?41}─2・B─学力で優秀な庶民出の学士が中央のエリート官僚となって権力を握った。松方デフレ。?No.116@    


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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。?
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 官吏・官僚・役人といっても、幕末から明治時代中頃までと、明治後期から大正時代そして昭和前期までと、戦後の現代では全く異なる。
 何処が違うか、それはグローバルな知識ではなく、ローカルな歴史と伝統による教養と智慧の有無である。
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 明治初政府は、官軍として戦った長州人や薩摩人は下級武士や庶民出が大半で、国政能力がなく官吏として役には多々なった為に、朝敵であった幕臣や諸藩藩士を官吏として登用して政治を行った。
 一兵卒として戦った長州人や薩摩人のうちで希望した役職に就けなかった事に不満を抱いた者は、萩の乱西南戦争など起こしてし戦死した。
 内戦に参加しなかった土佐人などは、自由民権運動を起こして政府と対立した。
 政府は、旧士族ではなく、縁故・血縁・身分に関係なく、庶民出で官学を優秀な成績で卒業した学士を官吏・官僚に登用した。
 ロシアの侵略から命を捨てても祖国を守る職業軍人も、国民皆兵として、特定少数の武士・士族ではなく不特定多数の国民・庶民から学力と体力及び精神力で選抜した。
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 日本の近代化に不幸は、伊藤博文山県有朋など下級武士出身の元勲が全員死亡した後、有能で真面な政治家が出現しなかった事である。
 日本の悲劇は、庶民出での有能なエリート官僚を政治力で押さえる政治家を作り出せない国民性にある。
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 1877(明治10)年 東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学が創設された。
 1886(明治19)年 東京大学帝国大学と改称された。
 1897(明治30)年 帝国大学は、東京帝国大学と改称された。
 東京帝国大学は最高学府として、中央エリート官僚を育て、新たな特権階層=学閥を首都・東京で形成していった。
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 1882(明治15)年 軍人勅諭発布。
 1887(明治20)年 勅令39号官吏服務規律(かんりふくむきりつ)発布。
 1889(明治22)年 大日本帝国憲法発布。
 1890(明治23)年 教育勅語発布。
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 時代によって日本人は変わってきている。
 和魂和才。
 和魂漢才。
 和魂洋才。
 洋魂洋才。
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 朱子学儒教価値観による日本解体。神仏分離令、神社合祀令、国家神道創設。
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 本田靖春私見をいわせていただくなら、過去に日本を大きく誤らせるについて、もっとも効果的にこれを助けたのが、東大出の秀才と、陸大出の秀才であった。劣等性は、おのれを間違わせはするが、その累(るい)を国家・社会に及ぼすことはない」
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 大正から昭和前期にかけて日本には救いがなかった。
 権力を持った官僚の多くは、経済界と癒着し旨い汁を吸い、国民生活の安定ではなく企業の売り上げ増に協力していた。
 政治家は、政権を取り合い為の党利党略に狂奔し、貧困に苦しむ国民の惨状から目を逸らしていた。
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 大正時代から各大学にマルクス主義が浸透し、一部の秀才は共産主義に染まっていた。
 革新官僚、エリート官僚は、マルクス主義者であった。
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 2019年2月号 WiLL「刑事訴追のプロセスこそ  上念司/倉山満」
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 日本の二大岩盤規制
 上念 99.9%有罪というのが、そもそもおかしい、官僚は神様のごとく賢いという幻想を守るために必死なんです。
 倉山 上念さんが新刊『日本を亡ぼす岩盤規制』(飛鳥新社)で指摘していますが、まさにその通り。制度疲労状態じゃないですか。
 上念 そうなんだろうね。
 倉山 上念さんの本を読んで、日本の二大岩盤規制を発見しました。
 上念 なんでしょうか。
 倉山 一つが財務省の『主計局』。歳入と歳出が一円単位でも合うことを売りにしていますが、そんなことをする会社が、この世の中に存在すると思いますか。
 上念 ないね。
 倉山 ところが、そのことをアピールしまくった結果、財務省主計局の人間は優秀であるという幻想が広がり、日本国中が騙されてしまっている。そんな優秀さ、いらんですが。
 上念 予算より決算のほうがむしろ大事でしょう。
 倉山 ちなみに決算管理は、財務省主計局司計課が担当しています。この課の歴代課長の学歴を見ると驚きますよ。
 東大法学部出身は一人もいない。高卒や短大卒などで、司計課一筋のノンキャリ官僚の指定席です。
 上念 でも、優秀な人間が多い。
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 上念 あともう一つは何ですか。
 倉山 『内閣法制局』です。
 上念 行政府内における法令案の審査や法制に関する調査などをする機関だ。
 倉山 日本の法律は矛盾なく完璧に出来上がっているという幻想があります。政府が法律をつくりたいと思ったら、法制局に審査してもらう。それで『OK』が出たものしか国会を通せないのです。
 政治家がやりたいことに対して、法制局は拒否権を持っているし、財務省すら逆らえない。
 地方をバカにする中央官僚
 上念 財務省の構図は大東亜戦争と同じ。下士官以下はものすごく奮闘しているのに、大本営がバカぞろいだった。
 倉山 しかも出世コースを歩んでいる人間が現場にドロをかぶせていました。
 上念 日産と同じです。ルノーに売られる前まで、現場の人間は頑張っていたし、いい車をつくる力はあった。ところが、経営者や労働組合の幹部がバカばかり。
 ゴーンのやった経営再建はしがらみを全部切って、特別損失を出して、普通に営業して利益を出すという、極めて当たり前のことをやっただけです。旧日産の経営陣がゴーン批判をしているけど、そもそも彼らに統治能力がなかったから、こんなことになったんです。
 倉山 東芝も一緒でしょう。
 上念 フラッシュメモリを開発した桝岡富士雄さん(東北大学名誉教授)を干して、サムスンにタダ同然での技術をあげちゃった! あえて言おう、バカであると。
 倉山 こうした体質は皇室にも累(るい)を及ぼしています。秋篠宮さまの発言に関して、『皇族が政治的な発言をするのはいかがなものか』という意見が出ています。大嘗祭(だいじょうさい)を慎ましやかにやりたいとおっしゃったその真意は、国費でやると、憲法のもとで官僚に好き勝手にコントロールされてしまうことをご懸念になったんです。
 大喪(たいそう)の礼のとき、午前中は皇室行事だったから神道式の鳥居があったのですが、午後は国事として扱われたので、鳥居はすべて撤去されてしまった。政教分離の原則を守るというお題目に縛られていたんですよ。
 上念 まさに岩盤規制の成れの果てだね。
 倉山 官僚が皇室の伝統を決めていたのでしょう。官僚が、やっていいことと、やっていけないことを、勝手に決めているだけです。しかも、その根拠は日本国憲法であり、皇室の伝統なんて無視しています。
 上念 その通り。とにかく日本の官僚はさまざまな分野に介入しすぎている。これだけ資本主義も成熟し、個々人の権利も尊重される世の中になったのに、官僚はいまだに『大衆はバカだ』と思っている。『我々が導かなければ、間違った方向に進んでしまう』と。
 ある省庁の官僚は『地方に金を渡したら、あいつらバカだから、ロクなことになりませんよ』と言っていましたから。
 倉山 シャレになりません。子どもを過保護に育てて子育てに失敗した母親のようなものです。民間に任せると失敗するかもしれないと官僚は言いますが、あなたたちに任せるほうが失敗する確率が高いこともたくさんある。
 上念 さらに御用学者は、各省庁の走狗(そうく)と化している。それで岩盤規制をより強固にしているんです。
 初代官僚任せの総理大臣
 倉山 過去の総理大臣を調べていて、初代『とりあえず、官僚に任せておけ』総理大臣を見つけました。
 上念 誰ですか。
 倉山 松方正義です。
 上念 第4代総理大臣だ。松方デフレが有名ですね。
 倉山 松方は薩摩藩出身ですが、政治オンチ。大命が降下した後、前内閣の閣僚をとりあえず留任させました。組閣すらマトモにできないからです。組閣の5日後、『大津事件』(1891年5月11日に日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライが、滋賀県滋賀郡大津町で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件)が起きた。引責辞任する大臣が3人出たのですが、それから続々と辞任する大臣が出てきた。一ヶ月もすると、元老が一人もいなくなり、レームダック(死に体)です。
 さらに、第2回衆議院総選挙(1892年)で『選挙大干渉』をするが、内務省の白根専一次官が大臣の首を切ったりした。松方をはじめほかの大臣も権威がないから、官僚に舐(な)められっぱなしでした。
 そこで明治天皇が見るに見かねて『長州で何とかしろ』と、伊藤博文山県有朋井上馨に事態の収拾を指示したのです。
 上念 おお、協力メンバー。
 倉山 伊藤は早速『元勲総出内閣』をつくり、内務省に井上が大臣として乗り込んだ。その瞬間、官僚たちが全員大人しく従うようになった。実力官僚が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するウラには、無力な政治家が存在している構図は明治以来ずっと続いているんです。
 上念 今はもっとひどくなっている。民意を受けて国会議員になっても、結局、公約をほとんど実現できずに終わっています。民主党政権なんか本当にひどかった。
 倉山 安倍内閣も半分ほどでしょう。
 上念 そうだね。アベノミクスは評価しよう。失業率は減少し、就業は増加、自殺率も減少している。ただ『前よりはよかった』と、『本来であればもっとできる』というのは別次元の話です。この違いをわからない人たちが多い。それで『安倍礼賛』か『安倍死ね』かに極端に分かれてしまうんです。
 どうして政治家の理念が実行されにくいかと言えば、これまでも話してきているように、官僚機構が邪魔しているからです。
 倉山 なぜ官僚はそれほどまでに強いのか。
 上念 さまざまな規制を差配し、手心を加えてコントロールすることで、制度自体を守ろうとする勢力を育てている。たとえば、孫正義さんがボーダフォンを買収したとき、『NTTにばかりいい周波数を割り当てやがって』と文句を言っていた。
 ところが、総務省ソフトバンクにも周波数を割り当てるようになったら、孫さんもすっかり矛(ほこ)を収めてしまった。極端な例で言えば、チャイナがそう。あらゆるものを規制しているので、共産党の権力が途轍もなく肥大化している。
 倉山 さすがに日本はそこまでではないでしょう。
 上念 岩盤規制が打ち砕かれてきた歴史はある。昔の国鉄(現在のJR)や電電公社(同NTT)、専売公社(同JT)など。
 ただ、JTなどはいまだに財務省が株を持って幅をきかせている。岩盤規制を打ち破るのが政治の役割ですが、安倍政権でも進んでいないのが実状です。
 中国を笑えない
 ……
 倉山 1円でも予算を修正しようものなら大事件です。過去、福田赳夫内閣でその事例がありました。これほど強力な権力を財務省は握っているわけだから、官僚国家になるのは当たり前でしょう。
 上念 むべるかなです。官僚が介入することで、世の中が豊かになったり、幸せになるんだったらいい。でも、そんなことはない。確かに官僚は優秀かもしれない。でもその多くは、学生時代、学力テストが得意だったに過ぎません。その中で本当の意味での天才は1割もいない。
 倉山 大学の試験や国家公務員試験は、早熟な人間かどうかを見極めるためのテストです。大器晩成型や働き始めて成長する人間なんてごまんといます。でも、そういった人間はすべて切り捨ててしまから、組織内で画一化されてしまうんでしょう。
 上念 そもそも未来予測なんて難しいですよ。誰にでもできることじゃない。ところが、学力テストがやっていることは、出題者の意図を忖度し、時間内に正確に答えるだけ。
 倉山 採点基準を満たせばいい。
 上念 でも、答えがはっきりわからない市場では、そんなノウハウはまったく通用しない。だから、現実を前にして右往左往してしまう。
 倉山 まさに大日本帝国の末期が、同じ状況でした。陸海軍の士官学校で、教官の欲している 答えを書けば『優』がもらえた。でも、戦場ではまったく無能だったりします。
 上念 それはいわば科挙ですよ。チャイナは科挙を2000年も続けて、結果どうなったのか。巨大なパクリ国家が誕生しただけ。
 一帯一路は日本の『円圏』構想のパクリだし、債務トラップの古典的な植民地支配のパクリ。
 倉山 新植民地主義でも何でもない。19世紀にやっていたことをなぞっているだけ。
 上念 技術もしかりです。でも、日本は中国を笑うことはできない。規制があって、それを緩和したり、強化しながら、民間業者から金を巻き上げている。そこで利権集団をつくって、そこの金や票を政治家に廻し、甘い蜜を吸う・・・。
 儲からない仕組みづくり
 ……
 一回の処方に5種類の薬
 ……
 1%ドクトリン
 倉山 この対談を通じて、上念さんが何を書きたかったのかがわかりました。
 上念 なんですか。
 倉山 日本を滅ぼすのは『パターナリズム既得権益者』であると。
 上念 おお、まさしくその通り!こいつらは『こうしたほうが幸せですよ』と押し付けてくる。
 倉山 余計なおせっかいですよ。
 上念 それが岩盤規制の正体です。
 倉山 頭のいい官僚がパターナリズムを決定し、政治家が実行して、業界がぶら下がる。……」
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 官吏(かんり)とは、公法上の任命行為に基づいて任命され、官公庁や軍などの国家機関に勤務する者を指す。憲法により指す内容が異なる。「官人胥吏」の合成語。
 大日本帝国憲法の下では天皇の官制大権および文武官の任免大権(大日本帝国憲法10条)によって任免される者を指し、軍務に服する武官とそれ以外の文官を包含する。

 明治維新後の官吏制度[編集]
 詳細は「近代日本の官制」を参照
 1868年1月3日(慶応3年12月9日)、維新政府は王政復古の大号令を発した翌日、総裁・議定・参与からなる「三職制」を定めた。そして、参与としての人材を得るため、徴士・貢士制を定めて各藩から藩士を集めた。特に徴士として集められた者は藩との関わりを断ち、朝廷の直臣となることが要求された。ただし、これには木戸孝允のような維新に功績があった藩の出身者ほど抵抗が根強かったという。
 五箇条の御誓文に続き制定された政体書においては、官吏の公選がうたわれ、1869年(明治2年)5月に最初の選挙が実施されたものの、その結果は藩閥勢力の均衡に配慮したものとなるなど、不十分であった。その後も薩摩・長州出身者から官吏を登用されやすい傾向があり、地縁・縁故を重視した藩閥政府が形成された。薩長閥とも呼ばれる。
 この情況を憂えた伊藤博文は、1882年(明治15年)のヨーロッパ訪問調査団において、ドイツ・フランスが官吏養成所を作り、各界各層から広く人材を求めて成功した事例を調査させた。帰国した伊藤は、1885年(明治18年)に内閣制度を定めて内閣総理大臣に就任すると、1886年明治19年)に帝国大学令を定めて東京大学帝国大学とし、藩閥にとらわれない官吏養成機関(主として文官の養成機関)とした。後に実力別に選抜を行う制度も行われ、各階階層から人材を集めることとなった。
 翌1887年(明治20年)には文官試験試補及見習規則を定め、これに基づく試補試験を実施して各省は試補として採用した(初年度は合格者なし)。この試験は専門学校(後の私立大学。学士の称号は得られないとされた)出身者に受験資格を付与した。帝国大学の法科大学・文科大学の卒業者は、この試験を経ずに各省の試補として採用され、こちらの方が採用人数は多かった。入省後、学士試補が主流で試験試補は傍流という実質的な差別待遇も行われ、後の官学・私学による待遇格差の遠因となる。
 他方、文官と共に官吏をなす武官についても、明治時代は薩長閥によって占められる状況が続いた。1869年(明治2年)二官六省が置かれ、兵部省の下に軍人が統括された(1872年(明治5年)、陸軍省海軍省に分割)。この制度の下では、軍人も未だ文官の一種に過ぎず、太政大臣兵部卿(後、陸軍卿・海軍卿)の下に置かれる。

 大日本帝国憲法施行期の官吏制度
 大日本帝国憲法下の官吏制度
 1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が制定され、翌1890年(明治23年)に第1回帝国議会が開催される。議会は「民力休養」を求める民権派が大勢を占め、政府も歳出抑制を図るため官吏の採用抑制を行った。このため、同年には試補試験が中断された(司法官試補試験は翌年まで実施)。
 再度内閣総理大臣となっていた伊藤博文は、1894年(明治27年)、行政制度再編の一環として文官任用令と文官試験規則を定める。この文官任用令と文官試験規則により、技術官でない高等文官は文官高等試験合格者から採用されるのを本則とした(以下、詳細は文官の項目を参照のこと)。
 大日本帝国憲法は、天皇大権として官制大権および文武官の任免大権を定め、官吏制度はこの大権に基づき、勅令を以て定められた。そのため、現行の国家公務員法に当たるような官吏制度に関する統一的な法律はない。
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  土着性の強い日本人にとって支配者・権力者は風の様な存在で、如何に甚大な被害をもたらす暴雨風でも何時かは通り過ぎてしまう。
 誰が、権力者として支配者になろうと無関心であった。
 その証拠に、敗戦後アメリカ軍に占領支配されても、誰一人抵抗運動や解放闘争をしなかった。
 それどころか、占領支配に積極的に協力し、日本の機密情報を聞かれもしないのよ喜んで貰えると思い込んで流して、日本に損害を与えても恥じるどころか自慢していた。
 その傾向が強かったのが、反天皇反日派日本人共産主義者マルクス主義者)であった。
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 日本人は、日本の支配者が日本人以外のアメリカ人、中国人、朝鮮人、ロシア人、ユダヤ人でも、或いはAIであろうとロボットであろうと唯々諾々と受け入れる。
 自意識の弱い日本人は排外主義も弱い為に、1,000万人の外国人(主に中国人)移民・難民を受け入れても、欧州のような異民族に対する差別、迫害、暴動は起きない。
 つまり、日本人は日本民族に対する愛着は薄い。
 何故なら、日本人は雑種の混血民族であり、伝統・文化・言語・宗教その他諸々の民族のモノとされた大半が海の外から流れてきた渡来に過ぎないからである。
 その証拠が、祖先の日本人が奴隷として海外に売られた歴史的事実がありながら、誰も非人道的重犯罪と問題にしない。
 日本人とは、その程度の人間でしかない。
 その傾向は、現代日本人に強い。
 親米保守派も反米護憲派も、左翼・左派・ネット左派そして右翼・右派・ネット右翼も、そうした日本人である。
 日本が中国共産党の支配若しくは影響下に組み込まれても、現代の日本人であれば誰も文句を言わないだろうし反抗も抵抗もしない。
 それ故に、日本の国土や企業が中国共産党系中国軍系中国資本に買われていても、疑問に思う日本人はいないし、不安を感じる日本人もいない。
 将来、ローカルな日本民族は確実に消滅、絶滅する。
 だが、グローバルな日本人は残る。
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 江戸時代。幕府や大名は、租税・年貢の取り立てで百姓に苦労させられ、金融経済で商人に手を焼き、借金で豪商や豪農に頭が上がらなかった。
 武士は、庶民を身分が低い卑しい輩と見下していた。
 幕府や各藩は、財政赤字を少しでも解消する為に、武士株を裕福な庶民に売り、武士株を手にした庶民を士分に取り立てた。
 その為に、下級武士には成り上がりの俄武士が少なからず存在し、俄武士は由緒ある家に養子に入り出世していった。
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 武士には、世襲武士と俄武士があり、俄武士には金で成り上がった武士と才能業績で武士になったの2種類が存在していた。
 荒っぽく言えば、世襲武士は保守派・守旧派で、成り上がり武士は改革派であった。
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 戦国時代。中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人は、日本人を奴隷として売り捌いて大金を稼いでいた。
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 個人と家に対する考え方は、日本と中国・朝鮮とでは違っていた。
 俄武士は、町奉行勘定奉行、郡奉行、代官などに就任した。
 役職と「家名」は一体である為に、他家の姓名を持った者は役職には就けなかった。
 家には先祖から最高役職が定められていて、その役職に就く為にはその家名を名乗る必要があった。
 下級武士だが有能な武士は、その役職に就く為に役職に就く資格のある家の養子となった。
 武士が、命より家名を優先したのはこの為である。
 家格を重んずる武士は、資格を持った家名を守る為に、有能な下級武士を養子に迎えて家を継がせた。
 武士にとって大事なのは、血のつながりとしての血筋ではなく、格式ある家柄・家格であった。
 庶民上がりの俄武士は自分の才能に自信があるだけに、格式ある家名は仕事をする為の表札・看板にすぎない。
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 個人は出世すると、日本の伝統に従って役職に相応しい由緒ある家名や姓名に改名した。
 家系において、家名と血筋は別物であった。
 家督相続とは、血筋には拘らず、家名を受け継ぐ者の事である。
 家の資産は、血筋ではなく家名を受け継ぐ者に祖先からの菩提寺・墓・位牌そして氏神神社と共に引き継がれ、血の繋がった子供だからとして受け継がれる事はなかった。
 それが、日本の家系図である。
 日本社会とは、養子社会であった。
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 護憲派人権派は、日本を回復不可能な状態まで衰退させ、日本民族日本人を再生できない状態まで追い込もうとしている。
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 世襲武士は、金成り上がり武士や才能業績の武士などの俄武士に対して、精神的に追い詰める嫌がらせ・意地悪・イジメを繰り返していた。
 武士社会とは、命をも奪うブラック社会であった。
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 戦乱のない江戸時代。庶民は、世襲武士を仕事をしない穀潰しと軽蔑し、庶民から成り上がった俄武士を蔑視し、御家騒動切腹させられる武士をくだらない奴らだと嘲笑していた。 
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 切腹させられる武士は、世襲武士ではなく俄武士に多かった。
 武士の切腹とは、権力を持ち、権力に溺れ、権力を振るう事で高慢になった俄武士に対し、権力者の諫めとして存在していた。
 それが、分相応、分を弁える、武士の嗜みである。
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 命が惜しい武士は、武士という身分を捨てて百姓や町人になった。
 百姓になった元武士にとって、「家柄よりも芋がら」であった。
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 俄武士は、世襲武士に比べて庶民に対して陰湿であり陰険であった。
 武士道・士道は、そうした庶民上がりの俄武士の為に存在していた。
 戦国時代から主君を守ってきた歴史を持つ世襲武士には、武士道・士道を子弟に教えなくとも戦い続けてきた家の系図を見せるだけで事足りたからである。
 歴史は、理屈ではなく事実であった。
 俄武士は、滅私奉公という家の歴史を持たないだけに、精神的拠り所として武士道・士道を必要とした。
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 武士は、西洋の騎士や紳士とも違うし、世界の王侯貴族とも違う。
 武士は日本だけに存在し、中国や朝鮮にはいなかった。
 日本で、反宗教無神論及び家否定のマルクス主義共産主義)が根付かないのはこの為である。
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 明治新政府は、ロシアなどの侵略を撃退し、日本の亡国と植民地化を阻止し、日本人を白人の奴隷にしない為に、近代教育と軍国主義化と殖産興業を強権を持って推し進めた。
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 新国家建設の為には、全国から身分に関係なく優秀な人間を官吏として取り立てて仕事をさせる必要があった。
 その為には、官吏を養成する西洋式近代教育機関=学校の新設と、卒業生に対する官吏登用試験の整備が急務であった。
 官吏登用は、世襲武士だけではなく庶民(百姓や町人)にも道が開かれた。
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 明治が、江戸時代までの日本とは違う日本に変貌していったのは、庶民が官吏登用試験に合格し官僚となり政治に深く関わり始めたからである。
 ただし、山県有朋などの明治維新の元勲が存命中は、日本は大きな誤りを犯す事なく政治・外交・軍事を行っていた。
 大正中期以降に、力ある元勲が死亡して人数が減少し、第2世代である庶民出の高学歴出身知的エリート重臣達が政治の実権を握り、学識頼みの外交政策が国家運営をおかしくしていった。
 それは軍部でも同じ現象が起きていた。
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 大正期や昭和初期における世襲の政治家・官僚・軍人は、江戸時代からの世襲武士階級ではなく、明治維新後の学歴偏重の庶民出身者であった。
 世襲武士階級は、日本儒教朱子学の温厚解釈による儒教教養を持っていた。
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 庶民出の高学歴出身知的エリートは、武士的儒教教養を野蛮と軽蔑し、さりとてキリスト教価値観による西洋教養が理解でない為に、中華儒教朱子学固執して「国體論」を創作するか、マルクス主義に染まって人民革命を目指した。
 大正中期 江戸時代から受け継がれてきた武士道・士道は、官吏養成の最高学府で抹殺された。
 昭和前期の忠君愛国は、明治までの武士道・士道とは本質的に違う。
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 庶民出の高学歴出身知的エリートには、自己の権力を守る為の主義はあっても、思想も哲学もない、そして文化的素養もなく、文化に対する理解力も持ってはいなかった。
 精神論を声高に叫ぶ高学歴出身知的エリートほど内面はカラ、空虚である。
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