🐡6〗─4─天明の大飢饉。お伊勢講。御所千度参り。お蔭参り。天明の打ちこわし。〜No.23No.24No.25 

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 天明の大飢饉とは江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。
 経緯
 東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約30年前の宝暦年間(1751年-1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた。
 被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている。しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が10数万人に達したとも伝えられており、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる。
 農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。それ以前の1786年には異常乾燥と洪水が起こっていた事も重なり、1787年天明7年)5月には、江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われ、無法状態が3日間続いたという。その後全国各地へ打ちこわしが波及した。これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。
 背景
 幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。しかし行きすぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川が耕作地に近接しすぎることで、洪水を頻発させ生産量低下の原因にもなった。
 さらに当時は、田沼意次時代で重商主義政策が打ち出され「商業的農業の公認による年貢増徴策」へと転換され、地方の諸藩は藩財政逼迫の折に、稲作の行きすぎた奨励(結果的に冷害に脆弱であった)や、備蓄米を払底し江戸への廻米に向けるなどの失政が重なった。大凶作の一方で米価の上昇に歯止めがかからず、結果的に飢饉が全国規模に拡大することとなった。これは、国内における飢餓輸出と同様の構造である。
 またコメを作物として見た場合、当時は耐寒性イネ品種が普及する以前であり、本来温暖な地域で生育する作物を寒冷な地域で作付けしたため、気温低下の影響を受けやすく、減作や皆無作などの危機的状況を招きやすかった。現在でこそ(コシヒカリなどの)冷涼地向き品種の作付けが主流となり、かつ冷害への対処技術も確立している日本の稲作であるが、当時は栽培技術や品種改良技術も未熟であったため、寒冷地での安定した収穫は困難であった。

 異常気象の原因
 異常気象の原因は諸説あり完全に解明されていない。有力な説は火山噴出物による日傘効果である。1783年6月3日 アイスランドラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と、同じくアイスランドの1783年から1785年にかけてのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の噴火である。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を招いた。天明の飢饉のほかフランス革命の遠因となったという。また天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が噴火、8月5日には浅間山天明の大噴火が始まった。降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉を、悪化させた。なお、ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は10年程度続いたと考えられる。 しかし異常気象による不作は1782年から続いており、1783年6月の浅間山とラキの噴火だけでは1783年の飢饉の原因を説明できない。
 大型のエルニーニョ現象が1789年 - 1793年に発生して、世界中の気象に影響を与え、天明の飢饉からの回復を妨げたとの説もある。[誰?]
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 幕末トラベラーズ~
 日本史用語集
 江戸時代
 天明の大飢饉ってなんのこと?
 天明の大飢饉天明2年(1782年)~天明8年(1788年)
 天明の大飢饉は、天明年間に東日本を中心に発生した、江戸時代最悪と言われた飢饉のこと。
 解説
 江戸時代には飢饉が多く、全国で120~130回をかぞえたといわれますが、そのなかで三大飢饉といえば、享保の飢饉(1732年)、天明の飢饉(1782年~)、天保の飢饉(1833年~)です。享保の飢饉は西日本中心だったのに対し、天明天保の飢饉は全国的な規模でした。なかでももっとも深刻な被害だったのが天明の大飢饉でした。
 東日本では天明2年(1782年)から天候不順がすすんでいましたが、翌天明3年になって冷害、長雨、洪水がつづき、春から晴天の日がほとんどなく、夏でも冬の着物が必要なほどの寒さだったといいます。さらに天明3年7月には浅間山の大噴火による降灰で田畑が埋まって被害が拡大しました。
 とりわけ北関東、東北地方が悲惨でした。盛岡藩(南部藩)では全人口35万人のうち餓死者、病死者が6万人以上、弘前藩では10数万人以上も出たとされます。ひどいところでは犬、猫はもちろん餓死者の人肉までも、食べられるものをすべて食べ尽くしてもなお餓死する者が相次ぎ、道端には行き倒れた者の遺骸や骨が累々と重なっていたといわれています。
 天明3年の米の収穫は、石高59万石の仙台藩がたった2万5000石しかとれず、25万石の盛岡藩は6万石余りしかとれず、24万石の弘前藩にいたってはなんと収穫高ゼロでした。このことからもいかにすさまじい飢饉であったかがわかりますね。
 ちょっと詳しく…
 こうした悲惨きわまりない飢饉の原因はもちろん第一には自然災害ということなのですが、幕府や藩の政策にも問題がありました。
 当時、飢饉におそわれた藩があっても周囲の藩がそれを援助することはなく、多くは自藩の食糧を守るため、津留 (つどめ) という物資の流出をふせぐ措置をとっていたのです。また、もともと東北地方の気候は米の栽培には向いていなかったため、米以外の作物もつくられていましたが、江戸期に米の増産を強いられて水田の割合をふやした結果、天候不順がすぐに飢饉をまねく体質となっていました。またふだんから食糧を備蓄する余裕がなかったことも要因としてあげられるでしょう。
 飢饉につづいて疫病も流行し、全国で90万人以上が死亡したといわれます。避難民が農村から江戸へ流れ込んで治安が悪化し、江戸や大坂で米屋、商家の打ちこわしが起こり、騒動は全国にひろがりました。こうしたなかで富裕商人を厚遇していた田沼意次は批判をあびて失脚し、寛政の改革が開始されたのでした。
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 御所千度参りは、天明7年6月7日 (1787年7月21日)に発生した、京都御所の周囲を多数の人々が廻り、千度参りをした事件。
 この御所千度参りは、天明7年6月7日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。
 京都は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。他にも、有栖川宮一条家などでは茶が、九条家鷹司家からは握り飯が配られた。
 この事態を憂慮した光格天皇京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民へ放出することを決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
 この背景には、天明の大飢饉や、同年4月に徳川家斉が将軍に就任した事から徳政を求める意味もあったと思われる。また、朝廷の行動が実際の救済行動に結びついたことで、尊王論の興隆の一因となった。
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 お蔭参りは、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。お蔭詣で(おかげもうで)とも。数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こった。お伊勢参りで抜け参りともいう。
 お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これが、お蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあった。
 江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石(岩手県)からは100日かかったと言われる。

 お伊勢講
 しかし、制度上は誰でも伊勢神宮参詣の旅に行くことは可能だったとはいえ、当時の庶民にとっては伊勢までの旅費は相当な負担であった。日常生活ではそれだけの大金を用意するのは困難である。そこで生み出されたのが「お伊勢講」という仕組みである。「講」の所属者は定期的に集まってお金を出し合い、それらを合計して代表者の旅費とする。誰が代表者になるかは「くじ引き」で決められる仕組みだが、当たった者は次回からくじを引く権利を失うため、「講」の所属者全員がいつかは当たるように配慮されていたようである。くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになる。旅の時期は、農閑期が利用される。なお、「講」の代表者は道中の安全のために二、三人程度の組で行くのが通常であった。
 出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われる。また地元においても道中の安全が祈願される。参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種、松阪や京都の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産(軽くてかさばらず、壊れないものがよく買われた)を購入する。無事に帰ると、帰還の祝いが行われる。江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、この「講」の仕組みによるところが大きいだろう。
 また、この「お伊勢講」は平時においては神社の氏子の協同体としても作用していた。「お伊勢講」は畿内では室町中期から見られた現象だが、全国的になったのは江戸以降である。江戸時代が過ぎてもこの仕組みは残った。なお戦後は講を賭博行為とみなしたGHQにより解散させられた(無尽講を参照)。しかし、地域によっては現在でも活動を続けている伊勢講もある。伊勢神宮参拝は数年に一度行うのみとして、簡素な宴席のみを毎年行う習慣が残存している地域もある。
 「お伊勢講」が無かった地域では、周囲からの餞別(せんべつ)が旅行費の大半を占めていた。
 
 1650年(慶安3年)
 慶安のお蔭参りは、記録が少なく、詳しいことはわかっていない。「寛明日記」によると、江戸の商人が流行らせたと言う。箱根の関での調べによると、正月下旬から3月上旬までで一日平均500-600人が参詣し、3月中旬から5月までで平均2100人が参詣したという。参詣するものは皆「白衣」を着ていた。
 参詣者:
 当時の日本総人口:1781万人(1650年)
 発生地域:江戸
 期間:1月~5月

 1705年(宝永2年)
 宝永のお蔭参りは、本格的なお蔭参りの始まりで、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。本居宣長の玉勝間の記載によると、4月上旬から1日に2~3千人が松阪を通り、最高は1日23万人である。
 参詣者:330万~370万人
 当時の日本総人口:2769万人(1700年)
 発生地域:京都
 期間:

 1771年(明和8年)
 4月11日、宇治から女・子供ばかりの集団が仕事場の茶山から無断で離れて、着の身着のままやってきたのが明和のお蔭参りの始まりと伝える。
 ピーク時には地元松坂では、自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町の中を通っていった、と当時の日記にかかれている。参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いてきた。集団ごとに幟を立てていたが、初めは幟に出身地や参加者を書いていたが、段々と滑稽なものや卑猥なものを描いたものが増えてきたという。お囃子も、老若男女がそろって卑猥な事々を並べ立てるようなものになった。
 参詣者:200万人
 当時の日本総人口:3110万人(1750年)
 発生地域:山城の宇治
 期間:4月~7月(5ヶ月間)
 経済効果:
 街道沿いの物価が高騰した。白米1升が50文が相場のときに、4月18日には58文に上がり、5月19日には66文、6月19日には70文まではね上がった。わらじは5月3日で8文だったものが、5月7日には13-15文になり、5月9日には18-24文に急上昇した。
 街道沿いの富豪による「施行」も盛んに行なわれた。無一文で出かけた子供が、銀を持って帰ってきたといった事もあったという。初めは与える方も宗教的な思いもあって寄付をしていたが、徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり感謝もしなくなって、中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者も出てきた。

 1830年(文政13年 / 天保元年)
 文政のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識されていた。伝播地域は、明和よりも狭かったが、参加人数は大幅に増えている。
 何故か参詣するときに、ひしゃくを持って行って伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。阿波の巡礼の風習が広まったとも言う。
 参詣者:427万6500人
 当時の日本総人口:3228万人(1850年
 発生地域:阿波
 期間:閏3月初~8月末
 経済効果:86万両以上
 物価上昇が起こり、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されている。
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 天明の打ちこわしとは、江戸時代の天明7年(1787年)5月、ほぼ同時期に江戸、大坂など当時の主要都市を中心に30か所あまりで発生し、翌6月には石巻、小田原、宇和島などへと波及した打ちこわしの総称である。天明7年5月の打ちこわし発生数は江戸時代を通じて最多であり、特に5月末の江戸打ちこわしは極めて激しかった。全国各地で同時多発的に発生した打ちこわし、とりわけ幕府のお膝元の江戸打ちこわしによって当時幕府内で激しい政争を繰り広げていた田沼意次政権派と、松平定信を押し立てようとする譜代派との争いに決着がつき、田沼派が没落して松平定信が老中首座となり寛政の改革が始まることになった。
 概要
 江戸時代の中期以降、都市の発展によって新たな就業形態が発生し、また大商人への資本の集積による中小商工業者の没落、そして荒廃が進んだ農村を離れ都市へやってきた農民たちによって都市貧民層が形成されるようになった。
 都市貧民層は通常、零細な商工業や日雇い就労などによって家族を養う収入を得ることができたが、米価高騰や銭の相場の下落によって容易に貧困状態に陥る生活基盤の脆弱さを抱えていた。天明期に幕政を主導していた田沼意次の政策によって銭の相場が高騰し、さらに天明期は天明の大飢饉をもたらした冷害、浅間山大噴火、関東地方の大洪水などの影響で米が不作となり価格が高騰し、商業の発展によって商人が米を投機の材料とする傾向が強まっていたこともあって、天明7年には全国的に米価が異常に高騰し、全国各都市の都市貧民層の生活は困窮のどん底に陥った。そのような中で天明7年5月に大坂で発生した打ちこわしはまたたく間に全国各地の都市へと広まり、江戸時代最高の打ちこわし件数を記録するに至る。特に江戸での打ちこわしは町奉行による混乱収拾が不可能な状態に陥る激しいものであった。打ちこわし発生後、ようやく困窮した人々への支援策が具体化し、混乱は収拾に向かった。
 天明7年5月から6月にかけて全国を席巻した打ちこわしの結果、打ちこわしの原因を作ったとされ、民衆の批判対象となった田沼意次を支持する勢力が没落し、松平定信が老中に任命され、寛政の改革がスタートすることになる。定信の政権は打ちこわしという民衆蜂起の直接的影響で成立した江戸時代唯一の政権であり、極めて強い危機感を持って大規模な打ちこわしを起こした都市の問題や、都市問題の原因ともなった農村問題などに取り組むことになった。そして全国で同時多発的に打ちこわしが発生し、将軍のお膝元である江戸では激しい打ちこわしによって一時無政府状態に陥った事実は将軍の権威の低下を招き、天皇が将軍に天下の政治を委任する大政委任論の成立と定着をもたらすことになった。
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 天明は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇光格天皇江戸幕府将軍は徳川家治徳川家斉
 天明年間の出来事
 天明2年-8年(1782年-1788年): 天明の大飢饉
 天明3年(1783年)7月6日 : 浅間山で大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化。
 天明4年(1784年)2月23日 : 筑前国志賀島で金印発見。
 天明4年(1784年)3月 : 田沼意知江戸城内で佐野政言に殺される。
 天明4年(1784年): 蝦夷地の開拓が始まる。
 天明6年(1786年)8月 : 田沼意次が失脚。
 天明6年(1786年): 最上徳内、千島を探検し、得撫島に至る。
 天明7年(1787年)4月 : 徳川家斉が将軍に就任。
 天明7年(1787年)5月 : 天明の打ちこわし(江戸・大坂で米屋が打ち壊された事件)。
 天明7年(1787年)6月 : 松平定信が老中に就任、寛政の改革を行う。
 天明7年(1787年)6月7日 : 御所千度参りが起こる。
 天明8年(1788年)1月30日 : 天明の京都大火により、皇居炎上、京都の大半が焼失。
 天明8年(1788年): 尊号一件始まる。
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