🌌34}─3・A・②─養老孟司、サルやイノシシが畑を荒らすようになった意外過ぎる理由とは。~No.175No.176No.177 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 江戸時代、江戸の町では町内ごとに犬が放し飼いになっていた。
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 2024年12月12日 YAHOO!JAPANニュース 婦人公論.jp「養老孟司 サルやイノシシが畑を荒らすようになった意外過ぎる理由とは…「一方の秩序が、他方の無秩序を引き起こすということ」
 「『ああすれば、こうなる』ってすぐ答えがわかるようなことは面白くないでしょ。『わからない』からこそ、自分で考える。……それが面白いんだよ」。わからないということに耐えられず、すぐに正解を求めてしまう現代の風潮についてこう述べるのは、解剖学者・養老孟司先生です。今回は、1996年から2007年に『中央公論』に断続的に連載した時評エッセイから22篇を厳選した『わからないので面白い-僕はこんなふうに考えてきた』より、2004年8月のエッセイをお届けします。
 【写真】養老孟司先生
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◆犬と猿
 このところ日本の田舎めぐりをしている。べつに好んで田舎に行くのではない。虫の季節になったが、虫は都会では捕れない。だから田舎に行く。6月は福井と高知と山口に行った。
 福井では、古家の囲炉裏端(いろりばた)で、地元の人たちと話をした。有機農業をやっている人たち、ダイオキシンが出るから焚き火をするなという法律などとんでもないという運動をしている材木屋さん、田園都市を作りたいという森林組合長、その他である。そういえば、町長さんも参加していた。
 そのうち畑にサルが出る、イノシシが出るという話になった。そうしたら、役所を定年になって、いまは有機農業をやっているというオジサンが言い出した。「ここ10年、役所がやらなくなったことがある、あれだな」。
 答えはなにか。野犬狩りである。野犬がいなくなったから、役所は野犬狩りをしない。同様にして、野犬がいなくなったから、サルだのイノシシだのの天下になった。まさに納得。
 野犬というのは、里の近所をウロウロしているもので、そんなものがいたら、私がサルなら人里近くには出ない。なにしろ犬猿の仲、私がかつて飼っていたサルはイヌに尻尾を噛み切られたことがあった。
 田畑にサルやイノシシが出るのは山が荒れたからだ。そういう意見もあった。人里のほうが食料になるものが多い。しかも美味である。だから里に出るという意見もあった。
 でも真相はおそらくイヌ、正確にはイヌの不在であろう。すべてのイヌを紐でつないで、自由には動けなくした。それでいちばん喜んだのは、サルであり、イノシシであり、シカだったらしい。日本にもはやオオカミはいない。
エントロピーの増大
 細川元首相が湯河原で陶芸と畑をやっている。知人にそう聞いた。その知人があるとき細川宅を訪問したら、細川さんが檻に入って畑仕事をしている。なぜ人間が檻に入るのかというと、サルが出るからである。
 それならイヌを飼えばいい。というより、だから人はかつてイヌを飼うようになったのであろう。番犬とはそういう意味である。なにも泥棒の番をするだけがイヌの役目ではなかった。サルだってイノシシだって、農家から見れば泥棒の一種である。それがわからなくなったのが都会人であろう。
 どうすればいいか。イヌを参勤交代させればいい。1年のうち適当な期間は、飼い主ともども田舎に行き、山野を走り回ればいい。それが本来のイヌの姿ではないか。それをこれっきり愛玩動物にして、恬(てん)として恥じないのはだれか。イヌを虐待すると、動物愛護の人たちが怒る。それなら紐で一生つないで飼っているのは、虐待ではないのか。
 わが家のネコは、紐でつないでない。勝手に家を出入りしている。1年前に飼ったネコだが、おかげで当方の手から餌をとるまでに慣れていたタイワンリスが来なくなった。そのくらい、野生動物は捕食者に敏感である。それで当然で、それでなけりゃ生きていけない。
 野犬の問題は、いわゆる環境問題の象徴である。イヌを管理せよと主張した側は、まさかその結果、サルとイノシシとシカが農作物を荒らすようになるとは考えなかったであろう。一方の秩序は、他方の無秩序を引き起こす。これをエントロピーの増大といって、熱力学を学んだ人はだれでも知っているはずである。
◆意識と眠り、秩序と無秩序
 われわれはかならず寝る。寝ないで済ませようと思っても、それは続かない。なぜか。起きている状態とは、意識がある状態である。意識とは秩序正しい活動である。無秩序な意識などというものはない。意識が秩序的活動であるなら、それはどこかに無秩序を生み出しているはずである。イヌを管理すれば、サルが出てくるはずなのである。
 意識という秩序活動が生み出した無秩序は、脳自体に蓄積する。脳に溜(た)まった無秩序を、脳はエネルギーを遣って片付ける。その作業の間、当然のことだが意識はない。それを人々は「眠る」という。眠るのは休んでいるのだ。それが通常の了解であろう。休むというのはエネルギーを遣わない。
 ところが寝ていようが起きていようが、脳はエネルギーを消費するのである。ということは、寝ている時間は「休んでいる」つまり「エネルギーを遣わない」時間ではない、ということである。それは「無秩序を減らして、元の状況に戻す」ということなのである。
 だから覚醒剤の使用は、脳を傷害する。長期に使用すれば、統合失調症に似た状況が出現して、回復が困難な障害を生じる。もちろん眠らないで暮らすことも不可能である。意識があるということは、同時に眠りが存在することなのである。
現代社会の根本的な問題
 都会人の問題は、意識的活動こそがまともな活動だと思い込んでいることである。寝ているのは、ただ休むためだ、と。そうではない。意識が存在することに、眠りは必然として伴っているのである。それが自然の法則である。秩序的な活動は、それだけで存在することはできないのである。
 そこが納得されていないと、意識的活動のみが「正しい」という錯覚が生じる。現代社会の根本的な問題がそれだということは、わかる人にはわかっているはずである。起きている間、つまり「意識がある」間は「自分は絶対に正しい」などと思ってしまう。
 だから車に爆弾を積んで自爆したりする。そういう人は、寝ている間は自分はどう考えているんだと、たまには反省すべきなのである。
 起きている間は、これっきり「正しい」と思っていることでも、寝ている間にどう思っているか、知れたものではない。
 ※本稿は、『わからないので面白い-僕はこんなふうに考えてきた』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
 養老孟司
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