🍠14〗─1─日本の近代化成功は日本独自の和式洋風館を新たに創造したからである。~No.44No.45 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 現代日本は、古きもの(歴史・伝統・文化・言語・宗教・その他)が消え行く時代である。
   ・   ・   ・   
 2021年9月9日号 週刊新潮「極みの館は残った。 稲葉なおと
 500年先を見据える
 三田演説館 東京都 1875(明治8)年
 他の建築では感じたことのない胸の高鳴りを覚えたのは、何年も前に眼にした建主の言葉が頭に残っていたからだろう。
 『其(その)規模こそ小なれ、日本開闢(かいびゃく)以来最第一着の建築』
 規模は小さくても日本国はじまって以来、最高峰の建築であるというのだ。自信満々に断言した建主の名は、福澤諭吉といった。
 西洋風の演説を
 諭吉は1835(天保5)年、摂津国大坂堂島新地(現・大阪市福島区)に備前国中津藩(現・大分県中津市)下級藩士の次男として生まれる。19歳で長崎に蘭学及び砲術を学ぶ。大坂にて22歳で蘭学の塾頭となり、藩命により江戸に出て江戸築地の中津藩中屋敷内に蘭学塾を開く。1858(安政5)年、24歳のことだ。
 2年後、日米修好通商条約批准の幕府使節団一員として勝海舟らと咸臨丸にて渡米。維新後は新政府から出仕(しゅっし)を求められるが辞退。築地の蘭学塾を慶應義塾命名し教育活動に専念する。
 1971(明治4)年、慶應義塾を三田に移転。その2年後のことだ。20代より米国の文化に接するうちに生まれた思いが、諭吉の言葉となって表れる。西洋風の演説を稽古したい。そのための集会を開くようにしよう。
 だが日本語はひとりで語るには不都合で、演説には向かないと考えられていた。諭吉は反論する。学問とは第一に話すことであり、次にものごとを見たり聞いたりすること、そして道理を考え、最後に書を読むことではないか。日本語はスピーチに不向きと決めつけるのは、学問の手だてをひとつ失うことだ、と。
 設計を助けた友人
 諭吉は演説会の規則を定め広めるためには、演説のための会堂が必要と考える。
 会堂も西洋風にと考え、アメリカ在住の友人に依頼し、様ざまな会堂の図面を取り寄せる。
 その友人とは『忘れられた元日銀総裁』という書籍があるほど我われの記憶に薄くなってしまっているが、のちに日本銀行第2代総裁に就く富田鐵之助である。
 鐵之助は仙台藩士の子として1835年生まれで、諭吉と同じ歳。藩命により江戸に出て西洋砲術、蘭学を学んでいたとこに、ペリー来航。再び藩命により蒸気機関及び海軍術修業のため勝海舟の塾生となり、坂本龍馬をはじめ各藩の志士との交流が生まれる。
 そこにさらに藩命。海舟のまだ13歳の息子が米国留学するので海舟の推薦により藩が学費を負担、幕府留学生として随行せよと。鐵之助、31歳。だが滞米中に戊辰戦争が勃発。朝敵とされた藩の一大事と帰国するが海舟に諭され、海舟の私費により再び渡米する。維新後、訪米した岩倉具視大久保利通岩倉使節団と知遇を得、岩倉の推薦で一留学生からニューヨーク在留領事心得として明治政府の外交官に登用。1873(明治6)年、鐵之助が副領事に昇進したところに、江戸詰の旧仙台藩重臣を通じて以前より知遇を得ていた福澤諭吉からの依頼が届く。
 1874(明治7)年7月、結婚のため帰国。諭吉の媒酌により諭吉邸で式を挙げ、諭吉邸の一部を借りて新婚生活をスタートさせるが、すぐに新婦を残して渡米してしまう。
 鐵之助からの資料をもとに諭吉自身が計画した会堂は1875(明治8)年4月、三田演説館として竣工。土蔵を思わせるずんぐりした形状、瓦屋根、海鼠壁の和風な外観に、洋風のポーチや上げ下げのガラス窓、内部も教会を思わせる吹き抜けホールが混在する擬洋風建築。2階の廻廊状ギャラリーは、本連載ですでに訪れた新潟県議会議事堂に似る。
 鐵之助から米国会堂の資料を得ながら、なざ完全コピせず和の要素を含ませたのか。そこに私は、日本だけの新しい洋風を創造しようとした諭吉の気概を感じる。今年、築146年に迎えた演説館について諭吉は書き残している。
 幸(さいわ)い無事に保存することを得れば、後500年後、一種の古跡として見物する人もある可し、と。」
   ・   ・   ・   
 現代日本には、明治の近代化を成し遂げた先人の痕跡・遺構が残骸として残っているが、若き血潮の息吹は跡形もなく消えている。
 特に、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者などにそれが言え、それは左翼・左派・ネットサハや右翼・右派・ネットウヨクに関係ない。
   ・   ・   ・   
 現代の高学歴な知的エリートや進歩的インテリの教養・知識そして決断力と行動力は、江戸後期・幕末・明治を駆け抜けた身分低い人々にはかなわない。
 先ず何が違うかと言えば語学力で、鎖国時代を生きてきた当時の日本人の語学力は自由に外国旅行ができる現代の日本人より雲泥の差ほどの違いがあった。
   ・   ・   ・   
 幕末時の教養人・知識人が、現代の高学歴な知的エリートや進歩的インテリと完全に違うのは、最初に基本教養として論語などの儒教を原書の漢籍で学び、次ぎに高度教養として蘭学、西洋砲術の軍事学、理数学を原書で学んだ。
 基本的に、学んだ教本には日本語訳ははく日蘭辞典で自分で飜訳し、先生や塾頭の意訳や卒業した先輩が残した書を手掛かりとして、今いる塾生内で議論して解釈を深めるしかなかった。
   ・   ・   ・