🍙22〗─7─食糧・エネルギー・原材料を自給自足できない持たざる国・日本の戦争犯罪。川口稔『昭和陸軍全史』。No.133No.134No.135 @ ⑧ 

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 政府・政治家の無能。
 軍部・軍国主義者の暴走。
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 食料自給率の低い日本は、不足している食糧を海外から輸入していた。
 同様に、資源も石油(エネルギー)も輸入していた。
 日本の通貨・円は、日本・朝鮮・台湾と満州華北の一部でしか通用しなかった。
 日本の死活問題である食糧・物資・石油を海外で買うには米ドルが必要であり、購入しても日本に輸送する海上交通網を支配するだけの海軍力はなかった。
 日本の海軍力は、日本近海の制海権・制空権を維持するだけの艦隊能力でしかなかった。
 だが、その艦隊を動かす石油は海外で購入し輸入するしかなかった。
 持たざる国・日本とは、そういう意味であった。
 日本には、海外で一つとして自由にできるものがなかった。
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 川口稔(名古屋大学名誉教授)『昭和陸軍全史』全3巻
 「満州事変以降の『昭和陸軍』をリードしたのは陸軍中央の中堅幕僚グループ『一夕会(いっせきかい)』。満州事変の2年前の1929年に結成されました。メンバーは東条英機永田鉄山石原莞爾武藤章、田中新一ら約40人。一般的には東条が日本を破壊に導いたように思われていますが、昭和陸軍の戦略構造を立てたのは永田と、石原、武藤、田中の4人。東条は彼らの構想に従って動いたに過ぎません。
 永田を中心にした彼ら4人とも、単なる軍事エリートではなく、当時の日本社会では知性と教養を併せ持つ知的エリートでした。戦前の陸軍は何も考えずに暴走したと思われがちですが、そうではなかったのです。
 一夕会が存在感を強めたのが、1931年の満州事変の発端となった『柳条湖事件』です。満州事変は関東軍作戦参謀だった石原のプランに基づくものでした。彼は日中間で紛糾していた満蒙問題解決のため、武力行使による全満州占領を目指していたのです。
 石原は将来的に、アジアの指導国家となった日本と、欧米を代表するアメリカが世界最終戦争を戦うと予想。その戦争に勝つためには鉄・石炭などの資源が必要で、そのために全満州の領有、さらには中国大陸の資源・税収などを掌握しなければいけないと考えたのです。
 陸軍きっての俊英と知られた永田は第一次世界大戦前後の6年間、ドイツなどに駐在。大戦の実態をまざまざと見てました。
 人類史上初の総力戦となった第一次世界大戦でドイツが負けたのは、資源が自給自足できなかったため。次の世界大戦はさらに機械化が進み、資源や労働力が必要になると確信した永田はドイツの轍を踏まないよう、資源、機械生産、労働力のすべてを自前で供給できる体制を整えねばならないと危機感を募らせた。
 永田の目には、敗戦で過重な賠償金を課されたドイツが、次の大戦の発火点にるのは必至だった。そこに日本は必ず巻き込まれる。その時に備えて国家総動員体制を早期に整えなくてはならないと考えたのです。
 そこで永田が考えたのが中国の満州華北、華中の資源を確保することでした。当時、中国では反日ナショナリズムが盛り上がり、蒋介石率いる国民党政府が中国の統一を目指して北伐を実施。この動きに永田らは、日本の資源戦略が脅かされるとして安全保障上の危機感を強めた。永田や石原が満州事変を起こしたのは、そうした危機感によるものでした。
 この頃の一般世論の感覚は、いまの日本人の感覚に近かった。歴代内閣はワシントン条約など様々な国際条約を結び、平和を保つために国際協調路線を進めていて、政党政治はそれなりに安定していました。
 一夕会からすると、とにかく波風をたてまいとする内閣、政党政治家はあまりに無知。いつまでたっても国家総動員体制はできず、日本は次の大戦で滅ぶか、三流国に転落すると、危機感が強まる一方だった。
 彼らは『統帥権の独立』と『陸海軍大臣武官制を使って内閣に執拗な恫喝を繰り返し、屈服させていきました。
 31年12月に発足した犬養毅内閣では、一夕会の政治工作により、一夕会が推す荒木貞夫陸相に就き、永田も陸軍省ナンバー4の情報部長に就任。一夕会系幕僚が陸軍の要職をほぼ独占してしまった。陸軍中央は、直ちに満州軍の全満州占領や満州国建国の方針を承認しました。
 永田の構想を直接引き継いだのは武藤でした。武藤は永田の構想に基づき、32年に誕生した満州国とは別に、華北地域に親日の傀儡政府を作って、華北の資源を確保しようとした。いわゆる華北分離工作です。
 武藤が資源確保を急いだのはドイツでナチスが政権を取り、ベルサイユ条約を破棄して再軍備を行ったことが大きい。第二次世界大戦が現実味を帯びていたのです。
 しかし、武藤は欧州で大戦が起これば必ず日本も巻き込まれると主張。華北分離工作を止めてしまうと、大戦の準備ができなくなるとして石原と激しく対立したのです。
 37年7月、盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が始まりました。石原は速やかに事態を収拾させようとします。石原は、華北には北京があるので、国民政府が絶対に屈しない、必ず長期戦になると予想していました。
 対して、武藤は『一撃で中国を屈服させられる』と豪語。戦線の拡大か不拡大かで、陸軍中央を巻き込んだ大論戦に発展しました。一夕会のメンバーで、武藤と同機の田中新一も武藤に同調。結局、武藤は石原を排除して実権を掌握。石原は失脚しました。
 40年6月、『綜合国策10年計画』を策定する。
 この中で武藤は『大東亜協同経済圏』という言葉を使い、日本、朝鮮、中国としていた自給自足圏を東南アジアにまで拡大する構想を初めて掲げました。これが後の大東亜共栄圏構想です。
 第二次大戦勃発に合わせて調査し直したところ、自給自足のためには石油やボーキサイト、スズ、石炭や鉄も足りないことが判明。それで東南アジアでも資源を確保しようとしたのです。
 武藤は、『アメリカは資源と財力で世界一であり、年間軍事費は約140億円で日本はかなわない』、『対処を間違えれば日米戦争を太平洋上に始めて、世界人類の悲惨なる状態になる』と述べています。
 日本は41年4月、日ソ中立条約を結んだのですが、それから2ヶ月後に、何とドイツが不可侵条約を破棄してソ連と戦争を始めたのです。
 武藤は、イギリスに加えソ連とも戦争する二正面作戦は『ヒトラーの頭が狂わない限りあり得ない』と考えていたが、そのまだかが現実になった。このため武藤はドイツと距離を置くことを主張しましたが、田中は『日本とドイツでソ連を挟み撃ちにすべき』と反論し、激しく対立しました。
 武藤は南部仏印に進駐したぐらいで、アメリカが石油を禁輸するとは予想してなかった。石油の禁輸すれば日本が東南アジアの石油を求めて南方に進出してくるのは明らか。アメリカはイギリスを助けるため、まずドイツを叩くつもりで、二正面作戦となる日本との戦争を望んでいないと思い込んでいたのです。
 田中は、(ハル・ノート)これを飲めば日本は満蒙を失ってしまうので到底我慢できない。アメリカと戦えば長期戦になり勝ち目はほぼないが、ドイツ次第では万に一つの勝機があるかもしれないと考えた。
 アメリカの戦争準備が整う前の有利なタイミングで開戦すべきと主張し、万策尽きた武藤も開戦を承認。こうして無謀な戦争に突き進んだのです。
 ……
 陸軍のトップは永田ら一夕会の操り人形だったので、中堅幕僚が暴走しても、それをコントロールできませんでした。
 永田らは第二次大戦が必ず起こると想定して、自給自足の完璧な安全保障体制の構築にこだわりました。結局、軍人ゆえの合理的から完璧を目指そうとして、目の前の事態に対処できずに状況は悪化していった。……」


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