は実に短期間に多くのことを成し遂げたと思う。きわめてストイックに一直線に進んできた。成功もあれば、失敗もある。その正直な姿をさらに詳細に分析していくと日本の指導者は、もともと哲学や思想を基にして何事かをなすのではなく、目の前に現れた選択肢のいずれかを選んでこの国の方針を決めてきた。
 常に二者択一で、強硬論を選択するのが習いでもあった。同時にある時代空間に対しての怒りが、別の時代空間を生むといった例も見いだせるのである。このような時代空間を対比させると、近代日本の国民的性格や指導者たちの対立、葛藤の図が浮かびあがってくる。太平洋戦争下において、陸軍と海軍の体質の違いは戦争の帰趨(きすう)にも影響を与えた。陸軍の土着的体質と海軍の海洋的発想とは確かに戦争観の違いとなって表れ、太平洋戦争そのものの戦争観の衝突に至っている。
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 高度経済成長『終戦』の風景
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 満州事変の折、日本国内にはこの14年後に国土の多くが戦争で荒れ果て、国民に多くの犠牲者が生まれると考えた者はいなかったであろう。
 わずか14年で、しかも最終段階では日本一ヵ国で70ヵ国余の国々と戦争状態になることなど誰が予想したであろう。軍事による破滅の道を直線的に進んだ結果である。戦争終結からほぼ15年後の昭和35年11月、池田勇人首相は所得倍増計画を発表し、これを現実に政策化していく。池田首相は『私はウソは申しません』とか『あなたの給料を2倍にしてみせます』といった直接的な言い方で国民の心情を捉えたのだが、この政策も当初は少々オーバーな、といった受け止め方がされた。しかし歴史上ではこれが高度成長の経済策へのスタートになったのである。
 それからおよそ14年後に第四次中東戦争が起こった。アラブ軍(エジプト、シリアなど)とイスラエル軍との領土確定をめぐる戦争でもあったが、イスラエル軍が近代兵器の上でも圧倒的に有利であった。アラブ諸国産油国としての『油』を武器に戦略を組んだ。イスラエルを支援する西側諸国に打撃を与えるために、原油生産の削減、原油価格の大幅値上げを打ち出した。
 日本はこの戦略に最も打撃を受けた。この石油危機で、日本の高度経済成長は終わり、以後は低成長時代にと移行していく、石油危機はこの社会に異様な光景を生み出した。大阪での主婦たちによるトイレットペーパーの買い占めに端を発し、全国的に生産必需品の買い占め状態が続いた。まさに狂乱状態になったのである。これが高度成長の『終戦』の後継といってもよかった。石油危機が太平洋戦争の原因であったが、高度成長の終焉もまた石油だったのである。
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 戦時下、冷や飯を食わされた大蔵官僚
 戦争の14年間と経済の14年間は舞台の主人公が異なっている。池田首相のブレーンは、たとえば下村治がそうだった。下村は昭和9年に東京帝大経済学部を卒業して、大蔵省に入省している。戦前には戦費調達の理論上の研究を進めたとされている。いわば理論家としての位置づけだった。戦後になって経済安定本部などでいくつかの論文を書き、高度経済成長理論の提唱者となっていく。政治では池田首相や大平正芳宮沢喜一など大蔵省出身の代議士の集まりである宏池会の経済顧問のような立場であった。
 むろん下村のほかにも稲葉秀三などのエコノミストたちも池田の周囲に集まった。かつて私は宮沢喜一に、戦時下の大蔵官僚としてどのような仕事をしていたのかを質(ただ)した時に、宮沢はいかにも不快げに『アメリカ軍の爆撃により被災した家屋の補償をするような仕事であった』と答えた。被災の状況を見て補償をする、いわば大蔵省は損害保険会社のような役割を果たしていたのである。こうした仕事は気位の高い大蔵官僚には何とも屈辱であっただろう。
 さらに付け加えるならば、大蔵官僚は戦争の14年間、ほとんど平時の予算の組み方ではなく、戦時予算、そして臨時軍事費などの予算ばかりを組んできたことになる。平時の予算の組み方は、忘れる状態になったとしても不思議ではなかった。この14年間、大蔵官僚はまるで冷や飯を食らわされていたといってもよかった。その不満が高度成長期に爆発し、戦争の時代への復讐となったといってもよかった。はっきり言えば、高度成長は戦争時への意趣がえしだったのだ。
 戦後の一時期を担っていく指導者、なかんずく経済成長に関わる指導者は、戦時下ではその能力を発揮できないどころか、まるで子供扱いされたと言ってよかった。高度成長が戦争に対する復讐であるという視点で見れば、宮沢や大平をはじめとする宏池会の面々が護憲的な体質を持ち、軍事に一線を引いたのは当然と言えた。彼らは政治より経済で、日本人の意識改革を考えたのも無理はなかった。
 池田首相の秘書官で、宏池会の事務局長を務めた伊藤昌哉は、いわゆる『60年安保』の時に国会を幾重にも取り巻く学生デモ隊を見て、『このデモ隊のエネルギーを経済に向けたなら、日本の経済成長は飛躍的に伸びるだろうな』と実感したと語っていたが、その心理はまさにこのころの宏池会の本音だったのである。
 池田首相をはじめとして宏池会に集まっている政治家で、高度成長の中心に座った経済通は太平洋戦争の教訓を自覚しつつ、次のような意思を持って高度成長政策を進めたと思う。箇条書きにしてみる。
 (1)高度成長は戦争の荒廃から立ち上がる国民の熱意と労働観である。
 (2)太平洋戦争には明確な指導方針がなかったが、高度成長は理論の忠実な実践である。
 (3)太平洋戦争の主計将校による戦争の原価計算を生かす。
 (4)国民のエネルギーが爆発的な力を生むように政治的に誘導していく。
 (5)国際社会での日本のイメージを戦争から経済に変えていく。
 この五点を基に考えていく、高度成長の14年間が戦争の14年間の教訓の上に成り立っていることがわかってくる。
 ……
 戦争と経済は昭和史の裏と表
 池田首相の所得倍増計画では、具体的には民間企業の設備投資計画が凄(すさ)まじい勢いで進んだ。『昭和大蔵省外史(下巻)』によると、『昭和35年の896億円に続いて36年も同じような勢いで進行し、機械、石油化学、鉄鋼、合成繊維などの部門を中心として、年間3兆9,000億ドルに達し』ている。この伸びは少々異様とも言うべき状態であった。山際正道日銀総裁公定歩合の引き上げにより市中での金融の流れを止めるように要求したが、池田とそのブレーンは当初は耳を傾けなかった。しかし設備投資は原材料の輸入増加に伴い、貿易収支の赤字に繋がることになる。
 高度成長への批判も案外多くの識者が論じるようになった。設備投資の過剰による企業の負担も論じられた。日本はまだそれほどの体力がないとの声もあった。しかしそういう声にも池田やブレーンたちは耳を貸さなかった。闘いは始まったばかりなのに、というのが池田たちの声だった。このころの池田や下村たちは、戦後復興の段階を経て日本社会の構造や日本人の意識を変えようと考えていた。生活環球だけでなく、生活の方法も変えようとしていたのだ。
 私の見るところ下村や伊藤らの心中では、軍事になじまない体質をつくろうと試みていたかに見える。それが太平洋戦争からの教訓であり、軍事批判でもあった。
 実はこのことはもっと別の表現で語ることもできた。私が言う戦争の14年間、経済での14年間という語には、一つに池田首相とその周辺の人々の反軍事論、そしてもう一つには海軍の短期現役士官制度を指している。この人脈が経済の14年を支えた人脈であった。この短期現役制度は一般には『短現』といわれるのだが、要は海軍の先見性による優秀な人材確保の手段であった。
 海軍は昭和13年4月の第1期生から20年4月までの間、一般大学の法学部、商学部、経済学部などをすでに卒業していて官庁や大企業に入っている者を徴用して一定期間、特別教育を施して主計将校として軍人に仕立てあげる静システムを取っていた。要は彼らは戦争の原価計算を行うのである。一つの海戦で空母が沈められたとすれば、どれだけの金銭的な損害を受けるのか計算する役割である。この短期現役制度により、総数で3,555人が主計将校となった。ちなみに戦死者は408人である。
 しかし生存者は大体が戦後は大企業に、あるいは金融機関に、そして官庁に身を置いている。彼らは高度成長策の時代に中堅から上級の幹部になっていた。まさに高度成長の牽引役に育っていたのだ。彼らが戦争体験を逆手にとって、そこで学んだ原価計算を高度成長政策の中心に据えたのである。このような人脈を俯瞰(ふかん)していくと、戦争と経済の各14年間は昭和史の裏と表の関係だと理解できる。」
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 日本の総人口は、1867年の明治維新時に約3,000万人だったのが1945年の敗戦時では約7,000万人に激増し、1980年頃には1億2,000万人へと爆発した。
 明治期の殖産興業と昭和期の戦後復興、高度経済成長は、約3,000万人から約1億2,000万人への人口爆発期で起きていた。
 企業は、多額の借金をしてまで設備に投資して工場を建設して拡大路線に走り、大量の従業員・社員を雇用して多額の給料を払った。
 日本は、成功モデルとして規制による護送船団方式、経営モデルとして終身雇用、年功序列、新卒者春一括採用、毎年一律の昇給、福利厚生の充実、失業者救済、再就職斡旋などを完成させた。
 作れば売れる状況からさらなる増産を行う為に稼いだ金を設備投資に回し、正業以外でも利益を上げる為に株に投資する、というバブル経済に突入した。
 異常な大量生産・大量消費時代である。
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 日本は、北から侵略してくるロシアから如何にして日本を守るかという、江戸時代後期からの国防課題を解決する為に明治維新を断行し、富国強兵・殖産興業・良兵育成の近代教育という近代化を急いだ。
 日本の軍国主義は、ロシアや清国(中国)の侵略から母国を守る為に採用できる唯一の手段であった。
 日本には、自衛手段として軍国主義以外に道がなかった。
 日本の敵とは、北のロシア、西の中国と朝鮮であった。



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