🦋7〗─2・B─阪神淡路大震災と無能な政府。被災民を助けたダイエーと山口組。~No.29 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 村山富市首相「初めてのことじゃから」
 リベラル社会党・保守自民党連合政権。
 当時の神戸市は革新(マルクス主義)市政で、被災者救助より、自衛隊への災害救援派遣要請を渋り、在日米軍の救助を断った。
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 2021年3月22日 DCSオンライン ダイヤモンド・チェーンストア「阪神大震災の教訓から、故中内功ダイエー会長兼社長が語った危機管理と商売のあり方とは
 ダイエー災害対策・防災千田直哉の続・気づきのヒント
 1995年1月17日。
 故中内功ダイエー会長兼社長(当時)が東京都大田区田園調布の自宅で起床したのは午前5時30分――。テレビニュースで阪神大震災を知り、隣に住んでいた中内潤副社長(当時)を電話で叩き起こした。午前7時。浜松町オフィスセンターに到着した中内潤副社長に移動中の自動車電話から、潤氏を本部長に災害対策本部を設置せよと指示した。政府が対策本部を置く3時間も前の出来事であり、長い闘いの始まりだった。
 阪神・淡路大震災の追悼と街の復興を祈念した神戸ルミネリエ(SeanPavonePhoto/istock)
 故中内功氏が語ったダイエーの精神
 その後中内功さんとダイエーは、この大震災と正面から対峙して、一民間企業の役割を遥かに超える執念と速度でライフラインを死守していく。流通業とは関係ない業種の人たちもいまだにあの時の中内さんを覚えているという。
 阪神大震災ダイエー住吉店は全焼した。
 約2か月後となる 1995年3月9日。ダイエーグループの1995年度4月合同入社式が東京郵便貯金会館(東京都)で1113人を集めて開かれ、中内さんは以下のような話をした。
 「時は、あたかも天下大乱の兆しを見せている。この天下大乱は10年以上続くだろうと予想している。今年に入っては阪神大震災が発生した。円相場も1ドル50円くらいまでの円高になる可能性がある」
 「ダイエーグループ自体も、この2月期の決算で265億円の赤字を計上する。震災を通じて、新しいダイエーをどう創っていくかという課題を我々はしっかり受け止めなければならない」
 「今年を復興3カ年計画のスタートの年と考えたい。新入社員の皆さんも主体性を持って、この復興3カ年計画に参加していただくことをお願いしたい。この国において、本当の意味のチェーンストアを確立しよう」
 「我々ダイエーグループはマーチャントとして、もう一度レーゾンデートル(存在意義)を考える必要がある。かつてのマーチャントはシルクロードを歩き、大航海時代を経験してきた。単にモノを運ぶだけでなく、文化・文明をつくり上げてきた。我々もマーチャントとして単に生活必需品を売って稼ぐだけでなく、この国における新しい文化、新しいモノの考え方をつくることに貢献することが大事である」
 「日本社会の構造的転換が起きている。会社においても終身雇用・年功序列は過去の神話になり、実力の時代、プロフェッショナルの時代が始まった。何ができるかを問われる時代が来た。ダイエーグループも、プロフェッショナルの集団になることが必要である」
 「生涯学習を今日から始めていただくことをお願いしたい。皆さま方一人ひとりが、創造性豊かで自主・自己責任に基づく世界の中の日本人として、一人前のプロフェッショナルに成長することをお願いしたい」
 阪神大震災を教訓に-大災害との共存
 故中内功ダイエー会長兼社長
 こんな檄を飛ばし、入りたての社員まで鼓舞した中内さんの遺伝子はその後もしっかり受け継がれていたようで、そこから16年後の3月11日に起こった東日本大震災の際には、13日早朝から同社東北地方唯一の店舗であるダイエー仙台店(宮城県)は営業を再開させた。店頭には約3500人が列をつくった。本部から多くの社員が応援に駆け付けて商品を切らさないように努め、地元客からは称賛を浴びた。
 さて、阪神大震災との闘争と復興を経て、中内さんが到達した境地は大災害との共生だ。
 「この日本列島に住むかぎり、台風、地震、大火災、何時襲ってくるか誰もわからない。対策は共生しかない。共生とは馴れ合いではない。緊張した関係をもちつづけることである。ライオンとカモシカ。緊張した関係でアフリカのサバンナに共生している。大災害とわれわれも、この緊張関係が必要である」(中内さん)。
 大災害と共生するためには、自然をリスペクトする必要がある。どんなに緻密で頑丈な街、建物、施設、装置を整えたとしても、大災害はその上を行くものと考えるべきだ。それが自然へのリスペクトという意味である。
 1000年に一度といわれる東日本大震災のような大災害を当時は誰もが想定していなかったわけだが、実際に起こってみれば、その16年前の中内さんの言葉をなぜ、もっとちゃんと受け止められなかったのかという反省ばかりが残る。次に必ず起こるはずの震災対策として、今度こそ生かしていかなければならないと痛感させられる。
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 2019年10月2日 NEWSポストセブン「災害を重視するヤクザが千葉の台風被災地に来なかった理由 
 週刊ポスト
 災害を重視するヤクザが千葉の台風被災地に来なかった理由
 台風15号の影響で屋根や壁が壊れた家屋と積み上げられたがれき(千葉県鋸南町 写真/共同通信社
 災害が起きて真っ先に被災地に駆けつけるのは誰か。警察か、自衛隊か、はたまたボランティア団体か。否、ヤクザである。災害が起きると、彼らはいてもたってもいられなくなるのだという。ヤクザ事情に詳しいジャーナリストの溝口敦氏と、フリーライター鈴木智彦氏が、災害とヤクザについて語りあった。
 鈴木:千葉の台風の被災地に行っていたんですが、今回はヤクザの姿は目につかなかったです。
 溝口:ヤクザは「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた時代に火消しをしていた頃から、「危急存亡の秋」に“活躍”したいという気持ちが天性としてある。ただし、今回はその余地がなかったということでしょう。
 鈴木:ヤクザの本領は、道路が寸断されていて陸の孤島になっているとか、なにも物資がなくて老人や子供が死にそうだというところに、政府より先に駆けつける、ということですから。
 溝口:今回のように水で濡れた物を後片付けするというような地味で華のないことはしないんです。
 鈴木:2016年に起きた熊本地震のときは、熊本にある神戸山口組の二次団体が、支援物資を配るなどのボランティアをやっていました。粉ミルクやおむつ、ナプキンなんかを配って。
 溝口:分裂抗争で対立する六代目山口組の側もボランティアに行っていた。被災地で“呉越同舟”だったわけです。
 1995年1月17日、崩壊した阪神高速道路で落ちずに止まったバス(写真/共同通信社
 鈴木:山口組の災害支援といえば、やはり1995年に起きた阪神・淡路大震災でしょう。
 溝口:そうですね。山口組は全国に100人以上いる直系組長から100万~200万円ほど、計2億円を拠出させて、カップやスナック菓子などの食料品や、防寒着、下着、カセットコンロなどの救援物資を、近隣住民や避難所まで配達しました。
 鈴木:ヤクザの機動力を活かして物資を集めて、神戸市内の山口組本部を中心にして被災地に10数か所の拠点を作り、かなり大がかりに炊き出しをやったそうです。地域は断水しているのに、山口組本部に行けば水があったから、そこで水配りまでやりました。
 溝口:写真週刊誌は、甲斐甲斐しく働いている五代目山口組組長・渡辺芳則の写真まで掲載しました。
 鈴木:山口組としては、純粋に世の中の役に立ちたいという気持ちだったんでしょうが、一時的なイメージアップにつながったのは間違いない。
 溝口:東日本大震災のときも、ヤクザはトラックを何台も借り切って、物資を届けたりしていました。
 鈴木:原発事故が起きたこともあり、道路が遮断されていた。こういうところに真っ先に駆けつけるのがヤクザですよね。当時、「伊達直人(漫画『タイガーマスク』の主人公)」の名前で匿名寄付するのが流行っていたから、それに倣って物資を置いてきて、感謝状をもらったヤクザは本当に嬉しそうでした。
 溝口:ヤクザの根っこに関わるところで、困っている人を助けるという「任侠」の心の部分。金銭的なメリットなんてないんだから。運送業者からトラックを手配して、物資をかき集めて運ぶまで、すべて自腹を切っている。
 鈴木:別に組織の上から命令されたわけじゃなく、30~40代の若手の組長たちがニュース見て思い立ったらもう行っている。とにかく早くて、東日本大震災でも、政府が原発事故で右往左往しているときにはもう駆けつけていました。それも、トラックを手配したり物資を調達したりをすぐできる力があるからこそできることですが。
●みぞぐち・あつし/ジャーナリスト。1942年、東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業。ノンフィクション作家。『食肉の帝王』で2004年に講談社ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『暴力団』『山口組三国志 織田絆誠という男』『さらば! サラリーマン』など。
●すずき・ともひこ/フリーライター。1966年、北海道生まれ。日本大学芸術学部写真学科除籍。ヤクザ専門誌『実話時代』編集部に入社。『実話時代BULL』編集長を務めた後、フリーに。主な著書に『潜入ルポ ヤクザの修羅場』『ヤクザと原発』『サカナとヤクザ』など。
週刊ポスト2019年10月11日号
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 2024年2月22日 神戸新聞NEXT「阪神・淡路大震災 震災20年目
 経済復興 夢と現実
(1)消えるダイエー 「国に絶望」あせた輝き
 連載・特集連載・特集プレミアムボックス
 阪神・淡路大震災で倒壊した三宮リビング館。上弦の月をイメージしたマークがダイエーのシンボルだった=1995年1月19日、神戸市中央区三宮町
 阪神・淡路大震災で倒壊した三宮リビング館。上弦の月をイメージしたマークがダイエーのシンボルだった=1995年1月19日、神戸市中央区三宮町
 「ダイエーは神戸に育ててもらい、地元企業という意識が強かった。阪神・淡路大震災のときは、お客さんが待っている。ただその信念が私たちを突き動かした」
 創業者・中内功(故人)の長男で元副社長の潤(59)=中内学園理事長=にとって、大震災の記憶は鮮烈だ。
 「街の灯(あか)りを消したらあかん」。功はすぐに神戸に入り、げきを飛ばした。潤は当日早朝にできた対策本部を指揮した。手を尽くし、ヘリコプターやフェリー、タンクローリーなどを総動員。被災地に物資を届けた。「商品の供給を続け、人々に安心してもらうことが流通の使命。ビジネスを超えた思いだった」
 それから20年。曲折を経てダイエーは最大手のイオン(千葉市)の傘下にある。9月24日、社長の岡田元也(63)は「2018年度までにダイエーの屋号をなくす」と発表した。「流通革命」を体現した中内功の痕跡は完全に消える。今も父を「ボス」と慕う潤は屋号の消滅について「今は何も言うべきでない…」と口をつぐんだ。

 神戸には随所にダイエーの「夢の跡」がある。高度成長期、神戸市は「山、海へ行く」として名をはせた開発手法で成長路線をひた走った。ダイエーも市の開発地域に相次いで進出。スーパー、レストラン、ホテル、大学…。
 「神戸が輝いた時代の象徴だった」。太陽神戸銀行(現三井住友銀行)時代、ダイエーを担当した神戸商工会議所副会頭でみなと銀行元頭取の籔本信裕(69)は振り返る。
 しかし、大震災は、神戸市とダイエーに決定的な打撃を与えた。
 震災後、官民は「創造的復興」の理念を掲げ、「エンタープライズゾーン」など規制緩和を軸にした大型プロジェクトを推し進めた。苦境にあえぐ地域経済の再生を引っ張る起爆剤を狙った。
 地元政財界は突破力のある中内に産業分野のかじ取り役を期待した。「神戸経済復興円卓会議」で座長を委嘱し、大規模テーマパークを想定した集客施設プロジェクトの推進役を依頼した。
 だが、日本経済の長期低落とともに、ダイエーは輝きを失っていく。経済復興も国に規制緩和の特例を認めてもらえないままけん引役を欠き、デフレ不況に沈んだ。

 「国に絶望した」。震災後そう語った中内は、口癖の「自主、自立、自己責任」を繰り返した。一方で本業の業績不振は深刻だった。バブル崩壊以降、消費者のニーズは多様化。総合スーパーは時代に合わなくなった。震災からの再建も重くのしかかり、対応が遅れた。
 拡大路線がたたって2兆円超の有利子負債を抱え、小泉政権時代、不良債権処理の象徴となる。04年には自主再建を断念。国が主導する産業再生機構へ支援を要請した。「ダイエーの敗北」とOBらは嘆息する。
 05年、中内は83歳で死去。震災から10年、戦後60年の年だった。その後、丸紅、イオンの傘下になったが、再建は進まなかった。13年にイオンから送り込まれた現社長、村井正平(64)は語る。
 「中内さんが主導したフロンティア精神と、受け継がれたDNAは枯渇していた」
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 阪神・淡路大震災からの経済復興。描いた夢と、その後の20年が示す現実。地域経済の歩みを検証する。=敬称略=
 (土井秀人、加藤正文)
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 2021年12月31日 朝日新聞デジタル記事「60年の歴史に幕 震災乗り越えた神戸・長田のダイエーが閉店
 森直由 大下美倫
 ダイエーグルメシティ新長田店では閉店後、店員らが店の前に立ち、集まった人に深々と頭を下げた=2021年12月31日午後5時17分、神戸市長田区、大下美倫撮影
 阪神・淡路大震災で倒壊しながら仮設店舗で営業を再開し、地域を支えたダイエー西神戸店。その後を継いだダイエーグルメシティ新長田店(神戸市長田区)が31日に閉店し、あわせて60年の歴史に幕を閉じた。
 西神戸店は1961年に開業。JR新長田駅南の大正筋商店街内にあり、ダイエー創業者の故・中内功氏が店頭に立ったこともある地域の中核店だった。だが、95年1月の震災で倒壊し、火災で焼けた。
 営業を再開できたのは約5カ月後の同年6月。地元商店主らで立ち上げた共同仮設店舗の一角だった。当時の仮設店舗の写真には、プロ野球パ・リーグで快進撃し、優勝したオリックスを応援する「がんばれ!オリックス 元気です神戸。」と書かれた幕が掲げられている。
 その後、市が整備した再開発ビルに移転。2003年に西神戸店は閉店し、近くにダイエーグルメシティ新長田店が開店した。
 ダイエー広報は閉店について、周辺のスーパーなどとの競争激化による売り上げ低迷のためと説明する。
 神戸市によると、JR新長田駅南地区の人口は、震災前の約4500人から、00年には約2800人まで減少した。その後は再開発で分譲マンションが相次いで建ち、人口は増加に転じた。20年には6千人を超え、それを受けてスーパーが次々と進出した。
 近くの女性(75)は「昔は何でもそろっていて、困ったらダイエーに来ていたが、閉店は仕方ない。周辺にほかにもスーパーがあるので」と言う。
 地元の商店街で日本茶売店を営む伊東正和さん(73)は「地域と共に商売を続けて、思い入れがあるだけに寂しい」と話す。
 31日午後5時、閉店。店員らが深々と頭を下げると、最後の瞬間を見届けようと集まった人たちから大きな拍手が起きた。(森直由、大下美倫)
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 日刊ゲンダイ
 はたあきひろ園芸研究家(NHKテレビ講師)
 兵庫県西宮市出身。6年前、大手住宅メーカー研究員を卒業し園芸研究家になる。著書に「コップひとつからはじめる自給自足の野菜づくり百科」ほか。妻と子ども3人で自給生活中。52歳。
 できるのか?自給自足の老後生活
 阪神淡路大震災ではスーパーの棚から食料品が一瞬で消えた
 公開日:2019/08/06 06:00 更新日:2019/08/06 06:00
 「自給自足生活のキッカケは?」
 これもよく聞かれます。やはり、1995年の阪神・淡路大震災ですね。日ごろ見慣れた建物が倒壊してしまったのはもちろんですが、私が衝撃を受けたのは、それまでは当たり前に商品があふれていたスーパーの食料品の棚が一瞬にしてカラになったことでした。
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 2015年1月14日 日本経済新聞阪神大震災当時「従業員の愛情が店舗再開早めた」
 中内潤・ダイエー元副社長
 阪神大震災の発生から今月17日で20年になる。当時、ダイエー副社長として同社の震災対応の指揮を執った中内潤・流通科学大理事長(59)が日本経済新聞の取材に応じ、当時の状況などを振り返った。ダイエーは震災直後、いち早く営業を再開し被災者の生活再建を手助けした。中内理事長は当時を振り返り「従業員の意識の高さが店舗再開を早めた」と話した。
 中内潤氏(なかうち・じゅん) 1980年(昭55年)慶応大院修了、ダイエー入社。84年取締役。86年専務。89年副社長。99年ダイエーホールディングコーポレーション社長。00年同社長を退く。03年、故・中内功氏が設立した学校法人中内学園 流通科学大学理事長に。岡山県出身。
――震災発生当時、どこで何をしていたのか。
 「当時は、いつも午前6時半過ぎに東京の本社に出社していた。地震発生日当時はちょうど家を出ようとしていたときだった。テレビのニュースをみていて、関西で大きな地震があったとことは分かったが、神戸の震度について具体的な表示がなかったと記憶している。家を出て、会社に向かう途中、自動車電話が鳴り、神戸で大地震が起きたことを知った」
 「神戸を中心に被災地の店長から電話がかかってきた際には、『電話をつなぎっぱなしにするように』と指示した。大規模災害時は通話が殺到し、電話回線がパンクする。1度切れば次回以降、つながりにくくなることを過去の経験から知っていたからだ。そして東京の本社に対策本部を立ち上げ、被災した店舗に指示を出すことにした。現地には約10人の社員を派遣して情報収集を進めた」
――現地の店舗の被害状況はどのような状況だったか。
 「三宮店(神戸市)のように建物自体が崩壊してしまった店もあれば、神戸市内でも建物もインフラも無傷だった店もあった。続々と入ってくる被害状況の報告を受けて、『こんなこともあるのか』と言葉が出なかった」
 「(危険な状態で)店内には入れなくても、店には(売ることができる)商品はある。店舗を閉めて営業を停止していることへの抵抗感、違和感は強かった。たとえ店舗の外であっても売る場所さえ確保できれば営業を再開すべきだと考えた」
――震災当日、すぐに営業を再開した店もあった。どうして再開できたのか。
 「当時は携帯電話もなく、個々の従業員と連絡を取るのは難しかった。ただ当日、各店長には『店舗の中の商品が大丈夫なら売れ』と指示を出した。被災した店では家族を差し置いて従業員が率先して店内に散らかった商品を片付けしてくれた。店によっては従業員だけでなく、近所の被災者も片付けを手伝ってくれた。そうした方たちの尽力で、早期の営業再開にこぎつけることができた。ダイエーへの愛情に本当に頭が下がる思いだった」
 「従業員の意識の高さが早期の営業再開に結びついた。電気の供給が再開したある被災店舗では、おにぎりの販売を始めた。きっかけは、その店で働くパートの主婦が『売り場には炊飯器もコメもある。ならコメを炊いておにぎりにしたら被災した人に食べてもらえるやん』と自主的に判断したこと。温かいおにぎりは被災者に喜ばれた。当時のダイエー中内功社長のワンマン経営、と思われがちだが、実際は社内の自由度は大きかった」
 「震災後、大規模災害に備えてマニュアルを作る動きが小売業で進んでいるが、全ての状況を想定してマニュアルを作ると、膨大になり機能しない。もちろん準備は大切だが、非常時には店舗とその周辺のコミュニティーとの連携、そして従業員がいかに『被災地のために』という気持ちを持てるかが重要だ」
――戸惑ったことも多かったはずだ。
 「良い小売店舗は周辺住民の方に愛されている。震災後、被災店舗で商品を盗まれることはなかったといえば嘘になるが、最初から疑ってかかるのはどうか、と思わされる出来事もあった。ある日、被災した店舗に『不審者が侵入した』との連絡があり従業員が調べに駆けつけた。店内で人影を見つけ、事情を聞いてみると地元のおじいさんが『お金は払うので、地震で亡くなった孫の棺おけにせめてぬいぐるみを入れてあげたい』と話した。これは『ダイエーに行けば何でもそろう』と地域住民に信頼して頂いていた証(あかし)だと思う。もちろん、ぬいぐるみ代は頂かなかった」
――その後、店舗が徐々に営業を再開していった。
 「いかに商品を安定的に供給するかが重要だった。我々は現地のどの道路が通行可能なのか、逆にどの道路は危険で通れないのかを警察や配送トラックの運転手らの協力を得て、情報を収集していた。神戸市内にあった物流センターは棚が横倒しとなっていて、商品を再び並べて再開するには数カ月はかかりそうな状態だった。そこで商品を棚ごと外に出した。100億円分くらいの商品はあったと思うが、それをあきらめることで1週間で物流センターを再開できた。思い切った決断だったが今振り返れば良かったと思う」
 「震災対応で分かったのは、現地は被害状況の情報を知らないということだ。テレビやラジオからの情報が乏しく明日の天気の情報すらわからない。そこで東京本部が仕入れた情報を被災地の店長に伝えていた」
――場合によっては商品を無料配布することもできたと思う。なぜ有償での営業再開だったのか。
 「ボス(=故・中内功社長)の考え方が大きい。我々はチェーンストアの鉄則として『実勢価格を超えた高すぎる値段で販売してはいけない。もちろんゼロはだめ』という共通認識を持っていた」
――当時を振り返り反省点はあるか。
 「1つは物流ルートの確保の仕方だ。もっと早くきちんとやれたのかもしれない。生活必需品が届くのが遅れてしまったかも、との思いは今でもある。懸命に情報収集はしたが、当時は(事前の想定、準備などが不足しており)あまりにもよく分からなかった」
 「2つめは従業員に十分な物資を届けられなかったことだ。店に商品がある限り、被災者に売ってしまった。現地に送った約10人の社員は食べるものにも苦労したようだ。東京の対策本部でも寝食を忘れて作業に没頭し、私も部下もみるみる痩せていったことを覚えている」
 (聞き手は大阪経済部・林英樹)
 関連連載「阪神大震災20年 企業・自治体は今」を近畿経済面に▼朝刊・夕刊→1月14日(水)付→地域経済→「近畿経済A」「近畿・京滋」「近畿・兵庫」「近畿経済B」
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