🍠27〗─1─人口の過剰における多産奨励策と乳児死亡率減少策。1920年代~No.81No.82No.84 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本人は、「親獅子が我が子を千尋の谷に落として這い上がってきた子獅子のみを育てる」という逸話が好きである。
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 日本の精神風土は、昔あった命、今ある命、生まれ来る命、という命の連続性を大事にしていた。
 それが、日本神道における祖先神・氏神様の人神信仰である。
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 2018年10月3日 読売新聞「乳児を死なせない
 関東大震災後の知られざる奮闘 
 和田みき子
 2016年、日本の乳児死亡率(出生千あたり)は2.0まで下がった。
 今日では考えられないが100年前、その数値が1900年の155から1910年161に上昇、1910年半ば以降、大阪市では200を超えていたとされる。つまり生まれた子供の5人に1人が1歳になる前に亡くなっていたのである。
 こうした事態を受けて1916年、内務省衛生局に保健衛生調査会が設置され、後藤新平の内務大臣就任を待つように活動を開始する。そして1920年、児童及び妊産婦の健康増進に関して実行すべき事項を決定し、産院の設置(巡回産婆、産婆養成機関、妊婦相談所の併設)、育児相談所の設置(牛乳供給所の併設)等15項目に及ぶ建議が提出される。
 これを契機として経営主体も形態も様々な活動が各地に展開されていく。
 この年、後藤は国政を離れて東京市長に就任。1922年、ニューヨーク市政調査会をモデルに、都市政策を補完する調査研究機関、東京市政調査会を設立した。
 1923年、関東大震災が発生すると再び内務大臣に就任、帝都復興院を創設しその総裁として、牛乳配給事業等の救済事業、市立産院や社会事業施設の新設等を含む大規模な復興計画を立案した。大打撃を被った大震災をこうした事業の発展の機会としてとらえ利用したのである。
 その2年後、経済統計学者、猪間驥一が東京市政調査会の研究員となったとき、事業の成果は徐々に現れていた。
 猪間が注目したのは神戸市で始まり都市が経営する巡回産婆事業であった。乳児死亡がもっとも起こりやすい生後数日の間、毎日訪問して観察し適切な注意を与えることのできる巡回産婆には出産介助以外の効果も期待できるというのである。そのためには産婆教育のレベルアップも求められた。
 1920年代は人口の過剰が取りざたされ、食糧問題が喫緊の課題となり失業者が道に溢(あふ)れるような時代であった。その解決策を求め、1926年、九州帝国大教授、高田保馬の『産めよ殖えよ』と題する論文に端を発した人口論争は、当初の多産を放任するか否かの争いから、貧困の原因を探るマルサスマルクスかの対立まで発展する。
 猪間はこの論争からは距離をおき、人口が過剰といわれる時代にあってもやがて少産の時代にも、重要なのは生まれた子供を死なせないで育て上げること、つまり乳児死亡率を減少させることであると主張した。当時、人口増加を抑えるために、病気に負けない種のみが生き残ることををよしとする風潮がある中でこれは画期的な考え方といえる。
 乳幼児死亡率は1930年に124,1940年には90まで低下する。
 妊産婦保護事業は、軍国主義化と結びつけられて否定的に論じられることが多いが、乳児死亡率の低下はどんな立場の人にも有益なはずである。
 猪間は1930年代、東京商大(現一橋大学)教授、上田貞次郎が主宰する人口問題研究グループに参加する。猪間の研究を継いだ多産が多死をもたらすという結論を得た上田は、人口増加の勢いにかげりが見えた1939年、民族衛生研究会が発表した標語『産めよ殖やせよ』に危機感を覚え、そこに『育てよ病ますな』という標語を併置するようになる。
 この事業の意図するものが多産奨励策とは対極にあったことが確認できよう。
 来年、後藤は没後90年、猪間は50年を迎える。こうした先人たちによって乳児死亡率減少への一歩が踏み出されたことに思いを馳(は)せる機会となれば幸いである」
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 戦前の日本は、現代の歴史教育が否定的に教えるような、侵略戦争に明け暮れた暗黒時代ではなかった。
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 1920年代、日本は人口爆発期にあって、深刻な食糧問題と溢れる失業対策で苦慮していた。
 日本は、過剰人口を南北アメリカ大陸への移民で緩和しようとしたが、アメリカ政府は排日移民法や排日土地法などの人種差別政策で日本移民を拒絶した。
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 戦前の日本は、国民は天皇の臣民で子供は国の宝とされ、子供は地域社会が大事に育ていていた。
 助け合うという地域社会が崩壊したのは、1945年8月15日に敗戦によってである。
 その為に、数多くの戦争孤児が東京・大阪などの大都市の主要駅にたむろし、救済の手が差し伸べられる事なく餓死した。
 戦争孤児などの弱者を救済するのは、西洋キリスト教文明世界ではキリスト教会であったが、日本では行政と地域社会であった。
 敗戦によって、国家・政府や地方自治体はGHQの支配下に置かれ機能不全となり、地域社会・大人達も戦争孤児が餓死しようとも助けるゆとりはなかった。
 日本は、弱者に冷淡で薄情であった。
 戦争孤児であれ戦傷者であれ障害者・身障者であれ、無慈悲に、健常者や大人並みの自己責任・自己努力・自力救済を強要する。
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 戦争孤児は両親を持つ子供からいじめられていたが、大人達はそれを止めようとはしなかった。
 そればかりか、親たちは、我が子が戦争孤児に近づく事を厳しく禁じ、戦争孤児を我が子から遠ざけようとした。
 日本社会では、親がいない子や片親の子は嫌われ、差別された。
 日本は、己が不運を嘆きしかない絶望社会であった。
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 日本の宗教団体は、キリスト教会のように無償の奉仕・隣人愛で戦争孤児・戦傷者・障害者・身障者などの弱者を助けはしない。
 そもそも、無宗教無神論に近い日本民族日本人自身が現実の苦しみで宗教団体に助けてもらおうとなどと念った事がない。
 つまり、宗教が説く神や救世主の奇跡・救済・恩寵などは信じてはいなかった。
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 日本社会では、健常者による障害者・身障者などの弱者に対するイジメや嫌がらせが酷い。
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 家族を助けるのは実の親だけであるがゆえに、いざとなれば他人の子供や弱者は切り捨てた。
 自分の事は自分で責任を持つ、他人に頼らない、他人任せにしない、他人のせいにしない、それが日本民族日本人の生き方であった。
 それが、国家、政府、行政、自治体であっても同様である。
 ある意味、日本は心弱い者には生き辛い社会である。
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 キリスト教マルクス主義共産主義)が、日本に根付き辛いのは日本民族日本人の気質による。
 その意味で、キリスト教マルクス主義共産主義)を日本に根付かせる為には日本民族日本人の気質を破壊、消滅させる必要があった。
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 当時の日本人は、現代の日本人より思慮分別がり、今何が問題で何をすべきかという思考力と行動力があった。
 現代の高学歴出身知的エリートと昔の高学歴出身知的エリートとは、本質が違う。
 モリカケ問題における、政府と議会、政治家と官僚、そしてメディア関係者の言動を見れば、その違いが明らかである。


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