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・ ・{東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
軍国日本は、一滴の石油も一粒の米も購入できなくなり、餓死寸前のフラフラな状態で降伏した。
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絶望的な状況にあっても、明日につながる「希望」があれば、人は「夢」を見ながら歯を食いしばって耐え忍ぶ事ができる。
希望を持たず、夢を見ないと、人は生きて行けない。
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明日への希望を持てず未来に夢を見られなくなった戦争孤児は、駅舎の中で寂しく餓死した。
絶望し寂しく餓死した戦争孤児の哀しみを、誰が引き受けられるのか。
戦争が終わって平和が訪れ、軍部の圧政から解放されたと喜ぶ者には、絶対不可能である。
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希望は、充実した満足の中には存在しない。
絶望の中のみに、純粋な希望はある。
満ち足りた中にあるのは、自己満足的な願望のみである。
希望と願望は、本質的に相反するモノである。
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カルタゴの平和
近衛文麿「いつのまにか日本は、予想もしなかった大戦争にズルズルとはまり込んでしまっていた。いまからふり返ると、これはなにか目に見えなぬ、ある巨大な力に操られていたとしか思えない。それは敗戦革命という名のもとに結集した。共産主義の世界的勢力だったのだろう。日本の軍部・指導層の中にさえもこの革命勢力が浸透し、陰に陽に日本を戦争へと誘導していったとしか思えない」
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インドネシアに戻ったオランダ軍は、植民地支配を回復する為に、親オランダ派現地人や華僑の協力を得て、日本軍によって組織化された独立派を弾圧した。治安当局によって、80万人以上が虐殺されたと言われている。
敗残兵となった一部の日本人将兵は、インドシナの独立に協力するべく捕虜収容上を脱出して、独立軍に合流した。
オランダ軍は、執拗に日本人敗残兵狩りを行い、地元民の情報をもとにして見付けしだい裁判に掛けることなく即座に処刑した。
イギリス軍は、降伏した日本軍兵士を劣悪な環境下の捕虜収容所に押し込め、最低限の食事を与え、無給で奴隷的重労働を科した。人種差別的報復で日本人捕虜数千人が死亡したが、公式記録では事故死もしくは病死として処理された。
戦時国際法は、連合国軍による日本人捕虜への処置は合法としている。
日本軍の連合国軍兵士捕虜に対する虐待は、連合国軍の猛攻に追い詰められ、物資の供給が途絶えた状況下で、日本軍が餓死や病死する中で行われた。
連合国軍の日本人兵士捕虜への虐待は、戦後、大量の物資のある中で行われた。
日本軍は捕虜虐待で裁かれ、多くの日本人兵士が戦犯とされ有罪となって処刑された。
GHQは、国旗「日の丸」は侵略戦争を象徴するシンボルであるとして掲揚する事を禁しした。
そして、好戦的な日本文化を平和的に大改造する為に、サムライに関するもの全てを完全否定し、神道を軍国主義の核心であるとして破壊する様に強要した。
靖国神社や伊勢神宮や明治神宮といった主要神社を破壊するべく、キリスト教会に協力を依頼した。
連合国は、日本をアメリカ化する為に日本を根底から覆すべく全力を上げた。
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スターリンは、火事場泥棒的に、日本領北海道を自国領にするべくソ連軍に進撃を命じた。
ソ連の同盟者である日本人共産主義者は、この事実を知り、同胞の日本人民間人を見殺しにした。
彼等には、ナショナリズムとしての「絆」も「心」も持ってはいなかった。
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昭和天皇は全軍に武器を捨て戦闘を中止するように命じたが、ソ連軍と一部の連合軍は戦闘を継続して降伏した日本軍兵士や一般人を攻撃して殺害していた。
大国は、自国の利益の為なら、平気で国際法を踏みにじっていた。
特に、ソ連の行為は最も酷かった。
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戦争が終結するや、日本人は、明日から如何に食糧を確保して生きて行くか、食う事しか頭になかった。
日本人の最大の関心事は、働いて食べる事のみだった。
どう考えても、「人はパンのみで生きるのではない」と言う真理が理解できなかった。
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敗戦後、日本全国に12万人以上の戦災孤児がいて、都市部に浮浪児として集まっていた。
初期の浮浪者とは、家族を戦争で失った子供達であった。
戦争孤児は、国家からも社会から見捨てられていた。
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軍国日本は、アメリカ軍の無差別縦断爆撃や原爆投下による大量虐殺に怖じ気づいて敗れたのではなく、潜水艦と航空機による海上補給路(シーレーン)が遮断されたからである。
東京・大阪・名古屋や広島・長崎などの都市部、飛行場や軍港や工場などの重要拠点、国内の鉄道・橋・道路などの交通網、その他を爆撃で幾ら破壊し、甚大な被害を与えて戦力は低下させても、気力・精神力そして「志」で最後まで戦おうとする日本人は降伏しなかった。
資源のない島国日本を屈服させる唯一の方法は、海上交通路を遮断する事であった。
資源を豊富に持つ陸続きの大陸国に対しては、地上軍を投入しないと勝てない。
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8月14日 日本政府は、本土に於ける食糧及び医薬品と住宅の不足が深刻な状況にあるとして、海外の「居留民はでき得る限り定着の方針を執る」事を決定した。
外務省は、在外公館宛てに、国内には食糧と住宅の不足が深刻で300万人以上を受け入れる事は不可能であるとの極秘暗号電報を打った。
アメリカやイギリスは、この暗号電報を傍受し解読していた。
日本政府は、ポツダム宣言で軍部を解体しても、国外の日本軍が降伏に反対して反乱を起こす事を恐れた。
日本軍が反乱を起こす前に、民間人約318万9,000人より先に軍人・軍属約310万7,000人を帰還させる事にした。
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8月16日 軍部は、大元帥・昭和天皇の命令に従って軍隊の全面的武装解除という停戦協定を受諾した。
読売報知「一億勇猛心も新たに 食糧増産へ」
8月18日 スターリンは、ヤルタにおけるルーズベルトとの日本分割秘密協定に従い、トルーマンに対して千島列島・北方領土と北海道北部を軍事占領すると申し込んだ。
トルーマンは、日本の分割支配案を拒否し、北海道はアメリカ軍が占領すると通知した。
日本が分割されなかったのは、蒋介石のお陰ではない。それどころか、戦勝国として九州と沖縄の監理を要求していた。
8月18日 ソ連軍は、北海道占領の為に千島列島の最北端にある占守島に上陸した。
日本軍守備隊は少部隊であったがは、侵略して来るソ連軍から在留邦人の命を守る為に、昭和天皇と陸軍中央の武装解除命令を無視してソ連軍の大部隊を攻撃した。
8月20日 南樺太真岡郵便電信局事件。日本人女性9名は、青酸カリで自殺した。
ソ連軍・共産主義兵士は、中国軍兵士同様に、各地で強姦と殺戮と略奪を繰り返していた。
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8月20日 任侠・関東尾津組の尾津喜之助組長は、戦災で焼け出された人々を救済する為に新宿で露店商を集めて闇市「尾津マーケット(新宿マーケット)」を開いた。
軍需産業が禁止され廃業した下請け業者等に呼び掛け、日用品製造を要請し、その品物を買い込み闇市で安値で売った。
戦後復興は闇市から、光は新宿から、の善意の掛け声で始まったのが日本人主体の闇市であった。
任侠が取り仕切る慈善的な闇市は、自然発生的に東京から全国に広がり、餓えた人々を救い、失業者に何かを作って売る場を提供した。
翌46年7月には、全国で総組合員5万9,000人を超した。
テキ屋19.5%。素人露店商79.8%。
医師や看護婦の中には、病人や怪我人を治療する為に無料の診療所を闇市の中で開設した。
尾津組長は、その男っ振りに惚れて、薬代や食料費などの経済的支援を行った。
闇市には、露店組合に加盟しない朝鮮人や台湾人達が流れ込み、軍部が本土決戦用に備蓄していた物資が出回るようになった。
戦地から帰国した復員兵達は愚連隊を組織して、闇市の利権を巡って任侠や朝鮮人達と抗争を繰り広げた。
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8月22日 三船殉難事件。ソ連軍潜水艦は、戦時国際法を無視し、樺太を出港して日本に向かった引揚船三隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)を攻撃した。
引き揚げ者の大半が、婦女子であった。
①・特設砲艦第二新興丸(乗員・引揚者約3,400名)は大破し、犠牲者は死者229名に行方不明者を含めると400名以上であった。
②・海底ケーブル敷設船小笠原丸(乗員・引揚者約700名)は撃沈され、犠牲者は638名であった。
③・貨物船泰東丸(乗員・引揚者約780名)は、戦時国際法に従って白旗を掲げたが砲撃されて沈没し、犠牲者は667名であった。
スターリンは、北海道をソ連領とする為に、北海道東北部への上陸を要求した。
トルーマンは、北海道をソ連領とする事を拒否した。
スターリンは、アメリカ軍との戦争を避ける為に、北海道の領有化を断念した。
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日本のマルクス主義者は、せめて北海道だけでも共産主義化したかった。
彼らには、日本などは眼中になかった。
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サハリンの朝鮮人の多くは、日本人と行動する事を拒否して、自主的にサハリンに残った。
日本政府は主権を制限された為に、日本国籍を失った朝鮮人の引き上げを無理して行わなかった。
日本統治が終わった朝鮮半島では、左右両派の政党が数多く誕生したが、サハリンに残された同胞を見捨てた。
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8月23日 東京の陸軍中央は、占守島守備隊に即時抵抗を中止し、ソ連軍を通過させる様に厳命した。侵攻するソ連軍や進駐して来る中国共産党軍に抵抗するなという命令を、関東軍や朝鮮軍にも発した。
占守島における日ソ両軍現地停戦協定。
ソ連軍は、大敗を喫して、3,000人以上の被害を出した。
全滅を覚悟した日本軍守備隊の奮闘により、北海道はソ連領になる事を免れた。
生き残った日本軍兵士達は、ソ連軍に逆らった戦争犯罪者としてシベリヤに連行され、リンチ的に奴隷的重労働が課せられて幾人かが死亡した。
ソ連軍は、日本人墓地を破壊し、日本人の遺体を粉々に砕いた。
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日本を守る為に戦って戦死した日本軍兵士は、靖国神社の祭神として祀られた。
戦犯として死んだ日本人兵士も、靖国神社に祀られた。
だが。靖国神社は、戦争美化する宗教施設として廃棄する事を求められている。
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ソ連軍は、日本軍の反撃を警戒しつつ北海道に向けて進軍を続けた為に、予想以上の時間を浪費した。
日本人共産主義者は、ソ連軍の進行の遅さに苛立った。
8月28日 択捉島占領。
ソ連軍は、樺太全島を占領した。
ソ連は、北方領土を施政下に置いて実効支配をした。
樺太・千島列島での日本人民間人の死者は、3,500〜3,700人とされるが正確な人数は不明である。
日本人共産主義者にとって重要なのは、他人の命ではなく、自分の信ずる〜イズムを如何なる犠牲を払っても守り貫く事であった。
つまり。全てが自分一人の為であり、社会の為とか他人の為とか家族の為などには価値を見出さず、他人には全く興味がなかった。
8月30日 マッカーサーの日本到着。
8月31日 ウルップ島占領。
9月1日 色丹島・国後島占領。
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9月2日 日本政府と軍部は、降伏文書に調印した。
国際常識による世界史は、この日をもって終戦としている。
国際法は、ソ連軍の日本領への攻撃と日本人民間人虐殺は、日本の侵略戦争に対する合法的自衛行動と認めている。
日本の左翼・左派のマルクス主義者は、国益を考えないだけに、本気で日本の国土を守る為に抗議をしているはどうかは不明である。
9月3日 歯舞諸島占領。
9月5日 全千島列島占領。
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大国は、自国の利益を優先して国際法を踏みにじり、敗戦国や弱小国から奪えるモノを奪っていった。
ソ連は、千島列島ばかりか、江戸時代からの日本の領土であった北方領土を武力で略奪した。
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11月 戦後初の宝くじ。第1回宝籤、1枚10円、1等賞金10万円。
11月18日 戦後初のオール早慶戦。場所は神宮球場。観客は4万5,000人。
神宮球場はアメリカ軍に接収されていた為(名称は「ステート・サイド・パーク」)、進駐軍の協力を得ての実現であった。
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12月9日 マッカーサーは、日本政府にSCAPIN−411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。
これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は翌46年10月に成立した。
マッカーサーは、「農地改革で農村に共産主義が進出する事を防いだ」と自賛した。
東大競技場で、戦後初めての陸上大会が開催された。
日本陸連が復活した。
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