🍙41〗─1─伊勢湾台風の地獄を救った在日米軍の元祖「トモダチ作戦」と献身的な自衛隊。~No.253 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 困った時に助けてくれるのが、真の友である。
 友・友人、親友は、助け合うことで友情を深めていく。
 その意味において、アメリカ・イギリス・台湾などは友・友人どころか親友であるが、中国共産党・韓国・ロシアは親友どころか友・友人にもならない。
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 伊勢湾台風(昭和34年台風第15号、国際名:ヴェラ/Vera)は、1959年(昭和34年)9月26日に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした台風である。伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であり、「伊勢湾台風」と呼ばれることとなった。
 概要
 人的被害は、紀伊半島和歌山県奈良県、伊勢湾沿岸の三重県、愛知県、日本アルプス寄りの岐阜県を中心に犠牲者5,098人(死者4,697人、行方不明者401人)・負傷者3万8,921人(「消防白書」平成20年度版)にのぼる。犠牲者を3,000人以上出した台風として、室戸台風枕崎台風とあわせて昭和の三大台風に挙げられ、その中でも最悪の被害をもたらした[注 2]。その犠牲者の数は、1995年1月17日に兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)が発生するまで、第二次世界大戦後の自然災害で最多のものだった。
 また、ほぼ全国に及んだ経済的被害は莫大なものとなり、GDP比被害額は阪神・淡路大震災の数倍、関東大震災に匹敵し、東日本大震災との比較対象に達するものであった。人的・経済的被害の規模の大きさから、明治維新以後で最大級の自然災害のひとつである。 災害対策について定めた災害対策基本法は、この伊勢湾台風を教訓として成立したものである。また、2013年に気象庁が運用を開始した特別警報も、台風については伊勢湾台風クラスを基準としている。

 災害状況
 全国被害状況集計において、犠牲者5,098人(死者4,697人、行方不明者401人)、うち愛知県で3,351人(うち名古屋市1,909人)、三重県1,211人と、伊勢湾岸の2県に集中した。負傷者は3万8,921人。
 全壊家屋3万6,135棟、半壊家屋11万3,052棟、流失家屋4,704棟、床上浸水15万7,858棟、船舶被害1万3,759隻。
 被災者数は全国で約153万人に及んだ。うち、三重県は約32万人、愛知県は約79万人と、県全人口の約2割が被災した。
 南寄りの暴風で、海水が熊野灘・伊勢湾・三河湾の最奥部に吹き寄せられ、和歌山県南部から愛知県までの広い範囲で高潮による浸水が発生し、名古屋市南区付近では、1か月以上も水が引かなかった地域があった。
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 2019年9月2日 朝日新聞「「孤島」に人、水浸しの名古屋 元米兵が見た伊勢湾台風
 有料会員記事
 小川崇

 1959年9月の伊勢湾台風では、米軍による救援活動もあった。当時、名古屋周辺で住民の救助に携わった元米兵の男性は「あの光景や音は、永遠に私の記憶に刻み込まれている」と60年前の様子を語る。
 男性は、カリフォルニア州在住のジョージ・シーモアさん(80)。米海軍の空母キアサージの乗組員だった。空母に搭載されたヘリコプターに乗り、ソナーで潜水艦などを探知するのが任務。高校を卒業し、志願して入隊したばかりだった。
 米海軍やシーモアさんによると、空母キアサージは59年9月初旬、訓練航海のためにカリフォルニア州ロングビーチを出発。ハワイを経由して、横須賀を目指す予定だった。
 しかし、伊勢湾台風が9月26日に紀伊半島へ上陸、東海地方を中心に高潮や河川の氾濫(はんらん)などで大きな被害をもたらした。太平洋地域などを管轄する米海軍第7艦隊からの要請で、キアサージは急きょ行き先を被害が大きかった名古屋に変更。空母から航空機で医療救援チームを現地に派遣し、30日に到着した。
 シーモアさんによると、空母は直接港に近づけなかったため、岸の手前で停泊。艦載のヘリコプターに操縦士と副操縦士、乗員の計3人が乗って救助に向かった。シーモアさんはヘリ後方に乗り、上空から被災した街を見た。「船が打ち上げられ、家が傾き、臭いがすさまじかった」と振り返る。
 名古屋周辺の街は水につかり、…
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 2022年4月5日 MicrosoftNews 乗りものニュース「元祖「トモダチ作戦自衛隊×米軍が救った伊勢湾台風の地獄 戦後屈指のヘリオペレーション
 リタイ屋の梅(メカミリイラストレーター)
 戦後最悪の台風被害「伊勢湾台風
 見渡すかぎり一面の泥水。水没して屋根だけ浮かぶ住宅、孤島のようになった学校には多くの人が残されていました。飲み水も食料もなく、助けを待つ人々を救ったのは、自衛隊アメリカ軍のヘリコプターでした。
 このような光景は、2011(平成23)年に起きた東日本大震災での自衛隊アメリカ軍による共同の救援活動、いわゆる「トモダチ作戦」を思わせますが、実は東日本大震災が起こる半世紀ほど前、1959(昭和34)年に起きた「伊勢湾台風」で、すでに同じような救援活動を実施していました。
 いわば、この「トモダチ作戦」の元祖ともいえるような日米共同のオペレーションをふりかえってみましょう。
 【米軍の貴重写真も】伊勢湾台風で救助活動に従事する自衛隊員ほか
 © 乗りものニュース 提供 アメリカ海軍の空母「キアサージ」。写真は伊勢湾台風災害のあった1959年に神戸港で撮影されたもの(画像:アメリカ海軍)。
伊勢湾台風」は、1959(昭和34)年9月26日の夕方に紀伊半島へ上陸して本州を縦断、死者・行方不明者合わせて5098名と、明治以降では最悪の被害をもたらした台風災害です。
 特に大きな被害を受けたのが愛知県と三重県でした。26日夜、伊勢湾周辺の堤防を破壊した高潮が、愛知県の名古屋市南部や弥富町飛島村三重県桑名市、長島町(現桑名市)などの沿岸部に襲来。突然の浸水に人々は避難する間もなく巻き込まれ、多くの命が奪われました。
 まさに東日本大震災津波を彷彿とさせますが、このような大災害にまず陸上自衛隊の守山および久居駐屯地の部隊が出動して人命救助を開始。夜が明けて浸水被害の深刻さが判明したことから、ヘリコプター部隊にも出動が要請されました。
 陸海空自衛隊の新鋭ヘリが結集
 ヘリコプターの出動といっても、当時はまだ日本国内のヘリは限られていました。自治体が保有する防災ヘリなど皆無です。たとえば警視庁航空隊が発足したのは伊勢湾台風後の1959(昭和34)年10月、愛知県警察航空隊は1961(昭和36)年9月であり、東京消防庁航空隊に関しては1967(昭和42)年4月でした。
 そのため、このときヘリコプターを組織的に運用できるのは、日本国内には自衛隊海上保安庁しかなかったのです。こうして陸上自衛隊からはシコルスキーH-19Cとパイアセッキ(現ボーイング・バートル)V-44A、海上自衛隊からはシコルスキーHSS-1、航空自衛隊からは救難航空隊(現航空救難団)のH-19Cがそれぞれ出動し、被災地上空で活動を開始します。なお、これら自衛隊ヘリも1954(昭和29)年から順次配備が始まったものであり、陸上自衛隊のV-44Aに至っては発災と同年の1959年(昭和34)に配備されたばかりの新型機でした。
 © 乗りものニュース 提供 伊勢湾台風で救助活動に用いられた自衛隊のヘリコプター(リタイ屋の梅作画)。
 かくして、自衛隊はこれらヘリコプターをはじめ最大で100個部隊、1万2000名を現地へ投入し、創設以来、最大となる災害派遣活動(当時)を行ったのです。
 被災地は広範囲にわたって深く浸水しているため、自動車での進入は不可能な状況でした。一方、ボートは低速で積載量も限られています。そこでヘリコプターの機動力が発揮されました。
 自衛隊はまず状況偵察、次いで救援物資の空輸を開始します。愛知県北部の航空自衛隊小牧基地名古屋市内にある陸上自衛隊守山駐屯地を拠点とし、名古屋市役所そばと名城公園などに臨時ヘリポートを設置して、飲料水、おにぎり、乾パン、キャラメル、衣類、ロウソク、ちり紙などのピストン輸送を行います。さらに、取り残された人々の救助、救急患者の搬送、医務官の派遣、消毒薬の空中散布など、あらゆる作業にヘリコプターを多用しました。
 米軍、ヘリオペレーションを自衛隊に全委託
 自衛隊に続いてアメリカ陸海空軍と海兵隊のヘリコプターも参加します。機種はシコルスキーH-34やパイアセッキH-21B、パイアセッキHUPなどで、たまたま名古屋に寄港中だった海軍のエセックス級空母「キアサージ」がアメリカ軍の中心的な役割を果たしたようです。
 驚くことにアメリカ軍は、約20機のヘリすべてを「日本で使ってくれ」とばかりに自衛隊の指揮下に預けます。そこで当時、小牧基地に所在していた航空自衛隊第3航空団の副司令が指揮官となり、英語が堪能な航空自衛隊ジェット戦闘機パイロットが通訳としてアメリカ軍ヘリコプターに同乗する形で、日米共同での救助活動が実施されました。
 © 乗りものニュース 提供 高波と台風で冠水した当時の三重県内の様子(画像:三重県)。
 なかでも特筆すべきは孤立地域の集団避難です。長期間にわたり水が引かない地域の住民を避難させるというこの「作戦」に、日米合わせて40機のヘリと海上自衛隊の揚陸艇などが参加。10月2日から4日にかけて7000名もの被災者を救出しています。これら自衛隊災害派遣は同年12月中旬まで続きました。
 自衛隊のヘリコプターを使った救助活動は、「1年分の作業を1週間でおこなった」と形容されるほど大変なものでした。ただ、その結果、当時の記録映像や報道写真には自衛隊アメリカ軍のヘリコプターが大きく映し出されており、貢献度の高さが伺えます。
 そのなかで、ある部隊では、自費で買ったお菓子を子供に配るために繰り返し飛行したと言い伝えられています。アメリカ軍でも「子供が気の毒で見ていられない」とお菓子を買おうとしたもののドルでは買えず、義援金を寄付するシーンが記録されていました。
 時代が違っても、困っている人に手を差し伸べようとする気持ちに変わりはないのでしょう。災害大国である日本。もしもの時の備えと助けてくれる「トモダチ」は大事にしたいものと、改めて筆者(リタイ屋の梅:メカミリイラストレーター)は思います。
 ※一部修正しました(4月5日22時00分)。」
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 護憲のリベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、学者・教育者は、反米派・反安保派、反自衛隊派である。
 自衛隊廃絶を主張する左翼・左派は、自衛隊自衛隊員を偏見を持って税金泥棒・人殺し集団と口汚く罵り、自衛隊員家族を差別した。
 自衛隊員の子供は、学校で意地悪や嫌がらせを行っていたが、日教組系教師や同調する教師は止めるどころか陰で子供たちを煽っていた。
 戦後の教育現場は、反宗教無神論と反天皇反民族反日本的なマルクス主義に汚染されていた。
 つまり、人の命よりイデオロギーが優先されていた。
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 日本の歴史から、昭和34(1959)年に起きた伊勢湾台風の甚大な被害に対する在日米軍自衛隊の救助活動は抹消されている。
 それは、平成7(1995)年1月に発生した阪神淡路大震災でも同じで、神戸市長は革新系であり、政府は革新系に近い社会党自民党連合政権であった。
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