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・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本は、人の移動が地下水が地上に滲み出すが如く地方から都市へと流れ出し、西洋からの新しい知識と科学技術が焼け石のように投げ込まれ、人々は水が沸騰した。
日本民族日本人は、氷にもなるしお湯にもなる。
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2018年6月29日号 週刊ポスト「ニッポンの『人口競争』なぜ起こったのか?
47都道府県による『人口獲得』は統計がスタートした明治期に始まっていた。
歴史人口学の専門家で一橋大学大学院経済学研究科教授の友部謙一氏がその背景を解説する。
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明治4年(1871年)に行われた廃藩置県で、それまで約300の藩に分かれていた日本列島は段階的に現在の47都道府県へと再編されています。その過程で各県は、地元を裕福にするための〝人口争奪戦〟を繰り広げました。
各県の県令(県知事)は人口誘致に必死でした。人口が増えれば税収も増え、豊かになる。産業が育ち、インフラ整備が整えば、また人が集まり・・・と好循環が生まれます。明治5年に戸籍制度による人口管理がスタートすると、
『我が県の良さをアピールして、人を呼び込め!』
と、県職員らに号令を掛けているかのようでした。
特に、東京と大阪といった大都市では、人の出入りも多かったため、評判も飛び交い、大都市へ流れ込む流動人口をつかまえ、定着させ、あわよくば結婚・世帯形成そして子どもを誕生させようと、労働市場や結婚市場の整備も進みました。
そこで男女が出会えるか?
特に成功を収めていたのが、明治6年(1873年)に『人口日本一』に輝いた愛知県です。徳川家の城下町であった尾張は『尾西織物』というブランドで知られた繊維産業の中心地でした。その後も、『求人が多い産業県』としてアピールは、『トヨタの企業城下町』となった現在にも連なっていると言えるでしょう。
逆に明治初期から〝没落〟したのが新潟県です。
江戸時代から北前船などで裏日本の中心として人の往来が活発でしたが、人口が増えるには経済が安定して回っていくことが必要条件。それには農村工業が根付き、米以外の特産品があることが重要です。新潟には農業以外の産業があまりなかったため、時間が経つにつれ他の大都市や工業地帯を抱える地域に追い抜かれてしまった。
何より人口増で大事なのは、幕末の江戸や明治中期の大阪のように、出生率を上げることです。若い人向けの仕事がある場所は当然、男女の出会いやすく、出生率も高くなります。
こうした好循環の波に乗れるか否かは人口競争を勝ち抜く上で、今も昔も重要なポイントなのです。」
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武士達は、廃藩置県で仕える主君と藩という職を失い、家禄を停止された為に貧困化し、家族を養う為に失業者なって都市部へと流れ込んだ。
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明治初期、国家を豊かにそして強くする為に「埋めよ殖やせよ」の人口増加策が行われた。
ロシアの侵略に備える為の、富国強兵・殖産興業・近代教育が急務であった。
日本の近代化と共に人口爆発が起きた。
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新たな時代に即して柔軟に変化できる者は生き残り、変化できず旧態依然に固執する者は衰退し滅びた。
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当時の日本人は、現代の高学歴出身知的エリート、リベラル派や革新派やエセ保守派、メディア関係者、学者・専門家、知識人・教養人などよりも、遙かに現実的や合理的な思考力と分析力があり、決断力と行動力や実行力があった。
保守派と言っても、エセ保守派との区別が付きづらい。
そうした現代日本人に、江戸後期から幕末・明治の話をした所で無意味である。
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国家は、価値観、言語、文化風習を同じくする人々の人数に比例し、多ければ豊かで安定し、少なければ貧しく不安定となる。
人口が増える民族・国家は栄え、人口が減る民族・国家は衰える。
統一感・一体感が強いほど共同体としてのまとまりがあり、安定度が増し、治安は安全となり、民心は安心でき、社会は穏やかに発展し、人心は物心両面で落ち着いて豊かになる。
日本社会は、中華(中国・朝鮮)や西洋に比べて、あらゆる面において強奪件や流血などの凶悪犯罪が少なかった。
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絹や麻や綿に関係なく、品質の良い極めの揃った糸であれば綺麗な図柄の織物や素朴だが味わいのある大島紬などを作る事ができる。
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日本とは、同一性・均一性の強い日本民族日本人の民族国家であった。
日本の統一感・一体感とは、如何様にも解釈ができる曖昧な相対的同一性・均一性であって、確固とした不寛容で排他的な絶対的唯一・単一・画一ではない。
何故なら、日本には、おおらかな三元論の相対的価値観はあってもメリハリが利いた二元論の絶対的価値観がなかったからである。
つまり、日本を支配していたのは実態のない空気・空気圧・同調圧力であり、日本を動かしていたのは情緒的な配慮・忖度・思い遣り・気遣いであった。
「言葉に出して言わなくてもわかり合える」という、日本民族日本人独自のフィーリングである。
それは、日本神道の「言挙げしない」である。
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近代化の成功と五大国の仲間入りは、急速・急増の殖産興業で人手不足になっても反日派敵日派の中国人や朝鮮人を労働者として受け入れず、我慢して日本民族日本人だけで成し遂げた。
日本の成功は、あらゆる産業で、古い伝統的技術や商いと新しい西洋の科学技術や理論を融合させ新し製品を生み出すベンチャー企業が生まれたからである。
そして、子供から老人まで、女性にまでも労働者として利用した。
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日本民族日本人の行動規範は、「相手を逃げ切れない所まで」或いは「生死の瀬戸際まで」追い込んでも、「死ぬ所まで」追い詰めない事であった。
それが、「曖昧も良し」とする日本の美学である。
滅びの美学だけが、日本の美学ではない。
日本が中国・朝鮮などの中華に近寄らず距離を置いたのは、この為である。
日本と中国・朝鮮との間に、国家的公的な友好関係は古代から存在しないし、人の交流は限定的で、多人数の往来は存在しない。
「中国・朝鮮を敬して、中国人・朝鮮人を遠ざける」事が、日本の中華世界との正しい付き合い方であった。
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