⛻13〗─6─徳川幕府は、世界で初めての総合商社「兵庫商社」を設立した。総合商社が財閥に成長した。~No.67No.68No.69 @ ⑦ 

総合商社の研究―その源流、成立、展開

総合商社の研究―その源流、成立、展開

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 幕末の日本におけるGDPは世界第五位で、潜在的経済力を持っていた。
 後は。驚異的経済発展を開始する切っ掛けであった。
 その切っ掛けは、人口爆発であった。
 明治、大正、昭和、平成2年のバブル崩壊まで、日本経済を支えたのは日本の高い技術力による「もの作り」ではなく、地方の農村部に於ける人口爆発であった。
 人口が減少する時、資金と資源ない日本経済は衰退する。
 日本経済の強みは、人口爆発に伴う内需拡大であった。
 人口の減少は、内需の衰退であり、経済の失速を意味した。
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 サムライは、世界の地の果てにあるローカルな世界で、日本独自の古典的な閉ざされた教養を身に付けていたが外国語は一切話せなかった。
 世界的高度な知識を持つグローバルな人材ではなかったが、何が必要で必要でないかを熟知する即戦力であった。
 その能力は、現代の外国語が話せる国際派日本人よりも数段優れていた。
 現代の日本人がグローバル的というのなら、サムライはド田舎のローカル的であった。
 江戸時代から明治にかけての日本は、グローバルよりローカルの方が優れていた。
 国際経済が理解できないサムライは、国際市場の右も左も分からない為に、失敗する事を恐れず、自分の「直感」だけを頼りに判断して行動していた。
 自分が素人である事を自覚し、信頼を唯一の信条して、誠意を持って助言してくれる外国人の意見を聞き責任を持って商談をまとめていた。
 若ししくじって大損をすれば、切腹して責任をとる覚悟ができていた。
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 原田伊織『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』
 「(勤皇志士とは)現代流にいえば、『暗殺者集団』つまりテロリストたちである。我が国の初代内閣総理は『暗殺者集団』の構成員であったことを知っておくべきである。」
 「長州テロリストが行った多くの暗殺は、その残虐さにおいて後世のヤクザの比ではない。」
 「彼らは、これらの行為を『天誅』と称した。天の裁きだというのである。これは、もともと『水戸学』の思想に由来する。そして、自分たちが天に代わってそれを行うのだという。もはや狂気と断じるしかない」
 「豊かな教養環境とはほど遠い下層階級から政治闘争(実際には過激なテロ活動)に身を投じた彼らは、俄か仕立ての水戸学だけを頼りに『大和への復古』を唱えて『廃仏毀釈』という徹底した日本文化の破壊を行った挙げ句に、今度は一転して『脱亜入欧』に精魂を傾けたのである」
 「平成日本は今、危険な局面に差しかかっている。彗星の如く国民の不満を吸収する政治勢力が現れるのは常にこういう時期であり、それが正しい社会の指針を提示することは
少ないのだ」
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 昔の日本の物作りとは、馬鹿の一つ覚えのような、大量生産による大量販売による大量消費ではない。
 日本の頑固な職人は、売れるからと言って大量に作る事を嫌い、他人が儲けているモノと同じモノを真似て作る事を嫌う。
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年平均: 1873〜1877: 1878〜1882: 1883〜1887:
輸出量:   22,125:  30,268:   41,714:
輸入量:   26,586: 32,618:   32,789:

年平均: 1888〜1892: 1893〜1897: 1898〜1902:
輸出量:  72,600: 124,010: 219,153: 
輸入量:   69,508: 145,195:   262,543:

年平均: 1903〜1907:
輸出量: 357,293:
輸入量: 418,057:

 単位、万円。東洋経済新報社。『日本貿易精覧』
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 江戸時代。オランダ東インド会社は、国家戦略として、日本で購入した銀や銅などの鉱産物をアムステルダム市場で取引して価格を操作していた。
 日本とヨーロッパ世界との間には、「銀の道(シルバー・ロード)が存在していた。
 日本は、アジア最大の銀産出国として、世界経済で一定の役割を担っていた。
 徳川幕府は、世界経済に関与しているという意識はなく、国内で流通させる金銀の貨幣の信用を保つ為に高品質にこだわっていただけである。
 そのこだわりが、日本産の製品価値を高めていた。
 地下鉱物は採掘すれば次第に枯渇する為に、金から銀へ、銀から銅へ、輸出品は移っていった。
 徳川幕府は、鉱山資源を守る為に、全国の鉱山を天領として強権を持って独占し管理した。
 江戸時代は、鎖国を行って世界とのつきあいを完全に断って孤立していたわけではなく、孤独な立場に立ちながらも制限した交易を続けていた。
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 江戸時代の経済は、停滞するどころか緩やかな低成長を続けていた。
 その原因は、開墾による農業総生産高の増加と人口の増加であった。
 同じ価値観や文化を持った者が少しずつ増える事で、空気は安心感から穏やかとなり、人心は信用度を増して安定して、社会は流動化して活気づいて、地域は均等に発展する。
 江戸幕府の開府当時の人口は約1,200万人であったが、幕末頃には約3.8倍の3,300万人に増えていた。
 米の石高は、幕府や大名達の開墾で2,000万石から2.4倍の4,700万石に増加していた。
 大名達は、石高を上げて藩財政を豊かにしようとしたが、分を弁え、質素倹約で簡素な生活は送っていた。
 生産人口と消費人口を増やす為に、人口を増やすべく腐心した。
 織田信長兵農分離豊臣秀吉の刀狩りで百姓の武士への道を断たれ、徳川家康によって士農工商の身分が定まった。
 幕府や大名は、その石高で召し抱えるられる家来に限度があり、人口が増加し始めたムラを管理する武士が足りなくな分を本百姓に肩代わりさせ名字帯刀を許した。
 ムラや町では、名字帯刀を許された庶民が役人として武士に代わって地域の職務を代行した。
 ムラの人口増加で田畑を相続できなかった百姓の子は、自分で新たな土地を開墾するか、城下町・宿場町・門前町などに移り住んで町人となった。
 中には武家奉公として、中間・小者や足軽となり、ごく少数ではあるが優秀な者は見込まれて武家の養子となった。
 娘は、豪農・豪商・武家の女中となって働き、中には主人やその息子の子供を産む者もいた。ふしだらで追い出される娘もいたが、幸運にも気立てが認められて家族に受け入れらら場合も僅かではあったあった。 
 仕事人達は、親方・頭領の家に住み込みで修行をしてから暖簾分けとして独立し、創意工夫で絶えず新しい物や技術を磨いて誰も真似できない物を作り出して売った。
 米1石あれば、人一人を1年間養えると言われていた。
 余った米が、日本独特の酒・味噌・醤油による和食文化を生み出した。
 江戸時代の経済発展は、日本式農法の成果であった。
 幕府は、商業を発展させる為に、全国流通の貨幣を統一し、全国の物流を円滑にするべく陸と海に複数の交通網を整備した。
 各大名は、領地内で通用する紙幣を流通させ、物を運ぶ為の脇道を整備した。
 百姓や町人らは、武士が整備した社会インフラを利用して商いを行い、日本全国を緩やかに成長させていた。
 幕府や各大名は、それぞれの業種を保護する為に商人に株仲間を組織させ独占権を与え、その見返りに運上金を取った。
 百姓には、田畑を所有し農産物を生産する代わりに税を徴収した。
 町人には、地場で生産された農産物を消費させる為に無税とされた。
 武士は、百姓から税を徴収する為に収穫向上の意欲を持たせるべく気を配り、町人にもっと消費意欲を駆り立たせるべく配慮した。
 職人は、売れる商品や他にない商品を作る為に、腕を磨いて日本一の職人を目指していた。
 商人は、如何に商品を支配層の武士ではなく、金のない一般庶民に一つでも多く売るかで知恵を絞っていた。
 百姓・町人や武士はお互いが相手よりも少しでも得する様に、鎖国時代という閉鎖され空間の空気を読みながらずる賢く生活していた。
 外国との自由な交流が遮断され、海外から大量のヒト・モノ・カネが流入しなかった為に、国内産業は守られていた。
 明治新政府の近代国家を目指した殖産興業が成功した秘訣は、江戸時代を通じて民族資本を蓄え、特化した特殊技術を持った民族企業を保護し育成していたからである。
 日本の組織運営と経営手法は、社会の空気を見極め、書物の行間を詠む事である。
 つまり、目の前にある建て前と目に見えない本音である。
 庶民は、御上に対して、土下座して絶対に逆らわないとして傅いた。
 そこには、支配する豊かな領主と支配される貧しい領民という暗さもなければ反発も敵意もない。
 これが、島国日本の封建制度における日本の社会構造である。
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 大阪には、北前船など多数の船が米など大量の物産を運び込んでいた。
 各藩から運び込まれた米は、年間約200万石といわれている。
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 1840年に、フランス、イタリア、スイスなどの生糸生産地で蚕の病気が発生して生糸生産は落ち込み、世界の生糸市場に日本製生糸が大量に出回り始めた。
 1858年6月 開国。
 日本は、開国と共に主要輸出品を持った貿易立国としてスタートした。
 徳川幕府は、海外で売れそうな製品を吟味して選び出した。
 人口の8割以上が百姓であり、年貢としての稲を生産していたが、現金収入として生糸や野菜や特産品などの副業を行っていた。
 日本は、生糸のアジアでも有数の生産地であった。
 日本製生糸は、国際市場で、格安で品質が良く完成度が高いという評判を取っていた。
 外国商人は、横浜居住地の外に出られなかった為に、日本商人が集めてきた生糸を高値で購入した。
 世界的な生糸消費地アメリカで、日本製生糸はアメリカに輸出されていた。
 生糸の輸出は、輸出品全体の80%以上を占めていた。
 幕府は、権力支配を強化する為に軍艦や武器弾薬などの軍事品を輸入していた。
 日本商人は、高値で売れると分かるや、関東近辺の農家を廻って生糸を買い集めた。
 7月 横浜の運上所(税関)は、国内の生糸が不足し始めるや慌てて輸出規制を行った。
 生糸は、国内で生産し高値で販売できる、優しい産業であった。
 日本商人は、真面目で人が好く、約束破りや誤魔化しや手抜きをして相手に迷惑をかける事を最も嫌い、自分の儲けよりも相手の儲けを考える日本式商道で外国商人を信用しきって商いをしていた。
 だが、利他を心掛ける日本式商売は、相手よりも少しでも儲けようとする国際的商取引の修羅場では通用しなかった。
 外国商人は、わざと高値に吊り上げた生糸の値崩れを起こさせる為に、日本商人が集めた生糸の購入を取り止めた。
 先物投資的借金して大量に買い集めていた日本商人は、生糸が売れない為に借金の利息さえ払えず、やむなく生糸を値段を下げてたたき売りし始めた。
 外国商人は、生糸相場が大暴落し、値崩れしたところで二束三文で買って巨額の利益を得た。
 日本商人は、帝国主義時代の世界的商取引に慣れていなかったし、資本規模が小さかった為に価格競争に不利であった。
  幕府は、阿漕な外国商人から日本商人を守る為り、国際競争力がありそうな日本製品を一手に扱う貿易商社の設立を決定した。
 日本初の国際市場を見据えた、国家主導の成長戦略である。
 外国商人の大半がイギリス人であり、イギリス系ユダヤ人商社の関係者であった。
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 日本総合商社は、世界で手広く商取引を増やして資本金を増額しても、民族資本の枠を超えて国際資本にはなれない。
 世界各国に数多く支店を開設しても、国際的多国籍企業にはなれない。
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 サムライは、英語はもちろん如何なる外国語も話せなかったが、国際市場で活躍していた。
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 1860年 小栗上野介は、幕府の遣米使節団の目付として参加していた。
 使節団は、大西洋回りで帰国し、その途中で白人の植民地を視察していた。
 サムライ達は、一刻も早く近代化して強力な軍隊を持たなければ、日本も植民地にされ、日本人が奴隷にされるとの危機感を抱いていた。
 当時の日本人は、同じ危機感を共有していた。
 そこが、朝鮮や中国とは違う所であった。
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 1864年 横須賀製鉄所建設が進められた。
 日本の近代化は、小栗上野介の遠大な構想から始まった。
 大隈重信「明治の近代化はほとんど小栗上野介の模倣に過ぎない」
 東郷平八郎日本海海戦の勝利は、小栗さんが横須賀造船所を造ってくれたおかげ」
 司馬遼太郎「(横須賀は)日本近代工学のいっさいの源泉」
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 国民利幅。国民が利益を得て幸せになる。
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 1864年 坂本龍馬は、薩摩の庇護を得て、日本で初めての商社である「亀山社中」を設立し、海運業を始めた。
 1867年5月 兵庫開港勅許。
 小栗上野介は、豪商・三井家の協力を得て世界最初の総合商社「兵庫商会」を設立し、日本商人から輸出する全ての物産を購入して外国商人に売った。
 兵庫商社は、日本初の株式会社でもあった。
 幕府の財政は困窮し、幕府単独では日本の近代化は不可能で、民間の裕福な商人らの資金提供を仰がねば日本は欧米列強の餌食になるしかなかった。
 外国に輸出できる国内産業を育成する為に、外国商人の自由な国内移動を厳禁とした。
 幕府は、外国商人が西洋列強の植民地で行ってきた強欲な商売が、如何に地元を疲弊させ、強奪的取引で地元民が貧困に追い込まれているかを熟知していた。
 総合商社は、日本独自の会社形態である。
 世界的多国籍商社。世に知られたメジャーとは、石油や鉄鋼や穀物など単品の商品を取り扱い、その関連業種に特化した大企業・財閥の事である。
 後発組の日本は、資本が小さく単一商品のみを扱うだけの国際競争力がなかった為に、ありとあらゆる業種を扱い、異業種の子会社を幾つも持つ企業体としての総合商社を設立するしかなかった。
 幕府は、国際競争力のない総合商社「兵庫商社」を全面的に支援した。
 兵庫商会は、幕府主導であったが、国有企業ではなかったし、財閥でもなかった。
 サムライは、日本の独裁者になる意志はなく、既得権益を持って暴利を貪る気もなく、民間の産業を興して資本を蓄え国の隆盛を極めようとした。
 兵庫商会は、武士道商法として約束事と決まり事を守り、私腹を肥やすような不正、横領、横流しをしなかった。
 フランス人商人は、アメリカ市場を支配するイギリスに対抗する為に、幕府の総合商社構想に協力した。
 イギリス人商人は、日本国内での自由な行動を希望し、自由行動を禁止する幕府を打倒する為に反幕府勢力に武器弾薬を売って支援した。
 幕府は、イギリス系ユダヤ人資本によって滅ぼされたと行っても言い。
 幕府が崩壊するや、兵庫商会の業務は三井物産に引き継がれた。
 幕府は、国際情勢をよく知っていたし、開国し近代化して強力な軍隊を持て軍国化しなければ、キリスト教西洋列強の植民地になる恐れがある事を理解していた。
 その為に、世界初の総合商社を設立した。
 ユダヤ系国際資本は、世界経済を支配し、世界市場を独占しようとして、刃向かう幕府を滅ぼした。
 小栗上野介は、フランスから多額の借金を使用とした。
 勝海舟は、外国に経済が支配され、キリスト教列強の植民地となり、白人の奴隷にされるとして猛反対した。 
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 江戸幕府は、外国に売れる商品を国内で見つけ出し、外国商人と交渉し海外に輸出していた。
 サムライ日本人は、現代日本人に負けないどころかそれ以上に、外国商人と商談し利益を上げていた。
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 幕末から戊辰戦争を勝ち抜いたサムライ達は、全く外国語が話せなかったが、白人と西洋の近代国家に対するコンプレックスはなく、日本の方が優れているという尊大もなく、外国人からどう見られていようが意に介さず、自分の筋を通して堂々と振る舞っていた。
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 明治政府は、近代化の為に西洋の制度や法律の他に学術や技術を積極的に学び、日本風にアレンジして取り入れたが、キリスト教に基づいた道徳や倫理は好ましくないとして拒絶した。
 日本文化の、浮世絵はゴッホやモネなど印象派にインスピレーションを与え、伊万里柿右衛門などの陶磁器はドイツのマイセンやイギリスのウェッジウッドに影響を与えた。 
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 ロバート・キャンベル「受け身的な立ち位置で日本の美徳を探すのではなく、身の回りを貪欲に観察しながら、世界から自分にとって価値のあるものを取り込み、さらに新しい価値を作り上げていくべきだ」(『オリンピックという「区切り」こそ日本再生のチャンス』)
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 サムライ日本は、現代日本が軽蔑するような島国根性は薄かった。
 サムライ日本人には武士道があったが、現代日本人には島国根性しかなかった。
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 サムライ日本は、自分で情報を集め、自分で考え、自分で判断し、自分で行動して利益を上げ、失敗すれば責任を他人に押し付けず引き受けた。
 日本は、中国や朝鮮とは違い、中国や朝鮮とは正反対の生き方をしていた。
 日本人は、中国人や朝鮮人とは違うのである。
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 だが、現代日本サムライ日本ではないし、現代日本人はサムライ日本人ではない。
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 バルタサー・シュンター「日本はあらゆる機関にお抱え外国人を入れ、指導を仰いだが、大蔵省にだけは入れなかった。その為に、日本は外国からあまり金を借りなかった。発展途上国は、外国から多額の借金をする事で、財政を破綻させていったが、日本にはそれがなかった」
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 サムライ日本は、国家と国民を守る為に、国益と国土を守る為に、祭祀王・天皇を中心とした近代国家を建設した。
 神の裔・天皇国家元首とした近代国家が、アジアに始めて誕生した。
 近代国家日本は、天皇を中心とした国家として軍備を強化した。
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 民族資本が国際競争力が弱い時は、国家が成長戦略で指導して育てなければならなかった。
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 国際競争力のある巨大産業は、莫大な利益を上げる為に国家を支配し、政府に命令して相手国を屈服させ。従わなければ、軍隊を派遣して軍事占領した。
 国際市場は、弱肉強食の非情な世界であった。
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 日本の総合商社のたとえ話。
 「濁流の川を渡るのに、資金が豊富な三菱商事の社員は橋を架ける。
 スマートな三井物産はヘリコプターで越える。
 保守的な住友商事は三菱の後について橋を渡る。
 伊藤忠商事は泳いで渡る」
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 豊田佐吉産業報国の実を挙ぐべし」
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 2017年11月25日号 週刊現代「日本にしかない不思議な職業
 なぜ日本にだけ『総合商社』があるのか?
 明治維新後、日本は欧米相手に生産品を輸出し富国強兵を推進する必要に迫られた。しかし当時の日本企業の資金力では単体で輸出するための組織を作ることはできない。また商慣習の違い、言語の障壁も高かった。そこで三井・三菱などの財閥は大学などで経済や法務を学び、外国語を話せる人材を集め、グループ企業の商品を欧米に売り込む会社を作る。こうして総合商社が生まれたのだ。
 『総合商社は抜群の知名度がありながら、その事業が多岐にわたっていることもあり、実際はどんな仕事をしているのかわかりづらく、また変化も激しい業界です。私が商社に勤めていた30年間でもその環境は激変しました』(小林敬幸
 旧財閥の垣根が消えて各業界で再編が進み、商社も今までになかった業種に進出した。かつては『ラーメンからミサイルまで』を世界で取り引きしていたが近年は、『ミネラルウォーターから人工衛星まで』と称される多様な事業をグローバルに展開するようになった」 




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日本の食料戦略と商社

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