🍙30〗─2─戦争孤児、引き揚げ孤児、混血孤児達は、国家・政府・大人から見捨てられた。~No.196No.197No.198 @ 

戦争孤児をしっていますか?

戦争孤児をしっていますか?

  • 作者:本庄豊
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 日本人は、おぞまし程に、弱者に対して冷淡・薄情である。
 助かりたければ、日本人を信用し信頼してはならない。
 いざとなったら、日本人は弱者を助けはしない。
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 2016年9月号 前衛「空襲体験と戦争孤児が問う日本の戦争
 『駅の子』(戦争孤児)たちの戦争と戦後 本庄豊
 山本宣治(山宣)研究から戦争孤児へ
 ……
 戦争孤児とは
 [京都は戦争孤児の町だった]
 戦争孤児とはどんな存在か。私の中では、親を亡くした孤児たちは、多くが亡くなってしまう。あるいは闇の世界に行ってしまうというイメージがありました。やはり野坂昭如の名作『火垂るの墓』の影響が大きいと思います。素晴らしいジブリのアニメにもなり、反戦を訴える素晴らしい内容ですが、それを見たこどもたちは、戦争孤児が死んでしまうという認識を持ってしまうことが多かったと思います。ところが、現実に孤児の方々からお話を聞くと、けっして、ただ差別され、辱められ、泣いてばかりいたわけではなく、たくましく戦後生きたことがわかりました。まさに戦後史の生き証人として生きた彼らの戦後史を誰かが記録しないと思いました。
 ただ、彼らは、孤児であることを語ることはほとんどなかったそうです。ところが、そうした戦争孤児の方々が、いま安倍内閣の登場でしゃべりはじめています。この機会に、私が遭遇したのは嬉しく、ありがたいことです。そこには、孤児のみなさんの危機感もあるのだと思います。
 『前衛』8月号で浅井春夫さんが紹介されていましたが(「沖縄戦と戦争孤児が問う『戦争』」)、戦争孤児は、1948年の厚生省の『全国孤児一斉調査』(沖縄を除く)で、約12万3,500人とされていますが、実際には本当の人数ははっきりせず、その3倍とも5倍とも言われています。おそらくもっとたくさんの具体的な証言を集めないとわからないと思います。
 そしれ同調査で、戦争孤児の多い都府県は、1位が広島の5,975人、2位が兵庫の5,970人、3位が東京の5,330人、4位に京都の4,608人で、京都が4位となっていました。京都は空襲も少なかったというイメージが強いですが、私も、孤児という問題はスッポリ抜けていました(ただ京都でも空襲があり、孤児もいました)。おそらく戦災の少なかった京都は駅舎や街が残り、夜露をしのぎ、食べ物を確保するうえでとてもいい場所だったからでしょう。東京や九州からも孤児が集まってきた。4,600人を超える孤児が、多くは駅に集まった──もっと多かったと思います──京都は戦争孤児の町だった。
 [駅では『生きるための戦争』が続いていた]
 私は戦争孤児のことを『駅の子』という言葉を使って表現し、新日本出版社の本『戦争孤児』にも『「駅の子」たちの思い』という副題をつけましたが、この『駅の子』という言葉を、この間、二人の方から聞いたのがきっかけでした。一人は京都駅の周辺にお住まいだった靴屋さんからです。彼は、『駅の子がいたよ』と言っていました。もう一人は先に紹介した積慶園という孤児院が、もともと北野天満宮の近くにあったのですが、その近所の八百屋のおばさんが『駅の子』と呼んでいました。一般的に使われていたのかどうかはわからないのですが、『駅の子』という言葉を使うことで、当時の戦争孤児について容易にイメージをもってもらえればいいなと思って、この言葉を使うようにしています。
 駅は人とモノが集まる場所です。食料やお金になる仕事があった。しかし、ここで亡くなる子どもたちも多かったのです。統計のうえでも、1945年11月までに、5大都市(東京・大阪・名古屋・京都・神戸)で750人の餓死者が報告されていますが、そのなかには子どもも多く含まれていました。戦後の孤児たちは弱肉強食の世界に放り出され、弱いものから先に亡くなっていったのです。駅では『生きるための戦争』が続いていたのです。
 ……
 [孤児たちの戦後]
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 孤児院の大きな役割
 [伏見寮のこと]
 戦争孤児の支援では、孤児院が大きな役割をはたしたわけですが、京都の孤児院では、伏見寮とい、のちに京都府の伏見児童相談所となるところの存在が大きかったようです。ここは、いわば一時保護所の役割をはたしていたようです、まず孤児たちを伏見寮に入れ、いまでいう『保護観察』をする。そのなかでこの子はこの孤児院に、この子はある施設に入れようということを決めていくわけです。
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 [障害をもった子どもたちの孤児院]
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 [孤児院はどのようにつくられたのか]
 なぜ、京都で、このような対応がなされたのでしょうか。空襲があり県の庁舎などが被害に遭ったところ、県庁が機能停止になるところも少なくありませんでした。比較的被害が少なかった京都府の場合は、8月15日の直後から、すぐに京都府庁が前面に立ち、もちろん食料難や資金難はありましたが、大きな役割をはたしていったのです。先に紹介した積慶園が京都府上京区に開園するが、敗戦の翌月の9月です。いまだアメリカ軍が来ることもない時期に、そういうことをやっていたのです。
 じつは戦争孤児は空襲が始まったときから増えはじめています。さらに言えば、日露戦争日清戦争でも、戦争孤児はいたわけです。孤児院は当時からあり、奥出さんの平安養育院も日露戦争の後にできた孤児院でした。つまり東京大空襲の後、大阪空襲の後にも孤児は生まれていました。孤児たちは駅で暮らす、あるいは親戚にあずけられたりして暮らしていて、表面化しなかっただけです。それが8月15日を迎え、いっせいに街頭に出てきて、可視化されることになりました。ところが日本政府は、そんなことは自己責任だといの認識で、『親戚で面倒みろ』という態度。現在の自民党改憲案の『老人は家族で面倒みろ』も、同じ線上ですね。
 一方で、アメリカの占領軍は、マッカーサーをはじめ、孤児の問題は日本の治安を悪化させると考えたようで、孤児対策について日本政府にさまざまな指示をだしたようです。冒頭でふれた厚生省の調査も、米軍の強い指示のなかで日本政府が渋々おこなったもので、日本政府は後手後手だったと思います。
 だから、聞き取り調査をしていると、『アメリカ軍にお世話になった』という人がけっこう多い。『赤い羽根共同募金』は孤児救援なども目的にして始まったわけですが、いちばん募金してくれたのがアメリカ軍、アメリカの兵隊たちでした。孤児がおこなっていた靴磨きのお客もアメリカの兵隊やアメリカ人が多かったと言います。私の勤務校のある宇治市大久保には、自動車教習所があり、そこは米軍キャンプがあった場所なのですが、クリスマスなどには、そこからトラックで孤児たちを迎えに来て、抱えきれないくらいプレゼントをもらって帰ってくる。聞き取りをはじめた当初、アメリカ軍に対して悪いイメージがないのが変だなと思ったのですが、そういう背景があったのです。
 混血孤児・引き揚げ孤児・残留孤児
 [エリザベス・サンダース・ホームのこと]
 私は、戦争孤児の問題に取り組むなかで、京都の孤児とともに、神奈川県大磯町のエリザベス・サンダース・ホームに何度も調査に行かせていただきました。エリザベス・サンダース・ホームには、写真や資料も残されていました。戦争孤児にはさまざまな姿がありますが、混血(国際)孤児の問題は、戦後のアメリカ占領軍と日本女性との間の子どもの問題で、戦後史そのものだと思います。年齢も現在60代です。
 エリザベス・サンダース・ホームの創設者の澤田美喜さんは三菱財閥のお嬢さんです。
 ……
 [取り上げられてこなかった引き揚げ孤児]
 もう一つ、私が、福岡と舞鶴で調査をした引き揚げ孤児の問題があります。引揚げは博多港が一番多かったのです。調査していくと、じつは中国の奉天などにキリスト教系などの孤児院がたくさんあったこともわかってきました。奉天日露戦争の激戦地で、また日中戦争においても中国人の孤児が生まれていたためです。日本が戦争に負けると、奉天には日本人の孤児が激増します。敗戦後1年ほど、奉天の孤児院には、日本人の孤児が収容されることになりました。そして、シスターたちが孤児5人を一組として、ころ問う葫芦(コロ)島から博多港に連れて帰ってきたのです。しかし、連れて帰ってきたものの、親はすで亡くなっていて、親戚もあずかってくれるわけではありません。結局、その孤児たちは、例えばコルベ神父で有名な長崎の聖母の騎士修道院などであずかってもらい、その後も各地を転々とすることを余儀なくされる。そういう孤児たちの体験も聞かせてもらいました。
 中国残留日本人孤児の問題は、これまでいろいろな形で取り上げられることはあったと思います。これに対し、引き揚げ孤児の問題は必ずしも光が当たってはきませんでした。残留孤児の方々に対しての支援は、日本政府は十分にやってきたとは言えませんが、それでも支援基金をつくったり、日本語教育をしたり、職業訓練をしたりしてきました。ところが引き揚げてきた孤児の方に対して、基本的に、『自己責任で生きていけ』という態度で、そもそもの実態すらまともに調べられていないのでのです。それは政府だけではなく、民間レベルでも、長野に開館した満蒙開拓平和記念館でも、引き揚げ孤児のことはあまりふれられていません。博多の資料館にも行きましたが、そのことについての展示はいまひとつ少ないのです。
 一方、引き揚げの過程では、さまざまな悲劇がありました。たとえばソ連兵によって強姦され、妊娠させられた女の人たちが博多に戻ってきたとき、堕胎させられた病院・施設の跡もあります。船のなかで出産してしまったり、思い余って自殺をするということもあったようです。引き揚げは敗戦の翌年ごろからはじまります。だから、出産してしまったケースも少なくない、ロシア人との間の子どもが日本社会に入ってくるという問題で、引き揚げとともに混血孤児も生じていた。しかし、そのことは、ほとんど私たちは戦後史学習のなかで取り上げてこなかったのです。
 戦争の現実を問いかける
 [抜け落ちていた孤児の体験]
 戦後の歴史を授業でとりあげるとき、だいたい憲法制定をやり、財閥解体、日本の民主化と、レッドパージあるいは自衛隊の創設などの『逆コース』を説明する。その後、高度経済成長と安保改定反対運動などなどと、こういう流れですすめるのです。私自身もそうですが、しかし、そこでは、戦争の体験をした人たち、とくに戦争孤児たちがどういうふうに戦後を生きていったのかは、スポッと抜けてしまいます。
 私の世代は、戦争孤児というものの雰囲気を味わいながら生きてきた世代です。『あしたのジョー』や『タイガーマスク』など、子どもころ流行したマンガには、孤児が登場し(戦争との関係は明示されていない)、孤児院は案外身近な存在でもありました。そういう時代の雰囲気はあったのですが、孤児は、ある意味では孤児院に隠され、みんなから見えない存在になっていったのです。私自身も、いつのまにか頭のなかから抜け落ちてしまっていました。
 ……
 奥出さんは、韓国や中国は大嫌いだそうで、『あんな国おかしいわ』と言っています。しかし、こと安保法制は絶対に許せないと言う。とりわけ奥田さんが許せなかったのは、安倍首相が、戦争を子どものケンカで例えたことです。『何もこの人は戦争を知らないんだな』とすごく起こっていました。
 ……
 [戦争孤児問題を通して考えたいこと]
 全国で空襲があったわけですから、日本の主要都市に戦争孤児がいたわけです。もちろん東京に来た、京都に来た子も多かったでしょうが、その地域に住んだ子もいたと思います。その体験を、いま語らなければ語る機会がないという時期に来ています。
 空襲被害だけではなく、戦争孤児を取り上げることで、日本の加害と被害の両面が見えてくることがあるんではないでしょうか。例えば特高特別高等警察)による社会運動の弾圧にみられるように、けっして日本全体が被害者であったわけではなく、日本の国内の中には、支配・被支配の構造があったわけです。戦争孤児の問題も、『被害と加害』と二分法で表現できない、戦争の現実を問いかけているのです。とくに引き揚げ孤児・残留孤児の問題は、とりわけ中国に対する侵略・植民地支配と中国人に対する加害の問題とセットにして考えなければいけないのですから。
 ……
 じつは、十数年前に、ブラジルに行かせていただき、教科書問題について講演したことがありました。そのときに、ブラジル移民の方から日本の教科書にブラジル移民問題が書いていないと言われました。帰国後、教科書会社に要請文を送り、マスコミの方にも資料を添えて渡しました。私たちが伝えていかなければならない、戦争体験は、ほんとうにたくさんあるのです。
 そのなかでも、この孤児の問題は、『日本軍慰安婦』問題や南京事件と違って、反対勢力も攻撃しにくい問題です。しかし、戦争の本質をよく突く教材でもあります。もちろん『日本軍慰安婦』問題や南京事件での授業実践も大事です。同時に、みんなができる実践を広げていくことが、結果的に日本の平和意識や平和認識を広げることにつながるということを考えたとき、教材として戦争孤児の授業は大事だと思います。……」
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 昔の日本人は、ドス黒い心「心の闇」に恐怖し耐え難い苦しから救われたいが為に、日本神道の「穢れ」や日本仏教の「慈悲」に救いを求めた。
 儒教の「徳目」やキリスト教の「隣人愛信仰」が日本人に信じられず日本に根付かなかったのは、日本人が抱いていた自分の「心の闇」を癒やし救済するだけの力・霊験が不足していたからである。
 日本人は、日本社会が「心の闇」で発狂せず正常に保たれる為に神経を使っている。
 日本人が細かい事まで神経質にこだわるのはその為である。
 日本人は自分ではどうにも抑えられない「心の闇」の衝動を鎮める為に、生まれながらにして霊験あるいは陰徳を持つ存在を祭り上げた。 
 それが、日本天皇である。
 自分の「心の闇」を日本天皇の祈りで鎮めて貰う為に、日本天皇の陰徳は絶対不可侵の神聖と定め、その皇統を他の人間に穢さない為に万世一系の皇室として別格とした。
 日本天皇は、人であって人でないという祭祀を司る「現人神」信仰が生まれた。
 日本天皇が、政治から切り離され、如何なる哲学・思想・主義さらには宗教とも関わりを持たないのはこの為である。
 マルクス主義社会主義共産主義が受け入れないのは、日本人が求めるのは「心の闇」を鎮める神懸かり的「儀式」であって、屁理屈的御託を並べる哲学・思想・主義や宗教ではなくなかったからである。
 日本天皇の御稜威・大御心からの詔・詔勅は、日本人の「心の闇」を鎮める為に発せられる。
 昔の日本人は、寝ても覚めても底無しの「心の闇」に恐怖しながら生き、発狂しそうな心の苦しみを鎮める為に日本天皇の陰徳に縋り付いていた。
 だから、日本人は自分の「心の闇」に打ち勝てない弱さに声を殺して泣くしかなかった。
 人は生まれながらにして、完全な悪人はいないのと同様に完全な善人もいない。
 全ての人に深い浅いの違いはあるにしろ「心の闇」が存在する。
 「教育勅語」に基ずく修身教育、皇国史観国家神道は、日本人が持つ「心の闇」の自由を縛りつけ封じ込める為に、強制的に押し付けたものであった。
 日本人の「心の闇」は、中国人・朝鮮人や欧米人のように強い個性と他者を押しのけようという積極的攻撃的前向きではなく、個性が弱く消極的防衛的内向きのために似た者同士で固まって集団をつくる。
 日本人を解き明かすカギは、「自然災害多発地帯日本列島に生きる」である。
 自然災害多発地帯日本列島に生きる上で、哲学・思想・主義そして宗教は無力であり無意味であった。
 自然災害多発地帯日本列島に適していたのは、日本神道、日本仏教そして日本天皇であった。
 「心の闇」から生まれたのが、祖先神・氏神の人神崇拝、言霊信仰、怨霊・御霊信仰など日本独自の宗教観である。
 自然災害多発地帯日本列島で生まれた宗教観・死生観は世界に通用しない。
 日本天皇は、埋める事も消し去る事もできない日本人が秘めている「心の闇」を鎮め宥め癒やす為に、来る日も来る日も、一日と欠かさず、一年中祈りを捧げている。
 それができるのは、神代から命・血・心・志・気概を受け継ぐ現皇室のみである。
 日本人の「心の闇」を鎮める日本天皇に求めらたのは、個人として私人としての私利私欲を捨て去り、無私無欲に徹する事であった。
 利他であって利己ではない。
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 人間は、普段から正論や常識を真面目に述べ、幾ら屁理屈や御託を並べようとも、逃れようのない窮地に立たされた時にその人間の本性が分かる。
 冷たく薄情な日本であるから、殊更に「絆」や「繋がり」の大切さを声高に叫ぶが、それは建前であって本音ではなかった。
 戦争孤児達は、国家はもとより大人達から見捨てられて衰弱死した。
 戦争を始めるのは大人達で、一番被害を受けるのは子供達であった。
 戦後日本の大人達は、戦争孤児達の惨状を新聞報道で知りながら見捨てた。
 左翼・左派の論者が激しく非難して告発する通り、日本人は弱者に対して冷たく薄情で、建前では真っ当な事を述べても本音では弱者を突き放していた。
 左翼・左派の論者が批判する通り、日本人の本性に温かい情は存在しない。
 日本人が自慢する程の助け合いの精神や庇い合う気持がほんの欠片でもあったら、戦争孤児の餓死、悲劇を通り越した悲惨は起きなかった。
 欺瞞を押し隠して善人を振る舞うという日本人の化けの皮は、とうの昔に剥がされている。
 左翼・左派の論者がハッキリと指摘する通り、日本人如きは自慢づるほど優れてはいないし、誇るほどの特別な存在ではない。
 日本人は、目の前で飢えている戦争孤児に食べ物を分け与える事もせず、大量に餓死していくのを毎日見ながら放置したという、歴史的事実は消えない。
 日本人は、「惻隠の情を持ち心優しい」とは真っ赤な嘘である。
 何故なら、日本人は、自分を大事にする為に他人を見殺しにする百姓や町人などの庶民の子孫であって、体面・志・心・気概を命より優先する自己犠牲と滅私奉公のサムライ・武士の末裔ではいからである。
 庶民出身の日本人がほざく、武士道とは何時剥がれるか分からない「メッキ」に過ぎない。
 日本人が、サムライ・武士の子孫というのは悪い冗談である。
 右翼・右派の日本人を美化した主張は、冷血で非情という陰険・陰湿な日本人の恐ろしい実像を誤魔化す戯れ言に過ぎない。
 日本人が好きな「性善説」は、日本人の本性「人は生まれながにして悪」を覆い隠す為に存在している。
 戦後教育は、戦争孤児や引き揚げ孤児そして混血孤児の悲惨な実像を、侵略戦争を行った軍国主義者に積極的に加担した犯罪者の家族として切り捨てた。
 日本人とは、戦争孤児。引き揚げ孤児・混血孤児などの弱者を歴史の事実から完全抹消するほどの、身の毛がよだつほどの冷たく薄情な人間である。
 所詮、日本人は御身大事な情なき人間である。
 戦前の、第1回南京惨殺事件。漢口暴動・暴行事件。済南大虐殺事件。通州大虐殺事件。満州ピクニック事件。その他。
 数千人が嫌がらせや暴行を受け、数百人が強姦され猟奇的方法で惨殺された。
 戦後の、ロシア人兵士による日本人難民(女性・子供)に対する強姦及び大虐殺事件。中国人や朝鮮人による日本人難民(女性・子供)に対する強姦及び大虐殺事件。
 戦後はおろか戦前に、日本人の女性や子供がロシア人・中国人・朝鮮人らから受けた陰惨な事件を上げれば切りがない。
 特に戦前に日本人が虐殺された事実は、現代日本の歴史から抹消されている。
 日本人は、同胞である日本人に対して僅かな情も見せる事なく冷血に切り捨てる。
 日本人ほど、人間の情がない恐ろしい人間は存在しない。
 左翼・左派の論客が告発する「犯罪者・日本人像」は正しい。



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