🍙23〗─1─食糧枯渇。日本軍の輸送船は、南方戦線に兵士と軍需物資を、国内に食糧と必要物資を運んだ。昭和17年~No.136No.137No.138 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 『新約聖書・マタイによる福音書、第4章第4節』「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』」
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人は、米・麦・稗(ヒエ)あるいは黍(キビ)・粟(アワ)・豆の五穀を食べる為に生きていた。
 農作物と自然崇拝は一体化して、切り離す事ができなかった。
   ・   ・   ・   
 日本民族日本人の避けたい恐怖は、食べ物がない「ひもじさ」であった。
   ・   ・   ・   
 儒教は、礼節を守る為ならば、軍事・武器や食料・食べ物を捨てる事を説いている。
 礼節を守る為ならば、敵に殺され、そして餓死する事が人の道であると。
   ・   ・   ・  
 日本神道と日本仏教の日本と、正統派儒教朱子学)の中華(中国・朝鮮)及びキリスト教の西洋とは根本的に違う。
   ・   ・   ・   
 昭和16年産米生産…5,509万石(約827万トン)。大凶作
 国内総人口    …7,450万人。
 昭和17年度消費量…7,581万石。
 昭和17年度輸入量… 1,568万石。
 昭和17年度移入量…  694万石。
 昭和17年度供給量…7,886万石。
   ・   ・   ・   
 安藤洲一「古今の聖賢の大悟といえば、よほど広大無辺の物のようにあるが、おしつけて見れば握り飯一個になる。古えの聖人は、まさかの時は、握り飯一個がなくなればなくてもよいという腹がまった。飢えて死すべきものならば、飢えて死んでもよいと覚悟ができたのである」(『王陽明の解脱観』)  
   ・   ・   ・   
 戦前の日本は、国家の独立と自立及び民族の安全と生存の為に、遮断された食糧と石油と資源を奪う為に、生きたいと思いながらも死を覚悟して、援軍を出してくれる国がない中で超大国アメリカやイギリスに宣戦布告して戦争を仕掛けた。
 軍国日本は、勝つ為の戦略としての卑怯・卑劣・陰険な謀略・陰謀やテロ・ゲリラを嫌い、悔いを残さない潔い戦術として全身を晒して正々堂々と正面から戦いを挑んだ。
 それが。日本独自の、神風特攻であり、万歳突撃であった。
 日本は、飢えを凌ぐだけの食糧をごく僅か生産していたが、石油や物資を全く持たない自立できない中程度国家であった。
 アメリカやソ連やイギリスは、食糧や石油や物資を豊富に持った自立できる大国であった。
 サムライ日本人は、負けて死ぬことが分かっていても、国家・家の体面と自分の自尊心を貫く為に、武器をとって戦場に赴き殺し合った。
 独立独歩で一人で立つことを信条とするサムライ日本人は、戦う武士として、生きる為に屈服して辱めを受け、奴隷の如く卑屈となり、侮蔑と嘲笑の下で這いずり回りる事を最も嫌った。
 死を恐れないサムライ日本人は、自己責任と自己判断と自己犠牲で、他人に責任を転嫁せず、つまらぬ言い訳をせずに、危険と危機を自覚して戦場に飛ぶ出していった。
 全ての面で痩せ我慢するサムライ日本人は、妻や子供や孫の為に、自分を犠牲にした敵と刃を交えて殺した。
 武士道精神・大和魂・日本精神を信奉するサムライ日本人は、自分一人の利益や金儲けを卑しい所業として嫌った。
 サムライ日本人は、子々孫々の未来の為に、命を超えた崇高なる「志」や伝えるべき「心」や受け継ぐべき「誠」や守るべき「絆」の為に命を投げ出した。
 サムライ日本人は、100年後、1000年後という、自分が決して見る事がない、後世の安全と平穏を守という亡霊に取り憑かれて敵を殺した。
 そうした命を捨てる理由がないとき、サムライ日本人は、汗水垂らし泥と排泄物に塗れて田畑を耕し、僅かな食べ物を感謝して食べて貧困生活を満喫していた。
 サムライ日本人は、精神を鍛え、心を豊かにし、志を高々と掲げていたがゆえに、「武士は喰わねど高楊枝」で極貧生活を享受し、貧しさを苦にしなかった。
 それが、天皇の御稜威・大御心を守った靖国の心である。
 だが。現代日本は、平和こそが維持すべき最高の理想であり、命を捨てても守るべき価値は存在しないとして、靖国神社を廃止しようとしている。
 平和憲法下の現代日本は、武器をとって戦う戦争すべてを否定している。
 命を大事にする現代日本人は、金儲けの為に、如何なる卑怯な手段や姑息な行為もいとわない。
 自分一人が利益を上げ豊かになる為なら、家・家族・家庭を犠牲し、子供や孫の事を気にせず、他人や社会の事も構わず、国家さえ無視して奔走している。
 彼等にとって守るべきは、「個」としての自分一人の命と富と幸せであった。
 戦うこと嫌う現代の日本人は、自分一人が生き延びる為なら、武器を捨て、赤の他人はおろか友人・知人や親族や家族が殺されようとどうなろうともを、平然と見捨てる。
 中国化しつつある現代の日本人と、中国化を拒絶したサムライ日本人は、全く異質な日本人である。
   ・   ・   ・   
 戦時標語「欲しがりません勝つまでは」
 東條内閣は、将来的に食糧が欠乏して配給が滞る事を予想し、配給食糧を使ってバランスの取れた食事をする工夫をさせるべく、「食は命なり」という啓蒙運動を始めた。
   ・   ・   ・   
 日本軍航空機は、燃料も弾薬も乏しい為に、海上で漂流する敵軍兵士を発見しても機銃掃射で殺す事はできなかった。
 日本軍は、アメリカ軍潜水艦が漂流している連合軍兵士を救助する事を知っていた為に、よほどの事情がない限り助けず放置した。
 中には、救助が遅れてサメの餌になったり、救助される事なく流されて行方不明になった者がいた。
 戦後、救助しなかった事で日本軍は「人道に対する罪」に問われて有罪となった。
   ・   ・   ・   
 政府は、総力戦として、国防婦人会・大日本連合婦人会・愛国婦人会の3団体を統合して「大日本婦人会」を組織し、20歳以上の女性の加入を義務づけた。
 女性達は、銃を持っ女兵士として戦場には立たなかったが、日本は必ず勝つという信念から自主的に戦争に協力した。
 個人的心情を無視した空気的同調圧力はあったが、健康状態や家庭事情を無視した強制はなかった。
 市川房枝「政府の提唱する選挙粛清運動、国民精神総動員運動にも協力したが、……あくまで自主性は失わなかったつもりである」
   ・   ・   ・   
 開戦内閣は、昭和17年2月に食糧管理法を公布して、国家権力で米穀市場を統制し、個人の自由販売を禁止した。
 東條首相は、国内の食糧を確保して全国民に公平に供給するべく、強権を発動し、憲兵や警察機構を使って国民の食の自由を制限した。
 新聞報道の政府批判を規制し、食糧危機にある事実を公表する事で、国民に空腹を耐えて消費を抑える様に強制した。
 空腹を嫌い食の自由を求める自分勝手の「個」人主義者は、東條首相の国家権力を振り回す傲慢なやり方を憎んだ。
 東條首相は、戦争の事は軍部に任せ、各家庭の米櫃を心配し、街頭のゴミ箱を覗き、国民から話しを聞いて回った。
 日本軍には、約36万人の朝鮮人が志願兵として従軍していた。その中には中将や大佐などの高級将校が多数ふくまれ、彼らは「天皇の名」によって日本人兵士に命令をくだし、日本軍を意のままに指揮した敵を殺した。
 国内には、ひもじさを我慢して少食に辛抱する日本人よりも、一切我慢せず食べられるだけ食べる大食漢の朝鮮人200万人以上(一説に、400万人以上)と、他人に構わず貪欲に食糧を食い漁る爆食の中国人8万人以上(一説に、数十万人)が、労働力不足を補う為に強制連行されていた。
 反日的な彼らは、食べ物の量を労働に見合った量に増やし、賃金を日本人並みに引き上げるなどの待遇改善を求めて各地で暴動を起こし、戦争遂行の為に必要な生産を妨害していた。
   ・   ・   ・   
 1月6日 東條内閣(A級戦犯内閣)は、国内の食糧不足に対し食糧管理法案要旨を閣議決定した。
 第一に。米麦の全面管理に加え、必要に応じて主要食糧(小麦粉、乾麺、甘藷、その他)の買い入れと売り渡しを政府が行う。
 第二に。政府指導の食糧公社を設立し食糧の総合配給制度を確立する。
 第三に。非常時(凶作)用食糧を備蓄する。戦後に問題となった、軍部の隠匿物資。
 南方の食糧を、国内向けと華北の飢餓地帯(飢餓人口約1億人)と前線で戦う日本軍の兵糧の三つに振り分けて輸送した。
 日本軍占領地では餓死者はいなかったが、ビルマ産米を奪った為にインドに食糧不足となって多くの外車を出した。
 インド国民会議派は、ビルマ産米を奪還する為に反日を宣言して、日本軍と戦うイギリス軍に協力し、抗日中国軍を支援した。
 タイ産米や仏印産米も日本に奪われた為に、東南アジア全体も食糧不足が発生した。
 東條内閣は、東南アジアが国際的反日陣営に傾く事を避ける為に、難しい食糧外交を迫られた。
 1月18日 日本は、軍事及び経済協定の義務がある三国軍事協定に調印した。
 1月21日 ナチス・ドイツは、ユダヤ人を効率良く処分する事を決定した。
 1月28日 埼玉県は、越境買い出しの主婦数百人を検挙した。
 栄養失調となり、肉体と精神の両面で異常をきたす人が出始めた。
   ・   ・   ・   
 2月 井野農林相(A級戦犯)は、農林計画委員会に対して「大東亜戦争の進展に依る経済自給圏の確立に即応し、食糧対策上帝国のとれるべき方策如何」と諮問した。
 アジア太平洋戦争への突入を契機として、大東亜共栄圏(円貨経済圏)総体に於ける食糧需給のあり方が改めて議題の俎上に上る事となった。
 軍部は、国内の食糧不足を緩和させる為に、全軍に南方占領地行政実施要領に基ずく軍政三原則(治安回復、重要軍需資源獲得、現地自活・現地生産)の実施を命じた。 
 2月1日 戦時に於ける食糧統制を強化して、味噌・醤油・塩などの配給制を強化した。
 米不足から、米麹の多い味噌は贅沢品として出荷を禁止した。
 2月21日 食糧管理法(食管法)を公布し、米・大麦・裸麦などの主要食糧に独占専売制を採用した。国家管理を強化して、自由販売を国家権力で取り締まった。
 東條首相は、憲兵隊や特高による庶民の監視を強化し、各家庭のゴミ箱を覗き何を食べているかその食事情況を確認して廻った。
 日本全体が軍国一色といなり、軍人や官僚が威張る憂鬱な時代に突入した。
   ・   ・   ・   
 3月20日 北岡寿逸「日本が何らかの形において国外の富源を利用し得る間は、生活程度の低下によって増加して行く人口を支持して行くであろう。しかしながら世界の大勢は漸次、自給経済・ブロック経済に向かわんとするにあるし、国外の自然の富源の利用ということはその半面に世界の市場に進出することを意味し、日本が生活程度を低くして世界市場に進出することに対する世界各国の反感や圧迫とはすこぶる強い。世界におけるこれらの傾向の改まらぬ限り、日本は漸次、国外の自然の富源の利用が困難となり、ここにおいて日本は漸次、失業か生活程度低下かという岐路ではなく、人口の絶対過剰に陥って、餓死か膨張かという岐路に立つ。即に無主の領土のない現時において膨張は何を意味しようとも、餓死か膨張かの岐路に立った日本が印度や支那のように餓死に甘んじていようとは考えられないから、日本の向かうべき途は─世界及び日本の状勢の改まらない限り─発展膨張の外に考えられない。かくてわが国の失業問題は、即ち生活程度問題、即ち人口問題であって、その解決は領土の拡大となる。満州事変以降の日本の動向はこの見地に立ってのみ、合理的に解決されるべきものと思う。満州事変以前にこの形勢を洞察したトムソン及びクロッカーは卓見であると同時に、冷静に時勢を見るものの当然考える所を率直に言ったに過ぎないのである」(『失業問題研究』)
   ・   ・   ・   
 春 意欲の有る飲食店は、無い物ねだりをせず、ある物を工夫して客に満足して貰う様な料理を作って出していた。
 蕎麦屋は、蕎麦の代わりに春雨や海草を使って麺類を作った。
 日本軍は、南方を占領し大量の食糧を日本に輸入して飢饉を食い止めた。
 日本軍占領部隊は、日本への食糧輸送が抗日華僑や反日派地元民によって妨害される為に、各地で掃討作戦を実行して虐殺を行った。
 この虐殺は民間人殺害の戦争犯罪とされて、多くの日本軍兵士が有罪となり処刑された。
   ・   ・   ・   
 4月 農林計画委員会戦時食糧部会は、『主要農産物対策要綱』を決定した。日本軍占領下の大東亜共栄圏内で、食糧自給体制の確立の必要性を協調した。
   ・   ・   ・    
 5月 大東亜建設審議会。第六部会は、『大東亜の農業、林業水産業及畜産業に関する方策』の中も『主要食糧対策』で「日満を通ずる主要食糧自給力の充実確保を図る事を根幹とし南方に於ける生産を補塡食糧として確保する」とした。
 第八部会は、大東亜共栄圏を地域的経済圏(円貨経済圏)として発展させアジアの民衆の繁栄に貢献させるべく、『太東亜交通対策意見書』を作成して「大陸縦貫鉄道の建設」を提言した。
 国策会社満鉄も、全アジアの恒久平和と経済発展の為にはヒトとモノとカネの流動化は不可欠であるとして、『大陸鉄道建設方策』を作成した。
 東條内閣は、重要資源の開発及び食糧等の軍需物資輸送力強化を目的とした大陸縦貫鉄道建設を決定した。
 陸軍は、独自で陸上補給路の建設を決定した。
 悪名高い、泰緬鉄道建設が決定された。、
 5月18日 日本軍は、全ビルマを軍事占領し、ビルマ産米のインド輸出を提出した。
 インド東部は、食糧不足となり、飢餓が深刻化した。
 ビルマ方面作戦終了によって、開戦当初予定していた陸海軍の南方作戦は予想以上の戦果を上げて完了した。
 陸軍は、日中戦争最終解決の為に、中国軍主力100万以上が立て籠もる重慶を包囲殲滅する四川作戦を立案し、作戦開始予定は43年春以降と定めた。
 当時、中国に駐留する日本軍は約55万人に激減していた。
 5月29日 中国共産党八路軍(反天皇派日本人と独立派朝鮮人らも参加していた)は、河北省清豊県城を攻撃し、数多くの橋や鉄道を破壊し、輸送網をマヒさせた。
 別の中国共産党の新四軍は、農村地帯を活動の場として食糧を支配し、日本軍や南京の傀儡政府軍も輸送部隊を攻撃していた。
   ・   ・   ・   
 6月5日 ミッドウェー海戦
 6月8日 大本営は、食糧などの戦略物資を輸送する為の泰緬鉄道(約415キロ)と三本の軍用道路の建設をバンコクの司令部に命じた。
 かって。イギリス軍は、タイ北部のチェンマイからビルマのトングーまでの約560キロに鉄道を敷設するべく計画したが完成させる事が出来なかった。
   ・   ・   ・   
 7月27日 ニューメキシコ州ローズバーグ強制収容所アメリカ軍監視員は、高熱で動けず担架で運び込まれた日系アメリカ人2名を射殺し、所長には「逃げようとしたから射殺した」と報告した。
 病人を診察した軍医は、公式報告を認めた。
 アメリカは、日本以上に人種差別がひどい社会で、日本人を人間ではなく害虫かサルと軽蔑していた。
   ・   ・   ・   
 8月7日 ガダルカナルの攻防。
   ・   ・   ・   
 絶望的戦争をしていても、自然災害は容赦なく日本を襲い、甚大な被害をもたらしていた。
 日本人は、戦争と自然災害から生き残らねばならなかった。
 8月27日〜28日 台風第16号「周防灘台風」。200年来の高潮発生。
 死者・行方不明者、891人。
   ・   ・   ・   
 9月3日 農林省は、農家に対して、米穀の早期供出を促する為に奨励金を出す事を発表した。
 だが、貧困農家は永年に渡る借金が高額となって家計を圧迫していた。高利貸しは、借金漬けの農家の弱味を付け込み、闇米でボロ儲けする為に米の横流しを強要した。
 全ての日本人が、天皇を敬愛し、愛国心で戦っていたわけではなかった。戦争を利用してボロ儲けしようとした日本人は、軍人や革新官僚に賄賂を送り美女をあてがっていた。
 そうした、自分だけ良ければそれで良いという自分本位の日本人は、何時の時代でも存在する。
 彼らは、得てして聖人君子ずらしてほくそ笑む。
 戦時中は、右翼・右派として愛国心を振り回して他人を戦場に送り出して犠牲にし。戦後は、左翼・左派として良心の呵責もなく、反戦平和の旗を振って他人に責任を転嫁して善人面した。
   ・   ・   ・   
 秋。日本の気候は安定して、豊作となった。
 華北は、大旱魃が原因で農産物は凶作となり、更に蝗(イナゴ)害の発生で深刻な食糧不足に陥った。
 特に、河南省の被害は国民政府が種もみまで根刮ぎ食糧を強奪した為に甚大な数に上り、被災者への救済はされず、生き残った者は衰弱しているにもかかわらず軍用工事の為に強制連行されたという。
 農村からの都市への食糧供給が滞った為に、北京や天津などの都会でも餓死者が出始めた。
 農産物の価格は高騰して43年5月には1年前に比べて5倍以上に跳ね上がり、物資の供給も低迷して諸物価も高騰して、貧困層はさらに困窮の度を深めて都市を中心に治安は悪化した。
 日本は、通貨価格の安定を大目標として、華北金融を聯銀券で一本化すると共に、物価の安定による物資供給の増加と食糧の増産に全力をあげた。
 日本軍は、戦争継続の為に食糧などの戦略物資の増産増強を求めた。華中では、日本軍の快進撃で新旧法幣交換は順調に進み、物価安定の為に軍票を廃止して儲備券で一本化する事を決めた。
 華北の大飢饉は、華中での食糧需給にも悪影響を出していた。南方からの物資輸入を増加させると共に、米、麦、塩、砂糖、食用油、錦糸布、石炭などの増産を強制した。
 その為にも、奥地の物産を揚子江下流地域に安定供給させる為に買付物価低価統制の見直しが求められた。
 陸軍は、南方穀倉地帯から被災地に食糧を輸送する為に、鉄道や道路の確保する為に延期していた打通作戦(一号作戦)を発動した。
 河南と広東だけで、600万人以上が餓死したといわれ、ペスト、チフスコレラなどの疫病などでの死者やその他の犠牲者を入れると1,400万人以上の人々が被害にあったという。
 上海を中心に物資不足の為に価格は上昇し、デマや憶測が飛び交ってインフレは悪化した。日本国内との価格差を利用して金儲けしようとする投機家の暗躍で、インフレは更に深刻化した。
   ・   ・   ・   
 10月8日 農林省は、今年は豊作といっても消費量が不足している事は事実である為に、配給米にトウモロコシを混ぜる様に全国に通牒した。
 10月10日 アメリカとイギリスは、日本の「アジアの解放」という大義を否定する為に、対中不平等条約を取り消し、治外法権廃止を表明した。
   ・   ・   ・   
 11月1日 東條首相は、占領地の拡大に合わせて大東亜省を創設し、大東亜金融圏の安定の為に連銀最高顧問の青木一男を大臣に抜擢した。
 11月24日 政府は、米を精白すると量が減るとして、玄米を栄養価が高い健康食と奨励した。だが、炊飯方法が以前のままであった為に消化不良で下痢になる人が増えた。



   ・   ・   ・