🍙41〗─3─観測史上最大「チリ地震」と日本の津波被害犠牲者142人。昭和35年5月。~No.255 

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 2020年5月23日 ウエザーニュース「観測史上最大「チリ地震」から60年
地球の裏側からの津波が怖い3つの理由
 日本時間の今日5月23日で「チリ地震」から、そして明日5月24日で「チリ地震津波」と呼ばれる災害から、それぞれ60年となります。
 南米チリ沖で発生した地震による津波で、日本では岩手県宮城県を中心に死者行方不明142人、建物全半壊5,000棟に達する大きな被害が出ました。
 エネルギーは東日本大震災の約5倍
 1960年チリ地震震源
 チリ地震は、日本時間の1960年5月23日午前4時過ぎに発生しました。
 地震の規模はマグニチュード9.5で、東日本大震災を引き起こした2011年の巨大地震と比べても約5倍のエネルギーを持つ地球上での観測史上最大となる地震でした。
 岩盤が壊れた範囲はチリ沖のアタカマ海溝沿いに南北1100km、東西200kmにおよび、日本に当てはめると北海道根室沖から関東沖の岩盤が一気に動いたことになります。
 震源に近いチリでは激しい揺れや大津波によって1,743人が死亡するなど甚大な被害となりました。
 地球の裏側から来た大津波
 津波の伝わる速さ
 チリ地震で発生した津波は太平洋一帯に広がり、ハワイには地震発生から15時間後に約10mの大津波が押し寄せました。日本に津波が到達したのは地震から20時間以上も経った24日明け方で、約17,000kmを平均時速700km以上とジェット機並みの速度で伝わりました。
 この日、日本の気象庁はチリで巨大地震が発生したことは把握していましたが、当時、日本近海の地震に対しての津波予想技術のみで海外からの津波に対しては十分な知識がありませんでした。
 このため、津波の到達を知ったのは24日午前4時頃に北海道の住民や地元気象台から「潮位がおかしい」という情報が入ってからで、津波警報の発表が第一波到達後となってしまいました。
 津波は北海道から沖縄までの太平洋側の広範囲におよび、東北太平洋側の高い所では5mを超えました。
 チリの地震津波が特に怖い理由
 南米チリ沖は日本と同様、地球を覆うプレートと呼ばれる岩盤が衝突している場所にあたり、昔から大きな地震が発生しています。
 また、1960年のチリ地震以外にも日本で津波被害が出た事例がいくつもありますが、これには理由があります。
 理由1 超巨大地震の頻度が高い
 チリ沖はマグニチュード8クラス後半から9クラスの地震が世界的に見ても特に多い。地震の規模が大きいことはそれだけ津波の規模も大きくなりやすいことを表す。  
 理由2 津波エネルギーが日本に集中する
地球は球体のため、ある一点から発生した波は最終的にはその反対側に集まる(収斂(しゅうれん)という)。
 また、チリと日本の間には津波を遮る陸地がほとんど存在しない。このため、日本から見れば最も遠い地球の裏側に当たるチリの地震津波は条件が非常に悪い。
 理由3 波のエネルギーが特に大きい
非常に長い時間をかけて太平洋を横断する間に、短周期の波(エネルギーは比較的小さい)は弱まり、長周期の波(エネルギーが大きい)が残る。長周期の波はいったん陸地に這い上がってくるとなかなか波は引かず、影響が大きい。
 上記のことが、遠い場所で起きる=日本への津波の影響が小さい、とはならないことを意味しています。
 地震後の対策
 被災した岩手で堤防がつくられている様子
 事前に把握できるはずだった大津波の襲来を予想できなかったことから、チリ地震をきっかけに、国際的な太平洋津波警報組織が整備されました。
 現在では海外で大地震が発生した際は「遠地地震に関する情報」が概ね30分以内に気象庁から発表され、海外での津波観測値などを基に日本に津波が到達する数時間前までに津波注警報が出されます。
 60年前と比べて格段にその予測技術が上がった津波予報ですが、海に囲まれている日本にとって津波はたいへん怖い現象に変わりはありません。」
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 2020年5月19日 YAHOO!JAPANニュース「日本でも被害が出たアメリカ大陸の超巨大地震から60年、火山噴火から40年
 福和伸夫名古屋大学減災連携研究センター、教授
 60年前に起きた超巨大地震
 今から60年前、1960年5月22日15時過ぎ(日本時間では23日4時過ぎ)に、南米チリの太平洋沖でモーメントマグニチュード(Mw)9.5の超巨大地震が発生しました。観測史上最大の地震です。この場所では、海洋プレートのナスカプレートが大陸プレートの南米プレートの下に沈み込んでおり、日本列島と同様の沈み込み帯に位置します。この地殻変動によって盛り上がってできたのがアンデス山脈です。
 チリ地震の余震域の大きさは800km×200kmにも及び、広域に海底が大きく盛り上がったことで、強い揺れと大津波が発生しました。15分後には約18mの津波がチリ沿岸部を襲い多くの人が犠牲になりました。また、地震後には周辺の火山活動も活発化し、38時間後に噴火したコルドン・カウジェ山をはじめ1年以内に4つの火山が噴火しました。
 日本にまで届いた津波
 津波は22時間半後の24日未明に日本にまで到達し、伝播途中の海底地形の影響で焦点効果が起き、数mの津波が沿岸を襲いました。津波による日本全国の死者・行方不明者は142人に上ります。三陸海岸では6mを超える場所まで津波が遡上し、岩手県大船渡市の53人、宮城県志津川町の41人など、岩手県宮城県の太平洋岸で多くの犠牲者を出しました。1896年明治三陸地震、1933年昭和三陸地震に続く津波災害です。
 地球の反対で起きた地震ですから、当然、地震の揺れを感じることはありません。ただ、日本に津波が到達する7時間前にはハワイに津波が到達していましたので、その情報が活用できれば被害を減らすことができていました。このため、地震の後、アメリカ海洋大気庁の太平洋津波警報センターと連携して、遠地津波に備える体制がつくられました。
 50年に一度の超巨大地震
 チリ地震の前後には、M9クラスの超巨大地震が太平洋周辺地域で集中して起きました。1952年11月4日に起きたMw 9.0のカムチャツカ地震や、1957年3月9日のMw8.6のアリューシャン地震、1964年3月28日のMw 9.2のアラスカ地震などです。
 実は、50年ぶりに、同じようなことが起きているとの指摘もあります。2004年12月26日に起きたMw9.1のスマトラ沖地震の後、2010年2月27日のMw8.8のチリ・マウレ地震、2011年3月11日のMw9.0の東北地方太平洋沖地震などです。多くの場合、地震後に近くで複数の火山が噴火しています。超巨大地震は50年に一度、固まって起きるのでしょうか?
 300年前にもあった超巨大地震
 東北地方太平洋沖地震の後、過去の津波の痕跡が地中に津波堆積物として残されていることが注目されました。実は、320年前にアメリカ西海岸で起きた超巨大地震の痕跡が北海道に残っていました。アイヌ民族は文字を使わなかったため、北海道では昔の地震の記録は文書には残っていませんが、北海道大学名誉教授の平川一臣先生たちが、人工的な地形改変の少ない北海道の特徴を生かし、地下の津波堆積物を精力的に調査されました。その後、日本の古文書から津波到達の日も特定されました。これが、1700年1月26日に起きたMw8.7~9.2のカスケード地震です。この場所は、ファンデフカプレートが北米プレートに沈み込むカスケード沈み込み帯です。すでに地震発生から320年が経っており、近くにシアトル、ポートランドバンクーバーなどの大都市もあることから、将来の地震発生が心配されています。
 実はこの時代にも、太平洋周辺で超巨大地震が起きていました。その一つは、今、最も心配されている南海トラフ地震です。1707年10月28日にMw8.7と言われる宝永地震が起きました。さらに49日後には富士山も大噴火しました。今でも宝永火口が富士山の南東麓に見えます。また、1687年10月20日にはペルーのリマ沖でM8を超える大きな地震があったようです。
 山の形を変貌させた40年前の大噴火
 カスケード地震を起こしたカスケード沈み込み帯の東に位置する北米大陸西海岸には、カスケード山脈があり、多数の火山が連なっています。その一つ、セントへレンズ山が40年前の1980年5月18日に大噴火しました。2か月前から地震や噴火が続いていましたが、5月18日にM5.1の火山性の地震が起き、その揺れで斜面が大規模に山体崩壊しました。これによって、覆いを失った内部のマグマが噴出し、激しい爆風と大規模な火砕流山麓を襲いました。その結果、セントへレンズ山の標高は2,950mから2,550mに減少し、美しい姿だった成層火山のセントへレンズ山の姿は大きく変わりました。2016年熊本地震での阿蘇大橋周辺や2018年北海道胆振東部地震での厚真町の山々の崩落からも分かるように、火山堆積物は地盤がもろく崩れやすいようです。南海トラフ地震と富士山のことを考えると、他人ごとではありません。
 今週は、超巨大地震チリ地震から60年、地震の巣の近くで噴火したセントへレンズ山の噴火から40年です。太平洋の向こうの災害を通して、これからの地震・火山への備えを考えたいと思います。
 福和伸夫
 名古屋大学減災連携研究センター、教授
建築耐震工学や地震工学に関する教育・研究の傍ら、地域の防災・減災の実践に携わる。民間建設会社の研究室で10年間勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科で教鞭をとり、現在に至る。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。」
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 2020年5月19日 河北新報地震から22時間半後の津波、全国で142人犠牲 チリ地震津波(1960年5月)
 チリ地震津波、太平洋岸を襲う 塩釜市北浜の被害惨状=1960年(昭和35年)5月24日、宮城県
 日本各地に大きな被害を与えた1960(昭和35)年5月のチリ地震津波は、日本では揺れがなく、突然、押し寄せた津波だった。全国の死者・行方不明者は142人に上り、その多くは岩手県大船渡市(53人)、宮城県志津川町(現南三陸町、41人)など、三陸沿岸に集中した。
 地震は5月23日午前4時すぎ(日本時間)、チリ南部で発生した。推定マグニチュード(M)9.5という超巨大地震で、これによって生じた大津波は平均時速750キロという高速で太平洋を横断し、22時間半後の午前3時ごろに太平洋の真向かいにある日本列島の沿岸に達した。津波到達の標高は、三陸海岸で6メートルを超え、家屋の全壊・流失は全国で2830棟、浸水3万7195棟などの被害が出た。
 チリ地震津波のように、非常に遠方で生じた津波が伝播してくる津波は「遠地津波」と呼ぶ。「遠地津波」は【1】強い震動が感じられない【2】到達までに長い余裕時間がある【3】波動の周期が長い【4】長時間継続する―などの特色があり、近海で起こる「近地津波」と区別される。
 チリ地震津波は、日本襲来の7時間前にハワイ島に到達しており、その情報は米軍を通じて日本にも伝えられていたが、警報が出されたのは津波が日本に到達し、各地から潮位の異常変化が報告されてきてからのことだった。チリ地震津波を契機に、アメリカ海洋大気庁(NOAA)の太平洋津波警報センターを中心とした津波システムに日本も組み入れられ、遠地津波に備える体制がつくられた。
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 内閣府
 防災情報のページ > 報告書(1960 チリ地震津波
 報告書(1960 チリ地震津波
 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 
 1960 チリ地震津波
 報告書の概要
第1章 チリ地震津波とは何であったのか
 昭和35年5月24日早朝来襲したチリ津波は、北海道から沖縄までの太平洋沿岸各地に被害を与えた。体感する地震がなく、気象庁の対応も遅れ、完全な不意打ちであった。南米沖で発生した遠地津波は、1586年以降19例もあったのだが、その認識が不足していた。
 北海道・青森・岩手・宮城・三重だけでも358億円の被害となった。一般会計総額1兆6千億円、国土保全費520億円の頃である。前年の伊勢湾台風(被害額1,365億円)に引き続く大災害であり、昭和三十五年六月のチリ地震津波による災害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法が6月17日衆議院可決、20日参議院可決とすぐさま成立した。
 津波高が5〜6mと構造物で対処できる程度のものであったことから、構造物主体の津波対策が実行されてきた。10mを超える津波への総合的津波対策の策定には、1993年の北海道南西沖地震津波まで待たねばならない。
第2章 チリ津波の発生から日本到達まで
 南米プレートの下にナスカプレートが沈み込むチリ海溝で、Mw=9.5の観測史上最大の地震が発生、津波は15時間後にハワイ、23時間後に日本に到達した。
 遠地津波では無視できない波数分散効果、島・海山・海膨による短周期成分の散乱効果、海嶺などによる捕捉・導波作用のもとに、日本へ襲来した。発生源が日本の対極にある事とハワイ諸島付近の海底地形によるレンズ効果とが、日本への津波集中をもたらした。
 現在の数値計算技術では、長周期成分の卓越するチリ津波の再現はかなり精度良く出来るが、その一方で当時話題となった小さい前駆波は未だ説明されていない。
第3章 日本沿岸でのチリ津波
 近地津波に比べ、周期が長かった。東北日本では40分、80分のところにピークがあり、西南日本では40分であった。波高は、北海道・東北地方で2m程度であったが場所によっては4〜6m、関東・東海・近畿・四国・九州で1m位だが場所により2m程度、沖縄では孤立してではあるが4mの所があった。
 東北・沖縄地方で4m以上の場所が生じた原因として、太平洋伝播途中での屈折による集中とされている。第二の特徴として、長い湾が周期の長いチリ津波と共鳴し、湾奥ほど津波が高くなった事があげられる。共鳴しない湾でも、津波による速く複雑な流れが生じ、養殖水産業に影響した。第三の特徴は、大きな岬の背後へも津波が回り込んだことである。
 沿岸近くでの津波は「海が膨れ上がる]と表現され、「先端が段になる」、「白波が立った」と云う所は少ない。ただ、川に入ると明確な波状段波になった。
第4章 津波開始時の人間行動
 早朝から出漁準備などで浜に人が居り、津波警報が出なかったにも関らず、海を良く知る人の判断で死者を出さなかった例が各地に見られた。その一方で、近地津波では被害を受けにくい長い湾の奥では、安全との思い込みが被害につながった。大船渡湾奥がその例である。ここは、急速に発展した商業地域で転入者が多く、津波未体験であった。夜間営業のため、平常から朝の起床が遅かった。日頃から津波避難訓練に消極的で、避難信号のサイレンの意味が判らなかった。これが死者多数につながった。
 周期の長い津波であったため、引潮時の貝・魚拾いが各地で見られ、時として死につながった。
第5章 気象庁の対応
 我が国での津波予報は1941年に三陸地方を対象として始まり、1952年に気象官署業務規定が定められ法制化されたが、近地津波だけが災害をもたらすものと認識されていた。
4時59分の予報(仙台管区気象台発)が最も早かったが、津波到達後であった。津波の初動時刻までに津波警報が間に合った地域は皆無であった。
 チリ津波津波予報体制に根本的な変革をもたらすものとなった。この後、国際的な連携が加速された。
 その後現在に至るまでの、津波予報の精度向上、迅速化についても記述してある。
第6章 被害の実態
 人命、家屋、漁業(漁船・漁具・水産施設)、農業(農業・畜産業・防潮林)、交通(橋梁・鉄道)、ライフライン上水道・電力・電話・郵便)、公共土木施設(港湾施設・海岸堤防・護岸)、商工業の順に、被害形態や規模、原因、災害直後の対応などをとりまとめた。
 過去の津波時と同様、コンクリート造建築物の耐津波性が確認された。水産業では各種筏の流出損壊が目立った。石油や青酸カリの流出が発生したが、大事に至らなかった。沿岸道路は各所で破壊され、交通網は寸断された。流出木材・筏・漁船・家屋が路上に堆積し、その除去には機械力が効をなさず、殆んど人力に頼らざるをえなかった。
 発電所の初の浸水被害、上水道の破壊など、都市化しつつある沿岸地帯の弱点が現れた。
第7章 市町村・県・国の緊急対策
 市町村の出足は早かったものの、全体像の把握には時間がかかった。調査用紙が不足し、罹災者避難先が不明であったからである。
 電話不通のため、市町村と県の連絡が旨く行かず、その後の救援活動に支障が生じた。
 災害救助隊組織が確立しておらず、訓練不足が障害となった。こうした問題点が第2節3にまとめられている。
 意外な問題点として記録不足があり、救護の引継ぎなどで大きな障害となった。
 災害対策特別立法は、日米安全保障条約改定に関る騒然とした世情の中にもかかわらず、極めて速やかに成立した。
第8章 構造物主体の津波対策の確立とその後
 国・県の主導と財政措置のもとに行われる近代的な津波対策は、昭和三陸津波(1933年)に始まった。これが第1期である。経験的な総合対策であり、主流は高地移転であった。防潮堤建設は5箇所のみで採用された。津波予報は昭和16年に始まった。
 その第2期が、チリ津波によって始まる。沿岸での津波高がせいぜい5〜6mであったから、構造物主体の対策となった。世界初の津波防波堤が大船渡湾口に建造された。
 10mを越える津波への対処が考えられる中、1993年の北海道南西沖地震での経験から、総合的津波対策が進むことになるのが、第3期である。1997年以降、防災構造物、津波に強いまちづくり、防災体制の三つを基本とするようになった。
第9章 チリ津波とその後の対策に関する教訓
 チリ津波は、近地津波を対象とした従来の知識を覆すものであった。その複雑な動きは、現在でも解明されて居ない事がある。中でも、津波による流れは精度良く推定されるに至って居ない。
 沿岸地帯が近代都市化する直前の津波であったが、都市のもろさが諸所に現れた。下水道や排水溝からの思いもしない浸水、上水道・電話網・海底敷設管の破壊、発電所の浸水被害などである。大事に至らなかったが、石油に関連する火事も発生した。
 貯木場からの木材流出が大問題となったが、その後も対策は進んでいない。松冨の調べによると、積極的に対策を講じて居る港湾は全国で僅か5港湾しかないのが現状である。
 津波に対する土地利用規制は、北海道浜中町宮城県志津川町(現南三陸町)でしか実現しなかった。
 構造物による対策は、チリ津波に対しては効果があった反面、防潮堤があるが故に湛水が長期化した例が発生した。
 救援活動を支える救援道路の破壊、漂流物による交通障害が問題となった。海から近づく場合に使われる港湾で、津波による流れが原因の障害が起こった。岸壁の倒壊、あるいは港湾での堆積による水深変化、漂流物による航行障害である。
 以上のように、生活に便利なライフラインの被害が伺い知れる災害が発生した。このときの被災状況に学び、やや想像力を働かせれば、現在の進化した沿岸地帯で生じ得る災害を推測するための良い手掛かりがあちこちに見られる。
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 ウィキペディア 
 1960年のチリ地震(チリじしん、西:Gran terremoto de Valdivia)は、同年5月、チリ中部のビオビオ州からアイセン州北部にかけての近海、長さ約1,000km・幅200kmの領域を震源域として発生した超巨大地震である。地震後、日本を含めた環太平洋全域に津波が襲来し、大きな被害が発生した。マグニチュード9.5を記録し、観測史上世界最大級の地震である。バルディビア地震とも呼ばれる。

 津波
 各地の津波到達時間
 津波で破壊されたハワイ島・ヒロの街
 本震発生から15分後に約18mの津波がチリ沿岸部を襲い、平均時速750kmで伝播した津波は約15時間後にはハワイ諸島を襲った。 振幅の最大値は日本 6.1m、アリューシャン 3.4m、カナダ 3.3m、ハワイ 2.9m、オーストラリア 1.6mを観測している。ハワイ島のヒロ湾では最大到達標高10.5mの津波を観測し、61名が死亡した[注 1]。
 太平洋を伝播する津波の周期は非常に長く、ヒロでは高さ数フィート程度の第一波到達約1時間後に最大波が襲来し、海岸線から800m以上内陸まで壊滅的な被害となった。
日本での被害(チリ地震津波
 日本は震源から見て西に有るが、他の太平洋沿岸地域と比べ被害が大きかった。地震発生から約22時間半後の5月24日未明に最大で6.1mの津波三陸海岸沿岸を中心に襲来し、日本の各地に被害をもたらした。気象庁はこの津波チリ地震津波(チリじしんつなみ)と命名した。
 津波による被害が大きかったのはリアス式海岸の奥にある港で岩手県大船渡市では53名、宮城県本吉郡志津川町(現南三陸町)では41名、北海道厚岸郡浜中町霧多布地区では11名が死亡。浜中町では1952年の十勝沖地震でも津波被害を受けており、2度にわたって市街地は壊滅的な被害を受けた。街の中心でもある霧多布地区はこの津波により土砂が流出し、北海道本島より切り離され島と化した。現在は陸続きだった所に2つ橋が架けられており、本島と行き来が出来る。1つは耐震橋、もう1つは予備橋で橋が津波で流出する恐れがあるためと避難経路を2路確保するためである。東北地方太平洋側のほか、伊勢湾台風の被災から間もない三重県南部から和歌山県田辺市新庄町辺まで津波被害を受けた。
 また、過去の度重なる津波被害を受けて高さ10mの巨大防潮堤を建造していた岩手県下閉伊郡田老町(現宮古市)では、この津波による被害が全く出なかった。実際には津波が防潮堤まで到達しなかっただけであったが、翌日の新聞報道ではこの巨大防潮堤が功を奏したかのように報道され、田老町の防災の取り組みを取り入れ浜中町に防潮堤が建設されることになった。北海道の防潮堤については後の北海道南西沖地震津波による人的被害の甚大な奥尻島などでも建設された。
 報道
 NHKラジオでは、気象庁の「津波警報」の発令前の5月24日午前4時30分からローカル放送で津波に関するニュースを伝えて、仙台局からの情報を元に午前5時からの全国向けにニュースで伝えた
 NHK総合テレビでは、午前10時25分から5分間「ニュース特報」で伝えた。
防災への影響
 地球の反対側から突然やってきた津波(遠隔地津波)に対する認識が甘かった事が指摘され、以後気象庁は日本国外で発生した海洋型巨大地震に対してもハワイの太平洋津波警報センターなどと連携を取るなどして津波警報・注意報を出すようになった。
 当時は津波のオンライン観測網は無く、検潮所や潮位観測所に人が定期的に見に行く仕組みであった。」
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