🍙54〗─1─『日本 戦争経済史』。昭和60(1975)年に日清戦争の外債償還・借金を完済した。~No.292 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 軍隊を養うのも、戦争をするのも、全てに金がかかっていた。
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 軍国日本は、金欲しさに、「敗戦国から多額の賠償金を強奪する」目的で対外戦争をした事はない。
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 2021年9月号 Hanada「BOOKS & MAGAZINES
 谷口智彦のこの一冊
 『日本 戦争経済史 戦費、通貨金融政策、国際比較』 小野圭司著
 2016年の5月1日、麻生太郎副総理兼財務大臣は、ロスアンゼルスのザ・ビバリーヒルトンにいた。同ホテルを会場に大物投資家たちが集まる会議に出て、英語で一席ぶった麻生氏は、目を丸くさせるエピソードを紹介した。
 日本は信義を守る国だと説くため麻生氏がもちだしたのは、日露戦争の戦費を得ようと高橋是清英米投資家に売りさばいた外貨建て日本国債をお、英米相手の戦争になっても日本はチャラにしなかった。どころか、戦後だいぶ経つまで営々と償還(支払い)したという話だ。『どうです、安全確実ですからひとつ日本に投資を』というワケだった。
 京都大学で経済学を修め、住友銀行(当時)で8年働いたのち1997年以来防衛省防衛研究所に務める小野圭司氏が、このたび『日本 戦争経済史』という本を出した。これを読むと、麻生氏の話は正真正銘ホントだったのだとつくづくわかる。
 日露戦争の戦費に調達した外債を返し終えたのは、1970年。日清戦争の外債償還にはもっとかかって、 完済したのは1985年だと書いてる。『プラザ合意』で日本が世界最大の債権国に躍り出たその同じ年に、ニッシンセンソウ(!)の借金返済がやっと終わっていたとは。
 本書を労作と呼ばずして、何をそう呼べようかという出来栄えは、たくさん出てくる表のひとつひとつを見れば明らかだ。
 戊辰戦争西南戦争から日清・日露を経て日華事変・太平洋戦争まで。兵隊をどう養い、食わせ、着させたか(ただ歩かせるだけでも兵隊はカネがかかる)。軍艦をどうやって買ったか。数字に正確を期したうえ、それを当時の日本経済・財政の規模や、諸外国のそれと比較しながら論じるために、骨惜しみをしない著者はいくつもの表をつくった。
 たゆまぬ努力の賜物というべき表を眺めつつ思うのは、戦争というもの、軍刀を吊るし参謀肩章(けんしょう)をさげた将校たちすべてが鬼籍(きせき)に入ったあとも、まぁ長く続くものだということだ。借財の後始末は、世代を超え、大蔵省(当時)理財局の吏員(りいん)が背負った。謳(うた)われざるそんな戦士の誰彼は、本書の出現をもって瞑(めい)すべしだ。
 麻生氏あ言うとおり、ごく一部帳簿上の名目的な債務を例外として、日本は、外国から借りたカネも、日本国内でつくった借金も律儀に返した。勝ち戦(いくさ)にも、負け戦にもきちんとけりをつけている。誰をほめたらいいのかわからないが、エライ。
 138ページに、衝撃的な数字がある。日露戦争東郷平八郎が乗った、かの戦艦『三笠』。その値段は、竣工年の一般会計歳出に対し、4.4パーセントに達した。この比率を今日の予算に当てはめると、三笠1隻で、最新鋭イージス艦28隻が買える計算になる。日露戦争へ向けつくったほかの戦艦、装甲巡洋艦の調達合計を同じように今日の財政で比較すると、わが国は『イージス護衛艦300隻超を対露戦に向けて整備したことになる』のだと。
 中国を舞台に日本が演じた通貨の信用をめぐる戦いを、当該分野の先駆者・田多井喜生という人の業績に依(よ)りつつ論じたあたり、もうひとつの読みどころ。比較対象として米国の南北戦争を詳しくみているところも、戦争の『台所事情』は各戸それぞれ苦労だったことを偲(しの)ばせ、意外な共感を抱かせる。
 戦争をカネから眺めると、見える景色はかくも違うものか。」
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日本 戦争経済史 戦費、通貨金融政策、国際比較
太平洋戦争の収支決算報告
日本の戦争財政 (中央大学学術図書)
米国を巡る地政学と戦略 スパイクマンの勢力均衡論
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 明治新政府は、武力で滅ぼした敵の徳川幕府が諸外国につくった他人の借金を自分の借金として、天皇の名誉と日本国の信用の為に、乏しい収入で苦しい財政にも関わらず責任を持って返済を続けた。
 日本が近代化に成功したのは、敵と味方の借金、他人と自分の借金、過去と現代の借金、生者と死者の借金、祖先の借金、公的法的な正当な理由があって返すべき借金は踏み倒さず完済した事である。
 日本民族は神に誓って証文を取り交わした以上、その神聖な約束事を破らない為に、命を犠牲にしても、信義を重んじ、信用を守り、信頼を貫いた。
 つまり、「武士に二言はない」、嘘偽り、詭弁を口に出さない、不誠実な行動を取らないである。
 日本の儒教は「宋襄の仁」であった。
 日本の軍部・軍閥も、正統男系父系天皇の名誉を守る為に同様であった。
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 鎌倉幕府室町幕府は、困窮で借金苦に陥った御家人達や国人侍を救う為に徳政令を発して、高利貸・豪商・豪農等に対して借金を帳消しにした。
 為に、鎌倉幕府室町幕府は度々不当に近い徳政令は出した為に、権力・権威が保証する社会の信用が失われて滅亡した。
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 徳川家康は、幕藩体制を維持る権力・権威は軍事力・武力ではなくへ、貨幣経済における信用であると、武田信玄北条氏康織田信長豊臣秀吉ら先人から学んだ。 
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 徳川幕府は、大名や旗本が高利貸・豪商・豪農に巨額の借金をして四苦八苦しても、救済目的の徳政令を出さず見放し、財政・家計悪化の源となっている参勤交代や天下普請・諸役などの支配統制を緩めなかった。
 そればかりか、大名が財政赤字を重税で解消しようとして百姓一揆が起きれば、失政・悪政を理由にして大名を取り潰し、領地を召し上げ、大名を切腹させるか軟禁として親戚筋か他家に預けて追放した。
 大名は取り潰されない為に、財政赤字を領民(百姓)への安易な重税ではない方法で解消するしかなかった。
 つまり、武士・サムライは生活費に困るほど貧乏で、金に苦労し、金策に走っていた。
 それ故に「武士は食わねど高楊枝」なのである。
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 徳川幕府は、天災で甚大な被害を出した親藩譜代大名に見舞金・復興資金を貸し出したが、外様大名はよほどの理由がない限り無視した。
 外様大名は、公助としての徳川幕府からの手厚い支援を期待せず、共助として血縁の親戚筋同士で助け合い、そして自助で乗り切っていった。
 安政の大地震などの大災害が発生すれば、徳川幕府や諸大名は被災地を速やかに元通りに復興さ、庶民は短期間で元の生活を取り戻した。
 それが、日本の自助努力・自己救済である。
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