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関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・
日本の近代教育は、新しく創作した人為的日本国語の「サイタ サイタ サクラガサイタ」から始まり、「子曰く」や「考えるが故に我あり」という哲学・思想・主義主張を薄め、「はじめに言葉ありき」や「神に似せられて創られた私」という宗教性を排除した。
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日本の教育は人として正しい道を歩んで生きる為の学問であって、哲学・思想・主義主張や宗教・信仰の為に狂喜して死ぬ原理主義的学問ではなかった。
「一期一会」・「転んでもただでは起きない」・「七転び八起き」の民族的伝統精神を教える修身教育であった。
「失敗してもそこから学ぶ」教育、「失敗を怖れない」教育である。
それは、マルクス主義(共産主義)価値観、キリスト教価値観、儒教価値観とは異なる教育である。
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近代教育の初等教育・基礎教育とは、特定の大人の思惑・意図を排除した、如何なる色も付けない無色透明・無味無臭の真っ白な状態での教育であった。
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清国(中国)と李子朝鮮は、短絡的に短期間で「手っ取り早い近代化」を目指して、日本式近代教育を採用し、日本が創った和製漢字を学んだが、近代化に失敗し国を滅ぼした。
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何故、近代教育が日本で成功して中国・朝鮮で失敗したか。
それは、本当の意味での農耕漁労民族であったからである。
真の農民は、運を天に任せず、できを神に祈って一任せず、農作物は……自分が働いて作った。
農作物を植える前に土に過不足なく栄養を与えて土壌を作り、そこの風土に合った作物の種を植え、晴はもちろん風・雨・雪が激しくても日夜休みなく、朝早くから夜遅くまで辛抱強く、水をやり、雑草を取りしながら手塩に掛けて育てて収穫した。
漁場でも同じ出る。
日本はそれができたが、中国・朝鮮はそれができなかった。
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江戸時代。武士は、家禄が低く、多額の借金を抱えて生活苦にあった為に、百姓や町人から仕事を分けて貰って内職をして現金を稼いでいた。
大名も、多額の借金を抱えて財政難にあった為に領内で新しい産業を興すべく努力していた。
その意味において、大名や武士は経営者であると同時に労働者でもあった。
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2019年10月4日号 週刊朝日「『日本資本主義の父』と『近代日本医学の父』と呼ぶべき2人
新札モデルの子孫対談
『「新札はこれで最後でしょう」と財務省の方が』
『国立造幣局から5年前に「写真を借りたい」』
2024年に発行される新1万円札と新千円札のモデル、渋沢栄一と北里柴三郎。その直系の子孫がこのほど、初対面した。経済界、医学界と分野は違えども、ともに民間の側から近代日本の発展に大きく尽力したご先祖たち。実は、意外な接点があることがわかった。
渋沢栄一 曾孫・雅英氏
北里柴三郎 孫・一郎氏
司会 見城悌治
……
見城 栄一は経済界、柴三郎は医学界と、活躍の場は異なりますが、実は共通項が多い。ともに幕末に生まれ、明治維新の動乱期を駆け抜けたふたりは、正義感あふれる若者でした。たとえば栄一は、尊王攘夷思想の影響を受けて、高崎城の乗っ取りや横浜の焼き討ちを企てます。
渋沢 1863(文久3)年ですね。実行していれば殺されていたでしょうが、運よく思いとどまった。新選組が暴れ回っていた京都に出た栄一は一橋家の徳川慶喜に仕え、その後は明治政府のもとで働きます。
尊王派だった若者が、第一国立銀行の創立にまで携わる実業家になる。私はこの期間を、『奇跡の10年』と呼んでいます。
見城 柴三郎は、53(嘉永5)年に熊本県の阿蘇地方にある庄屋の家に生まれ、16歳で熊本藩の藩校・時習館で学びます。大政奉還を経て明治に入るも、熊本では、士族が新政府に反乱を起こす神風連の乱が起きるなど、まだまだ動乱の時代でした。柴三郎が進学した熊本医学校(現・熊本大医学部)でも『熊本藩が幕府に恭順していいのか』と激論が交わされていた。
北里 4男5女ということもあり、『自分がしっかりして社会をなんとかしなければ』といった正義感が強かったのでしょう。
両親は、武士の世界に憧れる柴三郎に儒教を身につかせようと、親戚の家に預けます。『縁側の雑巾掛け』を命じられた柴三郎がピカピカに磨き上げる逸話は、『光縁側』として、熊本の道徳の教材にいまも載っております。
見城 医学校では、オランダ人医師マンスフェルトとの出会いがありました。日本の医学教育制度を確立した一人ですね。
北里 ええ、マンスフェルト先生は、3恩人のうちの1人目です。
当初、本人は医学に興味がない。マンスフェルト先生に『医者になる気があるのか』と尋ねられても、『ここでオランダ語を学んで、軍人か政治家になり、国際的に活躍したい』と平然と答えている。
しかし、顕微鏡を覗くうちに微生物の世界に見せられる。生意気にも、『医学、学ぶにたる』と医学への道を決意したわけです。
見城 栄一も武道に打ち込んだ時期があり、京都では新選組の近藤勇とも接点がありました。腕前はどうでしたか。
渋沢 それほどでは・・・。
見城 実業家で幸いでしたね。渋沢にとっての恩人といえば──。
渋沢 徳川慶喜公です。『勉強させれば、役に立つヤツだろう』と慶喜の弟、昭武公のパリ万博出席と欧州滞在のお供役に推薦してくれた。人生の転機でした。
栄一は尊王攘夷思想の影響を受けてはいたが、西洋人への反感はない。ちょんまげを落として洋装に着替え、コーヒーを飲めば、『こんなうまいものはない』と感激する柔軟さがあった。
何より、西洋の政治経済を目で見て、日本葉かなわないと悟ったのでしょう。
見城 渡仏中、栄一はお金の運用や経済を学びます。
渋沢 30人近い昭武のお供が、外国で1年半も生活するには金が要る。庶務担当の栄一は、現地で公債などの投資で資金を増やしてしまう。実地で学んだ経済学は大いに役立ったはずです。
柴三郎の窮地を救った福沢諭吉
見城 柴三郎も留学が人生の転換期となりました。
北里 東京医学校(現・東大医学部)を卒業後、内務省衛生局に勤めます。
見城 内務省の月給は70円。県立病院長職に就き、250円の高級を得た同級生もいましたから、それらに比べると待遇は悪い。
一方で、衛生状態の悪い明治期の日本では、伝染病は深刻な問題でした。柴三郎は、『利他の精神』で公衆衛生に取り組む道を選んだわけですね。
北里 ええ。でも、その内務省で転機となるドイツ留学の辞令がおりた。
見城 ドイツ細菌学の第一人者である。コッホの研究室で学んだのですね。
北里 第2の恩人です。留学して3年の1889(明治22)年に、柴三郎は破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功します。学会で発表した翌日の新聞の1面に、『東洋人が素晴らしい研究成果』と掲載されますが、『日本人』としか書かれなかった。
見城 欧米優位の風潮のなかで、日本人が認められるのは難しい時代でした。
北里 ええ。翌年には、免疫血清療法を発見したものの、留学期間は終わろうとしていた。すると、柴三郎の活躍を耳にした明治天皇が、『ぜひ研究費を送ってやれ』と1,000円も送金くださり、助かった。いまの貨幣価格で1,000万円です。
渋沢 大金ですね。
北里 おかげで6年間の留学生活の間に、破傷風や結核の研究で成果を挙げ、ドイツからは外国人で初となる、『教授』の称号を贈られます。だが、成果を出して帰国したものの日本では研究を続ける場所がない。
窮地を救ってくれたのが、福沢諭吉でした。
見城 第3の恩人ですね。
北里 ええ、『これだけの優秀な男を無為におくのは国の恥』と、港区の芝公園内に研究所を建ててくださった。
渋沢 日本初の伝染病研究所の誕生ですね。
見城 報酬よりも、国の将来を見据えて、困難な仕事にまい進する人生は、ふたりに共通するところです。
渋沢 民が努力しなければ国は駄目になる。栄一もそうした気持ちが強かった。
見城 大蔵省で活躍していた栄一ですが、民間から日本の商工業を興そうと、73(明治6)年に退職する。
同僚からは、『商売のような軽蔑される仕事で、どう生きるのか』と忠告を受けるなかでの決意でした。
渋沢 驚いたことに、すっかり人気も信用も得てしまう。
銀行の頭取や商工会議所の会頭、日本鉄道会社や東京電力から東京石川島造船所まで、経済インフラを確立するために奔走します。
見城 現在の一橋大となる東京商科大学や、東京女子館など教育制度の構築にも力を注ぐなど、活躍の広さは見事なものです。
渋沢 『日本の経済界を担う頭脳』を育てる、という信念ですね。
見城 民間から国を支えたのは、柴三郎も同じです。国から独立し、民間の北里研究所を設立した。
北里 管轄が内務省から文部省へ移行したのがきっかけでしょう。研究と教育が主体の文部省では、実社会予防疫学の実践が難しくなる、と危惧したのです。
見城 対立ではなく、さらなる発展を目指した。
……
北里 当時の欧州社会における日本人研究者への評価は、高くありませんでした。受賞したのは、共同研究者のベーリングです。
しかし嬉しいことに、2015年。柴三郎の孫弟子にあたる大村智先生が『感染症への新しい治療法』で、同じ医学生理学賞を受賞しました。お祝いの席で私は、『114年を経た受賞に、柴三郎が墓地で喜んでいる』と述べたほどです。
見城 孫弟子が……。栄一も、1926(昭和元)年と翌年の2度、ノーベル平和賞候補となります。
初代印刷局長が最後のモデルに
渋沢 実業界から退いた栄一は、日米を軸に民間外交へと情熱を注ぎます。だが、24(大正13)年に、日本の移民を拒む『排日移民法』が米国で施行されてしまう。栄一は、『放っておけば、大変なことになる』と交流を続けたことが評価されたのです。
見城 栄一が関わった事業として、27(昭和2)年の日米両国の子どもに向けた『人形の交換』は有名ですね。日本に贈られた約1万3,000体の西洋人形は、流行した童謡にちなみ、『青い目の人形』と呼ばれます。
渋沢 排日移民法で日米間の感情は急激に悪化しました。『人形』の事業は、法の施行を嘆く、栄一の贖罪でもありました。
見城 戦争が始まると、人形は『敵国人形』として捨てられなしたが、300体余りはいまも残っています。
渋沢 ええ。栄一の善意は未来に紡がれています。
見城 柴三郎は、恩人である福沢諭吉の遺志を継ぐ形で、慶応義塾大学の医学部創立にも携わりました。
北里 1917年に慶応義塾大学の評議員会で医学部医学科の創立が決まり、医学科長に選ばれたのです。10年間、無給でその任を果たしました。
……」
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日本の近代化は、未熟な青年が始めたのであって、学識豊かな大人ではなく、語学力優れた子どもでもない。
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日本国語は、明治に創られた新しい日本語であって江戸時代まで普通に話されていた古い日本語とは違う。
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日本は、近代化をするに当たって西洋語の発音をカタカナに表記し、隠された「ロゴス」を探り出し見極め、その意味に相応しい和製漢字を造語した。
つまり、柔軟に「物事を見える化」するのが民族言語である日本国語の強みであった。
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日本文明・日本文化は、2000年前から片時も止(と)める事も止(や)める事もなく繰り返してきた。
だが、現代の日本人は日本をグローバル化する為に柔軟性を捨てようとしている。
リベラル派・革新派そして一部の保守派・メディア関係者は、古き良き民族の伝統を破壊する事こそが日本国のありのままの姿を取り返す事である確信し実行している。
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現代の裕福家庭の高学歴出身知的エリートと明治時代の身分低き貧しき家庭出身エリートとは、同じエリートと言っても中身が違う。
現代の人・日本人と昔の日本・日本人とは、違う日本・日本人である。
現代の日本人は、昔の日本人に比べて外国語を話し外国人慣れしているが、だからといって秀でてもいないし賢くもないし優れてもいない。
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何処が、昔の日本・日本人と現代の日本・日本人が違うのか、それは戦争をして死ぬ覚悟があるどうかであった。
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日本の近代化の為に、古代を引き摺って変化を拒絶し、旧態依然こそ正しい道と盲信する時代遅れの中国と朝鮮を軽蔑・蔑視し嫌悪して切り捨てた。
日本人の中国人・朝鮮人への差別はここから始まっている。
その逆の日本人差別も存在する。
中国は儒教の中華思想による華夷秩序・絶対的上下関係で。
朝鮮は儒教の小中華思想、大国・強国に下僕のように媚び諂う事大主義、自分を賢く優秀で偉大であると思い込みたい夜郎自大で。
それ故に、日本と中国・朝鮮との和解や友好・善隣などなり得ない。
日本は揚子江流域に栄えた長江文明の後継であり、中国と朝鮮は黄河流域に栄えた黄河文明の後継である。
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日本は、江戸時代までの古い日本語に愛着を持ちこだわり変化を拒絶していたら近代化は失敗し、アジアやアフリカのような貧しい国になっていた。
日本が近代化に成功した最大の理由は、言語を民族統一言語として西洋語を公用語とせず、西洋語など外国語の語彙を全て日本国語の訳語に代えた「変換」だある。
日本から柔軟な「変換力」が消えた時、日本の衰退が始まる。
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西洋語を新しい和製漢字に変換する語学力には、立体的重層の深い理系論理的想像力と広い文系現実的発想力が必要である。
最先端の学問を、西洋語のまま正しく理解し間違いなく西洋語で話すのと、日本国語に訳して理解し西洋語で話すのとでは、その理解力には雲泥の差がある。
明治時代から大正初期までの日本人はそれができたが、バブル崩壊後の日本人にはそれができなくなっている。
つまり、現代日本人には変換力・転換力が弱っている。
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日本は、途上国が普通に行う「才能ある優れた子供のみを選抜し、西洋語による高度な特殊・特別の英才教育を行わなかった」からこそ、日本は先進国となり、世界の五大国の一国へと進歩・発展し、欧米列強に迫るほどの富を築き豊かになって繁栄した。
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現代のリベラル派・革新派そして一部の保守派・メディア関係者・学者・知識人が言う「官から民へ」は、明治時代の「官から民へ」とは本質的に違う。
それ故に、明治時代の「官から民へ」は成功したが、現代の「官から民へ」は成功せず失敗する。
バブル崩壊後の日本の衰退は、当然の結果である。
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日本の近代化は、産業の「官から民へ」と国家・社会から「宗教の影響力を排除した」から成功した。
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明治は人口爆発の発端であった。
江戸時代の総人口平均は約3,000万人であった。
人生50年時代で、若者が多く老人が少なく、出生数が増え、乳幼児死亡数と出産後女性死亡数が減った。
人口爆発時期の出生数は平均約200万人で、乳幼児死亡は少なくその多くが元気に成長し、出産可能な元気な女性は生涯で3人から9人くらいは産んでいた。
昭和20(1945)年の総人口は約7,000万人を超して、明治元(1868)年の2倍以上である。
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明治政府は国家の近代化の為に宗教弾圧もどきの宗教政策を行い、仏教に対しては廃仏毀釈であり、神道に対しては神社合祀令である。
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渋沢栄一が言う儒教とは、論語を原書とする異端派の諸派儒教であり、中国や朝鮮で栄えた正統派の原理主義的朱子学ではない。
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現代の日本・日本人と昔の日本・日本人は違う。
そもそも、時代が違うのである。
昔の日本・日本人が偉いからといって、現代の日本・日本人が偉いわけではない。
言ってみれば、優れた鷹がダメな鳶を産んだのである。
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日本人は伝統の世襲にこだわる為に、昔の偉人や英雄、有名人や著名人の血を引く子孫を羨望の眼差しで眺め、彼らに敬意を持って接し、彼らが語る祖先の話を有り難がって聞く。
日本は、根っからの世襲社会である。
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日本の中には、伝統の世襲を消滅させようと願っている一部の日本人が存在する。
彼らの世襲制度廃絶の最終目的が、特殊な血筋・血統を正統性とする特別な家系である万世一系の男系天皇(直系長子相続)の消滅である。
彼らにとって、顔を見た事もなければ、声を聞いた事もな祖先には、一寸の恩義もなく、一片の愛着もなく、存在していた価値も持たない。
つまり、彼らにとって、祖先は消滅させるべき悍ましいゾンビにすぎない。
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外国人移民(主に中国人移民)が増えれば、日本の歴史上、日本国民日本人の偉人や英雄、有名人や著名人の子孫は消え、日本から古き良き伝統の世襲が消滅する。
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日本文明は、揚子江流域で生まれだ長江文明の後継文明である。
日本文化は、東方や南方の海の彼方から訪れるマレビトを理系的論理想像と文系的現実発想で受け入れてきた。
西方からの影響は、インド・中央アジア・長安から揚子江流域を経て日本に渡来したのであって、黄河流域・北京から朝鮮半島を経由して渡来したのではない。
日本民族日本人は、数万年前から多種多様な価値観を持った雑多な民族・部族が日本列島に流れ着き・逃げて来て、殺し合わずに乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種民族で、均質・均等でバランスを取り、安定を保ち、程よく生きてきた。
そこには、進歩・進化・発展、改良・改善・改造を否定する様な「同じ事を繰り返す」は存在しなかった。
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