🍙30〗─1─戦争孤児(駅の子)と戦争乞食の餓死・病死・自殺。昭和南海地震。昭和21年8月~No.193No.194No.195 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 戦争を生きる子供達にとって、戦争が生きる意欲であった。
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戦争孤児(駅の子)は、子供から虐められ、大人から差別され、社会から排除され、そして餓死・病死・自殺した。
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 日本人は、戦争孤児を助けようとしないどころか親なしとイジメ、社会から排除し餓死するのを放置した。
 日本人は、薄情で冷血である、戦争孤児が飢えているのを助けず、餓死や病死したらゴミのように処理した。
 日本人は、戦争孤児が餓死しようとも無関心であった。
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 「日本人は、和を大切にし、思いやりがる」「日本人には惻隠の情がある」とは、真っ赤な嘘である。
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 空海『亡弟子智泉が為の達嚫(たっしん)の文』 
 〜 哀しい哉(かな) 哀しい哉(かな)
   哀れが中の哀れなり
   悲しい哉 悲しい哉
   悲しみが中の悲しみなり
   哀しい哉 哀しい哉 復(また)哀しい哉
   悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉
 〜 悟りを開けば この世の悲しみ驚きは
   すべて迷いが生み出す幻にすぎないことはわかっています
   それでも あなたとの別れには 涙を流さずにはいられません
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 まだ食べられる食べ物を生ゴミとして捨てる贅沢に慣れた現代日本人は、食べモノがなく植えて餓死した戦争孤児達を見捨てた。
 戦後の平和教育は、人の心を踏むにじるようなおぞましい考えを子供たちに教えた。
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 反天皇反日的日本人は、子供達への反戦平和と護憲教育として、愚民化教育を行って歴史の真実から目をそらさせ、捏造した偽りの歴史を教えて思考停止に追い遣り、自分で考え判断する力を奪った。
 日本人は、軍部に騙されて愚かな侵略戦争を行った無知なバカである。
 日本民族は、好戦的な血に飢えた邪悪で恐ろしい人殺し民族である。
 愛国心は邪悪な心である。
 国家は監視しないと戦争を始め、油断すると国民を戦場に追い遣る信用できない相手である。
 人々に我慢を強いる公としての国益よりも、個としての私益の方が重要であると。 人の絆や、家族のつながりを、切断、断絶させた。
 全てが、日本人の愚民化であった。
 愚民化で欠かせないのが、日本国語の破壊であった。
 それが、英語の公用語化である。
 英国語ではなく、単なる英語である。 
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 食糧自給率の低い国は、必要量の食糧を外国から輸入できなくなれば飢えて、そして餓死者を出した。
 昭和21年 日本は凶作に襲われ食べ物が不足した。
 天然痘が流行して、1万8,000人が感染し、約3,000人が死亡した。
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 東京大空襲で、両親を失った戦争孤児が12万人にも達した。
 親戚・縁者引き取り手のない戦争孤児達は、浮浪者となり、日中は空腹を満たす為に残飯をあさったり物乞いをし、夜は雨露をしのぐ為に上野駅地下道で皆と雑魚寝した。
 引き取られた戦争孤児もまた悲惨な境遇に変わりなく、家族から配給食糧を余分に食べる穀潰しとして邪魔の扱いされ、親類の家をたらい回しにされた。
 そうした戦争孤児が、日本全国にいて、生きる為に焼け野原となった街をさまよっていた。
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 子供は、大人の口から今を肯定し将来への明るい希望を聞く事で、生きる望みを持つ。
 大人は、最悪な状況にあっても子供達を安心させる為に、ありもしない嘘をついてまで子供達に夢を持てる話をしなければならない。
 大人は、自分の言い訳や責任逃れではなく、子供の将来の為に笑顔で嘘をつかねばならない。
 大人が自信をなくし将来に対して嘘がつけなくなった時、子供は生きる勇気を失う。
 戦争孤児は、自信をなくし将来の希望を語れなくなった大人の犠牲となって餓死した。  
 子供は、大人の犠牲となる。
 大人は、子供達に将来に希望を持たせ大人になった時の夢を抱く様に、嘘でもいいから明るい話をする責任がある。
 そして、ついた嘘を現実にする義務がある。
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 戦争孤児は12万人以上で、引き取り手もない孤児は約3万5,000人であった。
 すむ所もなく、食べ物もなく。ただあてもなく街中を彷徨っていた。
 戦災孤児を襲ったのは、家族を失っい一人ぼっちになったという「寂しさ」であった。
 日本人は、「寂しさ」に弱い。
 戦災孤児達は、一人生き残った事に罪悪感を感じ、「切なさ」に心を苛まれて、絶望し飢えて死んだ。
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 戦時中。戦争孤児は、「国児」「靖国の遺児」と呼ばれて、国家・地方自治体・軍部・隣組・親戚縁者から手厚い保護を受けていた。
 国家や軍部にとって、戦争孤児は将来の戦力であり、徴兵されて戦場で戦う兵士に家族の不安を与えない為だった。
 敗戦によって保護を喪った国児・靖国の遺児は、親を失った孤児となり、住む家を失った孤児は路上生活の浮浪児となった。
 敗戦の混乱で自分と自分の家族が生きるにやっとな大人達には、親も住む家もない浮浪児などに乏しい食糧を分けて助けるゆとりはなかった。
 警察に対して、盗みを働く浮浪児達を犯罪者として取り締まる事を求めた。
 行政に対して、路上で餓死してる浮浪児の遺体を放置すると衛生上良くないのですみやかに処分する様に求めた。
 行政や警察は、苦情を申し立てた地元民間団体に「浮浪児狩り」への協力を求め、浮浪児達を狩りを実施したが、浮浪児を収容する施設の不備から浮浪児の逃亡が絶えなかった。
 逃亡を防ぐ為に、浮浪児達は収容施設では裸か下着で生活させられていた。
 体力のある浮浪児は労働力が不足している地方の農村に送られ、体力のない浮浪児は八丈島など僻地の施設に送られた。
 浮浪児に対して行われた実態調査に、浮浪児達の多くは豊かな生活より「学校へ行って友達と一緒に勉強がしたい」と答えた。
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 戦災孤児を絶望させ餓死へと誘ったのは、家族・家庭・家を失ったという「さびしい」「さみしい」という心であった。
 一人で、誰の助けも借りず、誰の支援もあてにせず、誰にも依存せず生きていく、と思い定めた少年だけが死の淵から抜け出して生き残った。
 大人も、国家も、政府も、助けてはくれないと言う現実を知った子供だけが、心で泣いても表面では空元気を出して生き、戦後の復興と繁栄を生み出した。
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 寂しさは、人との絆を求めて愛情と友情と信仰を生み宗教と文化と文明を誕生させ、人とのつながりから社会・共同体が形成され村から町そして国へと発展させた。
 戦後復興の原動力は、自由と民主主義そそて平和による明るい未来への希望から始まったのではなく、寂しさや切なさを仲間と慰め合い励まし合いながら乗り越えるようとする想いから起きた。
 だが、他人との絆やつながりが作れなかった戦争孤児は餓死した。
 絶対神の救いや救世主の癒やが存在しない自然災害多発地帯の日本では、ムラ社会としての絆やつながりを信仰として大事にしてきた。
 その絆やつながりが立ち消えたのが、終戦直後の日本であった。
 日本文化は、自分の寂しさを見詰め、自分の寂しさを自覚し、自分の寂しさと折り合いを付けて生きていく事である。
 日本の「忍」とは、自分一人という「寂しさ」を受け入れて生きて行くという心の事である。
 日本の子供は笑い遊ぶ事で寂しさを克服する精神力を身に付けていったが、戦争孤児は笑いと遊びをなくした事で心の柔軟性を消失させていた。
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 精神力と体力が弱く、ストレスに耐えられない戦争孤児は、死ぬ定めであった。
 弱い子供から死んでいった。
 食べられる物は、汚れていようが不潔であろうが何でも食べた。
 強い者は生き残り、弱い者は死んだ。
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 チャップリン「人が生きて行くには、三つのモノがあればいい。希望と勇気とわずかなお金だ」 
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 戦後の日本では、コレラやペストなどの伝染病が流行っていた。
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 戦争孤児は、親戚・親族に引き取られる事もなく見放され、国家・政府、社会、大人からも見捨てられ駅や公園で寝起きしていた。
 気力のある戦争孤児は、飢え死にしない為に三つ手段で生き延びた。
 1,水を飲み野草を食べて飢えをしのいだ。
 2,浮浪児として物乞いをして食べ物や金を手に入れた。
 3、店の商品や人の財布や食べ物を盗む。
 日本的情緒・心情を持つ日本人は、泥棒した戦争孤児を捕まえて折檻しても大陸のように殺しはせず、多少の食べ物を分け与えて見逃してくれるか、警察に窃盗犯として突き出した。
 戦争孤児の救いは、不憫と思って見て見ぬ振りをする日本的情緒・心情であって、大陸のようなキリスト教会が主体的に行うボランティア活動ではなかった。
 日本の宗教諸団体は、民衆救済の面においては無力であった。
 仏教寺院が行った戦後活動は、葬式宗教として、行き倒れとなった駅や路地で飢え死にした戦争孤児を無縁仏として弔い葬る事だけであった。
 棄民となった戦争孤児達は、生死の極限まで追い詰められてもなお生きたければ、国家や政府をあてにせず、社会に期待せず、大人に頼らず、他人より自分として、己の才覚を信じ自己責任で生き抜くしかなかった。
 何処にも、助けは存在していなかった。
 それが、敗戦直後の戦犯国家日本の現実であった。
 寄辺なき戦争孤児は、世間を怨む余裕も大人に悪態を突く暇もなく、寂しさや孤独に耐えて一人で生きるしかなかった。
 「甘え」など許されず、「甘え」た時は死ぬしかなかった。
 戦後日本なら「甘え」が氾濫しているが、昔の日本社会には「甘え」など存在していなかった。
 日本の自然環境・国土・風土に於いて「甘え」とは、「死」と同意語であった。
 昔の日本人には、「甘え」などは持ってはいなかった。
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 会社の倒産で失業者や外地からの引き揚げ者が街に溢れた。
 政府は、失業者や引き揚げ者の対応で手一杯で、戦争孤児(駅の子)の保護は後回しにした。
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 欧米の傷痍軍人は、劇場や駅などで切符売りや掃除などの仕事を与えられ、最低限の生活が保証されていた。
 日本共産党マルクス主義者らは、傷痍軍人軍国主義者と決めつけ保護する事に猛反対していた。
 傷痍軍人は、手足を失っていた為に就職できず、誇りを捨てて物乞いとなり地ベタに這いつくばり街行く人に頭を下げた。
 あるいは、白衣や軍服に身を包み、ラッパ、ハーモニカ、アコーディオンなどの楽器を演奏し、軍歌を歌って金を貰った。
 1953年に、恩給制度が復活して傷痍軍人達の生活は安定して街頭での物乞いは減った。
 詐欺を働いていた偽の傷痍軍人は、依然として傷痍軍事のフリをして物乞いを続けた。
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 春 GHQは、政府に対して戦争孤児の解消を命じた。
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 8月 厚生省は、全国の浮浪児は約4,000人と推定したが、実数はそれ以上とされていた。
 警察は、浮浪者を施設に収容する為に狩り込みを行った。
 だが、戦争孤児の人数が多すぎて収容施設が足りなく、入れなかった戦争孤児は路上生活者となった。
 戦争孤児は、同年代の子供から虐められ、大人から白眼視され、社会から見捨てられ片隅に追い遣られた。
 親のない戦争孤児は、就職や結婚も不利であった。
 会社は、親のない者を採用しなかった。
 親のない戦争孤児は、結婚がしずらかった。
 大半の日本人は、戦争孤児を助けないどころか、冷たく薄情であった。
 親兄弟を亡くした戦争孤児は、孤独の寂しさから自殺する子供もいた。
 日本社会は、親のない者に冷たい。
 親を持っていた子供達は、戦争孤児を戦争乞食と差別し虐めた。
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 8月1日 農林省阪食糧事務所船町倉庫が襲撃され、内地米30石が強奪された。
 大阪地方専売局は、アメリカ軍憲兵隊(MP)と府警の協力を得て、不法タバコの街頭売りを抜き打ちで検挙した。
 8月2日 大阪駅前の不良少女達を補導するや、少女らは闇市場で購入したブローニング拳銃を所持していた。
 8月4日 配給所員と称する男(日本人か朝鮮人か不明)は、大阪旭区で偽造旅行用食品券で詐取を行った。
 8月13日 大阪・阿倍野の古物商は、路上で生活する戦争孤児130人を食べ物で集めて窃盗団を結成して、約60万円の大金を荒稼ぎしていた。
 戦争孤児は生き残る為に、多くの子供は大人から自立する事が大事だと考え子供の知恵で金を稼いだ、少数の子供は大人や年長者に依存して犯罪に身を落とした、ほんの僅かな子供は生きる気力をなくし行き倒れて餓死した。
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 アメリカ軍は、東京に進駐するや日銀に直行し、軍国日本が保有していた膨大な量の金塊と金貨を賠償金代わりに奪っていった。
 敗戦国のドイツやイタリアでも、金塊・金貨を戦争賠償として非公式に実行していた。
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 9月 スチューブン・フックス「連合国最高司令官(SCAP)ダグラス・マッカーサー元帥と彼のスタッフが直面した経済的混乱の中心には食糧問題があった。……1945年から47年の間、SCAPの経済政策と食糧政策は緊密に関連していた」(マーク・カプリオ/杉田米行『アメリカの対日占領政策とその影響』「米国占領下のSCAP食糧政策と日本の経済復興」P.48・50)
 マッカーサー「日本を廃墟のままにしておく方法に関心があるのではなく、いかにして再興させるかに関心がある。……活力ある素早い行動のみが悪疫、疾病、飢餓や他の主要な社会的破局を防ぐ」
 農林省は、異常気象によって米の予測収穫量を下方修正する必要があったが、労働者が生産活動ではなく食糧確保に走って経済復興を遅らせる事を警戒して、修正を行わず据え置いた。
 戦後の敗戦国日本は、人口増加と食糧不足の解消策として、戦争への暴走と敗戦を教訓とした食糧自給の農業促進策か、輸出産業を発展させて外貨を稼ぎ食料を輸入するという海外依存策を、喧喧諤諤と激論を交わしていた。
 だが、この議論は目新しいものではない。
 戦前においても、自給論の軍部と依存論の財閥との間で幾たびも繰り返されていた。
 高橋是清は、軍事費の増額要請に猛反対し、輸出による外貨を稼ぐ為の殖産興業の積極財政を推進していた。
 9月11日 朝日新聞天声人語 大東亜の各地域に在住するわが居留民が……永年奮闘の結晶と地盤を失いあるいは海外雄飛の志挫折して帰る者も多いことであろう。この点心から同情される……これまで、日本の人口問題の上から、頻に海外進出の必要が叫ばれ、戦時中も満州への移民は続けられていた▼狭小なる国土に8,000万の人口を養わねばならぬ事態となって、海外進出の問題は、今後の課題として、更に新しい意義と重要さを持って来る……人口問題解決のためにも、世界的日本建設のためにも、今より徹底的反省と再検討を加え、海外雄飛可能となる日を待つ要があろう」
 9月16日 永井荷風「全国を通じて国民飢餓に陥るべき日は刻々と迫りをりという……余が余命も来春まで保ち得るや否や」
 9月27日 昭和天皇マッカーサーの会談。
 昭和天皇「今回の戦争の責任は全く自分にあるのであるから、自分に対してどの様な処置を執られても異存はない。次に戦争の結果現在国民は飢餓に瀕している。このままでは罪もない国民に多数の餓死者が出る恐れがあるから、アメリカに是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充てて頂ければ仕合わせである」
 大きな風呂敷包みをマッカーサーの机に差し出された。
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 10月 上野駅周辺に於ける戦争孤児の餓死は、一日平均2.5人であった。
 大人も子供も、戦争に勝つ為として精神力で空腹に耐えていたが、敗戦と知るや安堵よりも絶望感に襲われた。
 敗戦で気落ちした軍国少年孤児らは、国家から見捨てられ、頼る当てもなく、空腹で気力も体力も失って都市部の駅にたむろしていた。
 栄養不足で立つ事のできなくなった戦争孤児は、建物の隅の方に倒れ込みそのまま餓死した。
 渋沢蔵相は、「戦後の混乱と食糧不足から、1,000万人の餓死者が出る可能性がある」と発表した。
 日本に進駐した国際連合国軍による、ユダヤ人的発想による略奪型利益誘導の占領政策によって、全国各地で多数の餓死者を出した。
 昭和21年春までに、京浜地区のみで1,300人以上が餓死した。その大半が、不幸な戦争孤児であった。
 10月26日 政府は、外交権を剥奪され独自で食糧を買い付けられない為に、GHQに対して435万トンの食糧緊急輸入を要請した。
 日本人共産主義者は、ソ連の裏支援を受け、敗戦の混乱と食糧不足を煽りって暴力革命を起こそうとした。
 ロシア革命は、こうした状況下で成功して、反共産主義者や皇帝派や自由主義者や宗教家ら数千万人を大虐殺した。
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 秋 天気不順で米は大凶作となり、旧植民地からの移入も南方からの輸入も途絶え、街には大量の戦災被災者と失業者があふれ、厖大な数の軍人の復員や一般人の引き揚げ者が帰国する事になっていた。 その為に、「来年は1,000万人餓死」するという噂が流れた。
 10月29日 慶應大医学部大森憲太教授は、読売報知で「このまま冬に向かえば、都民だけで3お万〜70万が影響失調の犠牲にある」と警告した。
 物不足でインフレが悪化して、物価は異常に高騰した。
 食料費の闇値はつり上がり、米の闇価格は公定価格の105倍となった。
 都市住民は、預貯金を引き出して食べ物かっていたが、預貯金がなくなるや衣服を食べ物に換える為に農村に出掛けた。 
 日本銀行は、日銀券を増発した為に爆発的なインフレが発生した。
 日本政府のインフレ政策は効果なく、困窮する国民生活の改善につながらなかった。
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 11月 日本政府は、慢性的食糧不足を解消するべく引き揚げ者を増産従事者として各地に新設する開拓地に入植させる、緊急開拓事業実施要綱を閣議決定した。
 開拓地として、全国にある皇室御料地や軍用地を開放する事にした。
 だが、もともと農地や住宅地に向かない不毛な荒れ地であった為に、入植者の大半が開拓地を放棄して町に溢れた。
 政府は、戦後開拓計画で、引き揚げ者を救済し食糧増産を行おうとしたが失敗に終わった為に、国内の食糧を確保するべく、新たな海外移民としてドミニカなどへの移民を奨励した。
 外交権を制限された日本外務省は、慌ただしい海外移民計画を実行し、現地での充分な調査もせず引き揚げ者を送り出した。
 新たな海外の移民先もまた農地に適さない荒れ地で会った為に、国を信じて移住した日本人はさらなる悲惨に追い込まれ、国を呪いながら逃げる様に日本に帰国した。
 三里塚など幾つかの開拓地は、引き揚げ者等の苦難次ぐ苦難の努力で何とか農地転用に成功して、新たな生活が始まった。
 皇室は、全国にあった御料地の大半と金融資産を復興の為に国に下げ渡した為に私有財産の多くを失った。
 皇室が自由にできる資産は、世界の王族に比べて少ない。
 マッカーサーは、日本の食糧不足を補う為に、禁止されていた日本漁船の遠洋漁業を許可した。
 領海近くで日本漁船の操業を受ける韓国・中国・フィリピンなどの近隣諸国は、侵略戦争を起こした戦犯国日本への恐怖から不服を申し立てた。
 ソ連やカナダやアメリカ国内からも、自国の漁民を保護する為に、近海の漁場を日本に開放する事に不服を申し立てた。
 11月1日 東京。日比谷公園で餓死対策国民大会が開かれ、米1日3合の配給を要求する決議を採択した。
 飢餓民化した日本人の多くが、空腹のあまり、マルクス主義者による反天皇の煽動に乗せられて皇室への恨みを募らせ始めた。
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 11月17日 大正・昭和期最大の大凶作となり、生産量は前年比68.8%に落ち込み、農村の供出量は予想量の23%にしかならなかった。品不足の為に供給米価は6割高に跳ね上がり、都市部の食糧は絶望的なほど不足した。
 都市住民は、食べ物を得る為に地方に買い出しに出たが、食糧の出し惜しみする農家を人の足を見る業突く張りと憎悪した。
 この時代。農家が一番威張っていた時代と言われている。
 戦後の民主主義を取り入れたマルクス主義評論家は、農村の困窮する他人を思い遣らない閉鎖性を非難し、ムラ人の卑屈にして排他的体質を大改造すべきと訴えた。
 左翼・左派は、日本の保守層は都市部ではなく農村部にあるとして、新たな農村ファシズムの出現として攻撃した。
 ロシア革命でも、自作農は資本主義の手先と見なされ、数百万人の農民が餓死に追い込まれた。
 GHQは、日本国内の食糧不足を解決する手段として、日本警察を顎で使って米の供出に非協力的な農家を強襲して隠匿米の摘出を行った。アメリカ軍兵士には、人種差別主義者が多く、日本農家への配慮はまったくなく自家消費米や来年用の種籾をも持ち去った。
 農民は、容赦ない摘発を「ジープ供出」と恐れ、自分たちを助けてくれない国家を呪った。
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 11月18日 朝日新聞上野駅で処理された浮浪児の餓死体は、先月の平均で1日2.5人」
 「名古屋市役所が敗戦以来(11月)14日までに仮埋葬した餓死者72名」
 「(大阪市内)8月60名、9月67名、10月69名」 
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 11月20日 日本政府は、魚や野菜の流通を円滑化するべく生鮮食品の統制を撤廃した。
 だが、食料品は市場に流れる事なく闇市に運ばれ高値で売買された。
 統制撤廃が物価高騰を招いただけであった為に、翌46年3月には再び統制を行った。
 11月22日 政府は、自作農創設の農地制度改革要綱を決定した。
 11月29日 貴族院。河瀬眞「科学技術なる用語は大東亜戦争中戦力増強の為の所産でありまするが、この言葉の持つ意義こそは国を救い、国お興し、国を富ましむる方途を表すものでございまして、時の平戦によりその重要さに何ら径庭はないのでございます。否、今日のごとき国歩艱難なる時期におきましては、科学技術の振興昂揚ほど大切な事はないと存ずる次第であります」
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 吉田茂外相「1ヶ月も全国で赤旗を振ればアメリカは食糧を持ってくるよ」
 昭和天皇は、アメリカの食糧援助を得る為に、その代償として宮中の宝物を引き渡すべく目録をマッカーサーに提出した。
 マッカーサーは、皇室の宝物と引き替えに食糧を渡す事は、連合国の名誉と自分の自尊心にかけて出来ないとして、宝物目録を返した。
 「必ず食糧を入れるから、陛下へ安心するよう申し上げてくれ」
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 12月 昭和天皇は、日本国内で餓死者が出ている事に心を痛めて松村謙三農相を宮中に呼んだ。
 「戦争で塗炭の苦しみをした国民に、この上さらに多くの餓死者を出すような事は、どうしても自分には耐えられない。……聞けば、皇室の御物の中には国際的価値のある物が相当にあると事である。その目録を作成させたのがここにある。これを代償としてアメリカに渡し、食糧に換えて国民の飢餓を一日でも凌ぐ様にしたい」
 歴代の天皇は、古代から、祭祀王として国家と民族の身の上を案じて神々を祈る存在であった。
 幣原喜重郎首相は、マッカーサー元帥に会って昭和天皇の御意向を伝えた。
 マッカーサーは、自己犠牲をして国民を救おうとする無心の昭和天皇に感動した。
 「天皇のお考えはよくわかるが、自分としてもアメリカとしても、皇室の御物を取り上げて、その代償に食糧を提供するなどは面目にかけてもできない。……自分が現在の任務についている以上は、断じて国民の中かに餓死者を出すような事はしない。必ず食糧を本国から輸送する方法を講じます。陛下には、ご安心なさるよう申し上げてもらいたい」
 駐韓アメリカ軍司令部に、帰国した在日朝鮮人朝鮮人の差別と失業によって生活できず日本に戻ろうとする者や、日本国内から不法に金銭や食糧を運び出そうとする在日朝鮮人などが跡を絶たないという、現場からの報告書が送られた。
 GHQは、日本国内の食糧問題や失業問題を解決する為にも、朝鮮に帰国した在日朝鮮人の日本への再入国を禁止した。
 12月9日 農地改革指令。
 GHQは、「農地改革についての覚書」を日本政府に送り、農地の約47%を占める小作地を開放する農業改革を促した。
 農民人口約3,400万人の内、約70%である3,400万人が小作農か小自作農で貧困であった。
 ロバート・フェアリー「農民は最も貧しく不満の大きい階級である。それ故に軍国主義的宣伝にとりわけ影響され易かった。強調すべきは小作制度の改革の必要性である。小作制度こすが農民のかかえる困難の主要な原因である」
 マッカーサー「土地に関する障害を取り除く事は、米の生産を最大限に伸ばし、社会的・経済的安定に欠かせない」
 「民主主義の強化の為に経済障壁を取り去り、封建的な体質に依存した農業経済を破壊する様に」
 「(土地改革ほど)健全で中庸な民主政の為に、より強固な基盤となるものはなく、極端な哲学の圧力に対してより強固な防波堤となるものはない」
 経済復興の為、日本の土地神話を破壊し、資本を土地投機から産業投資に振り向ける様に命じた。
 12月10日 大坂で。食糧不足を解消する手段として、サツマイモ、ジャガイモ、芋づるなどを加工した人工米が作られた。
 12月14日 貴族院幣原喜重郎国務大臣「この度の敗戦の大きい原因の一つはお話の如く全く科学技術の発展奨励ということが足りなかった亊であります。私もその点は深く痛感致しているのでありあして、何とかこの点に対して革新の方法をとらなければならないと考えているのであります」
 12月15日 貴族院。秋田三一「必要量の半分にも足りないわずか二合三勺の食糧すら食わしてやるという当局の確言は与えられないのであります。夜な夜な殺人強盗は各所に出没し、帝都というに日暮れたらもはや歩けぬという物騒な状態になりました。……今や所々に餓死者が出で、いわゆる栄養失調にかかる者は都市生活者のほとんど全部と言っても差し支えないのであります。各人は国家どころではない、理想どころでもない、人生最後の生命保持に汲々たる有様であります。むろん当局は餓死を免がるる策としては、開墾、干拓あるいは農地調整等にあらゆる増産の手は打たれました。あるいはまたマッカーサー司令部に懇請して300万トンの食料輸入にも努力を払われております」
 貴族院。政府委員小暮武太夫「農業だけで吸収し得る人口というものは相当の限度のある事も既に定論のあるところでございますので、我が国の今後の産業のあり方と致しましては、食糧を輸入致しまする為の見返り物資の生産、これが輸出の為の貿易というような事に食糧増産と同じ重点をおいて、農商工の均整のとれた産業のあり方をとって行わればならぬと考えている次第であります」
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 12月21日4時19分頃 昭和南地震。海溝型・逆断層型地震紀伊水道土佐湾沖(南海トラフ沿いの領域)でM8.0。中部地方から九州地方にかけて最大震度5。死者・行方不明者1,443人。房総から九州にかけて津波
 今村明恒は「宝永地震安政東海・南海地震は東海・南海の両道に跨って発生したものであるが、今回の地震東海道方面の活動のみに止まっており、今後、南海道方面の活動にも注視するべきである」と指摘していた。
 GHQは、翌47年2月に東大地震研究所の今村明恒教授ら3名を呼んで、地震予知をしたのかどうかを確かめた。
 同日19時18分頃 択捉島南東沖で地震。M7,1。北海道浦河町潮見、釧路市根室市で最大震度2。
 12月29日 農地調整法(1938年制定)改正法公布。第一次農地改革。翌21年2月1日 実施。
 在村地主の五町歩を越える小作地と不在地主の全小作地が、小作人に強制的に譲渡された。
 都市資産家による、土地投機としての所有が禁止された。
 立川宗保(農林省農地局管理課長)「当時、農林省側では、耕す者その土地を有すと、自ら額に汗して働いている者がその土地の所有権を持たないかんと、誰かよその者に追い使われて、それでよそ者の地主さんの言う事を採用する様では本当の農業の前進はないと、前々から一生懸命考えていた事ですから、それがしかも考えながらやろうとすると、貴族院で阻まれたり、枢密院で阻まれたり、それを阻む勢力が沢山あったわけですね。切歯扼腕しとったわけですよ。それで、それがたまたま進駐軍が来たという様な事から大手を振ってできるという事になったもんですからね。100年の念願、この一挙に実現するという様な事ですから、みんなもうえらい勢いでね、これはもう本当に奮い立ったわけですね」
 GHQは、第一次農地改革法を承認せず、覚書に沿った改革案の成立を求めた。
 〜1950年7月まで 第二次農地改革を実行した。
 農地調整法改正法と自作農創設特別法が公布され、不在地主は最低限の農地を所有し残りを国家に売却した。
 国家は、自作農が誕生した。農地を小作人売却した。 
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 極東委員会は、戦犯国家日本から軍国主義の芽を摘む為に、食糧問題を解決するよりは農地改革を先行させる様に求めた。
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 GHQは、日本に駐屯するアメリカ軍兵士による婦女暴行や傷害事件が増加した為に、日本政府と東京都に対して慰安所を設置する様に命じた。
 日本側は、占領軍の絶対命令に従って、10代から30代の数百人を狩り集めて、数カ所に設けた慰安所アメリカ兵のセックス相手を強要した。
 日本全国にも同様の占領軍兵士相手の慰安所が設けられたが、そこに集められた日本人女性の正確な人数は不明である。
 アメリカ兵は、日本人女性を人間とは見なさず、人間以下のセックス奴隷として扱い、軽蔑する様に「ママさん、ママさん」と卑猥の呼び名で追いかけ回した。
 日本政府によってそうした境遇に追い遣られた日本人女性の中には、精神異常をきたして自殺する者がいたという。
 戦時国際法とは、敗者のみを裁き有罪者を処刑したが、勝者を裁かず無罪として権利行使を承認していた。
 よって、戦勝国による敗戦国に対する強制は合法行為と認められた。
 サムライの「負けて勝つ」という勝負観は、勝敗二者択一しかない国際社会では通用しない愚の骨頂である。
 如何なる勝負においても負けた者には、一切の権利がないというのが大陸の常識である。
 弱肉強食が、世界常識である。  
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 戦争孤児達は、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められたのは大人のせいだとして、逞しく生きる為に不良化して、ヤミ市にたむろして万引きや置き引きをおこなった。
 GHQは、戦争孤児の犯行がエスカレートする事に危機感を抱き、日本政府に対して戦争孤児を一掃するように指示を出した。
 日本政府は、命令に為たがって戦争孤児の「刈り込み」を月に数度、各地で実行した。
 施設に収容された戦争孤児は、すぐに脱走して仲間の元に戻り更に凶暴化した。
 施設によっては、戦争孤児にたいする非人道的虐待が行われていた。
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 2015年8月8日 産経ニュース「【総支局記者コラム】70年前、戦災孤児であふれた京都駅 今は海外観光客であふれる
 現在の京都駅。戦災孤児が寝泊まりした70年前の面影はどこにもない=京都市下京区
 JRと近鉄京都市営地下鉄が乗り入れ、1日の乗降客が40万人近くに達する京都駅。4代目の駅ビルは、平成9年の完成当初こそ景観をめぐって賛否もあったが、今ではすっかり見慣れた光景になった。だが、先の大戦直後、当時、ひのき造りだった京都駅で多くの戦災孤児が寝泊まりしていたことを知る人は少なくなった。戦後70年のこの夏、戦災孤児の記憶を語り継ごうと、京都市内の寺院で営まれた追悼法要に参列した。
 昭和23年、当時の厚生省が行った調査によると、全国の戦災孤児は約12万人。このうち京都府内の戦災孤児は4608人で、原爆で被災した広島県や空襲が相次いだ東京都などに次いで、全国4番目だった。この調査では、両親が亡くなっていても、身寄りがあれば孤児と認めなかったため、実際の孤児は統計以上だったとされる。
 戦災孤児の研究を行っている立命館宇治中学校・高校の本庄豊教諭(60)は、京都に戦災孤児が多いのは、「戦災が比較的少なかったからではないか」と話す。
 京都駅は被災を免れたため、雨露をしのぐことができる屋根もあった。また、駅という性格もあり、毎日人が行き来し、関西一円から孤児が集まったというのだ。東京・上野駅なども、同じような現象が見られたという。
 京都府宇治市の奥出広司さん(76)も、そんな戦災孤児の一人。
 「とにかく食べるものがなくてな。駅の利用客からイモなんかをもらってようやく生き延びていた。明日は死ぬのかと、毎日思っていた」と振り返り、「戦争は絶対にあかんのよ」と訴える。
 20年11月、親類宅から戻った京都駅で、病気がちだった父が倒れてその場で死亡。奥出さんは3カ月後に施設に送られるまで、乗客らから食べ物をもらうなどして、そのまま京都駅で暮らした。駅には、奥出さんと同じような孤児が「山のようにいた」といい、飢えなどで駅で亡くなる子供もいたという。
 戦災孤児8人の遺骨や遺髪が保管されている大善院(京都市下京区)で行われた追悼法要には、奥出さんも出席した。奥出さんが「♪ワッと泣きたい時がある 父さん母さんあいたいよ」と、自らが過ごした施設の寮歌を歌い上げると、涙を流す参列者もいた。
 海外からの観光客らであふれる京都駅に、かつて、戦災孤児がいたことをうかがわせるものはない。が、70年前にそんな生活を送った子供がいたこと、そして、その場所で命を落とした子供もいたことに、思いをめぐらす時間があってもいいのではないか。(京都総局 池田進一)
 ■私のふるさと滋賀
 琵琶湖のほとり、大津市育ち。子供のころに乗ったびわ湖タワーの大観覧車は解体され、今はベトナムで“第二の人生”を送っています。」


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