⛻12〗─4─昔の商(あきな)いは、天皇の宮中祭祀に繋がるがゆえに信用や信頼を厳守し誠意を命以上に重視する。商人道。~No.61No.62No.63 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 なぜ。商人が、士農工商の身分で最下位の身分に堕とされたのか。
 なぜ。戦前までの民族的商人経営者と戦後の国際的企業経営者が違うと言われるのか。
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 人間以下の最下層民として差別されていたエタ・非人・河原者・賤民達は、武士や庶民が嫌悪して敬遠する職業を生業とし、庶民が住みたがらない人里離れ辺鄙な河原・沿岸縁・山懐に住み、武士や庶民以上に勤皇の志が厚く、自分を犠牲にしても天皇と皇室を守ろうとした憂国の志士であった。
 社会階層の外に追いやられていたマタギなどの山人や海女・海人も、エタ・非人・賤民同様に尊皇の民であり、天皇・皇室が危機に陥った時、山を駆け下だり、海から這い上がり、疾駆して御所に駆けつけて警護した。
 故に。天皇は、社会の弱者でる最下層・貧民階級の精神的心的な拠り所として寄り添っていた。
 
 無学文盲で思慮分別のない軽薄でグロテスクな右翼は、彼らの内から生まれた。
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 日本の常識は世界の常識とは異なる。
 日本が世界で理解されず世界の憎悪の的になるのは、日本の常識が世界では非常識であるからである。
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 天皇とエタ・非人・河原者・賤民達の絆は強かった。
 それ故に、日本天皇・皇室・天皇制度が、英雄・豪傑の暴力で滅ぼされず、民衆の人民革命で滅ぼされる事もなく、2000年以上の歴史と125代の御代が守られて今日に至った。
 何時の時代でも、日本民族日本人には超えては成らない分が存在した。
 目に見えない民族中心の歴史力が、四季の温暖さの様に日本民族日本人の心を穏やかにし、分を明らかにする事で日本社会に安定と安心と安全をもたらしていた。
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 2016年11月号 Voice「日本人の〈商いの心〉を探る〈Ⅱ〉 呉善花(おそんふぁ)
 商い自由と往来自由
 魂の交換から売買交換へ
 中世以前の世界では、いまだ人の力が及んでいない手付かずの大自然=山野河海は、誰も所有することのない『無所有』の地としてありました。中世では神仏の世界に属するものと考えられました。また、山の口、峠、坂、浜辺、河原などは、神仏の世界への入り口であり、神仏の世界と人間界とをつなぐ接点であるという、特異な聖なる場所と考えられました。
 前回に述べた折口信夫がいうところの、新旧魂の交換が行われたのも山の口に相当する場所です。そうして聖なる性格をもつ場所で行われた新旧魂の交換が、やがて売買交換の形を取るようになって市が形づくられていったということです。
 それでは、魂の交換がどのようにして売買交換になっていくのでしょうか。売買交換が成立するには、売買によって所有権が移転しなくてはなりません。
 日本に限らず世界各地にあったことですが、近代以前の社会では、交換したり譲ったりした物を戻させることがしばしばできました。エドワード・モースの理解では、物には持ち主の魂が付いて回ると考えたので、いつでも返還させることができた、となります。その当否は別にして、市場経済社会以前の社会では、他者に譲り渡した物を返還されることのできるケースが多々あったの確かです。
 これでは、いつまでたっても商いが経済交換として成り立ちません。
 市は聖なる世界への入り口ですので、そこでは人も物も俗界とは縁を切れた神仏の世界に属することになります。ですから市で交換された物に対しては、俗世間でのような返還請求権は通用せず、自動的に所有権の移転が確立することになります。そこで、物を商品として交換する商いが自由にできるようになるのです。
 寺院も所有権の移転では大いに頭を悩ましました。寺に寄進された物でも返還請求があれば返還しなくてはならなかったからです。そのため、寺院の財産が一挙に目減りしてしまうことがあったといわれます。そこで中世初期、寺院側は対応策として、寄進者に対して返還請求ができないことを承認する文書を出させる方式を取ったのです。返還請求ができない理由は、次のようなものでした。
 寄進された財物は仏に寄進されたものである、したがって寄進すればその物はもはや聖なる領域、仏の領域に入っていく、だからもはや俗世間に戻すことはできない、誰もその返還を請求することはできない──。
 これと同じ事が、漂泊する非農耕民(マレビトとも見なされる山人や海人)とのあいだでの交換、次頁で述べますが、中世の職能民・大寺社に仕える神人(じにん)・朝廷に仕える供御人(くごにん)とのあいだでの交換についてもいえます。彼らは村落と村落のあいだに広がる山野河海という神仏の世界からやって来て、神仏と人間とのあいだに立ち、神仏の『お告げ・教え』を人びとに伝える神仏の使い(代理)と見なされました。ですから、彼らとの交換は市で交換と同様に神仏の世界に属すものとなり、当然ながら返還を請求することはできないのです。
 ここで重要なことは、一つには、聖なる山野河海の領域に山の口や浜辺や河原などが人間界との接点としてあるということです。そして二つには、人間との接点して、聖なる神仏の使い(代理)としての漂泊する非農耕民、職業民や神人・供御人があるということです。そうした聖なる性格をもつ場所に市を設定することではじめて、市における経済交換が成立するのです。山野河海は人びとの生活する地域と地域のあいだに広がる境界領域であることから、『堺』ともよばれます。
 中世の市は実際に、山の口や河原や山裾の野など、村落と村落との堺に、人びとの集まる小都市としての町場(津・泊・宿など)と町場との堺に、荘園と荘園との堺に立ったのです。市はどこでも立てられたものではなく、堺に(あるいは堺として)立てられた、ということが重要です。
 市は俗界とは縁の切れた場所、つまり親子・主従等の縁を切った場所(無縁 むえん)として、私的な縁や保護関係を切った場所(公界 くがい)でなくてはなりません。そこでは、社会的な力関係にかかわりなく、つねに対等の資格で平等に物事が進められなくてはなりません。
 神道にはあらゆるものに魂が宿るという、日本仏教にはあらゆるものに仏性が宿るという、万物平等の考えがあります。しかし世俗間ではなかなかそのようにはいきません。文物の交換にしても、身分などの力関係が働いて不公平な事態が起きてしまいます。
 そのために、市が世俗身分や力関係の通用しない、神仏の支配する聖なる空間であることを市神を祭ることで示し、その下の公平秩序が維持できるようにしていったのだと思われます。
 布教活動と諸国従来の自由
 中世に朝廷や大寺社に直属し、天皇や神仏に山海の特産や各種手芸工芸品などを貢納する役割を負う、供御人、神人と呼ばれる人びとがありました。彼らは漁労・狩猟や物作りなどの職能をもって『聖なる世界』に奉仕する者として、各種の職業上の特権が与えられていました。その一つが諸国従来自由の特権です。
 彼らは貢納物のための原料採取。作業・交易などの場を求めて、諸国を移動・遍歴することが必要でした。そのため彼らは関所通過時の関料・入港時の津料などの交通税が免除され、自由に諸国を往来できる権利が与えられていたといわれます。しかしそれ以上に、彼らが『聖なる世界』に仕える特別な職能者、一種の宗教者と見なされていたことが重要です。
 大寺社に属した神人は神奴(しんど)・仏奴(ぶつど)とも称されましたが、それは人ではない聖なる神仏に仕える者であることを意味しました。神人には、芸能者・手工業者もあり、中には神人が組織する商工や芸能の座が数多く結成されるようになっています。
 中世末以降に近江に本拠をもった木地師(きじし)集団(盆、丸膳などの木地を作る職能集団)は、二ヵ所の支配所をもっていました。この二つの支配所は、諸国の木地師に『山への立ち入りと原木の切り出しは自由』とする許可書と、諸国の関所を自由に通行できる往来手形を発行することのできる特権が、時々の政権から与えられていました。
 金属を精錬する職能者である鋳物師(いもじ)も、木地師同様に自由交通権を与えられていました。彼らは、古代国家の律令制の下で、朝廷(聖なる場所)に属する準官人の職能者としてあり、朝廷から職業独占権や交通自由の特権を得ていたとする史実や伝承を持ち伝えられていました。武家政権は彼らの職業上の由緒を認め、それらの特権を与えていたのです。
 また、寺社に属して諸国を移動する宗教者も自由交通権をもっていました。
 たとえば京都の桂女(かつらめ)もそうでした。桂女は、山城国葛野(かどの)郡(現在の京都府京都市西京区桂)に住む巫女集団とされる女性たちをいいます。桂女」は神功皇后(じんぐうこうごう)を祖神とし、神功皇后を祀る伏見の御香宮(ごこうのみや)神社に属し、石清水八幡宮に奉職する巫女でした。桂女の源流は、平安時代後期に朝廷に奉仕する供御人として、桂川で捕獲した鮎を朝廷に献上する鵜飼集団の女性たちだったとみられています。中世には、桶を頭上に載せて売り歩く桂からやって来る鮎売りの女性をさしました。
 桂女は、祝い事のある家で祝言(しゅうげん)を述べる予祝(よしゅく)芸能をしたり、安産や疱瘡(ほうそう)からの守り札を売り歩いたりしまいた。また時代が下がるに連れて、祈?や託宣(たくせん)をしながら各種の行商をしたり、助産師をしたり、さらには遊女ともなり、全国各地を渡り歩きました。
 仏教の僧侶が布教活動として行うものの一つに勧進があります。勧進の主な目的h、直接民衆に信仰を勧めたり、寺院や仏像の修復・新造のための寄付を募ったりすることにありました。各地を巡って勧進を行う仏教僧が勧進聖ですが、彼らも諸国従来が自由でした。
 高野山でも勧進が盛んに行われました。諸国に出向いて勧進を行なう高野山所属の僧侶を高野聖(こうやひじり)といいます。全国各地に見られる弘法大師空海)の伝説も、高野聖が伝えたものといわれます。勧進だけでは生活することが困難でしたので、高野聖の多くが交通自由の特権を生かせる行商・文章伝達・諜報などの仕事を兼ねていました。
 織田信長高野山と戦闘を交え、天正9(1581)年には高野聖1,383名を捕縛し全員を処刑しています。高野山は反信長勢力と通じ合い、多数の高野聖が従来自由の特権を利用し密偵活動を行っていたからです。
 柳田国男は、信長が多数殺害したころから、高野聖の職業が次第に平和的になり、主として衣類を扱うようになっていったということが、各種の文献から知られると述べています(『高野聖呉服商』『定本・柳田国男集 第27巻』筑摩書房所収)。そして時代を下るに連れて、高野聖の多くは本来の職務から離れ、もっぱら呉服を扱う商人となり、人びとから商聖とか衣聖と呼ばれるようになっていったのです。
 古くから行商人に富山の薬売りがありますが、富山には立山信仰を広めた修験行者の一派がありました。彼らは他の修験行者同様に、室町時代ごろから各地を回って神札(しんさつ)を配布して喜捨を得るという、廻檀配布活動を行っていました。
 立山修験の廻檀配布活動は、江戸時代初期には三河尾張・美濃などの地にまで及んでいました。立山修験の配布する神札には、彼らが山から採取した薬草うあ各種の調合薬が土産として賦与されました。こうした彼らの活動が、のちの富山の薬売りの起源ともいわれます。
 自然王としての天皇天領
 『聖なる世界』に仕える者として全国各地を巡った商人たちに、諸国従来自由の特権が与えられていたことは、天皇が体現する特異な聖性と深く結び付きがあります。
 古代に成立した中国やインドなどアジアの国家の性格を、その制度から『東洋的専制国家』と位置付ける観点があります。単純化していうと、すべての土地を唯一の専制君主が占有し、人びとにその土地を分与して耕作させ、そこからの生産物の一部を自らに貢納させる、という形で支配する政治制度を取る国家のことです。
 簡単にいうと、多数の農耕民を一人の人物が等しく支配する政治形態です。この観点からすれば、中国の皇帝や朝鮮の王は明らかに東洋的専制君主としてありました。日本の古代国家も制度的にはほとんど同じものでしたから、天皇もまた東洋的専制君主ということになってきます。
 天皇は農耕共同体の首長的な性格をもっており、実際に国家的な農耕祭祀を執り行う司祭でもありました。しかし天皇の性格はそれだけではありません。天上の神々の子孫という性格をもっているのです。これは中国や朝鮮の専制君主にはないものです。
 中国・朝鮮の君主はあくまで天上の神(天帝)から地上の支配権を委任された人間であって、決して天上の神々の子孫とは考えられませんでした。古代朝鮮にも国王を『天孫』とする伝承がありましたが、やがては中国と同じ『天帝思想』へ変化していきました。
 天皇が天上の神々の子孫とされることは、天皇が農耕司祭としての農耕王であるばかりでなく、自然の山野河海を管掌する自然王でもあることを意味します。天皇は他国には例をみない特異な君主なのです。
 自然の恵みに依存して生きる人びとが狩猟採集民ですが、彼らは自然の恵みをそのまま得て生きているところから、いまでいう感謝・報恩の証として、採集した植物や動物や魚介類を神々に捧げました。これを贄(にえ)の進上といいます。
 東洋の古代国家は、土地の産物・民の労力の一部を、各地の農耕民共同体の首長を通して、唯一の統治者(専制君主)へ貢納させました。これが事実上の徴税です。
 しかし日本の古代国家ではそれだけではなく、海や山など(山野河海)に働く者たち(非農耕民共同体)が、神々へ捧げるのと同じように、天皇に直接、食料となる海山の産物を贄・供物として進上したのです。これは徴税とは別の性質のものです。
 古くは日本国のことを、『天皇が統治される(しろしめす)国』という意味で『食(を)す国』といいました。『食す』は『食う』の尊敬語で、同時に『治める』の尊敬語とされます。なぜ天皇が国を統治すされることを『食す』といったのでしょうか。
 漁労を主に生活した古代の海人らは、収穫物としての魚介類の一部を贄として自然の神々に進上し、神々に食していただき、これを神々に対する服従の証しとするのが習わしでした。のちには天皇に進上することで天皇への服属(直属)を示したのです。いうまでもなく、天皇を天上の神々の子孫とする信仰(自然王とする信仰)があったためです。
 この信仰習俗がのちに古代国家の制度的な規範となり、天皇がその進上された土地の食物を『食される(土地の魂を身に着けられる)』ことによって、その土地を『統治される』と見なすようになったのでしょう。
 古代律令制下では、租・庸・調の税が各国に課せられていましたが、これとは別に貢として贅の納付が定められていた国があり、これを御食国(みけつくに)と呼ばれました。御食国の全貌は明らかではありませんが、沿岸地帯の若狭国志摩国淡路国などのほか、内陸地帯の信濃国下野国などにもあったことが知られています。
 武家政権が農耕民共同体の支配者となっても、山野河海は無所有の地のまま、神仏や自然王としての天皇が所管する領分とする慣行が続きました。
 山野河海は、地上に領有者をもたない、いわば『天領』と見なされていたのです。したがって武家政権に至ってもなお、天皇・公家・大寺社は、自らと結んで行商する者たちに通行許可を与えることができたのです。
 山野河海を通行するには、山の口、峠、坂、浜辺、河原などを通過することになります。その際には、神々に『初穂(秋の稲の収穫に先立って神に献じる熟した稲穂)』を捧げたり、『手向け(神仏や死者の霊に物を供えること)』をしたりする風習が古くからありました。これも一種の贅の進上となります。山人や海人が神になり代わってこれらの供物を受け取ることもありました。
 こうした古くからの信仰風俗が、関料の起源だといわれます。古代では関を設定する権限は朝廷にあり、関料の徴収は、朝廷につかえる供御人たちの役割だったのです」



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商人 (集英社文庫)

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