🍠12〗─1─東北地方の近代化は鬼県令・三島通庸の権力横暴で成功した。~No.39 

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 2021年7月29日号 週刊新潮「極みの館は残った
 極みの付加価値
 稲葉なおと大和ハウス工業総合技術研究所
 明治初期の政府が政府が掲げた政策、殖産興業。その要となるのは、道路など土木施設の整備だった。
 元薩摩藩士・三島通庸は1874(明治7)年、酒田県令として赴任、8年の間、鶴岡、山形の県令を歴任した。山形のように山岳に囲まれた地域で産業を興すには、道路を開削し新道を開通、運輸の便を良くし、人の往来して民力を養うことが最優先の急務とした。
 転任した福島、栃木でも同様だ。新道開削や石橋架橋、トンネルを含む土木史上にも残る難工事を次々と完成させた、やがて『土木県令』と呼ばれるようになる。
 鬼か、神か
 未開発で豊かな資源が眠る東北地方と東京を結ぶ。大久保利通らの意向に沿って開発を進めたが、政府からの補助金では工事費がまかなえず、15歳から60歳まで男女全員に労務を強いた。反対する者には弾圧さえ辞さなかったことから三島はもうひとつ異名を持つことになる。鬼県令──。
 では、鬼が開発に乗り出す前と後では、道は、町は、どう変化を遂げたのか。世界的旅行作家イザベラ・バードが1878(明治11)年につぶさに書き残した紀行文を読んでみる。
 まず三島が県令として転任する前の福島の描写。
 『ぬかるみの連続になってしまっているうえに、(中略)馬に乗って通った道でこんなにひどい道はこれまでなかった。よくも道などと言えるものである!』
 当時の人びとの生活ぶりも知ると情景が浮かぶ。
 『人びとは木を燃やす煙で黒く煤(すす)けた小屋に鶏や犬や馬と一緒に群がるように住まい、堆肥(たいひ)の山からは液体が井戸に流れ込み、男の子たちはすっ裸だった。(中略)女の子たちも上半身は裸で、腰から下に身につけている腰巻も非常に汚く(後略)』
 それが山県県に入ると景色が様変わりする。
 『驚くことに遭遇した。地図では脇道となっているのに、実際には幅が25フィート(7.6メートル)の道だったのである。両側には側溝があり、道に沿って電信柱が続いていた。突然降って湧いた新世界だった』
 人びとの姿も一変した。
 『何マイルにもわたって道は、よい身なりの歩行者や人力車や駄馬や荷馬車でいっぱいだった』
 さらに、
 『山形県は非常に繁栄し、進歩的であり、前途有望という印象を受ける。(中略)人口が多く、耕作が行き届き、幅の広い道の交通量は大変多く、豊かで文明開化しているように見えた』
 初代県令に三島が就いてわずか2年後の様子である。道路だけでなく新時代を感じさせる建築も次ぎつぎと完成していたことが窺える。
 『県庁や裁判庁と言われる裁判所(コートハウス)、師範学校とその附属の上級学校、警察署の建物のすべてが立派な道路や明らかに繁栄している街の様子とよく調和している』
 鬼と呼ばれた三島だが、開墾と農場経営を実現させた栃木県の那須には『土木建設・道の神』三島を祀った三島神社が創建されている。山形の戸沢村にある草薙神社においても、三島の功績を讃えられ、三島大明神として合祀される。 
 鬼と恐れられた男は一方で、開発により恩恵を受けた人びとの神となったのだ。
 神は許しただろうか
 三島は1882(明治15)年、福島県令に転任。その2年後の11月、前任地・山形県では新たな公共建築が竣工する。鶴岡警察署庁舎だ。木造2階建てで屋根上に塔屋がのる擬洋風建築。設計と施工を任されたのは、西田川郡役所なども手掛けた大工・高橋兼吉。
 塔にしても壁面装飾にしても『取って付けたような感』があり、ツッコミどころ満載の楽しい擬洋風建築に共通した印象と私は思っていた。だがこの建築においては当てはまらない。『城』を思わせるどっしりとして和の中に、洋の要素を巧く融和させているのだ。
 洗練された設計に私は見とれつつ、ふと思う。洋の建築で街づくりを押し進め神なった男がもしもまだ山形の県令であったら、また異なる意匠になったのではないか、と。」
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 江戸時代の東北地方は、人口が少なく貧困な未開地で、異常気象の冷夏が起きると凶作となり飢餓が発生し大量の餓死者が出た。
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 徳川幕府は、戦争を繰り返し豊で発達・発展・進歩した高度な社会ではなく、貧しく不便だが平和を選んだ。
 地方で、貧しさ故に少女・女性が女郎・遊女に売られる悲劇は平和の代償であった。
 日本と西洋の違いはここにあった。
 戦争をして豊かな西洋での売春婦は、強欲的資本主義で、資本家・上流階級に搾取される貧困の労働者・下層階級から生み出されていた。
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 幕末・明治維新明治新政府の人材と現代日本の人材との間には、才能・能力において雲泥の差がある。
 つまり、幕末・明治維新明治新政府の人材は現代日本でも役に立つが、現代日本の人材は幕末・明治維新明治新政府では役に立たない。
 それは、2020年から2021年にかけての新型コロナ対応が三流国並みに酷い状況である事が証明している。
 現代日本で、徳川慶喜をはじめとして徳川幕府の幕閣、幹部達を批判し笑う資格がある者は誰もいない。
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小説 三島通庸「百年後に知己をまつ」 (みやざき文庫104)
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 YAHOO!JAPANニュース
 近代東京を作った立役者「三島通庸」はかつて渋沢栄一を殺そうとしていた
 5/31(月) 6:11配信
 「一橋家臣編」で広がった渋沢の行動範囲
 2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK
 渋沢栄一を主人公とするNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、5月2日放送回までは埼玉県を舞台とする血洗島・青春編でした。5月9日放送回からは、一橋家臣編が始まっています。
 【事前にチェック】大河ドラマ館がオープンした「北区・飛鳥山
 血洗島・青春編と一橋家臣編で違いは多々ありますが、なによりも大きく違っているのが渋沢の行動範囲です。渋沢家は藍玉の生産・販売を手がけていたこともあり、上州や信州などに藍葉を買い付けに行き、江戸へと販売に出掛けることは珍しくありませんでした。そのため、通常の農民と比べても行動範囲は広いといえます。
 しかし、血洗島・青春編は渋沢の生家を中心に物語が展開したこともあり、舞台の中心は武蔵国でした。対して、一橋家臣編では草なぎ剛さん演じる一橋慶喜に仕え、慶喜が朝廷との交渉窓口となっていたことから渋沢も京都に滞在しました。そのため、京都を中心にストーリーが展開されています。
 幕末期、幕府が置かれた江戸は大都市として発展を遂げていました。一方、大坂も商人の町として経済的に発展し、江戸と比肩するほどのにぎわいを見せていました。
 大坂は京都が近いという立地的な面からも重要視され、薩摩藩土佐藩、中津藩などが屋敷地を構えていました。土佐出身の岩崎弥太郎、中津藩出身の福沢諭吉も幕末期に大坂で生活を送っています。
 『青天を衝け』でも、西郷隆盛大久保利通といった明治維新で活躍する重要人物が多く大坂に滞在している様子が描かれています。作中では、あまり目立つように描かれ方はされていませんが、松村龍之介さんが演じる三島通庸(みちつね)は明治以降の東京をつくった立役者でもあります。
 渋沢は薩摩藩の動向を探るべく大坂に潜り込んでスパイ活動をするわけですが、当時の薩摩藩と一橋家は意見の相違から非常に険悪な間柄にありました。そのため、三島は大久保と謀って渋沢を亡き者にしようと機会をうかがっていた時期がありした。しかし、明治新政府が発足すると両者の関係は好転していきます。
 銀座大火後に始まった銀座煉瓦街の建設
 1872(明治5)年、江戸城の和田倉門から出火。火の手は見る見るうちに銀座を焼き尽くしました。銀座大火と呼ばれる火事は、発足したばかりの明治新政府には大打撃となります。
 長州藩出身で明治新政府の首脳だった井上馨は、銀座の再建策として街を西洋風のレンガ造りにすることを発案。井上主導で銀座煉瓦(れんが)街の建設が始まりましたが、このプロジェクトを現場で取り仕切ったのが渋沢と三島でした。
 大火によって焼失した街の再建という名目で銀座煉瓦街をつくるわけですから、家屋には第一に不燃化が求められました。
 それまでの銀座は木造家屋が並んでいましたが、大通りに面した区画は木造家屋を禁止。木造家屋に代わって、見た目も華やかなレンガ造りが立ち並んできます。
 大通りに面した商店が次々とレンガ造りになったことで、銀座は文明開化の象徴のような街になりました。レンガ造りの建物を目にしたことがある人たちは少なく、ゆえに物珍しさも手伝って銀座は多くの買い物客でにぎわうようになります。
 山形の地に増えた擬洋風建築
 銀座煉瓦街のプロジェクトを終えた三島は、1874年に酒田県令を命じられます。酒田県は鶴岡県を経て1876年に山形県に統合されますが、三島は県令時代に西洋風の建物を山形で多く建てました。
 西洋の文明が入るようになってきたとはいえ、鶴岡は東京や開港場の横浜・神戸と比べると外国との接点が少なく、山形には西洋風の建物はありませんでした。
 三島は県令という立場から強権的に西洋風の建物をつくることを命じます。しかし、命じられた大工・職人は西洋建築をつくった経験がないこともあり、手探りで西洋風建築に取り掛かります。
 そのため、外観は西洋風ながら純粋には西洋風といえない建築物があちこちに誕生。これらの時期に建設された西洋風の建築物は、後世の建築史家から擬洋風建築と呼ばれます。
 1876年に山形県令に就いた三島は、山形市内でも引き続き擬洋風建築をつくろうとします。三島の政策を建築技師として支えたのが同じ薩摩藩出身の原口祐之でした。
 三島は強権的だったこともあり、現地の人たちから反発を買うことも少なくありませんでした。原口は地元民との間に入り、彼らの気持ちをくむことにも心を砕きました。折衝役としても優れていいた原口ですが、技師としての才能も一流でした。
 警視総監として東京に戻った三島
 原口は三島から西洋風の病院を建てるように命じられると、横浜にあったイギリスの海軍病院を視察。その経験をもとにして、原口は現代から見ても斬新的なドーナツ型の病院を設計したのです。
 原口が設計した旧済生館病院本館は、ドーナツ型の病院は八角形と十六角形を組み合わせた3層構造のドーナツ型になっていました。そんな奇妙な形状になったのは、横浜のイギリス病院を参考にしたからです。
 横浜に建てられたイギリスの海軍病院は、敵の砲撃から守る目的があったことから全方位を見渡すことができるドーナツ型になったようです。
 原口はそのままトレースしたわけですが、ユニークな構造から旧済生館病院本館は長らく山形市民に愛される存在でした。
 三島は山形で西洋風建築を多く建てた後、その手腕が評価されて福島県令、栃木県令に任命されます。栃木県令時代には、農作業に不向きとされていた那須野が原の開拓を率先的に手がけました。荒野を農地へと替える試みは、日本の国力増強にもつながる政策でした。
 先見の明があった三島の那須野が原開拓は、明治新政府の首脳の心も動かし、西郷従道山県有朋松方正義などが続々と那須野が原に農場を開設していくことになりました。
 1885(明治18)年、三島は警視総監として東京に戻ってきます。しかし、その後は病に倒れてしまい、警視総監在任中の1888年に没しました。享年54歳でした。
 三島の長男である彌太郎は第8代日本銀行総裁を務め、5男の弥彦は日本初のオリンピック選手として活躍し、その様子は2019年の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」でも描かれています。小川裕夫(フリーランスライター)」
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 三島 通庸(1835年6月26日(天保6年6月1日) - 1888年明治21年)10月23日)は、日本の武士(薩摩藩士)、明治時代の内務官僚。栄典は正三位勲二等子爵。通称は弥兵衛。林太郎、千木とも。
 県令時代は、反対派を押し切り強力に土木工事を進める手法から「土木県令」や「鬼県令」の異名で呼ばれた。
 生涯
 薩摩藩士時代
 薩摩藩士・三島通純と秀(旧姓・池上)の長男として、薩摩国鹿児島郡武村(現在の鹿児島市上之園町)に生まれる。幼名弥兵衛。3歳下の弟に伝之丞、妹ぬい、がいる。三島家は藩の御能方で金春流の鼓指南役を勤め石高は50石弱であった。上之園郷中に属し、小野道場で示現流とともに薬丸自顕流の剣術を習得した。なお、小野道場には三歳年上の海江田信義がいた。また、伊地知正治から兵学を学んだ。
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 朝日日本歴史人物事典「三島通庸」の解説
 三島通庸
 没年:明治21.10.23(1888)
 生年:天保6.6.1(1835.6.26)
 明治時代の官僚。林太郎,弥兵衛,千木とも。薩摩(鹿児島)藩士三島通純,秀の子。家は代々御能方鼓役を勤め,幕末の石高は50石弱。急進的な尊攘派で,文久2(1862)年寺田屋騒動に連座,謹慎。その後長州征討,戊辰戦争に参加した。その間,藩内の寺院整理や廃仏にかかわり,また山陵取り調べを命じられる。維新後は藩の会計奉行,都城地頭を務めた。明治4(1871)年東京府に出仕,権参事として銀座煉瓦街の建設を進めた。5年教部大丞となり,神道に基礎を置く国民教化を展開し,木戸孝允,島地黙雷らと対立した。7年12月酒田県令に転出,以後17年11月内務省土木局長に転じるまで,鶴岡,山形,福島,栃木の各県令を歴任。その間栗子隧道,会津三方道路などの大土木工事を推進し,東北地方の産業育成に努めて「土木県令」の異名をとった。その強引なやり方は住民の反発を招き,「鬼県令」とも称され,特に会津道路建設では自由党員や県議会と対立して,福島事件(1882)の原因を作った。18年12月警視総監に就任,20年12月保安条例が施行されると民権運動の活動家570人を東京から追放した。19年7月臨時建築局副総裁を兼任,上州遷都を建議している。当時鹿鳴館で開催された仮装パーティー後醍醐天皇に忠誠を尽くした南朝の武将児島高徳に扮したのは,いかにも彼らしい。<参考文献>平田元吉『三島通庸』,佐藤国男『三島通庸伝』,国立国会図書館編『三島通庸関係文書』,阪谷芳直『三代の系譜』
(新井登志雄)
 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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 三島 通庸(1835-1888)
 近代的な道路開発や洋風建築を導入し、「土木県令」と称された初代山形県
 三島通庸[みしまみちつね]は、天保6年(1835)、 鹿児島に生まれました。戊辰戦争では、薩摩藩士として東北各地を転戦します。明治7年、内務卿大久保利通により酒田県令に任命、鶴岡県令を経て、明治9年に統一山形県の初代県令となりました。
 通庸は、道路開発による産業育成と東北振興を目指して、関山新道・上山新道など県内の道路整備を推し進めますが、中でも有名なのは山形県福島県をつなぐ栗子隧道[ずいどう](トンネル)の開削を伴った万世大路の整備です。隧道開削は当時世界最先端の削岩機を導入し、近代土木技術の粋[すい]を集めた大工事であり、完成した隧道は当時日本最長を誇りました。また、山形県庁・済生館をはじめ、近代的な洋風建築を次々と建築しました。これらの功績から通庸は「土木県令」と称されています。
山形県の近代化に大きく貢献し、「鬼県令」と呼ばれた官僚・政治家
 山形県三島通庸は、明治14年明治天皇東北巡幸の際、自ら県内を案内します。天皇山形県を離れる最後の日には万世大路の開通式を盛大に催しました。また、県庁近くに製糸場・水力機織場などを建設して蚕糸[さんし]業を奨励し、済生館(山形県立病院)にはお雇い外国人医師ローレッツを招聘[しょうへい]して医学教育に力を入れるなど、山形県の近代化に大きく貢献しました。
 山形県令から福島県令に転任すると、自由党員が多数を占める県議会と激しく対立し、自由民権運動を弾圧したため(福島事件)、「鬼県令」と呼ばれます。その後、栃木県令・内務省土木局長・警視総監などの要職を歴任し、54歳で亡くなりました。墓地は東京都港区の青山霊園にあります。
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 山形県の近代化産業遺産群
 特集「三島通庸山形県三島通庸が関わった山形の近代化産業遺産
 平成20年度に経済産業省が認定した「近代化産業遺産群 続33」では、山形県で26の産業遺産が認定れた。これらの産業遺産のうち、山形県の初代県令である三島通庸が行った事業が約半数を占める。
 この特集では、これらの産業遺産について、三島通庸との関わりを紹介する。
 初代山形県令、三島通庸
 三島通庸は、1835年(天保6)薩摩藩の下級武士の長男として生まれる。幕末は精忠組の一員として、寺田屋騒動に連座するなど尊王倒幕運動に参加。戊辰戦争が起こると西郷隆盛に取り立てられ、武器弾薬や兵糧の輸送を受け持ち、補給部隊として活躍する。
 戊辰戦争後は、鹿児島都城の地頭に任命され地域振興の事業を行うが、この功績が内務卿・大久保利通に認められ、明治4年東京府参事として新政府に出仕することになる。
東京府参事では東京銀座煉瓦街建設など、都市改造計画の行政側の実質責任者として活躍する。これらの経験は、後の山形県令時代の事業を達成するのに大きく役立った。
 東京府参事から教部省の教部大丞を経て、明治7年に酒田県令として赴任し、明治9年に初代山形県令となる。
 三島通庸が山形で過ごしたのは、明治7年から明治15年までの7年間である。この7年間で、山形県庁舎を中心とした都市整備事業や地方郡役所の建築、新道開削や石橋架橋の道路整備事業など、多くの実績を残し山形県の振興に尽力した。
 山形県政に対する志
 三島通庸山形県令に就任する際に、内務卿・大久保利通に県政運営の抱負を次のように述べている。
(1)道路を開き、運輸の便利を良くし、民力を養い、県民の目を広く外の世界へ開かせること。
(2)学校をつくり、人材養成に努めること。
(3)勧業、なかんづく製糸器械場を設け、博物館を開いて実物による教育を施すこと。
(4)病院を設立し、県民の健康維持を図るとともに、医学教育もおこなうこと。
(5)警察署とその分署を設置するなど、治安機構の確立を図ること。
(6)河川を改修し、これを運輸の動脈として利用促進すること。
(7)酒田港の改修をおこなうこと。
(幕内満雄著「評伝三島通庸」より)
 これらの方針により、各地で新道開削、道路整備、擬洋風建築の建設などが行われた。
いくつかの建築物は、火事や時代の流れの中で消失してしまったが、多くが今なお遺産として残っている。
 三島通庸が残した産業遺産
 三島通庸が残した産業遺産の中で「近代化産業遺産群 続33」に認定された遺産を、その内容ごとに分類して紹介する。
 山形県庁舎を中心とする新市街地の建設
 三島通庸は、山形県庁舎を中心とする新市街地の建設を行い、市民に明治の新しい時代の到来を示した。
 山形県庁舎を中心として都市計画道路を南側にまっすぐに伸ばし、道路の東側は警察署・師範学校・南山学校、西側には警察本署・南村山郡役所・勧業博物館・製糸場、少し離れて済生館など、県の主要な官署や施設が集中して作られた。
 これらの建物は、当時は珍しい西洋風の建築で、市民たちはこれらの出現に驚き、また文明開化の到来を感じて新しい県政に期待を抱いた。
 古くからの城下町は、三島通庸により近代的都市へと変貌を遂げ、人々に新しい国家の始まりを認識させた。
 多くの建物は明治44年山形市北大火で焼失してしまい、当時の建物として現在残っているのは、旧済生館本館と旧山形師範学校本館のみである。(現在の旧山形師範学校本館は明治34年山形市緑町に新築移転したもの。)
 地方郡役所などの建築(擬洋風建築の建設)
 山形県庁舎の新市街地の他にも、多くの各地方の郡役所には西洋風の建築(擬洋風建築)が建てられている。
 三島通庸が初めて赴任したのが酒田県であったが、当時の庄内地方は士族の反政府運動が盛んな所で、農民の暴動「ワッパ騒動」などもあり、統治が難しい地域であった。この難しい地域を治めるためには、強力な統治能力とともに、目に見える形での「新時代への期待」が必要であった。
 城下に突如として建てられた西洋風の建物は、当時の人々を驚かせるとともに、新しい時代への期待を起こさせる狙いがあった。
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 三島通庸が残した土木遺産
 山形県の近代化産業遺産群 三島通庸が残した土木遺産
 山形の近代化産業遺産には、随道(トンネル)やアーチ型石橋など、多くの土木遺産が含まれる。これらは初代県令・三島通庸が残したもので、隣接県を結ぶ道路や県内の基幹道路など、道路交通網の整備を行ったものである。
お問い合わせ
 産業労働部商工産業政策課 
 住所:〒990-8570 山形市松波二丁目8番1号
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 日本が世界的一等国の近代国家になれたのは、諸大名地方分権連合制徳川幕府を倒し近代天皇制中央集権国家(非宗教の近代的軍国主義国家)に構造変化に成功したからである。
 そして、「ロシアの侵略から日本を強力な軍隊をつくって守らねばならない」という差し迫った深刻な脅威が原動力となっていた。
 近代的軍隊を作る(富国強兵)のに必要なのが殖産興業と近代教育で、殖産興業の必要なのが国土開発であった。
 国土を開発する為には、地元の抵抗勢力を公権力を行使して潰さねばならなかった。
 民意圧殺の為に利用したのが、誰も反抗できない神の血を引く国家元首にして大元帥
天皇であった。
 すべては、ロシアに対して積極的自衛戦争つまり大陸侵略戦争ができる軍事国家に大改造する事であった。
 ロシアに味方して日本の生存の道に立ちはだかり妨害したのが、清国(中国)と朝鮮であった。
 これは、幕末、水戸藩からの「攘夷」であった。
 吉田松陰は、夷狄(ロシア)から日本を守る為に中国と朝鮮を討ち滅ぼし占領する事を主張した。
 そして起きたのが、日清戦争日露戦争である。
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 明治新政府が、国内、地方の殖産興業と近代教育による開発の必要性を痛感させられたのは戊辰戦争とくに会津戦争であった。
 江戸時代、財政赤字に苦しんでいた諸藩が行った収入増の藩政改革は、領内・地元の経済的発展ではなく、あくまでも藩財政の立て直しで、その為に領民の生活は必ずしも豊かにはならなかった。
 その結果、藩祖保科正之など多くの名君が統治してきたはずの会津でさえ、貧しかった領民は藩主松平容保を助ける事なく逃げた。
 何故、領民が「藩主・君主を見捨てたのか?」それは、利益に貪欲な領民にとって藩主・君主が金蔓ではなかったからである。
 藩主・君主が領民に守って貰うには、藩主・君主が領民にとって利益をもたらす存在である必要があった。
 日本国がロシアの侵略から守るには、少数の武士・軍隊だけではなく、多数の国民・領民を総動員する必要があった。
 日本を見捨て天皇をロシアに売って利益を得て日本国を滅ぼすような不忠国民をつくらない事が、急務であった。
 その意味で、天皇を国家と国民に利益をもたらす唯一の存在とする必要があった。
 その目的で、天皇を意識した近代教育・愛国教育が行われた。
 全ては、ロシアの侵略から日本を守る為であった。
 明治新政府は、国民一人一人の権利よりも国家の生存を優先し、人気取りの為に物分かりが良く民意に媚び諂う事なく、むしろ公権力を横暴に行使して理不尽な犠牲を国民に強い、国が始めた他国との戦争で命を奪った。
 大正期から、日本への侵略者はロシアからソ連・国際的共産主義勢力にかわった。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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