🗡25〗─2─昭和15年2月25日陸軍機墜落事故。東条英機・陸軍航空総監と殉職した宝蔵寺久雄・陸軍中将。~No.79No.80No.81 

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 2020年8月23日 産経新聞「雨開戦前年に起きた陸軍機の墜落、80年前の記憶をたどる
 墜落現場近くの慰霊碑前に立つ古川章さん(右)と北村武弘さん=京都府京田辺市
 先の戦争が始まる前年の昭和15年、現在の京都府京田辺市に1機の陸軍機が墜落、搭乗していた宝蔵寺久雄・陸軍中将=死亡後少将から1階級特進、当時(50)=ら6人の軍人・軍属が殉職する事故があった。当時は大きく報道されたが、80年がたった今では地元の人でも知る人は少なくなった。事故を調査し、郷土誌にまとめた2人の郷土史家は「地域の歴史を書き残し、後世に伝えていければ」と話している。(井上裕貴)
 悪条件重なり…
 郷土史家の古川章さん(83)と北村武弘さん(67)がまとめた郷土誌「やましろ」の記事によると、墜落事故があったのは昭和15年2月25日。中国・満州にあった白城子陸軍飛行学校の校長だった宝蔵寺中将ら6人が東京での会議に出席するため、陸軍機で埼玉県の所沢飛行場に向かっていた。
 だが、兵庫・明石上空を通過後に消息を絶ち、同日午後1時48分ごろ、旧大住村(現京田辺市)松井地区付近で空中分解し、水田に墜落した。エンジンの不調のほか、天候不順や翼の結氷などの悪条件も重なったのが原因とみられている。
 陸軍の将官が殉職するという極めて大きな事故に、当時の新聞は「宝蔵寺中将ら六名、壮烈なる殉職を遂ぐ」「無気味な爆音、突如空中分解」との見出しで大きく報じた。
 しかし、80年が経過し、事故を知る人は地元でもほとんどいないという。2人は「このままでは事故が忘れ去られてしまう。身近にも戦争に関わる大事件があったことを若い世代に伝えねば」と事故の詳細を記事にまとめようと決心。墜落現場近くの家を1軒ずつ回り、目撃者の証言を得た。
 その結果、「キュル、キュルという異常な轟音(ごうおん)とともに、機首が北方に向かっていった」「小雨が降る中、事故現場に憲兵隊が規制線を張り、兵士4人が担架で遺体を運び出していた」といった事故前後の状況が明らかになった。
 また、現場では子供への土産物とみられるおもちゃが見つかったことや、京都市伏見区で行われた殉職者の通夜に東条英機・陸軍航空総監(後の首相)の供花があったことなども調査で判明した。
 中将の長男とも交流
 殉職した宝蔵寺中将は明治22(1889)年、佐賀県生まれ。ノモンハン事件などで武功を立て、軍人としての才覚を発揮した一方、「天舟子」の俳号で詩人としても活動していた。満州でも航空機での不時着を経験したが、その際の克明なメモを書き残すほど冷静で几帳面(きちょうめん)な性格で、晩年は大戦への憂慮を口にしていたという。
 「やましろ」には宝蔵寺中将の長男で平成11年に78歳で亡くなった忠さんと2人の交流も描いている。戦後、しばしば墜落現場に慰霊に訪れていた忠さんは、当時、田辺町(現京田辺市)の職員だった古川さんと親交があったからだ。古川さん自身も沖縄戦で父親を亡くしており、忠さんに共感できる部分があったという。北村さんも忠さんの長野県の自宅を訪れ、聞き取り調査を行った。「忠さんはいつも『事故で松井の人々には迷惑をかけた』と話していた」と振り返る。
 現在、墜落現場の水田の近くには、戦後まもなく地元有志が建てた質素な石の慰霊碑があるのみだが、毎年命日には供養に訪れる人がいるという。古川さんは「誰かが故人を思い出す限りその人は生き続ける。書き残すことが殉職者の弔いにもなれば」と話す。
 2人は地元有志とともに地域の図書館で戦争展示を開き、平和について考える活動を行っている。今後はその中で事故について紹介し、若い世代に伝えていくつもりだ。北村さんは「こんなのどかな町でも大きな被害の出る事故があったことを忘れてはいけない。『平和だからといって傲慢になってはいけない』と警鐘を鳴らさなくては」と話している。」
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 歴史が眠る多磨霊園
 宝蔵寺久雄
 ほうぞうじ ひさお
 1889.10.28(明治22)~ 1940.2.26(昭和15)
 明治・大正・昭和期の陸軍軍人(中将)
 埋葬場所: 9区 1種 19側 11番
 佐賀県出身。士官候補生を経て、1911(M44)陸軍士官学校卒業(23期)。同期に小畑英良(後に大将)や伊佐一男(後に中将:4-1-23)、岡田資(後に中将)、落合忠吉(後に中将:16-1-7)、桜井省三(後に中将:4-1-35-7)、飯野賢十(後に少将:21-1-20-8)、西原八三郎(のち少将:22-1-79)らがいる。 陸軍少尉に任官。'21(T10)陸軍大学校卒業 (33期)。同期に寺本熊市(後に中将:13-2-54)、井上靖(後に少将:15-1-10)らがいた。大陸戦線では北支から遠く蘭州、さらには満蒙国境の戦闘にまで参加して、空中戦史にその名を残す働きぶりであった。
 '34(S9)陸軍大学校教官、翌年、大佐となり、浜松陸軍飛行学校教官となった。 '36.8.1飛行第10聯隊長、'37.11.1第2飛行集団参謀長を経て、'38.7.15少将、第7飛行団長となり、第2次ノモンハン事件で行われたタムスク爆撃で活躍した。
 '39.7.1白城子陸軍飛行学校長に就任し、「陸の荒鷲」養成のために全力を捧げた。翌年、公務のため満州より東京に飛来中(東條英機首相の呼び出しとされる)、京都府綴喜郡大住村字松井の田んぼに墜落(京都はこの時、雨であった)。 機体は110m離れた場所に散乱していたため空中分解による墜落と推察され、またパラシュートには手をつけた形跡がないため急な墜落であったとされる。 墜落原因は発動機の故障との見解とされた(カミナリ説ともいわれる)。これにより、宝蔵寺をはじめ搭乗者の岡田巳三夫陸軍少将、辻俊春陸軍航空兵中佐、根本功陸軍航空兵准尉、土井義夫陸軍航空兵准尉、黒沢功陸軍技手の6名が脳底骨折で即死した。 享年60歳。殉職死のため没後一階級特進し中将となった。功3級 勲2等 従4位。6名の遺体は松井公会堂から京都陸軍病院へと移された。 事故時は妻は満州に残っており、3男2女の子供たちは世田谷の実家にいた。家族は急ぎ入洛した。
 長女は陸軍中佐の朝枝繁春に嫁す。朝枝繁春(1912-2000)は大本営作戦参謀として防疫給水部731部隊の証拠隠滅を命じたことや、第25軍(マレー・シンガポール作戦の部隊)の作戦参謀としても知られる。 父の事故時はすでに嫁いでいたが、夫が出征中であったため実家に身を寄せていた。長男の宝蔵寺忠(同墓)は、父の事故時は拓殖大専門部1年生の22歳であった。
 <帝国陸軍総督総覧>
 <日本陸軍将官総覧など>
 *和型の墓石には「陸軍中将 宝蔵寺久雄之墓」と刻む。右隣りの墓は岡本徳三陸軍少将である。
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 ウィキペディア
 宝蔵寺 久雄(寶藏寺 久雄、ほうぞうじ ひさお、1889年(明治22年)10月28日 - 1940年(昭和15年)2月26日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級。
 経歴・人物
 佐賀県出身。1911年(明治44年陸軍士官学校第23期卒業、陸軍砲兵少尉に任官。その後、1918年(大正7年陸軍大学校に入学し、1921年(大正10年)同校第33期卒業。この間、砲兵から航空兵に転科。
 1934年(昭和9年)12月より陸軍大学校教官を経て、1935年(昭和10年)8月に陸軍航空兵大佐・浜松陸軍飛行学校教官となる[2]。その後、1936年(昭和11年)8月に飛行第10連隊長、1937年(昭和12年)11月に第2飛行集団参謀長、1938年(昭和13年)7月に陸軍少将・第7飛行団長を経て、1939年(昭和14年)7月に白城子陸軍飛行学校長となる。
 翌年の1940年(昭和15年)2月25日、公務のため満州から東京へ飛行中に京都府綴喜郡大住村付近にて墜落。京都衛戍病院に搬送されたが、他5名の搭乗者と共に翌日殉職。没後、陸軍中将に特進した。
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