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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
世界初の特殊揚陸艦「神州丸」は、世界の上陸作戦を劇的に変え、後年の強襲揚陸艦の原型と言われている。
1933年 日本陸軍は、海外での戦闘が多くなると、敵部隊が海岸線に堅固な防衛陣地を築いて待ち構える中を強襲上陸する作戦を想定し、特殊揚陸艦(上陸用舟艇母船)の建造を極秘で進めた。
それは、世界初の先駆的ドック型揚陸艦で、上陸用舟艇である大発動艇(大発)・小発動艇(小発)と護衛砲艇たる装甲艇(AB艇)、高速偵察艇たる高速艇甲(HRーK)を搭載した。
戦場に於ける制空権確保と上陸部隊支援を目的として、陸軍機(戦闘機・偵察機・偵察爆撃機など)を格納していた。
2層構造の上部構造物内上段に航空機格納庫(秘匿名「馬欄甲板」)を設けられ、最大12機程の搭載・使用が可能であった。
搭載した航空機は、水上機ではなく陸上機であった為に、発進しても陸上の友軍飛行場に着陸するか、帰投しても着艦できず、操縦士は戦場近くに不時着するか、艦艇近くに不時着水するか、乗機を捨て落下傘降下するか、のいずれかしかなかった。
航空機は生産できても、操縦士の補充はままならなかった為に生還が求められていた。
操縦士の特攻や自決は、後退に次ぐ後退で敗戦が近くなってからの事で、勝っている間は特攻も自決もなかった。
日本軍兵士は、勝ち戦として逃げられるうちは逃げ、負け戦として逃げ切れなくなった時に特攻と自決を行った。
1934年2月8日 最高軍事機密の特殊揚陸艦は、播磨造船所で建造され、「神州丸(神洲丸)しんしゅうまる」と命名された。
3月14日に進水し、11月30日に陸軍に引き渡され、12月15日に竣工した。
竣工後の神州丸は、陸軍運輸部の本部(後に兼船舶司令部)が置かれていた広島県宇品(宇品港)が母港とされ、回航された。
1935年1月 航空機を発艦させるカタパルトを装備する為に呉海軍工廠に回航さし、陸軍航空兵による射出試験が繰り返された。
2月26日にカタパルトが完成して、陸軍船舶部隊の根拠地である宇品に帰港した。
1937年7月 舞鶴海軍工廠にて水中防御改善のため改装工事を受けていた神州丸は、日中戦争勃発を受け、途中であったが早々に切り上げて同月17日に宇品へ帰港した。
神州丸は、上陸部隊を敵前上陸させて上海攻防戦勝利に貢献し、日本人居留民を中国軍の虐殺から救った。
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1940年9月17日 日本陸軍は、播磨造船所で起工した、神州丸2番艦を新鋭量産特種船の第1号として丙型特種船を「あきつ丸」と命名し、秘匿と偽装の為に石原産業傘下の日本海運の所有する商船型貨物船とした。
1941年9月24日 あきつ丸は進水した。
12月 日本陸軍は、南方作戦は敵前上陸であり、上陸作戦を成功させるのは航空支援が欠かせないと判断した。
日本海軍の空母による航空支援は海軍の作戦の関係で得られない場合があるとして、陸軍独自に空母を所有する必要があるとされた。
「あきつ丸」に飛行甲板を装着して空母型第2形態とする事を決定した。
南方戦略の為に揚陸戦艦艇の需要は高まり、戦時標準船に代表される計画造船の一環としても特種船4隻の建造が行われた。
戦時型特種船は、一般の戦時標準船各型と並んでM型に分類され、うち2隻は標準的な舟艇母船のM甲型、2隻は上陸戦支援のための航空機発進能力を有するM丙型として計画された。
軍用船ではあるが、民間海運会社保有の商船名目で建造し、徴用の形で陸軍管理下で運航する方式を採った。
1942年1月30日 あきつ丸は、世界の陸軍で初めて所有する空母型特種船として竣工した。
1943年 日本陸軍は、通商破壊作戦によって輸送船への被害が激増して前線への補充がままならない為に、海軍に頼る事なく船団を護衛する為に独自の海上航空戦力の構築を検討した。
6月4日 船舶司令部は、対潜哨戒機として開発されたオートジャイロのカ号観測機(オ号観測機)を使用する為に、広島湾の陸軍空母「あきつ丸」で船上発着船試験を成功させた。
午後 「あきつ丸」航行中に魚雷攻撃を受けた事を想定して、対魚雷回避運動中の状態で発着船試験を行い好成績を得た。
8月 陸軍は、陸軍船舶兵が運用する独自の対潜用護衛空母の建造を提出した。
甲型特種船 1万トン級貨客船型(戦時標準船M型構造は、後にM甲型と称す)。
「摩耶山丸」・「玉津丸」・「吉備津丸」。
M甲型特種船 「摂津丸」・「日向丸(甲型4番船から変更)」
甲(小)型特種船 5,000トン級砕氷貨物船型(乙型とも)。
「高津丸」
丙型特種船 1万トン級航空母艦型(時標準船M型構造はM丙型と称す)
「あきつ丸」・「にぎつ丸(航空艤装無の甲型相当に変更)」
M丙型 「熊野丸」・「ときつ丸(航空艤装無のM甲型相当に変更、終戦時未成)」
12月29日 東条英機首相兼陸相は、日本郵船側が日立造船因島造船所で竣工した甲型特種船に「陸前丸」と命名したもを「吉備津丸」に変えた。
1944年8月 日立因島造船所で、あきつ丸の姉妹船として、海軍の小型航空母艦に倣い船橋を甲板下に煙突は舷側に設けたあきつ丸改良型のM丙型「熊野丸」を起工した。
護衛空母機能を有する上陸用舟艇母船「熊野丸」が竣工したのは、1945年3月31日であった。
11月14日 あきつ丸が所属するは護送船団ヒ81船団(計10隻)は、フィリピン防衛戦の為に精鋭第23師団を緊急輸送するべく伊万里湾を出港した。
11月15日正午頃 あきつ丸は、五島列島沖でアメリカ海軍潜水艦クイーンフィッシュの雷撃を受けにおいての轟沈した。
戦死者、船員93人、船砲隊140人、乗船部隊2,093人。
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戦前の日本は、資金・物資・人材が少ない中で分野においては世界レベルの研究や開発を行っていた。
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軍部もまた、馬鹿の一つ覚えのように、軍事技術や科学技術を軽視して、精神主義で兵士を無駄死・犬死にさせていたわけではない。
戦前の日本、日本軍部を正しく評価できない日本人に、近現代史や軍隊・戦争の歴史を語る資格がない。
もし語りたければ、戦前日本の軍事技術や科学技術を正しく論じ、そして昭和天皇、東条英機・松岡洋右・松井石根らA級戦犯達、日本軍部・日本陸軍が自己犠牲的におこなった人類史的人道貢献を世界に公言すべきである。
同時に、キリスト教系朝鮮人テロリストと日本人共産主義者テロリストの存在を明らかにする事である。
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日本軍部・日本陸軍は、職業軍人として戦争を始めるという平和に対する犯罪を行ったが、人として人を助けるという人道貢献も行っていた。
日本軍部・日本陸軍は、戦争犯罪者であると同時に人命救助者である。
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戦前・戦中を完全否定する、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、学者、人権派、人道派、反戦平和市民、その他有象無象の日本人には、日本の歴史、特に幕末から敗戦までを語る資格はない。
もし非難したかったら、戦国時代に中世キリスト教会や白人キリスト教徒商人が行った日本人奴隷交易を最初に非難すべきである。
日本の近代化・軍国主義化は、西洋キリスト文明が行った日本人奴隷交易への恐怖心から暴走したからである。
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日本が、清国・中国と戦ったのは西洋と軍事同盟関係にあったからである。
ナチス・ドイツ、ドイツ軍はファシスト中国(中国国民党)を、ソ連・共産主義勢力は中国共産党を、それぞれ軍事支援していた。
当時、中立国であったアメリカやイギリスも、日中戦争勃発と同時に中国軍を資金や軍需物資で積極的に支援していた。
アメリカ陸軍航空部隊は、大統領の許可を得て、現役軍人を退役軍人と偽り、民間ボランティアとして参戦させ日本軍を攻撃していた。
フランスは、イギリス・アメリカ・ドイツからの対日戦用軍需物資を中国軍に輸送するに北部仏印通過を許可していた。
ユダヤ系国際資本や世界的軍需産業は、ファシスト中国の勝利の為に全面的に支援していた。
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朝鮮は、日本を滅ぼす為に、隣国の清国(中国)やロシア(ソ連)、そしてアメリカなど西洋列強を対日戦争に引き入れようと陰謀をめぐらしていた。
事実、キリスト教系朝鮮人テロリストや日本人共産主義者テロリストは昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。
関東大震災時でも、摂政であった裕仁皇太子(後の昭和天皇)を殺すべく狙っていた。
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