⛻16〗─1─商人の都・大阪。国際港・神戸。適塾。五代友厚。~No.76No.77No.78 @ 

大阪でごわす―明治商都物語

大阪でごわす―明治商都物語

  • 作者:島 実蔵
  • 発売日: 2001/02/01
  • メディア: 単行本
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の近代化政策とは、人材養成と資本集中による技術革新と制度整備であった。
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 宮本武蔵「よらずに依怙(えこ)の心なし」(『独行道(とつこうどう)』)
 他人に依存しない。
 荻生徂徠「祀と戎(つわもの)とは国の大事なり」(『詹録(けんろく)』)
 人々が祭りの様に一体感を高め事が、国に大事である。
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 明治新政府は、税収が少なく財政が苦しかったが、藩財政が豪商や豪農からの借り入れ金で支配されていた経験を持っていただけに、外国資本に借金を申し込まなかった。
 サムライ日本人は、外国から金を借りる事は、日本経済が支配され、日本が植民地となる事を知っていた。
 清国にはこうした認識がなかった為に、外国から多額の借金をして、国力を弱め、国内を混乱させ、内戦による荒廃で滅亡し、植民地化が進んだ。
 朝鮮も、清国と同様の道を辿ろうとしていた。
 日本が、清国や朝鮮に警告しなかったのが悪いと言うが、弱小国日本には他国を支援するゆとりなどなかった。
 清国と朝鮮の末路は、日本には責任がなく、両国の自業自得である。
 1869年 清国は、新疆のイスラム教徒の叛乱を鎮圧する為に、軍資金としてイギリスから40万ポンド(約120万両)を海関税収入を担保として借り入れた。
 この後。清国は、関税収入や鉄道敷設権や鉱山採掘権などを担保として、イギリスやフランスから多額の借金を繰り返した。
 外国資本は、親切心から相手国の為に働くのではなく、善意として相手国の国民の幸福を考えるのではなく、企業経営として考えて与える事よりも利益を得る事を最優先とした。 商売とは、損を承知で行う慈善活動ではない。
 外国からの借金で起こした産業は、自国の産業とならず、全ての利益を取られて最後には何も残らなかった。
 キリスト教西洋列強の植民地であった国々には、未だに独自産業を持たない極貧の発展途上国として、欧米諸国のお恵みである財政支援で何とか財政を維持している。
 サムライ日本人は、江戸時代に借金という重みを嫌と言うほど思い知らされていた。
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 幕末から明治初期の日本人にとって、近代化の手本が地球の反対側の西洋にあっても、耳学問としての知識はあっても誰も見た事がない。
 新しもの好きで飽きっぽいムラッ気な日本人気質では、トップダウンの大陸的国家戦略である公権力による国策としての官営工場では、余りにもお気楽な為に好奇心もやる気も起きなかいどころか意欲そのものが削がれてしまう。
 島国として日常に刺激が少ない生活をしてきた日本人は、職人気質として腕を磨き匠・名人となり、他人と競争して打ち勝って日本一、世界一となって称賛される事を唯一の娯楽としていた。
 他人と競争して勝つ為には、過去の技術と自分の経験を基盤にして、西洋から流れ込んでくる知識や技術を柔軟に取り入れ、余所にないモノ、他人が思いもよらないモノ、他人が作れないモノ、他人が真似できなモノ、自分だけの慣習に囚われない独創的なモノを作った。
 メイド・イン・ジャパンは、固定観念や一般常識に囚われない所から生まれでは。
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 商人(あきんど)の都・大阪。
 江戸時代。大阪は、天下の台所として日本の富の7分を占めていた。
 長崎は、世界の窓口として舶来商品が取引され、蘭学の聖地として衆目を集めていた。
 明治維新によって、首都が東京に定められるや、国際市場との窓口も東京に一本化されて大阪の経済も衰退した。
 薩長閥が政治の主導権を取り、近代化の模範をイギリスに求めるや、蘭学は廃れ長崎の学術的色彩は色あせた。
 関東・東京への対抗心お強い関西・大阪は、嘆き悲しみ何もせず愚痴をこぼして悪態をついて憂さを晴らす様な「ど阿呆」な事をせず、大阪商人として何ごとにもへこたれない強かさからのし上がる事を考え行動に出た。
 加賀屋の広岡浅子は、古い既存の常識や仕来りに囚われる事なく新しい事に挑戦し、没落した両替商・加島屋を再建して加島銀行を設立し、大同生命保険を創業し、未知の分野である炭鉱経営にも進出した。
 儒教価値観よる封建制度下で虐げられた女性の地位向上と男性に依存せず自立した女性の生き方を広めるべく、婦女子教育の重要性を説き、私財を投じて日本女子大学校設立に尽力した。
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 五代友厚は、日本が自主独立を守り近代化するには、外国資本の投資、借款、・借金に頼る事なく日本の民間資本で株式会社を作って産業を興すべくであると考えていた。
 世界を回って実感した事は、外国資本による投資、借款、借金で殖産興業を起こしても、何らかの利権を担保として与えねばならない為に、短期的に成功しても中長期的には支配されて失敗すると。
 国際資本は、自分の利益を多く取る為に相手の利益を際限なく搾取する。
 国際法は、国際資本の為に有利に作られ、利益を上げる為に運用されていた。
 国際的民族主義者は、盲目的西洋礼賛主義者とは違って冷静に欧米列強を観察していた。
 欧米列強は、資金提供を求めず自主路線で近代化を目指す日本を頼もしく見るどころか、植民地支配を維持に邪魔な存在として疎まし無眺めていた。
 国際資本は、国際市場を独占し、植民地支配を拡大する為に、借り入れを拒否する日本の民族資本を粉砕しようと考えていた。
 世界の常識は、冷酷な弱肉強食であり、善意や温情などは存在しない。
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 明治新政府は、通過統一として、京・大阪で使用されていた通貨の単位「銀目」を廃止した。
 大阪の両替商達は、大名に貸し付けたお金の利子で儲けていたが、その多くが返済が滞っていた。
 中央集権化政策の版籍奉還と地方制度改革の廃藩置県で、大名・藩が消滅した為に貸し付け金の回収が不可能となった。
 明治新政府は、各藩が武器弾薬を購入する為に外国商社からの借財は国家の信用問題として完済に努めたが、両替商からの借財には多少の保証をしたが大半は棒引きさせた。
 薩長閥との関係が深い商店以外の両替商の多くは、資金繰りが行かなくなり破産した。
 何とか倒産を免れた京・大坂の両替商や商店は、商人イジメをする中央政府への怨みから、政府高官に頼らず距離を置いた。
 上方商人は、東京の短期的視野で手軽に利益を上げたがる浮ついた企業家とは違って、長期的視野で腰を据え客観的な醒めた視点で商いを行っていた。
 東京の仕事は目の前に大金を積み上げたが、京大阪の商いは客の信用を第一とし信頼関係を重視してた。
 外国の技術や文化を模倣して取り入れるだけの東京とは違う、先取り精神で伝統的技術を加えた新しいモノに生み出す事に全力を挙げた。
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 鬼頭宏(静岡県立大学学長)「人口の増減は、社会が成熟するとともに波のように繰り返し訪れるものである。日本もこれまで3度の人口減少期を経験し、克服してきました」
 1,縄文時代後期。水稲栽培による食糧の増産。
 2,鎌倉時代後期から室町時代前期。日明貿易で外貨が流入した。
 3,江戸時代末期。農村の若者が都市に働きに出て近代工業国家となった。
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 西田幾多郎「日本文化の特殊性を誇張するのではなく、その特殊性は万国的なものでなければならない」
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 明治45(1912)年 大阪市人口約130万人。
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 2016年2月15日号 AERA「今も昔も庶民の首都 大阪の底力
 喧騒と混沌から生まれる新しい大阪  ライター 中原一歩
 ……
 輝く『大大阪時代』
 ……
 そもそも町人文化に代表される大阪のトレンドは、明治維新を契機に、芸能や学術、工業など経済のあらゆる分野でいち早く近代化を達成。『はじまりは大阪にあり』と呼ばれる輝かしい『大大阪時代』の幕が切って落ちされることになる。
 ……
 黒門市場イーストン
 ……
 商人は瞬発力と好奇心
 黒門市場商店街振興組合副理事長の吉田清純は、リーマン・ショック後、そもそも界隈の飲食店が激減、そのあおりを受け市場全体の収益も激減し、活気も先細りだったと振り返る。
 『目先の話と分かっていても、これは儲かる、と思えば商売の方法論をあっさり変える。その瞬発力と好奇心こそ、大阪の商売人の気質。嬉しいのは、その変化が、市場で買い物をする習慣がなかった若い日本人の呼び水になっているんです』
 川の環状線をクルーズ
 大阪城の次がない──。
 この課題を克服しようと大阪府市も知恵を絞るが、財政的に余裕がある訳ではない。そこで着目したのが大阪の街の歴史的な文脈だった。
 まるで潜水艇のような平べったいクルーズ船は、およそ40人の老若男女で満席だった。
 『大阪の船運は、田舎のような風光明媚な自然環境を楽しむわけでもない。船に乗って楽しんで頂くのと同時に、水都以外の大阪のコンテンツとどう連携するかなど、工夫が必要です』(一本松海運株式会社・一本松英三)
 大阪はその昔、『難波津』と呼ばれ、大陸や諸外国との交易の拠点だった。その後、北前船の終始地といて全国の名産品が集積する『天下の台所』を形成。大阪の商人にとって『水』は歴史的にも切っても切れない関係だ。しかし現代の大阪では、高度経済成長に伴う生活排水、工業廃水によって水質が悪化。都市河川は人々が『近づかない』場所となった。また府市の二重行政も手伝い、規制でカヌー一艘走らせることも実現できない状況が長く続いた。そもそも水道事業にまつわる利権こそが、府市の分断の発端であることは周知の事実だった。
 しかし、そんな状況もここに来て一変している。府が主導して特区が作られ、防潮堤の内側に水辺にせり出す格好の飲食スペースを作ったり、親水護岸を整備して、水辺のアクティビティーの充実を推進している。
 『水都大阪の構想は、当然あるべき大阪の観光コンテンツなのですが、大阪人に根付いているというのは大ウソです。まだこれから。水辺環境の有効な活用を推し進めたいと思っています』(一本松)
 芸能が育んだDNA
 近代大阪の礎となった『商売』と並行して、大阪に暮らす人々の活力となったのが『芸能』だ。
 ……
 大阪府岸和田出身の編集者・江弘毅だ。江によると『正しい大阪弁』がないように、大阪人の思考も決して一辺倒ではない。それは大阪の街の有り様に深く関わっている。
 文楽は連日盛況
 例えば、大阪の玄関口で、グランフロントという真新しい商業施設がそびえるJR大阪駅から、環状線内回り(反時計回り)で一駅のJR福島駅。周辺には味のいい洒落た個人経営の欧風料理店がひしめき、バルの街を形成している。一方、環状線の外回りで一つのJR天満駅では、日本最長の天満橋筋商店街が通っており、この商店街の裏側は『裏天満』と呼ばれ、卸の強みを生かしたエンタメ系の飲食店がひしめき合っている。
 『大阪駅をはさんで右と左で、まったく街の空気がちがうのは、歴史が息づいているから。大阪は高ければ良とする風潮はなく、地価の安いところにこそ人が集まる。それは、発想が商売人だから。どこかの街で成功した街づくりのOSがあっても、大阪では通用しないんです』(江)
 大阪は『民都』と呼ばれる。人の数だけ固有の物語があって、それらをマスコミが作り上げたひとつの物差しではかることなど到底できない。歴史の連続性を尊重しながら、それでいて、そうした『伝統』を軽々踏み越えてゆく合理性をあわせ持つ。前市長があれだけ『つまらない』と槍玉に挙げた文楽が、今や判官びいきも手伝って連日盛況というのも、なんとも大阪らしい話である」
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 2017年8月5日 産経WEST「【維新150年 大阪の痕跡を歩く】徹底的した実力主義で明治作った「適塾」…身分制度にこだわらず経済力と町人社会が築いた自由闊達な塾風
 オフィス街に軒を構える適塾の遺構。背後には高層ビルがそびえ立つ=大阪市中央区(門井聡撮影)
 地下鉄御堂筋線淀屋橋駅から5分ほど歩いた。土佐堀通から一本南に入ったところに適塾はある。北浜のオフィス街のなかに忽然(こつぜん)と現れた一軒の町家。古色を帯びたたたずまいは、周りのビル群に堂々と溶け込み、ある意味新しい街の風景を形成している。
 玄関から入る。表の間口に比べ、奥行きが想像以上に深い。低い鴨居(かもい)をくぐり抜けながら、いくつかの部屋へとわたると、中には趣(おもむき)のある中庭と、かまどもそのままの江戸末期の台所。垂直に近い急勾配の階段を腰を折りながら上がるとひときわ大きな部屋にぶつかる。30畳近くはあるか。幕末から明治にかけて近代日本の礎(いしずえ)を築いた数多(あまた)の俊英たちが、師・緒方洪庵の下で、起居をともにし、学問に切磋(せっさ)した部屋である。
 福沢諭吉大村益次郎橋本左内大鳥圭介佐野常民…。今も残る塾生の署名帳「姓名録」には、実に636人が名を記す。出身地を今の都道府県別にみると、長州の山口が最も多く56人、次いで岡山46人で、地元大阪は意外に少なく19人。通いの門人らを含めると千人は超えたといわれ、いかに多くの若者が青雲の志を抱いてその門をたたいたかがうかがえる。
 徹底した実力主義の世界だった。授業の中心は塾生自身による輪講と呼ばれるもの。塾生を8クラスに分け、それぞれくじで選ばれた者が蘭書を講義し、次席の者が質問して答えられれば「◯」、答えられなければ「●」。判定するのは塾頭で、これを1カ月に6回行い、3カ月間のトータルで上位になれば、さらに上のクラスに進むとともに、1人1畳という部屋の場所取りもこれで決められた。
 塾に1冊しかなかった蘭日辞書も日々奪い合いで、辞書が置かれた部屋に「徹夜の灯火を見ざる夜はなし」といわれたほど。自主独立、自由闊達(かったつ)な塾風はこうして育まれたのである。
 「さらにいえば、塾の隆盛は当時の大坂の経済力と成熟した町人社会が背景にあった」
 こう指摘するのは大阪大学適塾記念センターの松永和浩准教授だ。
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 北浜界隈(かいわい)をふたたび歩く。適塾のすぐ西には、オランダ商館長らが宿泊した銅座跡。大阪取引所(旧大阪証券取引所)の向かいには大阪俵物会所跡がある。その周辺には両替商など豪商の屋敷跡。さらに南に足を延ばせば薬の街、道修町(どしょうまち)も近い。
 松永准教授はいう。
 「大坂は江戸と違い、身分制度や立身出世にこだわらない合理性を受容する町人の文化があった。そのうえで、北浜は外国の窓口だった長崎との接点が多く、蘭書や海外事情をたやすく入手できる先進情報の集約地だったことも大きい」
 大阪は、明治維新、そして日本の近代化に深く関わっていた。(今村義明)
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 適塾 備中足守藩岡山市)出身の蘭学者・医師の緒方洪庵(1810〜63年)が天保9(1838)年に瓦町(大阪市中央区瓦町)に開いた私塾。弘化2(1845)年、現在の中央区北浜3丁目に移転。洪庵の号「適々斎」に由来し、「適々斎塾」「適々塾」とも称される。昭和17年、大阪帝国大学に寄贈され、現在は大阪大学が管理する。国内唯一の蘭学塾の遺構で、国史跡、重要文化財に指定されている。」
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日本経済の歴史―列島経済史入門―

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  • 発売日: 2013/05/25
  • メディア: 単行本
商都大阪をつくった男 五代友厚

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  • 作者:宮本 又郎
  • 発売日: 2015/12/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)