📉16】─1・C─「子どもには無限の可能性がある」と考えない方が良い心理学的理由。~No.35 

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 2024年4月22日 MicrosoftStartニュース AERA dot.「「やればできる」は遺伝学的には錯覚 「子どもには無限の可能性がある」と考えない方が良い心理学的理由
 安藤寿康
 © AERA dot. 提供
 ふたご研究の第一人者で、行動遺伝学や教育学の専門家の安藤寿康さんは、「教育とは何か」「人はなぜ教育するのか」を生物学的な観点から研究している。「やればできる」は遺伝学的には錯覚だと指摘する安藤さんが、「教育は遺伝に勝てるか?」という究極の問いに迫る。
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■教育界が使い分ける、本音と建前
 安藤さんの研究は、人間の能力やパーソナリティーに遺伝の影響がどれくらいあるかを明らかにするものだが、その結果は、教育のあり方を考える時の重要なエビデンスを提供する。
 実は教育界では、遺伝の評判はすこぶる悪いらしい。「子どもは真っ白なキャンバスなのだから、育て方や教え方でいかようにも伸ばすことができる」という考えからすると、「あらゆる能力は遺伝的であり、遺伝によるセットポイントがある」というのは具合が悪いからだ。
 しかし、イギリスやアメリカでは1960年代にすでに、知能(IQ)の遺伝率が高いことが報告されていた。
 「たとえばアメリカは、1965年にヘッド・スタート計画という就学前の乳幼児の保育プログラムをスタートさせ、早期教育にお金をかけてきたんですが、ヘッド・スタート計画の成果に関する調査からわかることは、その教育を受けている時はIQが高まるが、しばらくすると元に戻る、ということでした」
 安藤さんは1981年に大学院に進学。バイオリンの早期教育として知られるスズキ・メソードを研究するつもりだったが、指導教授の紹介で行動心理学にたどりつき、日本で研究を始めた。
 IQのような「認知能力」に対して、「非認知能力」という言葉をよく見かける。意欲、粘り強さ、感情をコントロールする力、客観的思考力、リーダーシップ、協調性などがそれにあたるとされている。幼児教育でも「非認知能力を伸ばすのが大事だ」と言われる。安藤さんはこれにも疑問を投げかける。
 「『非認知能力』は、心理学的には妥当性を欠くものだと僕は捉えているんです。要するに、お勉強ができることを『認知能力』、それ以外を『非認知能力』と言っているわけですが、『非認知能力』に分類されている、『自分自身をコントロールして、社会的に適切な行動をとる力』というのは、脳の前頭前野が主に司るもので、『認知能力』なんです」
 「やればできる」は遺伝学的には錯覚 「子どもには無限の可能性がある」と考えない方が良い心理学的理由
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 そこにはある種のごまかしがあるのではないか、というのが安藤さんの言いたいことだ。
 「じゃあ、認知能力でないのは何かというと、その人のパーソナリティー、要するにキャラです。パーソナリティーの5割近くは遺伝で説明できて、神経質な人は訓練して神経質になったわけじゃないし、外向的な人は訓練して外向的になったわけじゃない。それを『非認知能力』とか言われると、ある環境にさらされていくと、みんなが大人が理想とする“いい子”に変わっていくかのように錯覚する。だけど、ヘッド・スタートが示すとおり、子どもにある環境を与えれば、その時はそこに適応するけど、独り立ちさせたら元のセットポイントに戻るんです。形状記憶合金みたいに」
 近年は、遺伝子研究が大幅に進み、脳科学と結びついたゲノム脳科学も盛んになっている。それでもまだ、教育において遺伝の影響はあまり検討されず、「子どもは真っ白なキャンバス」という考えは根強いように見える。
 「本音と建前、あるいは夢と現実を、教育界も親も使い分けているのではないでしょうか。本音のところでは真っ白なキャンバスでないことはわかっているが、それを言っちゃあおしまいよ、なので、白紙だとか無限の可能性だとか言った言葉づかいでごまかそうとしている。そうしないと救いがないと思い込んでいるのでは」
■人間は教育する動物である
 それでは、安藤さんが考える教育とはどういうものか。
 「教育というと、学校でおこなわれているようなことだと思われますが、教育という現象が一番素直にあらわれるのは、教室のなかではないと思うんです」
 安藤さんは、テレビで取り上げられた、ある美容師を例に挙げた。その美容師はかつて、発達障がいのある子の散髪を引き受けた時に、バリカンの音で怖がらせてしまったことがあった。その後、専門的な知識を学び、発達障がいの子に髪を切らせてもらうスキルを身につけた。その美容室には、遠方からも親子が訪れるようになった。
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 「これ自体いい話なのですが、それだけでなく、同じように発達障がいの子の散髪で悩んでいる美容師に、オンラインで教えてあげていたんです。で、教育って、そういうことなんじゃないかと。つまり、なにか課題を抱えていて、それを解決する方法を必要としている人のところへ、その課題に一足先に気づき、解決できる遺伝的な素質を持っていた人が、その知識や技能を運んでいった時に、『あ、まさにそれが欲しかったんです』といって、自然に受け渡しがおこなわれる。そんなことをやる動物は、人間しかいないんです」
 学校との違いは、習う側に積極的な動機があることか。しかし、習いたいことがあらかじめわかっているとは限らないのが、教育の難しいところだ。
 「それもまた、出会ってみないとわからないことなので。誰と出会うかによっても違ってくる。そこにも全部『ガチャ』があるわけですが、とりあえず、人やものごととの出会いを組織的につくる場として、人間は学校というものを発明してきた」
■学校はこれ以上よくならなくていい
 現代でもおおかたの先生たちは、子どもたちに豊かな経験をさせてあげようと思っているだろう。ところがこと受験となると、学校の成績やテストの点数に教育の焦点がスライドしていく。学校は教育のための道具だったはずなのに、その道具によって傷つく子どもたちが出てくる。
 「標準化されたカリキュラムのなかで、難しい問題が解けるようになると、達成感を覚えるし、確かにいい大学に入れます。どんどん難易度が上がる入試問題に、どこまでもついていけちゃう有能な子もいます。ですが多くの場合、がんばってもどこかでついていけなくなる。その背後には遺伝的な要因があるのですが、教育界ではそれを言ってはいけないので、本来できるはずのことができていないということにされてしまう。高い学歴は誰でも目指せるし、目指せなかったのは本人の努力不足か、教え方が悪いというストーリーしかない。それが、日本の教育をちょっと不自然なものにしている」
 「やればできる」は遺伝学的には錯覚 「子どもには無限の可能性がある」と考えない方が良い心理学的理由
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 遺伝と環境のランダムな出合いの場だった学校は、受験の部分がどんどん洗練されていき、安藤さんいわく「マンモスの牙のように」そこだけが肥大化していった。
 「学校受験のしくみはうまくできているので、そこに乗ってうまくいった人は、そうでない人と比べて、確かに収入はよくなります。収入が多ければ幸せとは必ずしも言えないし、所得格差は経済政策の問題であって、それはもう別途のことなんですが、それが教育と絡まってしまっているので、受験に適応できなかった人からパイを奪うことになる」
 安藤さんは最近、ふたご以外の人への聞き取り調査を始めた。有名無名を問わず、「なんかいい仕事やいい生き方してるな」と思う人が対象だ。
 「『学校の成績だけが人生じゃない』というと、一見陳腐な慰めの言葉と思われるかもしれませんが、世の中で魅力的な仕事をしている人、すごいなあと思う振る舞いをしている人に気づけるようになるほど、リアリティーを増していきます。学校の成績には反映されない能力が、人々の生きるリアルでローカルな場面で機能している。当たり前のことですが、拙書『教育は遺伝に勝てるか?』(朝日新書)では、その当たり前を科学的に示そうとしたつもりです」
 学校をもっとよくしようではなく、すでにすぐれた制度があるのだから、運用する側のマインドを変えていこうというのが、現代の教育に対する安藤さんの提案だ。問題は道具ではなく使い方、ということである。
 大切なのは本人が持つ資質を、自由に試しながら、失敗しながら、探っていくこと。成功しなければならない、個性的であらねばならない、何者かにならなければならない。安藤さんが語る行動遺伝学は、そういう呪縛を解くものでもある。
 (構成/長瀬千雅)
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