🍙30〗─4─戦争孤児はオンボロ収容所で非道な仕打ちを受けていた。〜No.200 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代の教育、歴史教育は、善い悪いではなく本当の事を教えない。
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 日本人は心が優しく子供を愛して大切にするは、ウソである。
 子供達はもちろん大人達は、戦争孤児をいじめ、意地悪していた。
 日本人が弱者をいじめるのは、本性に近い。
 現代日本人が口にする「惻隠の情」は、現代の日本人にはない。
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 厚生省(現・厚生労働省)は、上野駅などの地下道で寝起きしていた戦争孤児人数を調査し、1948年2月1日時点で全国で12万3,511人と確認し、数多くの戦争孤児は犯罪行為に走る浮浪児と見なされ大人や国家や社会から見捨てられ餓死していた。
 1946年昭和21(1946)年10月 GHQは、日本政府に対して、戦災孤児、混血児問題などについて福祉的政策を取るように指示を下した。
 日本政府は、GHQの命令に逆らえず、戦争孤児や路上売春婦を社会から一掃する為に人間狩りを始め、狩り集めた女性や子供達を強制収容所に収容した。
 戦争に負けるとは、そういう事である。
 日本人が好きな「負けて勝つ」など有害無益である。
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 ウィキペディア
 戦災孤児とは、戦争の結果、保護者を失った子供(孤児)全般を指す「戦争孤児」のうち、特に軍の攻撃等により両親を失った者を指す。日本では、第二次世界大戦による本土の空襲や、第二次世界大戦の出征先で戦死によって、生じた子供を指すことが多い。
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 2024年6月18日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「朝ドラ『虎に翼』寅子らが出会う「戦争孤児」がうけた非道な仕打ち オンボロ収容所に子供を押し込めた「狩り込み」とは?
 トラックに乗せられ、収容施設に強制的に連れてこられた子供たち。
 NHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』は第11週「家に女房なきは火のない炉のごとし?」がスタート。佐田寅子(演:伊藤沙莉)ら最高裁判所家庭局の面々の課題は、社会問題になっていた戦争孤児たちの救済にまで広がっていた。上野で孤児たちのサポートをしている山田よね(演:土居志央梨)や轟太一(戸塚純貴)と再会した寅子はその現実に直面し、ひょんなことから孤児の道男(演:和田庵)を居候させることにする。今回は道男たちのような戦争孤児がおかれた状況と社会背景を解説していく。
■戦争で家族を失った子供たちは「厄介者の浮浪者」扱いされた
 昭和20年(1945)に入って日本本土への無差別爆撃が激化すると、各地で両親や親族を失って孤児になる子供が急増した。自分が疎開している間に、残った家族と家を空襲で失う子供も多かった。また、終戦後に外地から引き揚げてきた孤児も少なくなかった。昭和23年(1948)2月の「全国孤児一斉調査結果」によると、12万人を超える孤児が存在したという。
 厚生省は、昭和20年9月に「戦災孤児等保護対策要綱」を発表。戦争孤児を「国児」と呼び、そうした子供たちを保護すべく、個人家庭への保護委託や養子縁組の斡旋に取り組むとした。とはいえ、まだ日本全体が終戦後の混乱から抜け出せないなかで、誰もが自分や家族の命を繋ぐことで精一杯だった。見ず知らずの孤児たちに手を差し伸べるだけの余裕などなかったのである。
 結局、孤児たちは徒党を組むなどして身を寄せ合いながら、道端でその日をどうにか生き延びることしかできなかった。物乞いをしたり、ゴミを漁ったりするのはもちろん、露店の手伝いや新聞売り、モク拾い(捨てられた煙草を拾って売る)などをしてどうにか稼ごうとする子供がいた一方で、置き引きや万引き、スリで金品を手に入れようとする子供も少なくなかった。そうしたイメージが先行してしまい、人々は孤児を「犯罪者もしくは予備軍」とみなして疎んじた。
 昭和21年(1946)4月に「浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」、さらに9月に「主要地方浮浪児等保護要綱」が発表されると、「国児」と呼ばれていた孤児たちは今度は「浮浪児」と呼ばれて保護施設への収容が進められるようになった。子供たちは「戦争被害者」から一転して「浮浪している反社会的存在」とみなされるようになっていったのである。
 作中でも描かれたように、取り締まるべき存在とされた子供たちは、半ば強引に児童保護施設や委託家庭に送られる。「浮浪児の発見・捜索・収容施設への強制収容」を指して、当時「児童狩込」などと呼ばれた。
 一連の政策は、日本政府が子供たちを保護しようと主体的に動いたものというよりは、GHQの公衆衛生福祉局が鑑別所や保護施設をつくって早々に子供たちをそこに収容するよう厳命したという背景がある。ゆえに、十分な措置を積極的にとれたかというとそうではない。山田よねや轟太一が寅子らを信じきれないのも、そうした事情をよく知っていたからだろう。
 とにかく食糧も物資も不足していた時代である。収容施設とは名ばかりで、急造したバラックや古い兵舎、工場を利用したケースも多い。窓ガラスは割れ、屋根も壁もボロボロ、畳も傷んで床が剥き出しといった劣悪な環境に、収容定員の何倍もの子供たちが押し込まれ、満足に食事も行き渡らない……という状況が当たり前だったという。まるで罪人のように強制的に収容された子供たちは、過酷な環境に耐えきれずに脱走することも多かった。
 戦争で心身ともに傷つき、身寄りをなくし、社会に見捨てられて不信感を募らせた子供たちと向き合う寅子らは、その先でどのような答えを導いていくのだろうか。
 歴史人編集部
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 2021年6月8日 朝日新聞デジタル記事「描き続ける戦争孤児の体験 どう生き延びたか、生々しく
 重政紀元
 店の前で見送りを断ったのが、母との最後の別れになった=絵はすべて星野光世さん提供
 【千葉】1945年3月10日夜の東京大空襲で両親を失い孤児となった女性が、自身の体験や、同様に孤児となった人たちの体験を絵にしている。「どうやって生き延びたのか」「戦争は子どもたちの身に何を及ぼすのか」――。専門家ではないからこそ描かれた絵からは強い思いが伝わってくる。
 孤児体験を絵にしているのは東京都荒川区の星野光世さん(87)。東京大空襲で両親、兄、妹が死亡。親戚宅に避難していた妹、弟と戦争孤児になった。
 実家は本所区(現墨田区)の繁華街にあるそばや。住み込みで働いていたいとこ3人を含め、にぎやかな暮らしだった。自身は空襲時、小糸村(現君津市)に集団疎開していた。
 疎開すると聞いたときは旅行気分。何の不安もなく、出発当日に母が「学校まで送る」というのも断ってしまいました。それが最後の別れになるなんて思いもしませんでした。
 空襲から一夜明けた日。村の境内には空を覆うほどの大量の黒い燃えかすが次から次に降ってきた。都内とは東京湾を挟み直線で約50キロ離れている。寺にラジオはなく、何が起きたのか分からないまま見守るしかなかった。
 東京が空襲に遭ったと分かったのは1週間ほどたってから。生き残った家族が疎開先の子どもたちを引き取りに来るようになり、50人ほどいた級友が半数ほどになった時だった。寺を訪れた伯父から両親らの死を告げられた。
 不思議と涙は出ませんでした。泣き伏せる友だちを見続け、「次は自分だ」という思いがあったかもしれません。自宅の焼け跡を訪れたときも泣くことはありませんでした。
 当時11歳。8歳の妹、4歳の弟と苦難が始まったのは5月に新潟県の父の実家に引き取られてからだ。叔父は出征し、3人の幼子を抱えた叔母と祖母がわずかな畑を耕すだけ。日々の食事は米粒が浮くようなかゆだった。祖母の口調はきつく、自分たちがお荷物なのは嫌というほど感じた。
 しばらくして隣村の親戚宅に一晩泊まりに行くことになった。山越えして着いた家ではごちそうが振る舞われ、「きょうからこの家の子になるんだ」と言われた。「人買いに売られるのでは」という恐怖で、夜明け前に3人で逃げ出した。
 この家だって子どもが何人もいて苦しいのに養ってくれるはずがありません。8月なのに雪が残る山頂近くまで来たとき、初めて涙が出ました。助けてほしくても両親はいない。こんな惨めな思いはその後もしたことはなかったです。
 丸1日、山道を歩き続け父の実家に戻ると、最初は「何だ、おまえたちは!」と怒鳴った祖母も泣き崩れた。
 怖かった祖母も本当は善人だったのだと思います。ただ、戦争の不条理が原因で、私たち以上につらい思いをしていたのかもしれません。
 その後も生活は苦しかった。「1年だけ」ということで妹とともに千葉の母方の親戚宅に引き取られることになった。だが、約束は果たされず、残された弟と再会できたのは10年以上たってからだった。
 預けられた親戚宅では農繁期には学校を休んで手伝いをした。約10年間、働き続けた後、上京することを決めた。肉屋での店員、建設事務所などでの仕事を重ね、28歳で結婚した。
 自然の中での農業は楽しかった。でもこのままではずっと自由がない。自分の人生を生きることの象徴が東京でした。花嫁衣装もない結婚式でしたが、ゼロから自由に生きたいという私にはふさわしかった。
 2人の子どもにも恵まれた暮らしの中で転機になったのは、2003年にすみだ郷土文化資料館(墨田区)による空襲体験の絵画の募集だ。疎開に出た後から絵を描くことなど全くなかったが、迷うことなく、山道を逃げたときの体験を描いた。
 その後、ほかの孤児の体験談をもとにした絵も描き始めた。自費出版で出した冊子が専門家に評価され、2017年に「もしも魔法が使えたら 戦争孤児11人の記憶」(講談社)として出版された。昨年には、自身が空襲で家族を奪われながら戦後、500人以上の孤児らの世話をしてきた鎌田十六さんの体験記もまとめた。
 10万人以上が殺され、私を始め多くの人の人生を変えた東京大空襲はあまりにも知られていない。戦争が子どもたちの身に何をもたらすのか、いまの子どもたちに知ってほしいんです。
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 星野さんが自身の体験を描いた絵は9~13日に千葉市中央区の「きぼーる」で開かれる「ピースフェア」で展示する。(重政紀元)
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 BOOKウオッチング
 日本はなぜ「空襲被害者」を救済しないのか?
2020/8/14
 戦争が終わって75年も経つが、今も戦争の傷がいえない人がいる。その代表例が「戦争孤児」といわれる人たちだ。本書『かくされてきた戦争孤児』(講談社)は、戦後社会に無視され、置き去りにされてきた孤児たちの口惜しさと無念の思いを、孤児自身による調査や聞き取りをもとにまとめた貴重な一冊だ。
 東京大空襲で大量の孤児
 著者の金田茉莉さんは1935年、東京・浅草生まれ。「戦争孤児の会」元代表。空襲で母と姉妹を失い、国民学校3年生で孤児となる。40年間孤児だったことを明かさずにいたが、大病をきっかけに「戦争孤児の会」に入り、集団疎開、空襲の実態を調査。孤児たちがたどった過酷な人生の記録を後世に語り継いでいこうと語り部活動に努めている。
 これまでに『母にささげる鎮魂記』『夜空のお星さま』を自費出版。共著に『平和のひろばを求めて』などがある。2019年吉川英治文化賞を受賞している。
 戦争孤児は約12万人といわれる。東京では、東京大空襲で大量に生まれた。金田さんもその一人だ。
 東京の子どもたちは戦況が悪化する中で地方に集団疎開。親は東京に残っていた。1945(昭和20)年3月10日、東京大空襲。下町を中心に10万人以上が亡くなった。
 金田さんが通っていた浅草区国民学校では、約500人が宮城県疎開していた。そのうち108人が、この空襲で孤児になったという。
 金田さんの家では3歳の時、卸商の父が病死、母が商売を引き継いで支えてきた。金田さんが宮城から夜行列車で上野駅に戻ると、空襲で見渡す限り一面の焼け野原。6月になって母と姉の遺体が隅田川で見つかった。母35歳、姉14歳だった。7歳の妹は行方不明のままだった。
 「まだ成仏できないのか・・・」
 金田さんは関西の親戚の家に預けられた。そこで徹底的にいじめられ、冷遇された。これは戦争孤児でしばしばあるケースだ。食糧難の時代。押し付けられた子どもを食べさせることはどの家でも大変だった。
 ところが、金田さんの場合、親戚の家はそれほどお金に困っていなかったという。むしろ羽振りが良かった。自分の娘は、お嬢様学校に通わせていたが、金田さんは下女扱い。まるで「シンデレラ」の世界だ。
 のちに、とんでもないことを知る。空襲の焼け跡から父母が残した貯金通帳が見つかり、父の親友が、それをこの関西の親戚の家に送っていたというのだ。家が何軒も建つ金額だった、という。つまり、その親戚の家は、金田さんの親の貯金を使って家や工場を建て替え、贅沢をしていたことが発覚する。
 のちに、当時いっしょに暮らしていた従兄から電話があった。子どもが生まれたので、名前を付けようとして偉いお坊さんに相談したら、「この子には川で亡くなった身内の人の霊がついている」といわれたとのこと。「川で亡くなった」のは金田さんの母や姉だ。「まだ成仏できないのか・・・」と、そのとき思ったという。
 「戦争孤児実態調査」の最新記録
 戦争孤児の多くは、孤児だった過去を隠して生きている。何かと差別されるからだ。金田さんもそうだったが、48歳のときの大病で人生観が変わったという。いつ死ぬか分からないと思い、身辺整理していたら、天袋の奥から娘時代の日記や手紙が出てきた。
 そうだ、母にこれまでの人生を報告しておこう。――そう思って『母にささげる鎮魂記』『夜空のお星さま』を自費出版、それが機縁となって学童疎開を研究する会に入り、孤児調査に深く関わることになる。
 本書は以下の構成。
  第一章 戦争孤児と私
  第二章 学童疎開と戦争孤児
  第三章 隠蔽されてきた疎開孤児
  第四章 全国孤児一斉調査と戦後の生活
  第五章 浮浪児
  終章 まとめに代えて
 戦争孤児だった著者が、自身の境遇と仲間の証言などをもとに、戦後に生きた孤児たちの真実を明かす内容となっている。「戦争孤児実態調査」の最新記録だ。「孤児へのアンケート調査」「自殺を考えた孤児たちの証言」「明らかにされてこなかった戦争孤児問題」「孤児学寮」「孤児から浮浪児へ」「養子に出された孤児、身売りされた孤児」「浮浪児施設」「心の傷」などが細目で記されている。
 国に見捨てられてきた
 金田さんは空襲で家族も、友人も、故郷も失った。自殺も考えたが、「自殺すると天国で母と会えない」と聞いて、ぎりぎりのところで踏ん張って生きてきた。
 「我々は、いつまでたっても孤児から卒業できないのだ」
 ある孤児から、金田さんが聞いた言葉だ。戦争孤児には生存権も、教育を受ける権利も、文化的な生活もなかった。さらに親の遺骨もない悲しさ、辛さを抱える人も多い。
 金田さんは何とか生き抜いてきたが、劣悪な生活の影響で、中学一年で嗅覚を失い、若くして右目が見えなくなった。今も毎年、東京大空襲があった3月になると頭痛がして、胸が苦しくなる。
 日本の戦争孤児は、国に見捨てられてきた、という。フランスでは孤児年金があり、福祉などで厚遇されている。同じ敗戦国のドイツでは、戦争被害を受けなかった国民が私有財産を提供し、戦争被害者を救済する制度がある。日本では軍人・軍属には手厚く、国はこれまでに60兆円の国家予算を使っているが、空襲死者やその遺族に対しては、いっさいの援助がない、と憤る。
 戦後の日本社会が目を塞いできた戦争孤児の問題が、本書を通じて明らかになる。単に政治の怠慢にとどまらず、私たちすべての怠慢だと感じた。
 BOOKウォッチでは関連本をいくつか紹介済みだ。本書と同じく講談社刊では、『もしも魔法が使えたら』がある。やはり東京大空襲で孤児になった星野光世さんが、自身と10人の戦争孤児の体験を絵と文章にしたものだ。『「駅の子」の闘い――戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』 (幻冬舎新書)は、駅をねぐらにしていた戦争孤児たちの記録だ。NHKスペシャルがもとになっている。
 類書では、ノンフィクション作家の石井光太さんの『浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち』(新潮社)がある。BOOKウォッチでは石井さんが現代の「孤児」に迫った『漂流児童』(潮出版社)、『本当の貧困の話をしよう』(文藝春秋)、『育てられない母親たち』(祥伝社新書)なども紹介している。
 このほか、『「混血児」の戦後史』(青弓社)、『戦中・戦後の暮しの記録--君と、これから生まれてくる君へ』(暮しの手帖社)なども紹介している。
 ( aki)
 書名
 かくされてきた戦争孤児
 監修・編集・著者名
 金田茉莉 著
 出版社名
 講談社
 出版年月日
 2020年3月 6日
 定価
 本体1600円+税
 判型・ページ数
 四六判・304ページ
 ISBN
 9784065164815
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 2021年8月10日 中日新聞「戦争孤児泣きながら死んだ 忘れないで体験語る
 戦争孤児として駅を転々とした体験を語る小倉さん=京都市内で
 戦争孤児として駅を転々とした体験を語る小倉さん=京都市内で
 1945年3月、敦賀国民学校の学芸会で主役の桃太郎を演じた6年生の小倉さん=本人提供
 敦賀空襲後路上生活の小倉さん
 太平洋戦争終盤に敦賀市であった敦賀空襲で母親を亡くし、戦後に孤児として福井や大阪などの駅を転々として生き延びた男性がいる。同市出身で京都市に住む小倉勇さん(89)。食べていくために仲間と盗みを繰り返した。「胸を張って言う話じゃない」とこれまで過去を語ってこなかったが、社会の戦争への記憶が薄れていく中で「僕たち戦争孤児が歴史に何も残っていない」と重い口を開き始めた。 (高野正憲)
 一九四五(昭和二十)年七月十二日の夜。当時十三歳の勇さんは近くの父方のおばの家から帰る途中、米軍の空襲に遭った。「焼夷(しょうい)弾と爆弾が、まぜこぜに落ちてくる。恐ろしくって必死に街の外へ逃げた」。翌朝、街へ戻ると母まつさんは近くの貯水槽で亡くなっていた。足を骨折していたため、逃げ切れず飛び込んだのだろうか。「本当に悲しいと涙も出ない」。学校で百点を取ると、鍋焼きうどんを食べに連れていってくれた。それが働き者の母との唯一の思い出だった。
 父は軍属の船員として朝鮮半島に出ており、復員後すぐに病死。身寄りのない勇さんは近くの親戚の家を転々とした。終戦前後の物資が乏しい時代、居候は冷たくあしらわれた。一年余りたって、耐えかねた勇さんは敦賀を飛び出し、福井駅に向かった。「戦争より苦しかった路上の生活」が始まった。
 福井駅で出会ったのは、同じく孤児で一歳年下の山ちゃんとカメちゃん。本名は知らない。お互い過去は聞かないのが暗黙の了解だった。闇市のある武生駅に移って、空腹を満たすため三人で空き巣に入った。取った金で買った薄いおかゆをすすり、駅近くの神社のえんま堂で眠った。一カ月が過ぎ、「大阪に行こう」と勇さんは切り出した。
 だが、たどり着いた大阪駅で「地獄を見た」。ガード下には、自分より年下の孤児が多くいた。幼い子どもは盗みができない。駅の利用客へ物乞いをしては、たたかれ、蹴飛ばされ、泣いて死んでいった。
 盗みで何とか命をつなぎとめていた勇さんも、栄養失調のせいか、両目の視力を失った。さらに移った東京では、カメちゃんが電車に飛び込んで命を絶った。「孤独になったんじゃないかな」と勇さんは胸中を酌む。
 二年間の過酷な路上生活は、京都駅で保護されたことで終止符が打たれた。孤児を収容する京都市内の施設「伏見寮」の指導員「黒羽先生」に銭湯へ連れ出され、勇さんは背中をゴシゴシと洗われた。久しぶりの優しさに触れて「びっくりした。この先生の言うことを聞かないと、俺はクズになる」。路上での生活で募らせた大人への反抗心が、一気に解きほぐれた。「僕たちはぬくもりを求めていたんですよ」
 黒羽先生は「君には勉強をして社会に役立つ人間になってほしい。悲しいことがあったら、ここに帰ってくるんやで」と説いた。この言葉を支えに盲学校に通い、卒業後はマッサージ師として生計を立てた。
 二〇一九年に敦賀空襲の日に合わせ敦賀市の本勝寺で法要が開かれると聞いて以来、毎年参列している。今年の七月十二日、勇さんは両手の指をがっしりと組み、目に涙を浮かべて祈りをささげた。「とにかくこの日が来ると怒りと悲しみが込み上げる」。法要を終えて言った。
 ここ五年で自身の体験を語る活動に力を入れている。思い浮かべるのは、死んでいった孤児たちだ。「戦争をしたのは大人の責任なのに、犠牲になるのはいつも一番弱い人たち」。彼らが歴史から忘却されるのが許せない。「泣きながら路上で死んだ子どもがいたことを伝えていかないと」と、言葉に力を込めた。
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