🌌34}─3・E・②─人食いヒグマの襲撃。三毛別事件と熊嵐。~No.175No.176No.177 

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 2024年8月22日 朝日新聞デジタル連載ヒグマと暮らす記事「ヒグマ襲撃、101年前に死んだはずの男 子孫に残された証言テープ
 有料記事ヒグマと暮らす
 佐々木洋輔 
 ヒグマの剝製(はくせい)と村田家らを襲ったヒグマの毛皮=2024年8月6日、沼田町ふるさと資料館分館、佐々木洋輔撮影
 北海道上富良野町に住む村田孝さん(85)の自宅に2年前、見知らぬ男性が訪ねてきた。
 団子鼻で丸い頰。少し目尻が下がった柔和な表情は、父の與四郎(よしろう)に似ていた。
 村田一族は郷土史に残る事件の被害者だ。
 石狩沼田幌新事件。
 101年前の1923(大正12)年8月22日未明、北海道沼田町の幌新(ほろしん)地区で開拓民らがヒグマに襲われ、4人が死亡し、4人が重傷を負った。被害者の多さから、三毛別事件(苫前町、死者7人)、札幌丘珠事件(死者3人)とともに「三大ヒグマ事件」と呼ばれる。
 孝さんの父、與四郎さんら村田家の4人も巻き込まれた。
 ヒグマ襲撃に一族4人が死傷
 沼田町史によると、その日、開墾間もない沼田町では夏祭りが開かれ、開拓民らでにぎわっていた。芝居などを楽しんだ村田家は帰路、沢付近でヒグマに襲われた。
 村田幸次郎さん(14)は撲殺されて食べられ、兄の與四郎さん(15)は重傷を負った。
 パニックになった一行は近くの民家に逃げ込むが、ヒグマは家屋にも襲来。父三太郎さん(58)が、スコップで立ち向かうが倒されて重傷。母うめさん(55)は、ヒグマにくわえられてやぶの中に連れて行かれ、食べられた。
 【連載下】ヒグマに殺されたと記録、生きていた男 町をたどると獣の脅威いまも
 ヒグマは翌日以降、追跡する…
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 2024年12月9日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「胎児を含めた8人が喰い殺された」最恐ヒグマ「三毛別事件」…「稀代の凶悪熊」を討ち取った伝説のハンター「山本兵吉」の知られざる事実
 山本隆巳氏が所蔵する兵吉の肖像
 この12月に事件発生から109年目を迎える「三毛別事件」。その被害を食い止めたハンターの知られざる足跡を『神々の復讐』(講談社刊)の著者中山茂大氏が追った。
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 胎児を含めた8人が喰い殺された
 日本史上最悪の人喰い熊事件として知られる「苫前三毛別事件」。大正四年十二月九日に発生し、二日間にわたって七名(胎児を含めると八名)が犠牲となった、前代未聞の獣害事件である。
 加害熊は「袈裟懸け」と呼ばれる、特徴的な毛並みを持った金毛熊で、頭部が異様に大きかったと伝えられる。この加害熊が、事件発生以前に雨龍方面で農婦や少年を喰い殺していた可能性について拙著『神々の復讐』(講談社刊)で述べたが、それはともかく、この稀代の凶悪熊も、天塩地方で名の知られた熊撃ち猟師、山本兵吉によって見事に討ち取られたことは、よく知られている。しかし兵吉自身の素性については、これまでほとんど語られることがなかった。
 今回、筆者は兵吉の直孫にあたる山本隆巳氏を訪ね、原戸籍などの関係資料を閲覧させていただいた。
 そこには兵吉の知られざる来歴が記されていた。
 300頭のヒグマを斃した
 まずは文献に残る山本兵吉に関する記録を見てみよう。
 三毛別事件を綿密に調査した木村盛武は、『獣害史上最大の惨劇 苫前羆事件』(苫前町郷土資料館)の中で、兵吉について次のように記している。
 「先陣のなかに、鬼鹿村オンネの沢の住人で鉄砲撃ちでは天塩国にこの人ありとうわさされた有名な老マタギ「宗谷のアンチャン」こと山本兵吉(五十七歳)がいた。彼は三百頭ものヒグマをものにし、エゾライチョウエゾリスなども実弾で撃ち落とすほどの達人で、サハリン(旧樺太)にいた若い頃サバサキでヒグマを刺し殺したので、「宗谷のサバサキの兄」とも呼ばれていた。いつも軍帽を離さず、日露戦争の戦利品と称する銃を駆使して山野をくまなく歩き回った」
 次は『苫前町史』に記されている兵吉の記述である。
 「ところで天塩(国)にこの人ありとマタギ(狩人)仲間でその名も高い山本兵吉老(六五歳)は、借金のかたに鉄砲を入質し、猟を休んでいたが、九日の事件を耳にして口惜しがり、十日夜、苦面して鉄砲を手元にした彼は、鬼鹿村オンネの沢の自宅を発ち、六線沢に向かった」(『苫前町史』)
 戸川幸雄の小説『羆風』にも、上記とほぼ同じ内容の記述がある。兵吉については、「彼は腕も度胸もあって、こんなときにはなくてはならぬ存在だが、酒好きがきずで、この時は鉄砲を質に入れて飲んでしまって勢子の方に回っていた」と記している。
 彼の酒癖の悪さについては吉村昭の『羆嵐』にもある通りだが、その一方で面倒見がよく、優しい人物であったと伝えられる。
 東北の出身
 山本兵吉の「改製原戸籍」によれば、兵吉の出生は安政五年(一八五八年)十一月二十一日。事件当時は五十八歳であった。父「卯之吉」、母「ムメ」の長男として生まれ、三人の弟(兵作、慶蔵、泰蔵)と二人の妹(ツナ、ミサ)の六人兄妹だった。卯之吉については明治二十二年十二月に死去したこと以外に、まったく記録がない。しかし筆者の手元に興味深い新聞記事がある。
 「留萌郡鬼鹿村の吉田幸次郎氏は、村の書記を勤めていたが、神経麻痺で腰が抜け、立ち居も自由にならない重症となり、親類縁故もないので、万事懇意にする同村、山本宇之吉の家で世話を受けていたが、同地慈善家の住吉為右衛門ら六,七名の諸氏が慈善金を募集して三,四十円も集まった(後略)」(『北海道毎日新聞』明治二十一年十二月十四日 抄訳)
 記事にある山本宇之吉は、兵吉の父、卯之吉で間違いないだろう。世話好きな好人物であったことが伺える。母ムメについては山形県南村山郡の出身で、昭和四年に函館市谷地頭で死去している。享年八十九歳だった。彼女の「死亡届出人」として「同居者
 岩崎仁作」の名前が記載されている。この人物の近縁者が、「三毛別事件」の冒頭に登場する「岩崎金蔵」ではないかと思われるが、これについては後に触れる。
 兵吉の本籍は「北海道留萌郡鬼鹿村五十二番地」。出生地については「原戸籍により出生事項を知ることあたわざるにつき、その記載省略」となっている。戸籍法の制定が明治四年なので、それ以前のことは「わからない」ということだが、当時の世相を考えると、母ムメが山形県南村山郡の出身ならば、父の卯之助も同郷と考えるのが自然である。とすれば兵吉も山形県で生まれた可能性が高いのではないか。東北、北陸地方は、江戸時代から北前船を通してつながりが深かったから、北海道への移住は自然な流れと言える。
 中編記事『「三毛別事件」史上最恐のヒグマを討ち取った「伝説のハンター」がいた!「酒癖が悪いが…」「カネへの執着はない」…その「意外な素顔」』へ続く。
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 12月9日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「三毛別事件」史上最恐のヒグマを討ち取った「伝説のハンター」がいた!「酒癖が悪いが…」「カネへの執着はない」…その「意外な素顔」
 中山 茂大ノンフィクション作家
 この12月に事件発生から109年目を迎える「三毛別事件」。凶悪熊を討ち取り、その被害を食い止めたハンターの知られざる足跡を『神々の復讐』(講談社刊)の著者中山茂大氏が追った。
 前編記事『「胎児を含めた8人が喰い殺された」最恐ヒグマ「三毛別事件」…「稀代の凶悪熊」を討ち取った伝説のハンター「山本兵吉」の知られざる事実』より続く。
 地元の名家に「わらじを脱ぐ」
 小平町会議員の瀧川司氏によれば、兵吉の本籍「鬼鹿村五十二番地」には、かつて「住吉」という人が経営する旅館があったという。
 「かつてニシン漁が盛んだったころは、道南から多くの「ヤン衆」(ニシン漁目当てに出稼ぎにくる漁師)が鬼鹿にやって来た。住吉は旅館業など、手広く商売をする地元の名家だった。おそらく兵吉一家も「ヤン衆」とともに、ニシン漁に沸く鬼鹿村を目指したのだろう。そして住吉家に「わらじを脱いだ」のではないか」(瀧川氏)
 「住吉」とは、前編の新聞記事にある慈善家「住吉為右衛門」のことだろう。「わらじを脱ぐ」とは本来「旅を終える」意味だが、北海道では特に「開拓地に入植する」ことを意味する。上記新聞記事の通り、卯之吉は明治二十一年には鬼鹿村に居住し、すでに長く暮らしていたと思われる。おそらく卯之吉が明治の早い時期に山形県南村山郡から北海道を目指し、ニシン漁で活況を呈する鬼鹿村に「わらじを脱いだ」のではないだろうか。
 戸籍を辿っていくと、明治三十一年四月二十一日に「北海道留萌郡鬼鹿村五十二番地」から、「高島郡稲穂町十七番地」へ転住。さらに明治三十二年六月三日に、再び「北海道留萌郡鬼鹿村五十二番地」へ再転入している。「高島郡稲穂町」とは現在の小樽市稲穂で、JR小樽駅前の一等地である。わずか一年ほどの転住に、どのような背景があったのかはわからない。
 サバサキ包丁でヒグマを殺す
 明治四十三年七月一日、兵吉は谷下ふよと入籍した。谷下ふよは石川県能美郡中海村の出身で、明治六年六月二十六日生まれ。兵吉との婚姻当時は四十二歳で、長女しげ(当時十五歳)、次女ふじ(同三歳)、長男藤作(同一歳)の三人の連れ子があった。
 明治四十四年七月に、兵吉との間に二男、徳太郎を生んだが、大正四年五月五日、鬼鹿村字オンネ沢番外地で死去した。享年四十七歳だった(初山別にある山本家の墓誌には「俗名フユ 行年二十五才」とあり「大正三年五月五日」に死去したことになっている。しかしそれだと長女しげを十歳時に生んだことになり、辻褄が合わない)。戸籍には兵吉が再婚した記録はない。しかし鬼鹿市街地には弟、兵作一家が暮らしていたので、母ムメが同居して子供たちの面倒をみていたのかもしれない。
 山本家の墓。墓誌には兵吉の名がある
 ここまで兵吉の来歴を見ても、熊撃ち猟師に関係する記述は見当たらない。彼はどこで鉄砲の技量を身につけたのだろうか。
 木村によれば、兵吉は若い頃、南樺太(サハリン)に渡っていたという。南樺太は、もともとアイヌ、オロッコなどの先住民や、日本人、ロシア人が居住する雑居地で、明治八年の「千島樺太交換条約」によりロシア領となって以降も、日本人の漁業権が認められていた。兵吉が樺太に渡ることも難しくはなかっただろう。
 「サバサキでヒグマを刺し殺した」とあるが、「サバサキ」とは文字通り鯖をさばくのに使う鋭利な包丁である。漁夫として樺太に渡り、そこで鉄砲の技術を学んだのかもしれない。というのは、鬼鹿村に戻った兵吉は、明確に猟師の道を選んでおり、それは、妻ふよに関する記載にある「オンネの沢」つまり鬼鹿市街地から二キロも内陸の「田代集落」に居住していることが証明している。
 以下の新聞記事は、その示唆を与えてくれるので、少し長いが抄訳してみよう。
 「札幌県下天塩国留萌郡鬼鹿村は鰊漁場にして、毎年その季節には松前郡福島村辺より出稼ぎし、六月末ころはみな帰村し、跡に残って越年するのはわずか二三十戸に過ぎない僻村だが、(中略)一夜、同村字田崎沢口の菓子渡世某方で、十時ごろなにやら突然、仏間の背後を押破る音がしたので、その家の主人は定めて馬の畑に入り来たのだろうから追い出せと職人某に命じたので、職人は直ぐさま縄を用意し外に出ると、なんぞはからん馬と思ったのは一頭の大熊で、それと見るやいなや矢庭にその職人を引き捕え肩に引担いで、どこともなく逃去った。この時職人は必死に助けを呼んだが起き出る者もなく、そのまま熊の餌食となったのは、たいそう憐れなことであった。(中略)翌朝、早速猟夫人足とも十人余りを頼み、そそくさと分けて探したところ、彼の熊は職人某の死体を半身土中に掘り埋め、余りの半身をメリメリ喰らっているのを認めたので、一同砲先を揃へて打放ちたるその弾、あやまたず、いずれもみな的中し、さすがの大熊ももろく打ち倒したので、衆人打ち集まり、熊の腹を割いてみると、かねて田沢奥(※「田代沢奥」のことだろう)に炭焼を渡世とする老父があったが、この老父も喰われたと見え、その腹中に衣類の細片になったもの、その他、結髪をシナ(木皮)で結んだままのもの等あったので、初めて右老父も害されたことを知った」(『函館新聞』明治十八年十月二日)
 金に固執しないヒグマ猟師
 この事件は、「和島屋定吉羆騒動」として地元で長く語り継がれ、現場近くの竹園寺に今も碑が建っている。別の資料では、「和島屋は急いで子供を連れ、市街地の住吉(住吉旅館のことか)の家に転がり込み救いを求めた」(『小平百話 記憶の中の物語』鈴木トミエ 平成十二年)とあり、ここでも住吉が出てくる。
 それはともかく上記記事から得られる事実がいくつかある。ひとつは、当時の鬼鹿村が、ニシン漁期以外は寒村にすぎなかったこと。そして「田代沢奥」、つまり「オンネの沢」で人喰い熊事件が起きたことである。
 前出の卯之吉についての新聞記事は、発行日が「明治二十一年十二月十四日」なので、山本家はすでに鬼鹿村に越年、つまり定住していた。従って「和島屋定吉羆騒動」を間近で目撃した可能性が高い。また田代集落では、明治二十四年と三十四年にも人喰い熊事件が起きている。そのような山奥の、人喰い熊が出没するような集落に、わざわざ移り住んだのは、兵吉が猟師として身を立てることを決意していたからに違いない。
 「あの当時「漁師」ではなく「猟師」をやるのは「金はいらない」と言っているようなもの。よほどの変わり者だったのではないか」(前出、瀧川氏)
 樺太という辺境を目指した兵吉は、ここでも儲かる「ヤン衆」を尻目に山を目指した。みなとは違う道をあえて進む「反骨精神」のようなものを感じずにはいられない。三毛別事件後も、兵吉は「鬼鹿村字オンネ沢番外地」に居住していたと思われる。上述の通り、「オンネの沢」が人喰い熊事件が続発する危険地帯であることは別稿で述べたが、ヒグマのエサ場となる条件を兼ね備えた地域でもあり、熊撃ち猟師にとっては格好の狩り場であった。また後に述べるように、六線沢集落にも、山を越えて半日でたどり着ける距離であった。
 なおネット情報に、「三毛別事件」の後、兵吉が六線沢集落に移住したとの記述があるが、戸籍上では確認できなかった。
 酒癖の悪さで疎まれる
 小説『羆嵐』の結びでは、山本兵吉こと山岡銀四郎が、太平洋戦争末期の頃に脳溢血で倒れ半身不随となり、弟夫婦に預けられていた息子が戻って妻帯したとある。しかし原戸籍によれば、兵吉は昭和十六年八月、つまり開戦前に「苫前郡初山別村字初山別原野七線番外地」に転出している。明治三十二年の転入から数えれば、四十二年間、鬼鹿村に居住したことになるが、不思議なことに兵吉についての地元古老の記憶や回顧録はまったく残っていない。
 ニシン漁が主産業であったためにマタギの話題は登りにくかったのか、瀧川氏の言うように「よほどの変わり者」だったためか、あるいは市街地から離れた「オンネの沢」に引き移ったためかもしれない。
 いずれにしても、彼の酒癖の悪さが、良くも悪くも彼の人生に影響を与えたように筆者には思える。「ヤン衆」に疎まれ、その結果、猟師の道を選び、また同じ理由で、鬼鹿市街地に住めなくなって「オンネの沢」に転居したのではないだろうか。
 初山別に転住したことについては、兵吉の次女ふじが初山別に嫁いでいたこと、二男徳太郎が一時期、初山別の夫婦に養子に出されていたことなどから、土地勘があったものと思われる。初山別では、長男藤作と同居した。藤作は海岸から数キロも離れた「原野七線番外地」、後の千代田地区で農業を営んでいたといい、ここでもあえて海から離れた場所に住居を定めている。ほどなく徳太郎も移り住んで「山本鉄工所」を開業した。
 二人の息子と数多くの孫に囲まれた兵吉の晩年は、賑やかで平穏なものだったろう。昭和二十五年十一月十一日、兵吉は藤作ら親族に看取られて永眠した。享年九十二歳。江戸、明治、大正、昭和と近代日本の激動期を駆け抜けた生涯であった。
 後編記事『ヒグマに襲われた数名の死体が…「もう少し早く知らせてもらっていたら」「三毛別事件」凶悪熊を討ち取った「伝説のハンター」の悔恨』へ続く。
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 ニュースBook Bang編集部 [ニュース] (日本の小説・詩集)
 【三毛別羆事件】女子供がヒグマに襲われて… 生き残った10歳の少年が聞いた「骨をかみ砕く音」と「妊婦の懇願」
 春季の熊害は山菜やきのこ採集者に多い
 春に熊の人身被害が増加
 桜が花開き、春がやってきた。
 山菜採りやハイキングに出掛ける人が増える季節であるが、日本最強の野生動物・熊が目を覚ます時期でもある。
 環境省によると、熊の人身被害は4月から発生し始めて5月に増加する。日本には本州にツキノワグマ、北海道にヒグマの2種の熊が生息しているが、ヒグマは最大で体長230センチ・体重250キロにもなり、過去には重大な死亡事故も起こっている。
 1915(大正4)年12月に北海道北西部の苫前(とままえ)村で発生した「三毛別羆(さんけべつひぐま)事件」は、10名の婦女子が殺傷され(死者7名、負傷者3名)、日本史上最悪の獣害と言われている。
 この惨劇をもとにしたドキュメンタリー長編『羆嵐』(吉村昭・新潮社)では、臨月の妊婦を含む女性や子供が次々と犠牲になっていく様子が克明に描かれている。
 また、苫前町には「三毛別羆事件復元地」があり、凄惨な事件を風化させまいとしている。地元住民が後世に語り継ぐ、戦慄の人喰いヒグマの凶行とはどのようなものだったのだろうか――?
 (以下は『羆嵐』をもとに再構成したものです)
 三毛別羆事件復元地。ヒグマは340キロの巨体だったという
 ***
 「おっかあが、少しになっている」
 最初の被害者は、島川家の9歳の男の子だった。家の炉端に座っていながら身動きをしない様子を不審に思った者が仰向けにさせると、のどの部分の肉がえぐりとられていて、血液がもり上がり胸から膝へ流れ落ちている。また頭の左側部に大きな穴がひらき、そこから流れ出た血が耳たぶをつつみ、左肩にしたたっていた。
 さらに、島川の妻の姿も見えない。島川家の尋常ではない様子に集まった村人たちが確認すると、寝室の布団は裂かれ、多量の血が染みついている。窓の枠板の裂け目にからまって根本から抜け落ちた、妻のものらしい多数の長い毛髪を見て、彼らは子を殺害して妻を運び去ったものが熊だと気づいた。
 翌日、50名近い男性が集まり朝から山を捜索する。日が傾いた頃に島川の妻の遺体を発見したが、それは遺体と呼ぶには余りにも無残な肉体の切れ端にすぎなかった。頭蓋骨と一握りほどの頭髪、それに黒足袋と脚絆(きゃはん)をつけた片足の膝下の部分のみ。捜索隊の一人は、「おっかあが、少しになっている」と口をゆがめた。
 10歳の少年が聞いた妊婦の断末魔
 犠牲はこれだけに留まらない。その夜に行われた島川の妻子の通夜で被害はより拡大する。通夜の席に羆が板壁を破ってふみこみ、さらに近隣の家に身を寄せていた2家族の4名が殺害され3名が重傷を負わされたのだ。家の内部は凄惨そのものだった。血が床に流れ柱や天井にも飛び散っている。床と土間には肉と骨の残骸があった……。
 4名の死者のうち3名は子供で、もう1名は臨月の女性だった。この妊婦が身ごもった胎児も、羆に食い尽くされていた。土間に積まれた雑穀俵のかげに潜んで奇跡的に助かった10歳の少年は、羆の荒々しい呼吸音にまじって、骨をかみ砕く音も聞いたという。さらに、「腹、破らんでくれ」と妊婦が羆に懇願する叫び声も彼の耳に届き、やがて気を失ったのだった。
 また、この家の寝間で布団をかぶって難を逃れた老婆は、羆が侵入してきた時の様子を目撃していた。羆は、居間の壁をぶち破り、炉を飛び越えて入り込んできた。その荒々しい動きで炉にかけられた大鍋はひっくり返り火が消え、逃げ惑う人々はランプを蹴散らしてしまい家の内部が闇になった。その直前、羆を瞬間的に見た老婆は、その大きさは肥えた牛馬よりもはるかに大きく、特に頭部がいかつい岩石のように見えたという。
 老練の猟師が語る羆の女への執着
 その後、集落の人々は近くの村に暮らす「クマ撃ち」の老練な猟師に助けを求めた。猟師は最初の被害者となった島川の妻子の遺体を確認し、子供の体が食われていないことを指摘してこう言った。
 「なぜ子供を食わぬのかわかるか。最初に女を食った羆は、その味になじんで女ばかり食う。男は殺しても食ったりするようなことはしないのだ」
 猟師の言葉を裏付けるように、羆が侵入した集落の家々では女性が使用していた湯たんぽがかみ砕かれていたり、女性の枕や腰巻がずたずたに切り裂かれてもいた。
 村落の者たちを戦慄させた羆は、その後山に潜んでいたところをこの老練な猟師に撃たれて絶命した。心臓部に一発命中しても死なず、茶色い毛を逆立ててゆっくりと立ち上がったところに二発目の弾が額に命中して、ようやく動かなくなった。
 こうして、三毛別を襲った羆の恐怖に、終止符が打たれたのだった――。
 ***
 三毛別羆事件をモデルにした『羆嵐』では、自然と共存する中で人々が慢心する様子についても描かれている。犠牲者が出る前に、民家の軒下に吊るされたトウモロコシを羆が二度にわたって食い荒らしたが、その家の者は警戒せず周囲に伝えることもしなかった。さらに、最初の犠牲者となった島川の妻子の通夜を行う際には、妻の体の大半が食われていたことから羆の食欲は満たされ、山中深くに去っただろうと思い人々は警戒を解いてもいた。
 行楽日和が訪れ、気分も明るくなるこの頃だが、自然への畏怖を忘れずに春を堪能したいものだ。
 三毛別羆事件復元地(開設は5月上旬~10月末)
 ヒグマの形相がリアル
 苫前町役場前にある「とままえだベアー」
 吉村昭(1927-2006)
 東京・日暮里生れ。学習院大学中退。1966(昭和41)年『星への旅』で太宰治賞を受賞。同年発表の『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を拓き、同作品や『関東大震災』などにより、1973年菊池寛賞を受賞。以来、現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表した。主な作品に『ふぉん・しいほるとの娘』(吉川英治文学賞)、『冷い夏、熱い夏』(毎日芸術賞)、『破獄』(読売文学賞芸術選奨文部大臣賞)、『天狗争乱』(大佛次郎賞)等がある。
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