🍘148}─4─国家総動員。永田鉄山が生きていれば東条英機は出ず太平洋戦争は起きなかった。~No.380 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代の日本人は、自分が見たい理想の時代劇は好きだが自分が好まない事実の歴史が嫌いで、その為に歴史力がない。
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 国家総動員における、革新官僚文民主導論と軍人官僚エリートの軍主導論。
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 2020年9月号 Voice「国家総動員の歴史が問う『国民の自覚』
 軍国主義の象徴のように語られる『国家総動員』。
 しかし、実際には日本固有のシステムではなく、民主的な英米両国政府に倣って採用されたものだった。
 コロナ禍のいま、その歴史からいかなる教訓を得るべきか。
 森靖夫
 コロナとの戦いは総力戦?
 昨年末に中国湖北省武漢市で発生した新型コロナウイルスによる感染は、今年3月以降瞬(またた)く間に世界へと拡大した。各国が封じ込めに躍起(やっき)になるなか、ひときわ目を引いたのは、英国や仏国政府などがロックダウンを実施して市民の行動の自由や経済活動を制限し、米国政府が国防生産法を発令して必要物資の生産や増産を企業に命じるなど、リベラル・デモクラシー国家の政府が権威主義国家さながらに強権を振るったことだ。各国の状況を受けて、筆者は戦前に行われた『国家総動員』を想起せずにはいられなかった。
 SNS上では筆者と同様に、各国の動向から国家総動員を想起した人びとが少なからずいたようだ。しかしその多くは、国家総動員軍国主義と結び付け、自由と民主主義と対極にあるものとみなしている。たしかに、そう理解するのも無理はない。日本は1938年4月に成立した国家総動員法によって、あらゆる国内資源が戦争に動員されることとなり、国民は敗戦を迎えるまで塗炭(とたん)の苦しみを味わうことになったからである。
 しかしながら、国家総動員とはそもそも第一次世界大戦の参戦諸国が競って導入したシステムであって、日本固有のシステムではない。それでは、国家総動員とは何だったのか、コロナ禍のいまだからこそあらためて考えてみたい。
 国家総動員軍国主義の象徴か
 よく知られているように、国家総動員の仕組みにいち早く注目し、日本への導入に積極的だったのは日本陸軍であった。前例をみない物量戦となった第一次世界大戦では、戦争の主体がもはや軍ではなく産業や国民全体となったことを日本陸軍も痛感したのである。そこで、陸軍省は1915年末頃から組織的に総力戦研究を開始した結果、1918年4月に軍需工業動員法の制定にこぎ着けた。軍需工業動員法とは、戦時に際し軍需品の生産を効率的に行うため、政府に民間工場への命令権を付与するもので、国家総動員の第一歩とでも言うべき法案であった。
 軍需工業動員法成立は陸軍の『ごり押し』だと考えられがちだが、実際は異なる。議会で質問に立った立憲政友会や憲政会の代議士たちは、同法案に反対するどころか、むしろ工業動員の意義に同調し、労働者の統制を規定しない点など同法案が不十分であることを批判したのである。
 こうして成立した軍需工業動員法の運用は『官民合同』の軍需評議会(圧倒的に文民が多い)が担うこととなった。さらに軍需工業動員の統括機関として設置された軍需局は、原敬内閣のもとで国勢院へと発展する(1920年)。この機構改革により軍需工業動員計画への政党や実業家の関与はますます拡大した(22年廃止)。このように国家総動員は、軍国主義を深化させるどころか、シビリアン(文民)が国防に積極的に参加するきっかけをつくったのである。
 もっとも、陸軍側の抵抗も大きかった。国勢院が国内資源の統制按配(あんばい)を試みたのに対して、陸海軍は統帥権独立を盾に国勢院の介入を拒んだのである。国家総動員が必要だと分かっていても、陸軍官僚組織が旧弊(きゅうへい)を脱することは容易ではなかった。
 資源局の誕生
 国家総動員準備は27年5月の資源局設置によって転機を迎える。推進役となったのは内務官僚の松井春生である。松井は、国家総動員が国防だけでなく、産業、社会、教育、科学など総合的な国力の発展を目的とするものと考えていた。要するに松井の狙いは、国家総動員が軍主導となることを阻止することにあったのだ。
 松井の国家総動員論は米国をモデルとしていた。また複数の大学で政治学の教鞭をとっていた松井は、恩師・小野塚喜平次ゆずりの衆民政論者(デモクラット)で、国家総動員においても個人の利益と公益とのバランスに重きを置いていた。
 重要なのは、松井の同調者が陸軍内にいたことである。それも、陸軍きっての国家総動員研究のスペシャリストで当時軍需動員の責任者でもあった永田鉄山である。松井は資源局出向の陸軍将校人事について永田に相談するほどの仲だった。そもそも永田自身も、早くから軍需と民需のバランスに配慮していただけでなく、立法の手続きにより政府の権力を律する運用を重視しており(『国家総動員に関する意見』1920年)、松井と意気投合したことは決して不自然なことではなかった。
 永田はロイド・ジョージ英首相やクレマンソー仏首相といった、第一次世界大戦いおけるシビリアンリーダーの役割にとりわけ注目していた。つまり、総力戦が国民の戦争である以上、強力なシビリアンリーダーが必要であることを永田は痛感していたのである。
 グローバル・スタンダードとしての国家総動員
 日本の国家総動員体制形成が決して軍国主義化を示すものでなかったことは、英米との同時代比較や英米の日本に対する評価をみれば、より明らかとなる。豊富な資源をもち、国家総動員など不要と思われがちな米国であったが、早くも1920年に国防法を成立させ、将来の総力戦に向けた国家総動員準備の口火を切った。米国の国家総動員の特徴は、軍の主導性を否定した点にある。米国の計画は一般に公表されており、多くの有力実業家が平時の計画から積極的に関わることで、官民連携、中央・地方の分業体制を確立した。また教育注文と呼ばれた兵器製造の民間委託制度も早くから検討していた。
 英国も1924年から本格的に国家総動員準備に乗り出した。中心となったのは、内閣の軍事外交諮問会議であった帝国防衛委員会の小委員会、主要補給将校委員会であった。委員会が陸海空軍の動員計画に基づいて立案した資源配分計画は、文民の厳しいチェックに晒(さら)されるため、軍が無謀な軍需動員計画を通すことは不可能な仕組みとなっていた。英国は、中央地方分業体制、教育注文、総動員演習などに注目し自国に導入した。日本の資源局も、分業体制や総動員演習を取り入れ、教育注文の導入に踏み切った。じつは資源局がモデルとしていたのは、この英米国家総動員だったのだ。
 当時の英米の駐日武官たちも、日本の国家総動員準備を軍国主義の兆候とはみなさなかった。英国武官は資源局が自国の帝国防衛委員会と酷似(こくじ)しており、政府と軍部の対立を緩和するものとして注目していた。米国武官も、日本の国家総動員の目的が戦争企図というよりも平時の産業能力の促進にあるとみた。また、資源局が国民生活の確保、軍需と民需のバランス、経済全体の調和にも配慮していることなどを本国へ報告している。
 仏国や伊国も国家総動員準備を進めており、国家総動員準備は1920年代のグローバル・スタンダードとなっていたのである。
 分岐点となった満州事変
 さて話を日本に戻そう。残念ながら、永田が期待したような、平時において国家総動員準備を強力に推進するリーダーは原敬以降現れなかった。戦後不況(20年)、大震災(23年)、金融恐慌(27年)、世界恐慌(29年)と立て続けに起こった経済的苦境もあいまって、起こるかどうかわからない戦争のための準備に十分な予算をあてる余裕はなく、資源局はむしろ行政整理の対象となった(31年6月)。もう一つの壁は、永田のような柔軟な発想をもった軍人がむしろ少数派であったことだ。軍需動員は軍機軍令事項であり『国家総動員の容喙(ようかい)関与を許さず』と、国家総動員を敵視する声が陸軍で強かったのである。
 日本の国家総動員準備は、31年9月に関東軍が引き起こした満州事変によって、変容を迫られた。すなわち、『国防の危機』を理由に、国家総動員計画は軍需動員計画(軍の作戦計画に必要な軍需を見積もり、要求する計画)に即応することが当面の目的となったのである。事変の首謀者であった石原完爾は、永田と対照的な発想の持ち主であった。永田が第一次世界大戦のドイツの敗戦は兵站を軽視するルーデンドルフ参謀本部が独走したことが原因であるとみていたのに対し、石原はドイツのルーデンドルフ将軍から強い影響を受けており、軍が主導する総力戦体制を最良とした。また、軍の行動は政府や国民の支持をなしに起こすべきではないと永田が考えたのに対し、石原は関東軍の独断で作戦行動を初めても国民はついてくると、政府や世論よりも自らの戦略を優先したのである。石原の台東は、まさにその後の日本の行く末を暗示していた。
 他方で、満州事変によって政党が統治主体としてもはや機能し得ないことが明らかとなった。では、日本が総力戦を戦うことになった場合、誰が指導するのか。資源局の松井は、34年に『経済参謀本部』を著し、経済の専門家を結集し、政府と議会の機能を補うことで、リーダーシップの欠如を補おうとした。つまりここでも主体はあくまで『民』なのである。言い換えれば経済参謀本部論は、軍に政治経済政策の主導権を明け渡すまいという松井の意思の表れであった。松井の構想は内閣調査局設置へと結実する(35年5月)。
 だが、一方の永田は軍内の派閥抗争に巻き込まれ、自身を敵視する皇道派将校に斬殺(ざんさつ)されてしまった(36年8月)。陸軍内の協力者を失った松井は、37年2月、組閣の大命を受けた宇垣一成から内閣書記官長兼法制局長官の椅子を用意された。実現すれば宇垣・松井コンビによる文民主導体制が現実のものとなっていたかもしれない。だが2・26事件の遠因を作った宇垣が組閣することに陸軍が強く反発し、組閣自体が流れてしまった。
 驚くべきことに、資源局やその諮問機関であった資源審議会のメンバーは、満州事変後も民間主体の国家総動員自由主義の擁護、はては軍国主義批判までも公然と唱えていた。日本の国家総動員準備は、このような気骨ある人びとによって進められていたのである。
 文民主導の国家総動員構想の挫折
 37年7月に盧溝橋事件が勃発し、8月に上海へ戦火が及ぶと事態は日中全面戦争となった。12月の南京陥落を受けても早期解決が望めないことが明らかになると、国家総動員法の導入がいよいよ現実味を帯びることとなった。
 興味深いことに、松井はすでに8月時点で国家総動員法の必要を訴えていた。その理由は明らかであった。つまり、すでに適用されている軍需工業動員法は、あくまで軍需生産のみを目的とした産業動員であったため、軍需と民需との調節や国民生活の確保を目的とする国家総動員法でなえれば、国内資源が軍需生産のために際限なく消費されてしまうことになるからである。
 もっとも、資源局が国家総動員の強力な統括機関でなければ軍の無制限な要望は制御できない。結局10月に資源局は企画院へと組織拡充されたものの、軍に対する優位を確保することができなかった。松井も軍との軋轢を解消できず、企画院成立と同時に退官を余儀なくされた。
 38年4月国家総動員法が成立した。暴支膺懲(ぼうしようちょう)に沸く世論を受けたメディアの論調は、法案を支持する意見が大勢を占めた。だがメディアは、長期戦争を無条件に支持すれば、軍需の要求拡大を抑制できなくなることを正しく報じなかった。
 議会も概(おおむ)ねメディアと同様であった。政友会・民政党は、法案に反対すれば近衛新党樹立を目論む両党内の勢力の思う壺となるため、党内抗争の観点から消極的に賛成したにすぎない。近衛文麿首相にいたっては、新党総裁に担がれるのを避けるためだったとはいえ、病気を理由に法案審議を欠席する有様だった(英国駐日武官は近衛の行動を無責任と批判した)。
 こうして、松井ら資源局が10年以上かけてめざしてきた文民主導の国家総動員の夢は、兵站を軽視して際限なく戦線を拡大する陸軍によって潰(つい)えることとなった。否(いな)、軍以上の問題なのは、資源局の警鐘を鳴らしてきたにもかかわず、国家総動員の主体となるべき文民側が、軍の暴走を抑制する装置となりうる国家総動員の重要性を認識しなかったことかもしれない。
 歴史の教訓 
 以上述べたとおり、日中戦争までの日本は英米などの民主的国家と同様に、軍の暴走を抑制する文民主導型の国家総動員体制をめざしていた。しかし統制権独立が障害となり、軍部の優位に立つ統括機関を設置することができないまま総力戦を迎えてしまった。
 ではこの歴史から、われわれは何を学ぶことができるのだろか。第一に、コロナ禍の現在、自由で民主的な社会を維持しながら、政府が強い権限を駆使して感染拡大をいかにして食い止めるかが大きな課題となっている。奇(く)しくもこのことは、松井や永田が軍需と民需(国民生活や経済活動)のバランスが国家総動員に不可欠だと考えていたことと重なっている。にもかくぁず、軍需をとことん充(み)たせば戦争に勝てるという軍の独善が国家の破滅を招いた。コロナ禍においても、強権的かつ一方的な感染拡大封じは、かえって社会的経済的被害を大きくしかねないだろう。
 次に、国民一人ひとりの自覚である。感染拡大の防止は、個々人がどれだけ『公益』を念頭に置いて責任ある行動ができるかにかかっている。この点も松井や永田の訴えに通じる。総力戦の主体は軍ではなく、国民である。民間の産業力や、国民の強力一致こそが勝敗を決するのだ。だが、文民側は国家総動員の当事者意識を欠いていた。その結果、自らの戦闘能力を過信し、作戦行動を最優先する軍の独走を許したのだ。この点は大いに歴史の教訓とすべきだろう。
 最後に、専門集団の知恵と政治的リーダーシップである。専門知を踏まえたうえで明確な指標を示し、果断な対応をするのは政治的リーダーであって、専門集団ではない。リーダーにはそうした国家や社会全体を背負う責任と自覚が求められる。日本の国家総動員になかったものが、この政治的リーダーだ。軍事を専門集団任せにせず国力から総合判断すれば、無謀な戦争に突入することなど起こり得なかっただろう。
 いずれにせよコロナとの戦いは長期戦である。事態が収束した後で、あらためて歴史に照らし、日本を含む世界各国の対応を評価したい。」
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 永田 鉄山(ながた てつざん、1884年明治17年)1月14日 - 1935年(昭和10年)8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍中央幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を2位で卒業したのち参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長などを歴任した。軍政家として本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と評される秀才だったが、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将時に、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に殺害された。
 略歴・人物

 かねてからの「国家総動員に関する意見」などが認められて1926年(大正15年)に国家総動員機関設置準備委員会幹事となり、内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に導き、初代動員課長となる。

 1928年(昭和3年)には動員課長を辞任し、後任は東条英機となった 。
 麻布の歩兵第3連隊長を務めた後、1930年(昭和5年)に南次郎陸軍大臣の下で陸軍省軍事課長となる。
 昭和四年(1929年)水戸付近における陸軍演習で昭和天皇に軍状奏上する歩兵第三連隊長永田鉄山大佐
 1932年(昭和7年)に陸軍少将に昇進。

 1933年(昭和8年)6月、陸軍全幕僚会議が開催され、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対し、「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」と言った。これに対し荒木貞夫陸軍大臣は「支那を叩くといってもこれは決して武力で片づくものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。

 対支戦争を考えていた永田は、対ソ戦準備論の小畑敏四郎と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いであった。
 1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となった。
 同年8月12日、その相沢に軍務局長室で殺害された(相沢事件)。51歳没。
 死亡時は陸軍少将であったが、特に陸軍中将に昇進される。没後追贈で正四位勲一等に叙され瑞宝章を授与。墓所は東京都港区青山霊園附属立山墓地。
 永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る。
 その後、永田が筆頭であった統制派は、東條英機が継承し、石原莞爾らと対決を深め(石原は予備役となり)やがて太平洋戦争(大東亜戦争)に至る。
 企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」、「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」とも追想していた。
 評価
 統制派の頭領と目されていたこともあり、特に満洲事変以降の永田については、全く相異なる見解が存在している。
 「統制派」の立場から見れば「濡れ衣で殺された犠牲者」、「皇道派」の立場から見れば「日本を戦争に追いやった昭和軍閥の元凶」といった具合に評価が分かれるのだが、近年では、永田の大陸政策や軍備政策など「戦争への道を食い止めようとした軍人」とする研究もある。
 永田は1920年代中頃において、政党政治と共存していけるような陸軍組織改革を目指しており、満洲事変前から一貫して現地軍の統制に努力、永田の死が後の支那事変に至る一つのターニングポイントになった。また、青年時代より「陸軍を独走(暴走)させない」という信念と、「日本国民一人ひとりが日本の国防の責任を担うという自覚を持つ」(国防意識を高め、国民の理解を得る)という理想を持ち続けており、従来の単なる合理主義を重んじた有能な陸軍軍人という評価に留まらない、政治信念と理想に命をかけた軍人であるとも評されている。
 他方、石原莞爾らが関東軍を使い起こした満州事変を、永田を含めた一夕会は支持していた。永田が、関東軍の暴走を結果的に支持していたのは事実である。
 だが永田が満州事変に賛同していたとするには疑問が残る。
 事変の三か月前、永田は軍事課長として五課長会の幹事役を務め「満蒙問題解決方策の大綱」を作成・提出している。大綱では主に「関東軍の自制・国際世論を味方につける事」等が掲げられており、当面の紛争を回避する方針だった。
 また事変時、板垣が「独立国家建設」(満州国)案を提出した際、永田は外務省・海軍省と連携し「地方政権樹立」という対案を示し、性急な国家建設を行わない方針を荒木陸相に承諾させている。
 また、永田は溥儀擁立にも反対しており、関東軍の板垣とは真っ向から対立していた事が分かる。
 尤も、満州国が建国されて以後は、永田がこれまで行ってきた「現地軍の抑制・独立国家建設阻止」等の努力も甲斐なく、腹をくくって満州事変の現状を追認せざるを得なかった。世論が満州国承認で一致し、建国によって満州事変もこれ以上拡大しないだろうという観測もあり、永田は「満州国育成」に舵を切る事となる。
 ただし永田は満州事変に際して、関東軍へ攻城用の24糎榴弾砲を送付している。24糎榴弾砲について、石原大佐は満州事変の功労重砲と述べた。永田は独立国家建設、溥儀擁立については反対したが、満州事変の発生、すなわち現地軍の暴走については手を貸していた。
 暗殺の直前1935年8月4日、中国の非戦闘区内で日本人守備隊が攻撃され負傷する欒州事件が発生する。日中関係に緊張が走る中、永田は迅速に対応する。6日、関東軍に対しては軍中央との密接な連絡を指示して牽制する一方、事後処理を天津軍支那駐屯軍)に当たらせる。更に、陸軍省は外務省と協議の上「対北支政策」を策定、「非戦闘区域から武力衝突の不安を取り除く」方針を発表する。その内容は「華北の各政権との親善」「華北地域との経済協力の推進」等を実践としてうたう。これらの対応により、永田は後の盧溝橋事件のような事件拡大を阻止し、又、関東軍独走への対処方法の道筋も付ける。
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 戦前の日本、政府も軍部も国家総力戦を理解し、研究し、日本を国家改造しようとした。ていた。
 戦時や平時における国家総動員の意味が理解できないのは、歴史力のない現代の日本人である。
 その傾向は、高学歴出身知的エリートに強い。
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 日本における民度は、欧米に比べて戦前の日本は低く、現代日本は戦前の日本よりもさらに低い。
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 大正期から昭和前期にかけての日本の不幸は、明治中期までの国際知識に基ずく政治・軍事・外交・経済・その他に優れた政治家、官僚、資本家・企業家・経営者が現れなかった事に尽きる。
 国際外交の場、世界各国の老獪な政治家・指導者と激論を交わして渡り合えるだけの能力ある政治家が現れなかった。
 つまり、軍事の暴走ではなく政治の劣化である。
 その無能さは、戦前の日本より戦後の日本、現代日本では顕著で、救いがたいほどに酷い。
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 現代の日本の高学歴出身知的エリートは、国際社会では役に立たない。
 国際社会、各国の政治家・指導者で、日本の政治家・官僚そして経営者・企業家で話し合いたいと思う、意見を聞きたいと思う日本人は誰もいない。
 保守派はもちろんだが、リベラル派・革新派は絶望である。
 彼らの話し相手は、中国共産党政府や韓国・北朝鮮の3ヵ国しかいない。
 それを証明しているのが、メディアの愚にも付かない報道である。
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 戦前の日本を戦争へと暴走させて悲惨をもたらしたのは、軍人ではなく政治家や官僚であった。
 日本陸軍の主敵はソ連共産主義勢力で、最前線が満州であり、対ソ戦の戦略戦術は専守防衛(消極的防衛)であって攻撃防衛(積極的防衛)ではなかった。
 ソ連極東軍の兵力は日本陸軍の総兵力に匹敵する為に、中国との戦争は望まなかった。
 つまり、日本の国力・軍事力からソ連と中国との二正面作戦は不可能であった。
 それ故に、ソ連は日本軍の満州防衛兵力を減らす為に日中戦争や日米戦争を画策した。
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 政治家・実業家・報道各社は、個々が求める利益拡大の為に、戦争開始と戦場拡大に消極的な軍部に決断を強いるべく世論を味方に付けた。
 政府は、天皇の大権である統帥権を自由にできなかったからである。
 つまり、統帥権には、政府の権限を制限し軍部の独断専行を抑制する二つの効果があった。
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 薩長閥の元勲・重臣達は武士として兵士として戊辰戦争西南戦争などで戦った経験から、私利私欲に暴走しやすい庶民を信用せず、反藩閥民選代議士の政府に政治権力を持たせる事を認めても軍隊を動かす統帥権を与える事を拒絶した。
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 戦前の軍国日本が最優先課題としたのが、日本民族日本人として2000年以上の歴史を持つ伝統的崇敬文化の国體=万世一系男系天皇制度(直系長子相続)=近代天皇制度、神の裔・神の血筋の天皇家を、如何にして人権無視・人命軽視・科学万能の国際的共産主義勢力の魔の手から護持し後世に繋ぐかであった。
 国際的共産主義勢力とは、ソ連コミンテルン(ロシア人共産主義者)、中国共産党である。
 国内には、昭和天皇や皇族を惨殺しようとしていた日本人共産主義テロリストやキリスト教朝鮮人テロリストが暗躍していた。
 日本国と日本民族日本人は、国内外の敵に何重にも囲まれ、味方して助けてくれる国や地域そして個人を持たず、1カ国で孤立し、一人孤独に死闘を繰り広げていた。
 それは、ローカル少額の民族資本とグローバル高額の国際資本との経済金融戦争でもあった。
 ユダヤ系国際金融資本は、国際的共産主義勢力を全面的に支援していた。
 ナチス・ドイツなどのファシズム陣営も、世界的日本殲滅活動に加担していた。
 つまり、世界は親中国反日本反天皇が多数派で主流派であった。
 親中国反日本反天皇の中心で暗躍していたのが、ユダヤ系国際金融資本・国際的軍需産業ユダヤ系国際報道機関であった。
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 昔の日本人と現代の日本人は違う。
 高学歴出身知的エリートは、戦前と戦後では、視野の広さや思考・思索の深さ、知識や教養や素養、品格や品位、そして覚悟と志と気概において雲泥の差がある。
 つまり、戦前の日本人は武士・サムライ・百姓であったが、戦後の日本人は武士・サムライ・百姓ではない。
 現代のリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、左翼・左派・ネットサハの学者や活動家、反天皇反日的日本人達は、武士・サムライ・百姓ではないし、その子孫でもない、さらに昔の勤皇派・尊皇派を多く輩出した賤民や部落民などの下層民とも無関係である。
 西洋礼賛派、親中国派・媚中派、親韓国派・親北朝鮮派、マルクス主義者・共産主義者も同様である。
 当然の事ながら、人種差別主義の右翼・右派・ネットウヨも同じ穴のムジナである。
 真の民族主義者、熱狂的天皇主義者とは、昔の賤民や部落民などの下層民の事で、現代の右翼・右派・ネットウヨでなない。
 つまりは、現代の日本人の大半が「そうだ」という事になる。
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 天皇主義者とは、昔の賤民や部落民などの下層民の事である。
 それ故に、日本では、天皇制度打倒の暴力的人民共産主義革命や天皇崇拝根絶やしの狂信的キリスト教原理主義運動は起きなかった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教商人は、日本人をアフリカ人同様に世界に輸出して金儲けしていた。
 日本人の命は金で自由に買えた。
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 反天皇反日的日本人達のルーツは、天皇への忠誠を拒否し反乱を起こした中国系及び朝鮮系渡来人である。
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