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2023年7月1日 MicrosoftStartニュース 毎日新聞「江戸期最速の光通信? 危険な参勤交代助けたのろし通信網
「小島浦高松」の狼煙場遺構。側面に石組みが残る=岡寺良氏提供
© 毎日新聞 提供
枯れ草などを焼いて煙を上げ、瞬時に情報を遠くへ伝える狼煙(のろし)。江戸時代の日本では、九州や瀬戸内海沿岸の各藩が海防や参勤交代時の速報に重用していた。東西約40キロに及ぶ日本一細長い半島、愛媛県・佐田岬(さだみさき)半島(伊方町)には、細かく、確実迅速な狼煙場(のろしば)の通信網が宇和島藩によって構築されていた。「江戸期最速の光通信」ともいえる実態は--。
佐田岬半島に残る12カ所の狼煙場遺構を2020年に調査した若杦(わかすぎ)善満・福岡県苅田町歴史資料館学芸員(考古学)、岡寺良・九州国立博物館主任研究員(現立命館大学准教授、考古学)が伊方町・町見郷土館の最新研究紀要に「宇和島藩の参勤交代と狼煙場 伊予佐田岬半島の狼煙場と遠見番所」と題して発表した。
元禄年間の文書によると、参勤交代時の宇和島藩は藩主が乗る御座船「大鵬丸」(全長約31メートル)など約10隻が船団をつくり、水夫(かこ)らによる櫓(ろ)こぎと、場合により帆を使って航海した。宇和島から豊後水道を北上し、瀬戸内海航路をたどって大坂(大阪)に上陸し、陸路で江戸へ向かうのが参勤交代のルート。復路はその逆で、最大の難所は佐田岬半島沖だった。潮流が複雑な速吸瀬戸(はやすいのせと)(豊予海峡)の通過には古くから危険が伴った。このため藩主は往復時とも半島の付け根付近で下船し、南北約1キロと半島の幅が最も狭い塩成堀切(しおなしほりきり)(伊方町塩成~三机(みつくえ))を陸路でまたぎ、船を待った。その航行状況をつかむため、半島各所に置いたのが狼煙場。参勤交代に欠かせない施設だった。
現地調査では、文献史料に残された「小島浦高松」「小島浦赤崎」の2カ所で石組みの狼煙場遺構を確認した。いずれも短軸1・5~2メートル、長軸2~3メートルの長方形で、天草諸島や五島列島で確認された狼煙場の石組みと形状が似ていた。香川・高松藩の狼煙場遺構など四国各地に残る円形の遺構とは形状が違うことが興味深いという。
また、狼煙場の配置と距離感について若杦さんらは半島の北側に集中する5カ所に注目した。「それぞれ2~3キロ、長くても4キロと、他の区間より明らかに短い。(藩主下船後に)塩成を出た船が半島の先端を無事通過したことを知らせるもので、その伝達を藩が重要視していたと考えられる」という。
一方、合図の意味は御座船到来という限定されたものであるため、いくつもの緊急事態が想定される遠見番所とは違い、複雑な情報を伝える必要はなかったようだ。
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調査地のうち、遠見山(標高130メートル)の山頂から異国船を常時監視するため置かれた遠見番所「三机遠見」の跡地には昭和の戦争遺構が残っている。戦時中の「三机防空監視哨(かんししょう)」だ。国民学校、青年学校の生徒、卒業生らが24時間態勢で動員され、双眼鏡などで終戦まで空襲を監視したのが監視哨。戦局悪化で日本が開催を返上した1940(昭和15)年の「幻の東京五輪」を記念して生産されたとみられる五輪マークの茶わんがこの地で既に採集されている。【松倉展人】
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