🍴11}─2─享保の大飢饉は複合災害。徳川吉宗が日本の基本的災害対策を作った。蘭学の事始め。〜No.21 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本が教える日本の歴史は、日本天皇・日本国・日本民族を否定する事に重点が置かれている。
 ダメな日本天皇、無能な日本国、バカな日本民族、それが現代日本の日本史への評価・定説である。
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 現代の日本人が好きなのは、ご都合主義的時代劇であって事実に基づいた歴史ではない。

 現代の日本人は、歴史力がなく、歴史的事実が理解できず、日本民族史を正しく評価できない。
 日本の歴史は、日本民族だけの歴史であり、中国や朝鮮の歴史とは一切関係ない。
 国際派高学歴出身知的エリートは、欧米語を流暢に話し、世界情勢に詳しく、日本の歴史よりも世界の歴史をよく知っている。
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 現代日本は、公文書を残さないし議事録を作成しない。
 日記は、自己自賛の自己満足か、責任放棄か責任転嫁の自己弁護に過ぎない。
 政治家も、官僚も、学者も、専門家も、メディア・報道機関者も、・・・。
 その象徴が、武漢ウイルスに対する後手後手のお粗末な対応を続ける現代日本の哀れな姿である。
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 「食べ物が足りなくなったら外国から必要な食糧を買ってくればいい」、と言う高学歴出身知的エリートは相手にしない方が良い、何故なら冗談を真に受けると飢え死にするからである。
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 現代日本人は、武士・サムライでもなければその子孫でもない、そして百姓でもないしその子孫でもない。
 現代日本人と昔の日本人は別人の日本人である。
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 飢餓。疫病。害虫。風水害・江戸水没。地震。火山噴火。
 大火。
 打ち壊し、百姓一揆
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 江戸幕府や各藩も、村々の庄屋も、被害状況の公文書や記録などを残し、日々の様子を正確に日記として書き記し、それらから情報を集め、調査し、分析し、対策を立て、抜かりなく実行し、その後を考えて庶民の啓蒙に力を入れた。
 そのローカル的な差配は、グローバル化を目指す現代日本では通用しないとして切り捨てられている。
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 徳川 吉宗は、江戸幕府第8代将軍(在職:1716年 - 1745年)。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。
 江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。
 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。

 趣味・嗜好
 松平明矩が重病になった時に、音楽による気分転換を勧めているが、自らも公務の余暇に「古画」(絵画)の鑑賞や、それの模写に没頭することを慰みとし、『延喜式』に見える古代の染色法の研究に楽しみを求めて鬱を散じていた。
 狩野常信に師事し、常信の孫・狩野古信に絵の手ほどきをしている。絵画の作品も何点か残されている(野馬図など)。また淡墨を使って描く「にじみ鷹」の技法を編み出している。
 室町時代から伝統的に武家に好まれた宋・元時代の中国画を愛好していた。享保13年(1728年)には、各大名家に秘蔵されていた南宋時代の画僧・牧谿筆の瀟湘八景図を借り集め鑑賞している。さらに中国から宋元画を取り寄せようとしたが、これらは既に中国でも入手困難だったため叶わなかった。代わりに中国画人・沈南蘋が来日し、その画風は後の近世絵画に大きな影響を与えた。
 好奇心の強い性格で、キリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁とした。これにより、長崎を中心に蘭学ブームが起こった。
 享保13年(1728年)6月、自ら注文してベトナムから象を輸入し、長崎から江戸まで陸路で運ばせた。この事により、江戸に象ブームが巻き起こった。
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 第8代将軍・徳川吉宗はコメ将軍として、質素倹約の緊縮財政を強行して赤字財政を立て直し、享保の改革で幕政を家康時代へと復古させた中興の祖ではない。
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 享保の大飢饉とは、江戸時代中期に起こった飢饉である。江戸四大飢饉の一つに数えられる。
 概要
 1731年(享保16年)末より天候が悪く、年が明けても悪天候が続いた。
 1732年(享保17年)夏、冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われた。梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及び冷夏をもたらした。このためウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらして蝗害として記録された。また、江戸においても多大な被害が出たといい、その死者の供養のために隅田川花火大会が始まったという言説が広く流布しているが、享保の大飢饉隅田川花火大会は無関係である。
 被害は西日本諸藩のうち46藩にも及んだ。46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は僅か27%弱の63万石程度であった。餓死者12,000人(各藩があえて幕府に少なく報告した説あり)にも達した(『徳川実紀』によれば餓死者969,900人)。また、250万人強の人々が飢餓に苦しんだと言われる。また、1733年(享保18年)正月に飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが行われた。
 その他
 最大の凶作に陥った瀬戸内海にあって大三島だけは下見吉十郎がもたらしたサツマイモによって餓死者を出すことはなく、それどころか余った米を伊予松山藩に献上する余裕があった。 この飢饉を教訓に、時の将軍徳川吉宗は米以外の穀物の栽培を奨励し、試作を命じられた青木昆陽らによって東日本各地にも飢饉対策の作物としてサツマイモの栽培が広く普及した。
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 国立図書館
 描かれた動物・植物
 江戸時代の博物誌
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 第一章江戸博物誌の歩み
 Ⅱ自然へのあついまなざしー18世紀
 吉宗から『本草綱目啓蒙』まで ―動植物への関心が全国に拡がる―
 将軍徳川吉宗の物産政策
 1.将軍徳川吉宗の物産政策
 江戸時代に入ると、おびただしい量の薬物や砂糖などが輸入され、その代金として莫大な額の金銀が海外に流出するようになりました。そこで吉宗は、国内で自給が可能な体制を整えようと、いくつかの方策を実行し、それが全国的に動植物への関心を高めました。吉宗の物産政策として以下の4点が挙げられます。
 ①採薬使の派遣
 国内で産出する薬物や有用品の探索と採取を目的として、幕府は各地へ採薬使を派遣し、併せて地元の人々に何が役立つかを教えました。これが、それぞれの地域で、動植物への関心を高めることになりました。
 ②全国的な動植物調査
 享保元文全国産物調査――享保20年~元文3年 (1735~38) に行われた調査です。幕府は各藩に対し、産出する動植物の品名を、利用の有無にかかわらず報告させました。
 ③海外産動植物の調査
 漢名で記されている動植物が和産のどの品に当たるか、日本にもある品かない品かなどの疑問を解くために、実物を取り寄せての調査も行われました。
④海外産植物の国産化
 国内に自生しない薬草や有用植物は、移植を目指しました。朝鮮人参やサトウキビがその例で、前者は十数年かけて大成功をおさめ、後者もやがて実を結びます。
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 NHK 知恵泉
 「江戸の危機管理II」(前編)
 天下泰平とされる江戸時代、実は度々災厄に見舞われている。そのとき人々はどう動いたか。江戸時代の危機管理を探るシリーズ第二弾。前編は徳川吉宗の疫病対策に着目する。財政の立て直し「享保の改革」で知られる吉宗は、麻疹の流行、飢饉による疫病のまん延に苦しめられた治世下で医療改革にも乗り出している。そのとき大きな役割を果たしたのがデータの収集と情報の伝達方法、被害を拡大させないためにとった吉宗の知恵を探る。
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 「江戸の危機管理II」(後編)
 天下泰平とされる江戸時代、実は度々災厄にあっている。江戸時代の危機管理を探る第二弾、後編は幕末に人々を悩ませたはしかとコレラを前に、格闘した人たちから、その知恵を考える。有史以来、人々を悩ませたはしか。そして開国を機に海外から入り大流行したコレラ。この時期は、それまでの日本の医療体制では解決できない感染症の“パンデミック”が相次いだ。この難問に医師はどう対処したか?その後の日本に残した知恵にも迫る
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 第1部 3. 蘭学の興隆 | 江戸時代の日蘭交流 - 国立国会図書館

 3. 蘭学の興隆
 (1)徳川吉宗蘭学の萌芽
 当初は貿易に限られていた交流も、しだいに知的な方面に進む。オランダ船で輸入されたものには、オランダ語の書籍もあった。これを通じて江戸時代の日本人は、西洋の学術「蘭学」を学ぶことになる。
 蘭学の芽生えは8代将軍徳川吉宗の時代である。彼は、殖産興業、国産化奨励の方針から海外の物産に関心を示し、馬匹改良のため享保10年(1725)など数回オランダ船により西洋馬を輸入、ドイツ生まれの馬術師ケイズルを招いて洋式馬術、馬医学を学ばせた。また、享保5年(1720)禁書令を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認め、元文5年(1740)ころから青木昆陽、野呂元丈にオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入にも積極的であった。
 第2部 トピックで見る
 2. 蘭学者の活躍
 江戸時代の学問の一つに、オランダ語を通じて日本が受容した西洋の学問や技術と、それに対する研究である蘭学が存在した。それは、医学、天文学本草、博物、植学、化学、地図、暦学などの自然科学を中心としている。はじめ、長崎のオランダ通詞によるオランダ語の学習が中心であった。その後、徳川吉宗のもと本草学の振興やオランダ文物の輸入が奨励され、青木昆陽、野呂元丈は吉宗からオランダ語学習を命ぜられ、蘭学の機運が醸成されていた。さらに、田沼意次が老中になると殖産興業政策を推し進めたこともその機運を助成した。福知山藩主朽木昌綱や、薩摩藩島津重豪といったオランダ好みである「蘭癖」の大名も現れている。
 蘭学興隆の大きな画期は、安永3年(1774)の『解体新書』の翻訳刊行にみられる、前野良沢杉田玄白中川淳庵らの西洋医学の導入であるといえる。江戸時代は家によって学問が受け継がれており、蘭学もその例にもれず、優秀な弟子によって伝えられた。この章では蘭学者たちの活動を、彼らの記した書物からうかがってみたい。
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 蘭学
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
 江戸時代中期から幕末にかけて,オランダ語,およびオランダ語を通して行われた西欧諸科学,技術および西欧事情の学習研究とその知識をいう。鎖国下の 17世紀初期,オランダとの交渉が始って以来興隆し,8代将軍徳川吉宗が蘭書輸入の禁を解き,青木昆陽,野呂元丈らにオランダ語を学ばせるにいたって本格化した。その成果はまず前野良沢杉田玄白中川淳庵桂川甫周らによる『解体新書』の翻訳刊行として現れた。それ以来『西説内科撰要』を翻訳した宇田川玄随,『暦象新書』でニュートン力学を紹介した志筑忠雄,『蘭学階梯』を著わした大槻玄沢,『波留麻和解』を完成させた稲村三伯,西善三郎ら多くの蘭学者が輩出し,蘭学塾も江戸,長崎のみならず大坂,京都をはじめ全国各地に広がった。シーボルト事件や蛮社の獄など一時弾圧を受けたこともあるが,開国後に移入された欧米の諸科学にその道を譲るまで洋学の中心的役割をになった。
 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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 享保の打ちこわしとは、江戸時代中期の1733年(享保18年)の江戸で起こった庶民による打ちこわしである。
 1732年(享保17年)夏に起こった享保の大飢饉による米不足で米価が高騰した際、庶民の間で米価高の原因は徳川吉宗に協力し、米価の安定に尽力していた米商人の高間伝兵衛が米を買い占め、米価をつり上げようとしているという噂が立った。それに対し、幕府は米を供出するなどして米価を下げようとしたが失敗した。
 そして、1733年(享保18年)正月に高間伝兵衛の自宅を1700人の庶民が襲い、家材道具や米俵等を川に投げ入れるなどした。これが江戸時代最初の打ちこわしとされている。
 なお、その時高間伝兵衛は房総にあった自宅に戻っていたので無事であった。その後、高間伝兵衛は自身が所持していた多量の米を放出して米価の安定に努めた。幕府は打ちこわしに関わった中心人物数人を流刑にした。
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 江戸時代の一揆
 「百姓一揆」も参照

 江戸時代前期には、直訴や逃散など武力を用いない一揆が主に行われた。中期には全藩一揆や惣百姓一揆、強訴などと呼ばれる大規模な蜂起が主流となる。何万人といった百姓が集結する大規模なものであるが、家屋を少し傷つけたりする程度で、放火や略奪・殺傷などは厳しく統制されていた。農民が武装することはなく、鎌や鍬などの農具を持ち、鉄砲や竹槍を攻撃のために使用することはほとんどなかった。このため対応する武士側も原則的に強硬な対応は取れず、鉄砲を用いるのには幕府の許可が必要とされた。一揆の発生は幕府から統治の失敗と見られることもあり、最悪の場合は領主の処罰や改易の恐れもあった。このため領主側も対応には穏便な対応を取らざるを得なかった。百姓一揆の闘争形態の分類として、代表越訴、惣百姓一揆、村方騒動、国訴などが挙げられる。

 1726年(享保11年):山中一揆(美作津山八千人暴動)
 1729年(享保14年):岩代五十四ヶ村農民暴動
 1739年(元文4年):元文一揆(勘右衛門騒動)
 1748年(寛延2年):姫路藩寛延一揆
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 地震
 1729年8月1日(享保14年7月7日) 能登半島地震 - M6.6 - 7、死者少なくとも5人。
 1730年11月11日(享保15年10月2日) 常陸沖で地震 - M7.3、津波で船の流失あり。
 1731年10月7日(享保16年9月7日) 宮城県南部で地震 - M6.5、死者数名、家屋が倒壊。
 1741年8月29日(寛保元年7月19日) 寛保津波 - M6.9(Mt8.4)、死者2,033人。北海道西南沖の大島で火山性地震。大津波発生、佐渡能登・若狭にも津波
 1751年5月21日(寛延4年4月26日) 高田地震 - M7.0 - 7.4、死者1,541人。越後・越中地震。高田で火災など。
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 防災情報新聞
 享保元年江戸で謎の疫病大流行、8万人が死亡、赤痢?疫痢? ……… 1716年8月(享保元年7月)
 幕府、小石川養生所を開設 ……… 1723年1月13日(享保7年12月7日)
 幕府、家庭用救急医療書を出版 ……… 1730年4月3日(享保15年2月16日)
 ウンカ大発生し享保の大飢饉-江戸初の打ち壊しとサツマイモ登場
  ……… 1732年8月上旬(享保17年6月中旬)
 疫病退散を祈り、江戸大川(隅田川)で花火大会はじまる-歴史は隅田川花火大会へ引き継がれる
  ……… 1733年7月9日(享保18年5月28日)
 享保18年インフルエンザ全国的流行、世界的な大流行の一環か。風神送りとは
  ……… 1733年7月~8月(享保18年6月~7月)
 幕府、疫病救急法を刊行、諸国に頒布する ……… 1734年1月(享保18年12月) 
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 高額な薬草を輸入する為に銀が海外に流出していた。
 徳川吉宗は、銀の流失を防ぐ為に薬草の自給率を上げるべく、国内の産物調査『諸国産物帳』制作を諸藩に命じた。
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 3-3-3 享保の改革と社会の変化
 医薬知識の普及(『普救類方』)
 解 説
 8代将軍徳川吉宗は,1729(享保14)年,薬の知識の不足により多くの命が地方で失われていることを憂い,庶民向けの医学書である『普救類方』を幕府の医師に命じ編纂させました。つづいて1733(享保18)年,享保の飢饉後に疫病が流行したため,応急の薬の処方を記した『救民薬方』を印刷し全国の村々に配付しました。
 写真は『普救類方』で,著者は林良適と丹羽正伯です。全12 冊からなるこの本は,庶民も手に入れ易いように代銀9匁8分という格安の値段で販売されました。「頭之部」「面之部」「目之部」「鼻之部」など身体の部位毎に病状を列挙しています。その症状に対して,内外の医学書の中から,庶民にも入手可能な薬や簡単な治療法を選んで平易な和文で紹介しています。また最終巻では薬草の種類を図入りで解説しています。
 例えば,頭痛の対処法には,
 頭痛に,いたちささげを粉にして水にてとき,こびんに付べし。又ハ, いたちささげを袋に入枕にしてよし。  本草綱目
 と,中国の本草書である『本草綱目』を引用し,マメ科多年草である「イタチササゲ」を用いた処方を説明しています。その他,数種類の書物から別の処方も示しています。
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 丹羽 正伯(元禄4年(1691年) - 宝暦6年4月14日(1756年5月12日))は、江戸中期を代表する本草学者である。
 人物
 伊勢国松阪(現・三重県松阪市)に生まれた。家業は医者である。
 本草学を京都の稲生若水に学んだ。
 その頃、江戸幕府将軍に就任した徳川吉宗は、幕府の財政の健全化に力を入れていた。その一環として、当時輸入に頼っていた薬草類を国産に切り替え、また有益な薬草の発見により医学を進歩させたいと考えていた。薬草の探索を行う目的で正伯が登用され、享保5年(1720)に江戸幕府の採薬使に任じられ、野呂元丈・植村政勝らと箱根や富士などの中部地方、さらに東北各地の採集に向かわせられた。採集された薬草は、駒場や小石川養生所の幕府の薬草園で栽培が試みられた。享保七年(1722)に幕府医師として三十人扶持で召し抱えられ、さらに下総国の幕府薬草園15万坪の運営管理、薬草の栽培を命じられた。
 この正伯が管理をしていた下総滝台野薬園がその後、同地の現在の地名である千葉県船橋市薬円台の由来となった。また、「薬園台」を「正伯新田」と呼んでいた古例もあり、古地図にも記されている。
 享保12年(1727)、庶民向けの治療法と薬草・薬種の解説本『普救類方』全12冊が幕府から刊行された、丹羽正伯と小石川養生所の幕府医師林良適の共同編集で狩野派の絵師による絵がつけられている。
 その他の主な著書に、師の稲生若水から引き継いだ本草学書「庶物類纂」がある。これは中国の書物から本草学に関するものを翻訳したものであり、正伯はこれに影響を受け、日本全国の動植物、鉱物等産物を網羅的に調査した「諸国産物帳」を編纂した。「庶物類纂」は元文3年(1738年)に完成し幕府文庫(紅葉山文庫)に納められ、同年5月に吉宗から銀百枚を褒美として与えられた。正伯はその後も『庶物類纂』増補を行った。
 正伯は宝暦6年に江戸で没した。後に薬園台村の人びとにより、顕彰の供養碑が建てられ、その正面には諦通院日慮と刻まれている。
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 ~幕末トラベラーズ~
 日本史用語集
 江戸時代
 享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)ってなんのこと?
 享保の大飢饉享保17年(1732年)
 享保の大飢饉は江戸の三大飢饉(享保天明天保)のひとつ。享保の改革の最中に西日本を中心に発生した。冷害や長雨などの天候不順と害虫の被害のため稲作が大打撃を受けて大飢饉となった。
 解説
 何年も続いた天明の飢饉や天保の飢饉にくらべると、被害は”享保17年(1732年)の西日本”と限定的だったといえますが、それでも200万人以上が飢え1万2000人の餓死者が出ました。
 幕府は被害の大きかった地域に米を分けてあげたけれども、そのために米不足になって江戸の米の値段が5倍ほどにあがり、生活がくるしくなった民衆が商家を打ちこわすという事件が起きました。
 享保の大飢饉のあと、幕府は青木昆陽 (あおきこんよう) を登用して、飢饉にそなえて関東を中心にサツマイモを普及させ、これが天明の飢饉のときに人々をすくったといわれています。
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 リスク対策.com
 安心、それが最大の敵だ 自然災害
 江戸期最悪の水害<寛保洪水>と一冊の名著
 大災害の政治権力に与える衝撃
 高崎 哲郎
 1948年、栃木県生まれ、NHK政治記者などを経て帝京大学教授(マスコミ論、時事英語)となる。この間、自然災害(水害・土石流・津波など)のノンフィクションや人物評伝等を刊行、著作数は30冊にのぼる。うち3冊が英訳された。東工大、東北大などの非常勤講師を務め、明治期以降の優れた土木技師の人生哲学を講義し、各地で講演を行う。現在は著述に専念。

 江戸期最悪の水害<寛保洪水>と一冊の名著
 江戸中期の1742年(寛保2年)夏、日本列島中央部、とりわけ関東甲信越地方は大型台風に直撃され未曽有の災禍に見舞われた。中でも旧暦7~8月にかけて襲った数度の大水害(大洪水と高潮)で江戸下町は水没したのである。徳川幕府「中興の祖」とされる第8代将軍吉宗の治世下に襲った江戸期最悪の洪水の経過と災禍を検証する。
 1742年8月28日(寛保2年旧暦7月28日)頃より台風による暴風雨が畿内を襲い、関東でもこの日以後雨が降り始めた。翌々日の8月1日の夜に入ると、江戸では雨とともに北東の激しい風が吹き始めていた。深夜・四ッ時(午後10時)頃から激しい南風に変わり強烈な嵐が吹き荒れだした。
 さらに強風が江戸湾からの高潮を隅田川・荒川に呼び込み、その結果、翌2日明け方七ッ時(午前4時)頃から水位が上昇し、満潮と重なった六ッ時(午前6時)には沿岸部は平常水位よりも8.9尺(2~3m)も上昇して江戸の下町を壁のような潮流が襲った。溺死者が次々に濁流に流された。
 同じ頃、利根川、荒川、多摩川の上流域で発生した大洪水の激流が、堤防を各地で切り下流の江戸方面に流れ始めた。特に堤防が破壊された利根川の激流は関宿城や忍(おし)城を押し流した後に江戸下町方向に南下し、8月3日(1742年9月1日)夜には江戸下町を直撃した。水位の上昇は8月7日まで続き、この間に本所・浅草・下谷一帯だけで1000人以上の溺死者が出た、とされる。町奉行石河政朝の報告によれば、本所では街中での水位が5尺(1m50cm)、多い場所では7尺に達し、軒まで水没した家屋が続出した。 隅田川にかかる両国橋・新大橋・永代橋など多くの橋が押し流された。ところが減水しはじめた8月8日に再度の暴風雨が江戸を襲って却って水位が上昇し、浅草・下谷では遂に水位が1丈(3m)に達し(「徳川実紀」)、完全に水が引くまでに20日から1か月を要した。
 「江戸水没」という事態を重視した幕府は、船をかき集めて川と街路の区別が付かなくなった下町へと派遣して、溺れている人や屋根や樹木の上で震える人を救出した。同時に被災者に粥や飯を支給した。史料によれば、食料の支給を受けた人数は8月6日で6000人分、被害のピークであった8日には1万人分、水が引いて支給を昼のみに限定した16日でも7000人分を要した。また、被害の少なかった江戸の有力町人の中には独自に炊出しを行ったりした者もいた。幕府は備前・長州・肥後などの被害の少なかった西国諸藩10藩に命じて利根川・荒川などの堤防や用水路の復旧(御手伝普請)に当たらせて事態の収拾を図った。注目したいのが信州(現長野県)である。信州は千曲川の大氾濫に加えて相次ぐ土石流により流域全域が壊滅状態となった。被災民は、この年が戌年(いぬどし)であったことから、未曾有の水害を「戌の満水」と名づけその大災禍を後世に伝えた。
 西国大名の御手伝普請
 10月6日、将軍につぐ実力者・老中松平左近将監乗邑(のりさと)、同松平伊豆守信祝(のぶとき)、同本多中務太輔忠良(ただよし)の採決により10の大名が御手伝普請に特命された。大名の手伝い普請というのは、幕府が必要な材木、坑木、鉄物などを負担し、特命を受けた大名が普請人足費、竹材木の伐採費、運賃、などを負担した。各藩は家老級の重臣を惣奉行にたて、家臣団を被害現場に出した(御手伝普請が形を変えた<政治的弾圧>であることは言うまでもない)。
 •肥後・熊本藩 藩主 細川宗孝、 普請場所 江戸川 庄内古川 古利根川 中川 横川 綾瀬川
 • 長門・萩藩 藩主 毛利宗広 、普請場所 上利根川右岸
 • 伊勢・津藩 藩主 藤堂高豊、普請場所 権現堂川 思川 赤堀川(現在利根川中流部)鬼怒川 栗橋関所前
 • 備前岡山藩 藩主 池田継政、普請場所 上利根川左岸 烏川 神流川 渡良瀬川
 • 備後・福山藩 藩主 阿部正福 、普請場所 下利根川
 • 但馬・出石藩 藩主 仙石政辰 、普請場所 小貝川
 • 越前・鯖江藩 藩主 間部詮方 、普請場所 新利根川
 • 讃岐・丸亀藩 藩主 京極高矩 、普請場所 荒川 芝川 星川 元荒川
 • 日向・飫肥(おび)藩 藩主 伊東祐之 、普請場所 荒川
 • 豊後・臼杵藩 藩主 稲葉泰通 、普請場所 荒川
 幕府は、有無を言わせないために直接藩主に通達した。江戸藩邸に在府中である岡山、津、鯖江、出石、飫肥臼杵藩の藩主には直接登城することを命じた。他の藩の場合は奉書を送った。被災地での真冬の重労働が始まる。幕府は翌年の出水時期(4月)までに決壊堤防の復旧工事を終了させるよう厳命した。
 熊本藩は他藩より大幅に遅れを取った。10月21日熊本で幕府老中奉書が届けられた。物頭兼普請奉行長谷川主水は、藩命により大坂(現大阪)で資金調達をしたので遅れて江戸についた。12月7日普請を開始した。現場作業や小屋に関しては江戸の町人や名主など有力農民に請負させた。工事遅れの厳しい書状が届いた。翌年4月30日熊本藩重臣は老中の私邸に出かけ普請が4月29日に完了したことを届け、翌5月1日、江戸城に届けたが、咎めもねぎらいの言葉もなかった。熊本藩出費は12万7280両であった。幕府からの褒賞はあったが、小藩よりも少なかった。熊本藩からの幕府にたいする贈り物は役人の役得とされるが、一部の者は受領を拒んでいる。
 信州の被害は甚大であり自力で復旧に取り掛かれる状況からは程遠かった。そこで松代藩・上田藩・小諸藩など各藩の藩主や家老さらには旗本領地の名主らは関八州のように御手伝普請による復旧を繰り返し必死に幕府に要請した。だが、幕府は関東を優先するとして、信州各藩の訴えに耳を傾けず、わずかな復旧資金を提供するだけであった。松代藩などは独自に再建の道を探るしかなく、苦難の道を歩むのである。
 「日暮硯」~改革の人・松代藩家老恩田木工
 「戌の満水」を検証するに当たって、「日暮硯」(ひぐらしずずり、岩波文庫)を再読してみた。140ページほどの文庫本だが、読み始めたら巻措(お)くあたわずで半日で読了してしまった。政治のあり方、上に立つ者の心得、個人の生き方に多くの示唆を与える含蓄の深い名著である。本書は、江戸中期の宝暦年間に信州松代藩(現長野市南部、真田家、外様、10万石)の家老・恩田木工(おんだもく、1717~1762、知行1000石)が、大洪水などにより破滅寸前に陥った藩財政の立て直しを藩主幸弘(当時10歳半ば)から一任され、改革に臨んで嘘をつかず、誠実・思いやりを信条とし、藩救済の功績をあげた事蹟をつづった説話集である。本書は分かりやすいのが何よりである。以下、「日暮硯」(岩波文庫)の「解説」を参考にし、一部引用する。
 江戸中期になると、商品経済が発達し、全国の大名は参勤交替や江戸藩邸での多大な出費を余儀なくされ、加えて幕府から強要される御手伝普請(江戸城改修、河川改修工事などの大規模土木事業のヒト・モノ・カネ)の負担などから財政は火の車に陥った。不作や凶作も相次いだ。
 松代藩では地理的要因による困難さがあった。山間のこの地は善光寺平などの肥沃な平野もあったが、千曲川犀川の二大河川が領地内を流れており長年大水害に苦しめられて来た。中でも寛保2年の大洪水は江戸期最悪の出水となり、信州地方にも記録的被害を及ぼした。「戌(いぬ)の満水」と後に呼ばれるようになったこの大洪水は、死者が関東甲信越だけでも2万人を越えたとの説がある。松代藩は本丸まで濁水に没し藩主以下家臣たちは船で高台まで脱出し難を避けた。かつてない大打撃を受けたが、幕府からの復旧支援の手は打たれず、この大水害以降領地石高の3分の1は回復不可能なまでに荒廃した。飢饉も相次いで、藩財政は極度に窮乏した。藩士の俸禄は半減され、農民に対する年貢取り立ては苛烈を極めた。全領地に及ぶ百姓一揆が相次いで起きた。藩政は混乱し、なす術もない状態に陥った。
 改革者の志を語る名著
 若年の藩主幸弘は、藩財政を立て直のため年寄りの家老らを差し置いて、30歳後半の家老恩田木工を勘略奉行に抜擢した。恩田に「宝暦の改革」(1754年開始)のすべてを託した。3年間で改革の完遂を命じた。恩田は「改革が失敗に帰したら切腹する」と藩主の面前で確約した。(藩主幸弘は47年間藩政のかじ取りを行ったが、治政がよく行われ松代中興の祖の名君と称されている)。恩田は、藩主はもとより藩内有力者の信頼を得て一大改革を導いていく。
 本書では、恩田の一大改革に臨む決意と実行が次々に紹介される。彼は一大改革を成就するために率先垂範がすべてとして「藩の家臣から農民に至るまで、嘘は絶対にゆるせない」と厳命する。同時に質素倹約を藩士から領民に至るまで命じ、自らも1飯1汁を堅持し妻子と離別を決意する。改革反対派は「恩田は狂気にかられた」と噂を広げる。妻子が恩田の指示に従うと確約したことから離別は中止される。
 恩田は、藩情の把握のため、藩士はもとより名主や農民に至るまで徹底した聞き取りを行う。直接伝えにくい情報は書面で通知させる。ここでも「嘘(虚偽の報告)は厳禁」である。聴取の結果、重税による農民の困窮と道徳的堕落、腐敗役人の跋扈(ばっこ)、藩士の文武両道に対する怠慢などが見えて来る。彼は次々に手を打つ。
 (1)年貢の軽減と金納(2)荒廃地の再開発(3)悪徳役人の追放(4)賭博や遊芸の禁止(5)正直の奨励と文武の鍛錬による風儀の改善(6)神仏への信仰心の重視…。行財政改革道徳心高揚は3年後には一応の成功を見た。恩田は役人の怠慢な行為などには厳格に処した家老として描かれている。だがそれは専制政治につきものの理不尽さとは大いに異なる。「改革に際し自己をまず厳しく律しなければならない」とした恩田は、その禁欲的生活や激務から宝暦12年正月惜しまれて世を去った。享年46歳。
 「日暮硯」を座右の書とした政財界の首脳や教育者・研究者は少なくない。本書は実践的な書物といえ、長年読み継がれてきた理由は文章が平易で物語としての構成も起伏に富んでいて巧みであることによろう。が、本書の主題が正直・信頼・合意・思いやり、そしてそれらを踏まえたうえでの成功という普遍的な性格をもった問題だという点が重要だろう。これらのテーマは時代の差異やイデオロギー・社会体制の相違を超えて通用し、どこにおいても求められる普遍的な価値に関わるものである。本書がざっと300年の歳月を越えて長い生命力を有している所以だろう。今日、政財界や有識者ら社会の指導的立場に立つ人々の倫理観の確立を望む声が各方面から聞こえてくる。自らを厳しく律してから他者に倫理を訴える指導者がどれだけいるかが問われるのだが、はたして恩田の精神を汲むことができる世の指導者はいるのであろうか?
 参考文献:拙書「天、一切ヲ流ス 江戸期最大の寛保水害・西国大名による手伝い普請」、「徳川実紀」、「日暮硯」(岩波文庫)、「松代町史」、筑波大学附属図書館資料など。
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 江戸時代 か行
 【享保の大飢饉とは】わかりやすく解説!!原因や影響(死者数)・その後など
 江戸四大飢饉と言われた中でも寛永の大飢饉につづき、2番目に起こった「享保の大飢饉」。
 西日本で起こった大飢饉で、多くの餓死者を出す事態となりました。
 今回は、そんな『享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)』について、どんな被害が出たのかなどわかりやすく解説していきます。
 享保の飢饉とは?
 享保の大飢饉とは、1731年末から1732年に起こった米の不作による大飢饉のことです。
 その影響は中部、四国、九州北部、中でも瀬戸内海周辺の被害がもっとも大きく、西日本の米の不作が深刻な状況となり、十分な食料が確保できない事態となります。
 その後、この大凶作が全国へと広まり、民衆の暮らしに大きな影響を与えることとなりました。
 この時代、食料のほとんどを米に頼っていたため、米の不作は食料問題に直結するものだったのです。
 享保の大飢饉が起こった時期と原因
 日本において1731年の終わりから雨が降るなど悪天候がつづき、年が明けた1732年に入っても天候に恵まれませんでした。
 夏に入っても梅雨が2か月間も明けずさらには冷夏も重なり、米が育たない事態となりました。
 この影響は中部、四国、九州北部、中でも瀬戸内海周辺の被害がもっとも大きかったとされています。
 享保の大飢饉以前の米の価値
 1716年に将軍となった8代目徳川吉宗米将軍(米公方)ともよばれるほど、米の価格の安定に尽力し、享保の改革を打ち出し様々な取り組みを行いました。

また、米を食い尽くすイナゴやウンカなどの害虫の大量発生も伴い、稲に多大な被害を与えました。
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 ✔ 上米の制・・・1722~1730年のあいだに実施された制度。倹約令によって支出をおさえさせながら、臨時に大名から石高1万石につき100万石を納めさせ、かわりに参勤交代の負担を軽減させた。
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 ✔ 定免法・・・米の収穫量にかかわらず、毎年一定の年貢量を納めさせる制度。これにより、幕府の収入は安定した。また、米の収穫量によって年貢率を決める方法「検見法(けみほう)」を導入した。
 ※そのほか、新田開発も押し進め、米の増産に励みました。  
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 しかしその結果、米の価格が暴落することとなり、米農家はたいへんな被害をうけました。この打開策として幕府は堂島米市場を開きました。
 常島米市場とは、1730年に大阪の常島に開かれた米市場のことで、大阪は年貢が多く集まる場所でもあり、蔵屋敷(江戸時代に大名が年貢や領内の特産物を販売するためにつくった倉庫兼家屋)におさめた年貢米を入札制によって米仲介買人に売っていました。落札者には1枚で10万石の米と交換できる米切手とよばれる証券を発行しました。
 幕府は常島米市場への介入によって米の価格を人為的に操作しようと試みましたが、大阪の米仲買人などに猛反対されるなど、失敗に終わりました。
 この2年後に享保の大飢饉が起こります。
 享保の大飢饉による死者数
 諸説ありますが、享保の大飢饉の死者数は1万2千人ほどの餓死者が出たともいわれています。
 しかしこの人数は各藩が幕府に少なく報告していたのではないかというか見解もあり、19世紀前半に編纂された「御実紀」(ごじっき)、通称「徳川実紀」とよばれる全517巻にもおよぶ江戸幕府の公式史書によると・・・
 死者は約97万人、飢餓に苦しんだ人は250万人にものぼったとされています。
 享保の大飢饉の被害の大きさ
 西日本の46の藩が飢饉に見舞われました。
 当時全国に約270の藩があったと考えられますので、およそ6分の1の藩が飢餓に苦しんでいました。
 この46藩の総石高が236万石(1万石=約1500トン)ほどで、この年に収穫された米の量は前年の27%弱の63万石ほどでしたので、到底住民の生活に必要な量には達していませんでした。
 ちなみに1石は約150㎏で成人男性が1年間に食べる米の量を基準としています。
 通常約236万人の男性が1年間食べていける収穫量があったはずが、63万人分しか獲れなかったということは、4人中3人ほどが餓死する計算になりますので、大変な飢饉であったことがうかがえます。
 享保の大飢饉の影響
 米の不作によって市場に出回る米が激減し、米の価格の高騰も深刻な問題となりました。
 これに大打撃をうけた民衆のあいだには、「米の値段が上がった原因は米商人である高間伝兵衛と将軍が協力して、米を買い占めているせいだ」といううわさが広まり、1733年には打ちこわしが起こりました。
 この享保の打ちこわしは、1733年の正月に約1700人が高間伝兵衛の自宅を襲い、家財道具や米俵を川に投げ入れるなどして多くの被害がでました。
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 高間自身は房総の家に戻っていたため無傷。その後、高間は持っていた多量の米を放出し、米の価格を安定させようとしました。
 この打ちこわしのあと、幕府はこの打ちこわしにかかわった中心人物を流罪に処しました。
 幕府もこの事態に対策を打とうと、囲い米を解放し価格を下げようとしました。
 囲い米とは、江戸時代に江戸幕府や各藩が万が一に備えて米や穀物などを社倉(江戸時代に設けられ、庶民の収入に応じて貯蔵、貸与などの目的で自治的に管理されたもの)や義倉(国内の要所に設けられた倉庫で、災害や飢饉に備えて米や穀物などの食料を庶民から集めたり、富者から寄付してもらったりして貯蔵したもの)に蓄えて、万が一に備えた制度のことです。
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 この制度は情勢が不安定だったため、飢饉に備えてというよりも戦などの軍事的な事態への備えた兵糧米としての役割が大きい部分もありました。
 しかし、米の価格を下げることはできず、失敗に終わりました。
 享保の大飢饉の被害が少なかった大三島
 現在の愛媛県今治市に位置する大三島(おおみしま)では、下見吉十郎(あさみ きちじゅうろう)という六部僧によって広められたサツマイモを栽培していたため、飢えに苦しむことがありませんでした。
 サツマイモは干ばつに強く、肥料なども少なくて済むので育てやすい野菜でした。
 長期間にわたって収穫が可能で、栄養価も高く食糧に困ったときには大変重宝する食材です。
 このことから将軍徳川吉宗は、各地でサツマイモの栽培を奨励するようになり、東日本にも広まっていきました。

 まとめ
 ✔ 1731年末から1732年に起こった米の不作による大飢饉で、その影響は中部、四国、九州北部、中でも瀬戸内海周辺の被害がもっとも大きく、全国に広がる大規模なものになった。
 ✔ 原因は長雨と冷夏、イナゴやウンカなどの害虫の大量発生である。
 ✔ 諸説あるが、享保の大飢饉の死者数は1万2千人とも97万人弱ともいわれ、飢餓に苦しんだ人々は250万人にも及んだ。
 ✔ 西日本46藩の総石高約236万石(1万石=約1500トン)のうち、この年に収穫された米の量は前年の27%弱の63万石ほどだった。
 ✔ 米の価格が高騰した原因が米商人の高間伝兵衛と徳川吉宗による米の買い占めのせいだとのうわさが広まり、高間の家が襲われる打ちこわしが起こった。
 ✔ 幕府は囲い米を放出するなど、米価の引き下げを試みるが失敗に終わる。
 ✔ 飢饉の被害が少なかった愛媛県大三島にならい、比較的育てやすいサツマイモの栽培を奨励し、東日本にも広まっていった。
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