⛻9〗─3─徳川家康は読書家で、読み書き算盤のほかに読書を奨励した。~No.36 @ 

江戸の教育力 近代日本の知的基盤

江戸の教育力 近代日本の知的基盤

  • 作者:大石 学
  • 発売日: 2007/03/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川家康は、武士に読書を奨励した。
 徳川吉宗は、読書を町人や百姓にも勧めた。
 識字率が、高かったのは江戸・京・大坂の町人だけで、地方の百姓は低かった。
 地方でも、行商や運送など商取引の副業を持つ百姓や家内工業・手工業などの職人を兼業とする百姓の識字率は高かった。
 当然の事ながら、読み書き算盤ができる庶民(百姓や町人)は富を貯めて豊かになっていた。
 江戸時代は、武士よりも庶民の方が金を持っていた。
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 日本には中国や朝鮮ほどの教育熱はなく、日本人の教養や素養は中国人や朝鮮人に比べて劣っていた。
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 2016年2月号 WiLL 「大学改革でノーベル賞続出! 八幡和郎
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 江戸教育の過大評価
 江戸時代の教育を高く評価する人がいるが、私は否定的だ。識字率が高いというのは、日本では仮名、中国では数千字の漢字をマスターするのを同列においた場合の話しで、初等教育修了程度で論じるべきだ。
 藩校についても、そこで学んだのは武士のなかでも小さい割合だし、しかも教えられていたのは漢字だけだった。会津藩の日新校で学んだ、のちの東大総長・山川健次郎も、算術は武士には不要と九九すら教えてもらえなかったといっているが、コーランばかり教えているイスラム神学校みたいなものだ。
 しかも、中国や韓国では科挙があったから、一定以上の階層の出身者は科挙をめざして必死に勉強し、支援する教育体制もあったが、日本はそれに比べて著しく低レベルだった。
 日本で漢字が公式に、かつ組織的に使われ始めたのは応神・仁徳天皇の頃からだが、本格的に使えたのは帰化人だけで、仏教が伝来し、律令制になって日本人の貴族や官僚が本格的に勉強するようになった。
 しかし、律令制が早々に崩れると漢文熱も衰え、承久の変のと朝廷から出された手紙を関東武士で読めるものはほとんどいなかったと記録にある。
 その後も、難しい文書の読み書きは僧侶に任す有り様だったが、その代わりに、漢文書き下し文や仮名書き文が実用的に発展し、戦国時代に公家たちが生活のために地方に出かけて文学指導したことでも普及が進んだ。
 江戸時代には、僧侶から儒者に大名たちの秘書機能は移行した。この儒者藩医軍学者、勘定方、茶人、神官などいずれも原則世襲だったが、僧侶とともに貴重なインテリ層となった。久坂玄瑞は医者、吉田松陰軍学者福沢諭吉は勘定方の家に生まれた。
 藩校の設立が盛んになった寛永の頃で、最後まで存在しない藩すらあったし、対象は原則上級武士のみ、就学が義務だったのは稀で、基本的に漢学以外は原則教えず、結果、算術もできないという状態だった。
 一方、庶民向けの寺子屋もようやく天保頃になって普及が進んだが、仮名と僅かな漢字の読み書きや簡単な計算くらいの内容で、小学校低学年レベルを超えなかった。
 もし、庶民が高度な学問をしたいと思っても、広瀬淡窓(たんそう)による日田(大分県)の咸宜園(かんぎえん)など例外を除いて学校もなく、私塾や家庭教師で、独学同然に勉強するしか方法がなかった。
 明治教育体制の革新性
 つまるところ、江戸時代の日本は専門職的なインテリは別にすると、武士は漢学を一応学んだが、中国や韓国と比べて低レベルだったし、庶民は実用的な読み書きや初歩的な算術の素養を持つ人が多かったが、ヨーロッパで市民革命の原動力となったようなインテレクチュアルで経済的にもそこそこの『市民層』が存在しない社会だった。
そこに、薩長土肥がなぜ明治維新を成し遂げたかの秘密がある。薩摩は戦国時代の遺風を残して、人口の4分の1が武士で下級武士がいた(全国平均は6%)。佐賀藩も事情は似たところがあり、しかも名君・鍋島直正は全国最高の藩校・弘道館で武士たちを鍛え上げた。土佐は武士の数より多い郷士がいた。そして長州は、身分を超えた人材登用がどこよりも進んでいた。
 つまり薩長土肥には、それぞれ少しずつ性格が違いがヨーロッパの市民層に似た中間層がいて、武士的な教養と市民的な実際性を備えていた。それが維新の原動力になれた理由であり、また、新政府の中心になった彼らが、士農工商の枠にとらわれない四民平等の世の中をつくった背景である。
 公立と私立の決定的な差
 明治新政府は、江戸時代の教育システムをあっさり捨て去って、欧米でも先進的な教育体制を輸入した(拙著『47都道府県の名門高校』平凡社新書)。
 先駆的試みは京都の『番長小学校』で、早くも明治2年に市民主導で64小学校を設け、視察した福沢諭吉を感嘆させた。
 明治4年には廃藩置県で藩校を一律に廃止し(高校で継承を標榜しているのも中断がある)、明治5年にフランス法学者で文部少博士兼司法中判事だった箕作麟祥(みつくりりんしょう)は『学制』を定め全国を8大学区に分け、大学校8、中学校256,小学校5万3,760を置こうとしたが、最優先としたのは小学校で、僅か3、4年の間に2万6,000ほどの小学校が設置された。
 武士たちは、自分たちのための中学校の設立を国民皆教育より優先するように各県で圧力をかけたが、明治政府は断固としてはねつけた。これが非常に大事なところで、たとえば独立後のインドでは、ネルー首相は社会を牽引するのは中流以上だと考え、国民皆教育を疎かにして中等教育以上の充実を優先させ、これがインドが日本のやり方を真似た東アジアに比べて遅れた致命的な原因になった。貧困層や移民などを含て、一般庶民でも高い知的水準を持っている状態こそが国力の源泉であることを日本人は再認識し、今後とも維持すべきだと強調したい。
 中等教育では小学校制度を軌道に乗せるための師範学校を最優先し、ついでその附属のような形で旧制中学のひな型を形成、さらに明治19年に各県1尋常中学が実現した。いわゆる旧制1中である。
 東京中心だった高等教育も、明治19年に第三高等学校、明治30年の京都帝国大学の設立から全国に展開され始め、帝国大学を設立するという善政を台北京城といった、いわゆる『植民地』にまで及ぼした。
 この結果、明治の終わり頃にはほぼ国民皆教育が内地で行き渡り、明治43年に併合された朝鮮半島でも、終戦時にはだいたい明治末の内地の水準くらいまでになったことは、半島の人々への貴重な贈り物となった。貧農の子だった朴正煕は親の反対を押し切って小学校に行かされ、教師たちが師範学校満州国士官学校に導いた。
 洞察力が磨かれない私立
 藩校を継承しなかったのは、漢学校では洋学校たる明治の学校制度の基礎になり得なかったからだ。最初は大量の留学生を出したり、お雇い外国人教師を招聘して外国語で教育することも多く、次いで翻訳した教科書で教え、やがて日本人のつくった教科書に、というように移行した。
 また、翻訳事業の質の高さは、現代中国語や韓国語における西洋起源の概念のほとんどが日本人の翻訳によるものに拠っており、それは『中華人民共和国』の国名のうち『人民』と『共和国』が」和製漢語であるということに象徴されている。
 日本の公的な教育システムは、しばしば点数至上主義で画一的で独創的な人材が育たないといわれるが、しれが間違いであることは、ノーベル賞受賞者の学歴をみれば明らかだ。
 まず、24人の日本人ノーベル賞受賞者のすべてが国立大学の卒業生であり、高校を見ても21人が近代日本のオーソドックスな教育の伝統を受け継ぐ公立高校であって、私立は2人だけで、残りは大阪教育大附属高校の山中伸弥だ。
 この傾向は、私立高校優位の世代に入っても変化していない。私立受験校では受験に役に立たない無駄なことをしないから、要領はよくとも深い洞察力は磨かれない。
 地域的には非常に偏りがあって、東京より北東方向の北関東、信越、東北の各県からは受賞者が出ていない。ノーベル賞は西日本の公立高校出身者がほとんどなのだ。アカデミック、あるいはインテレクチュアルなものの考えとか、そういう方面の人が尊敬される風土かどうかの違いでないかと思う。
 医学部異常人気の弊害
 近代日本の教育制度のもうひとつの素晴らしさは、バランス良くさまざまな分野に有能な人材を供給したことだ。東京大学京都大学に代表される総合大学は、大学としてのブランド力で普通なら希望者が少ないような学部にも質の良い学生を迎えられる。
 国立と私立の質量のバランスも絶妙で、とくに戦前は旧制高校から帝国大学だけでなく、陸士・海兵から師範、旧制高専など複線ルートで人材が育った。
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 第三に、明治以来、百数十年経つと、学部の編成などがさすがに時代に合わなくなっている。一番の問題は文系・理系の区分で、たとえばもっとも数学的素養が求められる経済学系が文系に分類されていることの悪影響は甚大だ。大学がリベラルアーツを軽視して職業学校化するのも困ったものだが、そうはいっても教育学部を出ても先生になれる割合が高くないというのは、明らかに定員過剰だ。
 国立大学の学部編成、大学院との関係など根本見直しが必要だ。正解は、少なくともある一定レベル以上の学力を持つ者については、大学を3年程度のリベラルアーツ主体のものにして、本格的な専門教育は大学院か専門学校でやるべきだ。
 大学制度に限らず、明治維新後に創設され、戦後に微修正された社会システムの多くが老朽化している。地方制度などもそうだが、このへんで明治維新と文明開化のときの大胆さを思い起こし、今一度、世界最先端の国に日本を改造することが、世界史に記憶される『日本の時代』をより長いものにする決め手だと思う」
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 民主主義の基本は、公器として自由な選挙、報道の自由、学問研究の自由である。
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 2016年3月4日号 週刊朝日「子孫が綴る
 400年後にみのった家康公の夢 徳川家広
 第二の秀吉を封じ込める
 徳川家康にとって、家臣団や大名各家は、あくまでも統治の道具である。
 道具がいくら優れていても、使い方を誤ってしまっては欲しい物は得られない。では家康はいったい、幕藩体制という『道具』を用いて、どのような政策を実施して『偃武(えんぶ)』の理想を実現しようとしたのだろう?
 これを理解するには、関ヶ原の戦いが終わった直後の、家康と近臣たち、さらに信頼できる諸大名が何を考えていたかを理解しなくてはならない。
 これは実は容易に想像がつくことだ。
 『二度と豊臣秀吉のような人物を登場させない』
 これに尽きるであろう。秀吉のような大天才の梟雄(きょうゆう)が再び暴れ回ることは、どうしても避けなくてはならない。
 これは杞憂ではなかった。社会の底辺から乱世を駆け上って位人臣を極める大出世を遂げ、無数の美妓をはべらせ、空前の贅沢で世間を驚かせ、かつてない大軍で中国に襲いかかった秀吉は、日本男児の夢を生ききったと言っても過言ではない。
 そういうことが可能だとわかった以上、自ら恃(たの)む若者は必ず秀吉の真似をしようとするであろう。それだけでも民衆支配にとっては大打撃なのである。
 では、第二、第三の秀吉が生まれないためには、どうすればよいか?
 一つには、朝廷も幕府も寺社も揉めないこと、武家も公家も僧侶も神官も争わないことである。3種の法度が『元和偃武』の骨格なのは、これら日本社会のエリートが争うことを未然に防止する仕組みだったからだ。民主万能の現代では評判の悪い士農工商の身分制も、乱世を終わらせ秩序を再建するには不可欠だった。
 だが、秀吉という怪物が現に出現し、暴れ回った後の日本では、単に身分制秩序を整え、さらにその秩序の頂点に調和が保たれるだけでは不足である。どれだけ上から抑えつけても、必ず頭角を現す。だいたい、秀吉の後の日本では、気の利いた者の目には血統原理の馬鹿馬鹿しさは、あまりに明らかではなかったか。
 これは言葉を変えれば、身分制と能力主義を同居させなくてはならないということでもある。良い易く、行うは難し。『成り上がりめ』『親の七光り』と争うことは確実である。
 そこで家康は何をしたか?
 遠くの未来を見据えて、武士たちに論語を読ませるようにした。というのが私の理解である。孔子は自ら『私は卑しい身分の生まれで、若い頃には様々な職を転々とした』と語っている。だが、そのような孔子の人格と識見に惹かれて弟子たちはどこまでもついていくし、王侯も取り敢えず会ってはくれる。血統の貴賎以外の論理が、論語には息づいていた。
 江戸時代が現代とよく似ていると感じるのは、この政策が根付き、成功した証だと思う。
 家柄や財産は大事だが、能力と人柄も同じくらい大事。安定的でありながら流動的な日本の源流は、家康が孔子を、秀吉に対する『解毒剤』として採用したことにあった」
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 徳川家康は、太平の世を作り守る為に「経世済民」の原理が欠かせないとして、武士達に読書を進めた。
 徳川吉宗は、財政難と天災を克服する為には「経国済民」の哲学を百姓町人にも共有させる事が重要であるとして、困窮した際は公儀や他者に頼らず自分で考え行動し何とか打開できるようにさせるべく読書を奨励した。
 死後は他力本願として神仏に頼っても良いが、生前は自力本願で生きるべきであると。
 自力で生きる為に、多くの本を読み、常識ある先輩や人格に優れ見識ある師を訪ねて話を聞き、そして自分で考えて行動しろと。
 徳川幕府は、愚民政策ではなく賢民政策を採用して、百姓町人に知識・見識を持つ事を奨励した。
 だが。庶民は、宗教・思想・哲学の良書ではなく与太話の俗書を好んで読み、質素倹約して身を律する事を嫌い怠惰となって享楽に耽った。
 江戸文化は庶民文化として、豪華絢爛とした教養溢れる高尚で高度な文化ではなく、教養薄いどぶ板的な野卑な「雅」「艶」「粋」の文化であった。
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近代日本の幼児教育における劇活動の意義と変遷

近代日本の幼児教育における劇活動の意義と変遷

  • 作者:南 元子
  • 発売日: 2014/09/10
  • メディア: 単行本