🏗2〗ー6ー能登半島地震、日本の異例な対応に海外メディアは驚愕した。令和6年~No.7 

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 自然観は、日本人と中国人・朝鮮人そして欧米人などの大陸人とは全然違う。
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 2023年1月2日 YAHOO!JAPANニュース BBC News「日本はいかにして地震と共に生きるすべを学んだのか……前BBC東京特派員
 日本はいかにして地震と共に生きるすべを学んだのか……前BBC東京特派員
 ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ、BBCニュース(台北
 2011年3月11日の東日本大震災と、それに引き起こされた福島第一原発の事故から、もうすぐ13年になる。
 しかし、その記憶は日本では今なお生々しい。そして1日午後になって石川県で揺れが始まり、大津波警報が発令されると、13年前の記憶は一気に前面に押し出された。
 地震津波の警報そのものは、日本では決して珍しくない。
 私が最初に日本に引っ越したころは、住んでいる建物がわずかにでも揺れれば、私はベッドから飛び起きたものだ。
 しかし数カ月もたつと、揺れていても起きなくなった。そして日本に暮らせば地震というのはたちまち、生活の一部になる。地震に慣れてしまうのだ。ある程度までは。
 それでも常に、頭のどこかでたえず気にしている。次の大きいのは、いつどこであるのか?
 うちの建物はそれに耐えられるのか? 
 今の日本人にとって、その恐怖はすべて、2011年3月11日に現実のものとなった。
 あの時、地面は2分間も揺れた。当時日本にいた人間にとって、こんな揺れは誰も実際に経験したことがないというほどの揺れだった。揺れはいつまでも、いつまでも続いた。
 あれを経験した人は、自分があの時どこにいたか、どれだけ恐ろしい思いをしたか、はっきり覚えている。しかし、最悪の事態はその後に起きた。
 地震から40分もしないうちに、最初の津波が押し寄せてきた。防波堤を乗り越え、日本の東北地方の太平洋沿岸を何百キロメートルにもわたり襲い、町や村を押し流した。その光景の一部始終は、仙台上空を旋回する報道ヘリコプターが生中継していた。
 翌日は、さらにひどかった。原子力発電所に危機が訪れていたのだ。福島第一原発メルトダウンが始まっていた。何十万人もが避難させられた。東京にいても、安全とは思えなかった。
 あの日の記憶は、深い集団的トラウマとなって傷を残した。私はそれから数カ月にわたり東京の新居を探したのだが、妻は地質図とにらめっこしながら、どこなら地盤が一番しっかりしているのか、川から遠い高台なのかを調べていた。妻は、建物の築年数に非常にこだわった。
 「1981年以前に建てられた物件は、対象外」。妻の基準は明確だった。
 1985年に建てられたマンションに入居するや、私たちは水や食べ物の備蓄を開始した。洗面台の下には、消費期限5年のあれこれが入った箱をぎっしり詰め込んだ。
 2011年のあの恐ろしい気持ちを、今回多くの人が追体験しただろう。
 それでもこの地震は、日本の見事な成功物語でもある。
 日本では地震の規模を、マグニチュードだけではなく、「震度」でも表す。地面がどれだけ揺れたかを、震度1から震度7にわけて示すのだ。そして1日の能登半島地震は、最大値の震度7だった。
 被災地の各地で道路や橋が破壊された。大規模な土砂崩れも起きた。それでも、大多数の建物はまだ建っている。
 富山や金沢などの大都市ではすでに、ある程度は、いつも通りの暮らしが戻っている。
 近くの新潟県柏崎市に住む友人と話をした。「本当に怖かった」と彼は言った。「ここでこんなに大きいのは初めてだ。沿岸部から避難する羽目になった。でも今では自宅に戻ったし、大丈夫だ」。
 耐震技術の見事な勝利だ。日本の地震対策は100年前、1923年の関東大震災から始まった。
 100年前の震災では、東京の広範囲でほとんどの建物が崩壊した。欧州式のれんが造りの建物は、ひとたまりもなかった。
 この経験を機に日本では市街地建築物法が改正され、初の耐震規定が盛り込まれた。これによって日本では、新築の建物は鉄筋とコンクリートで補強することや、木造建築は柱を太く強化することが義務付けられた。
 日本では、強い地震が起きるたびに、被害状況の調査をもとに、耐震基準が強化されてきた。特に飛躍的な改善となったのは、1981年施行の「新耐震設計基準」だ。
 この「新耐震」によって、日本では「震度5強程度の中規模地震では軽微な損傷、震度6強から7に達する程度の大規模地震でも倒壊は免れる」という耐震基準が義務付けられている。
 その後1995年に阪神・淡路大震災があり、日本はさらに多くの教訓を得た。
 やがて、2011年3月11日にマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。東京の震度は5だった。関東大震災と同程度の揺れの強さだった。
 1923年の地震では、東京はぺしゃんこになった。14万人が死亡した。2011年の地震では、東京の巨大な高層ビルは激しく揺れ、窓は粉々に割れた。それでも東京で高層ビルが崩れることはなかった。2011年の地震であれほどの犠牲者が出たのは、地面の揺れにも増して、それが引き起こした津波によるところが大きかった。
 今回の地震では、石川の古い木造家屋がぺしゃんこになっているのが映像で見てとれる。ビルが1棟倒れたが、複数の日本メディアは、これは1971年に建てられたものだとすぐに指摘した。
 発表によると、数十人が亡くなった。さらに大勢が負傷した。
しかし、これほどの地震を経験しながら、もっとひどい被害が出ない国は、地球上では日本以外、考えにくい。
 (英語記事 How Japan learned to live with earthquakes)
 (c) BBC News
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 何故、日本人が弥勒菩薩半跏思惟像より阿修羅像を好むのか。
 阿修羅は、天照大神に似ている。
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 日本の自然には、3つの顔がある。
 1、豊饒の大地。2,雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害地帯。3,花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がない山河・平野を覆う四季折々の命に満ちた賑やかな大地。
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 日本列島の自然は、興福寺の阿修羅像の三つの顔の表情に似ている。
 「AXIS」編集部。興福寺の阿修羅像の三つの顔はどんな表情?
 奈良大学がAIで表現を解析
 2018年の大半を通じて、関根氏と18人の学生チームは同社Azure Cognitive ServicesのFace APIを使い、阿修羅像を含む200体以上の古代の仏像の写真画像を分析。事前に訓練したAIシステムが、怒り、軽蔑、嫌悪、恐怖、幸福、あいまい、悲しみ、驚きの8種類の人間の表現を認識したという。
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 日本民族は、数万年前の旧石器時代縄文時代から日本列島で生きたきた。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
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 吉村均「日本人は自然の力を人間の世界の外に排除して、その代償として、決まった日に来てくれたら、歓迎してもてなし、送り返すまつりをおこなう必要があった」『日本人なら知っておきたい日本の伝統文化』
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 日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
 『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
 日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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 日本人の競い争う事を嫌う性格・気質・気性を生み出したのは、民族伝統の和食文化である。
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 日本民族の思考は、情緒的情感的な文系的現実思考と理論的合理的な理系論理思考であった。
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 関東大震災での自警団による日本人・朝鮮人・中国人惨殺事件は、日本の災害史の中で関東大震災の1件だけである。



 1月10日 YAHOO!JAPANニュース 産経新聞能登半島地震、日本の異例の対応に海外メディア注目 「『準備の文化』持つ」
 雨が降る中、倒壊した自宅から住民を救う救助隊員=3日、石川県珠洲市(桐原正道撮影)
 能登半島地震をめぐり、海外メディアは災害対応を相次ぎ速報するとともに、日本人の地震への備えに焦点を当てるなど、地震に見舞われる他国との対応の違いを強調している。
 【写真】被災者の疲れをいやす自衛隊風呂「極楽の心地」
 英BBC放送(電子版)は雪降る状況の中、北陸地方以外から応援に来た警察官らが人命救出を懸命に行っている写真を掲載。また、家屋が崩壊し、避難を余儀なくされている被災者に対し、自衛隊員が食料や水、毛布などを手渡ししている様子を詳述した。
 また、積雪の多さで知られる米中西部ウィスコンシン州拠点の「ウィスコンシン州ジャーナル」(電子版)も、輪島塗の漆器とみられる器やギターなどの日常品が、半壊した民家から庭に持ち出されている写真を掲載し、被害の大きさを伝えた。
 一方、「『準備の文化』を持つ日本」との見出しで今回の地震を報じた米ニュースサイト「ビジネス・インサイダー」は、「数々の自然災害に見舞われた歴史を持つ日本は緊急事態の準備を的確に行う国の1つ。この対応が人々の避難を助け、命を救うことにつながっている」と指摘した。
 具体例の一つとして、関東大震災(1923年)があった9月1日に毎年、日本で地震訓練が行われていることを紹介。「生徒まで訓練に参加し、三角巾で腕を吊ったり、ホースを使って消火したりする」と伝え、「これは極めて重要なことだ。というのは、能登半島でみられるように、緊急サービスが地震後数日間にわたり、遮断される恐れがあるからだ」と強調した。
 さらに、訓練は「実際に何をすべきかを教えてくれる。人々への信頼の重要性も教えてくれる」との外国人居住者のコメントも紹介し、訓練に伴う「社会交流」が生存に直結する、と力説している。(黒沢潤)
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 1月5日15:42 YAHOO!JAPANニュース note「元日に起こった令和6年能登半島地震で日本人の強さから学んだこと
 【これはnoteに投稿されたマッシ|エッセイスト&通訳さんによる記事です。】
 恐怖の涙なのか、生き残れた涙なのか。
 未だにわからないけど、日本人の心と行動に感謝してもしきれない。
 2023年は無事に終わって、2024年はいい年になるように全力で活動しようと思っていたところで、1月1日の16時ごろに数秒で人生が止まったようなことが起こった。どこに行けばいいのか、何をすればいいのか、考える時間すらなかった。ドミノのような感覚で、自分が遅く、周りの流れが早く感じていた。
 能登半島地震情報を見て、能登半島地震は多いよなと思っていたら、まさかの現実になるなんて、ハリウッド映画を超えたレベル。
 16時06分ごろ 石川県能登地方 ※ここに貼られていた記事のURLは【関連記事】に記載しています 最大震度5強 マグニチュード5.7。
 続いて、16時10分ごろ 石川県能登地方 ※ここに貼られていた記事のURLは【関連記事】に記載しています(輪島の東北東30km付近)最大震度7マグニチュード7.6。この時は大津波警報も発令された。
 Yahoo!地震情報
 16時06分ごろ、最大震度5強 マグニチュード5.7。たった4分後に、16時10分ごろ、最大震度7マグニチュード7.6。ニュースを見ながらまさか!自分の足が震えてきた。恐怖ではなく、地面が揺れていた。頭の中に「すぐ弱くなる」と思いながら、だんだん震度が強くなって周りの全てが洗濯機の中にいるような感じになった。
 この日はエニタイムフィットネスにいた。重いマシン、天井の暖房、グラス、ダンベルの全ては動いていた。壁沿いになんとか歩いて様子を見ながら「逃げよう」と思っていてもなぜか足が動かなかった。その時にジムにいた人が逃げ出して、声も掛けられた。やっと、外に出れた。
 自分の考えと行動は完全に繋がっていない。地震が少ないイタリア生まれの僕は、分かっていても地震が起こる瞬間、パニックよりパンク。もし1人だったらと思うと、この文章を書き続けることができない。
 ジムに出ても地震が止まらず、車さえ動いていた。遊園地のような風景。
 1分も経っていないはずなのに、1日の疲れのようだった。地震は落ち着いて自分のものを取りに行き、ジム仲間の車に乗って赤信号で止まったら、遊園地のような動きがまた起こった。
 とりあえず、海から離れて避難所に向かっている途中、金沢市内の建物が半壊していたり、グラスが割れていたり、建物の漏水などの光景を見て自分の弱さを改めて感じた。ジム仲間はしっかりしていて運転しながらラジオニュースを聞いて周りを注意深く見て、既に次の行動を考えることをしていた。日本人の頭の回転は早くてどんなことがあっても勇気が溢れる。
 やるべきことのリストは既に出来上がっていたような行動だった。これを見て日本人の強さは心にある「助け合い」と、頭にある「行動力」のコンビネーション。ストレスが溜まりやすい状況の中で、しなやかに曲がっても折れることはない。
 「頑張る」の本当の意味は初めて知ったかもしれない。美しい日本であり、恐ろしい日本でもある。このバランスを取りながら楽しく前向きに住めるのは日本人しかいないと思う。僕も日本に移住したごろと比べると、少し強くなったと思いたい。
 大人になって地震の恐ろしさが分かって勉強と訓練をしていてもおそらく、慣れない。今日は地震が起こるかもということ、外国人として実際に起こるまでは軽く感じる。ここで日本人はさすが「神様」のようなパワーを持ってる違いないと感じた。その要因は間違いなく、幼い頃からの避難訓練にあるのだろう。
 「おはしも・おかしも・おはしもて」
 地震が落ち着いた頃、ジム仲間と話し合った中で「お・か・し」という言葉が出た。日本人が幼い頃から避難訓練の時に教訓にしていることだそう。「押さない・駆けない・喋らない」。これがあるから日本人は、大人はもちろん小さな子どもまで、緊急時に落ち着いた行動ができる。
 1995年に発生した阪神淡路大震災後に、消防庁が小学校低学年の生徒を対象とした避難訓練用の標語「おはし(押さない・走らない・しゃべらない)」を、教育指導ガイドラインに掲載しました。これを契機に「おはし」は全国の小学校で使用されることに。実はこの標語は避難時に使うものではなく、あくまでも避難訓練時を安全に行うためのもの。避難の目安にしてはいけません。現在、消防庁は「おはし」に一語を加えた「おはしも(押さない・走らない・しゃべらない・戻らない)」または「おかしも(押さない・駆けない・しゃべらない・戻らない)」を推奨しており、東京都教育委員会も、それに倣って「おかしも」を採用しています。
 Brillia防災コラム ※ここに貼られていた記事のURLは【関連記事】に記載しています
 冷静に考える。
 ものの準備だけではなく、心の準備。どんなことがあっても無意識に正しい選択肢を数秒で選べる。今回は初めて感じたのは、日本人は地震と過ごしてるからどんなことでも驚かない。
 自分より相手、助け合い、諦めずに力を使い切るまでやる。
 現場にいなくても、情報回しと困っている人への思いやりはすぐ具体的な形になる。
 1人になっていてもSNSで役に立つ情報がたくさんあって、正しい方法などをすぐ教えてくれる。他人ではなく、友人になる。自分の人生に関わる人はずっと繋がりが残る。この気持ちでまた何かあったら、次は同じことを自分が動いて、相手を助ける。
 島国の強みは無敵感の生き方である。
 困っている人がいるからこそ、自分の存在が必要。できることは誰でもやる。ペットボトル一本だけでも助かる人がいる。
 イタリアのメディアでも能登半島地震はニュースになっている。リプ欄のイタリア人のコメントを見ると、「イタリアだったらパニックになって何もならなかった」「イタリア人はそのスピードで動けない」「さすが日本の震災訓練」など称賛の声が多く挙がっている。外から見ると、日本人の力はどう考えても神様になる。
 ただ、今回の地震羽田空港の事故によって多くの犠牲者も出ている。助からなかった命があってしまったのも現実だ。非常に残念でならない。そしていまだに救助を待つ方や、辛い思いをしている方もいる。僕が日本人からいただいたもの、学んだことを次は今大変な思いをしている方へ全力で返していきたい。
 とにかく生きて、1日でも早く全ての人々が安心して過ごせるように。
 2024年は1秒ずつを最高の時間にしていきたい。
 Massi
 マッシ|エッセイスト&通訳
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 1月19日17:30 YAHOO!JAPANニュース ニッポン放送能登半島地震 海外メディアが注目する災害時における「日本人の行動」
 地政学・戦略学者の奥山真司が1月19日、ニッポン放送飯田浩司のOK! Cozy up!」に出演。能登半島地震について解説した。
 【写真】孤立集落に水や燃料などの物資を届けるため、雪道を徒歩で進む自衛隊
 海外メディアが注目する災害時における日本の対応
 【能登半島地震】支援物資の拠点となっている珠洲市立健民体育館で、市内56箇所の避難所に配送する物資を準備する自衛官ら=2024年1月6日午前、石川県珠洲市(甘利慈撮影) 写真提供:産経新聞
 飯田)能登半島地震についてですが、お正月の発生だったので驚きました。
 奥山)警察もそうですが、お正月で自衛隊の実働部隊が手薄なところに来たのは、非常にインパクトがありました。ただ、災害派遣のことを「災派」とよく言いますが、阪神・淡路大震災の経験から、日本では着々と災派の知識が積み立てられてきました。あまりいいことではないのかも知れませんが、そういう経験が今回は活かされて、初動も含めていい動きでした。
 被災後の精神的なケアまで行う日本
 奥山)その後の精神的なケアまで行っているところは、海外メディアも注目しています。日頃の避難訓練など、地味なところに海外メディアが注目して報道しているのが印象的です。
 飯田)そういう底力など。
 奥山)社会的なまとまりですね。海外では「お互いに助け合おう」ということがあまりないので。
 飯田)災害をきっかけにした略奪なども起きにくいですよね。
 奥山)そこが尊敬されている部分ではあります。災害が多いのは大変ですが、現地の方には頑張って欲しいです。
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