🍙23〗─3─台風第16号「周防灘台風」。昭和17年8月27日・28日。~No.142No.143No.144 ⑨ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
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 周防灘台風とは、昭和17年(1942)8月27日から28日にかけて、九州~近畿地方に被害をもたらした台風です。 その中でも、特に山口県では、死者・行方不明者数が794名を数えるなど 、突出して被害が大きかったことが知られています。
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 被災地では、朝鮮人や中国人、部落民に対する虐殺事件はなかった。
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 軍国日本は、世界を相手とした絶望的な太平洋戦争を戦いつつ、国内で頻発する甚大な被害を引き起こす自然災害とも闘っていた。
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 2020年12月8日 YAHOO!JAPANニュース「太平洋戦争開戦 戦時中の気象報道管制中でも発表された台風情報
 饒村曜気象予報士
 4:00雲の渦巻き 台風(提供:アフロ)
 気象報道管制
 真珠湾攻撃が行われた昭和16年12月8日の午前8時、中央気象台の藤原咲平台長は、陸軍大臣海軍大臣から口頭をもって、気象報道管制実施を命令されています(文書では8日の午後6時、表1)。
 表1 気象報道管制命令文
 こうして、気象情報のやりとり(気象無線通報)は暗号化され、新聞やラジオ等による国民への天気予報などの発表が中止となっています。
 太平洋戦争を振り返る時、「太平洋戦争中の気象報道管制で住民に気象情報が全く伝わらないため被害が拡大した」といわれますので、多くの人がそう思っています。
 しかし、例外として、防災上の見地から気象報道管制中でも、台風接近等による暴風警報の発表は、特令によって実施されることになっており、全てが禁止されたわけではありません(表2)。
 表2 特令に依り暴風警報発表に関する協定
 正確に言えば、気象情報が全て発表中止ではなく、防災上の見地から、一部の気象情報は発表されていました。
 しかし、一部の気象情報の発表であったために、効果はあまりなく、太平洋戦争を生き残った人々は、戦争中は全く気象情報が提供されなかったと思い込んでいます。
 特令暴風警報は、戦争遂行に必要な情報でもある天気予報を国民に知らせないが、大災害をもたらす台風などの時には、「原因を言わず、危ないということだけを国民に知らせる」というもので、次のような制限がついていました。
 特令暴風警報の了解事項
1 発表する内容は警戒の区域、警戒の時期及警戒の程度に限るものとし、台風等の位置、示度、進行方向及び速度等は表さざるものとす。例へば次の如し。「  地方  日  時   頃より暴風雨になる、警戒を要す」
2 暴風雨の通過後と雖も観測せる結果は発表せざるものとす。
 周防灘台風
 太平洋戦争中に一番大きな被害が発生した台風は、昭和17年(1942年)8月27日に長崎県に上陸した台風です。
 山口県を中心に大きな高潮が発生し、1158名が亡くなっています(図)。
図 昭和17年8月27日に長崎県に上陸した台風による高潮(単位はセンチメートル)
 図中の丸数字は、時刻ですが、27日の21時ころに山口県に一番接近し、163センチメートル高潮が満潮時刻におきています。
 このため、この台風を周防灘台風と呼ぶことがあります。
 周防灘沿岸は干拓地が多く、海岸低地に工業都市が発達していたこと、これまで災害に見舞われた経験が少なく防災設備が不備だったこと、気象報道管制下であったために、台風についての情報が住民にほとんど伝わらなかったことが高潮被害を拡大させた原因として指摘されています。
 このころの戦局というと、6月5日のミッドウェー海戦の敗北に続いて、8月7日にアメリカ軍のガダルカナル島上陸がありました。
 太平洋戦争の開戦以来の日本軍の破竹の快進撃は止まり、米軍の本格的攻撃が始まりつつありました。
 気象報道管制が行われていましたが、NHKラジオでは、8月27日18時のニュースに引き続き、次のような放送をしています。
 中央気象台27日午後6時発表暴風警報
 中部地方、関東地方及其の近海は明日中に暴風雨となる警戒を要す。
 また、翌日、8月28日読売新聞朝刊には、次のような記事があります。
 暴風雨来る 中央気象台廿七日午後六時発表暴風警報中部地方、関東地方及びその近海は明日中に暴風雨となる、警戒を要す』北九州一部で家屋倒壊
 【福岡電話】廿七日午後博多、大牟田は不通となり、北九州地方一部に家屋の倒壊、電話、電灯線切断などの被害があった。
 前述した特令による暴風警報の発表が正式に決まったのは、昭和17年8月27日です。
 つまり、周防灘台風によって西日本で大きな被害が出ている最中でした。
 特令暴風警報の実施は、9月1日からでしたが、これを先どる形で、ラジオ放送が行われ、新聞でも報道されたのですが、天気予報が全くない中での短い情報です。
 国民は、この突然発表された情報の意味がわからず、どう行動すれば良いのかも分からなかったというのが実情ではないかと思います。
 太平洋戦争中は気象報道管制によって、気象情報が国民に全く伝えられなかったというのは誤解ですが、制約が多い中での中途半端な伝達であったため効果がほとんどなく、全く伝えられなかったと同様の状況でした。
 台風情報は進路や強度なので誤差を伴いますが、具体的な状況が分かっていれば、「台風の進行速度が予想より遅くなっているのでは」とか、「台風が予想より発達しているのでは」など、台風情報の誤差を補うこともできます。
 第一、避難しようというはっきりした動機付けになります。
 周防灘台風の予報精度は、かなり良いものでした。そして、早い段階で中央気象台から各地の測候所に伝達され、役所などの限られたところのみに伝達されていました。
 表3 中央気象台から測候所宛の電報(昭和17年8月)
 しかし、国民に伝えられたのはその一部でした。そして、その一部は、一部であったがために住民の行動には結びつきませんでした。
 災害時に特別なことをするという計画は、往々にしてうまく機能しません。
 災害時にうまく機能するのは、普段行っていることを増強して行うという計画です。
 日頃から目にしている天気予報で、台風の発生と移動を早い段階から知り、台風が接近してきたら台風情報に注意するという下地があって、各種の警報で行動を起こして災害を防ぐ(特に人的被害を防ぐ)ことができます。
 その意味では、日々の天気予報も防災情報の一つです。
 防災情報はより具体的に
 周防灘台風の被害があったせいか、周防灘台風の約1か月後に近畿から中部地方を台風が襲ったときの台風に関する情報は少し具体的になっています。
 特令暴風警報出る
 今夕から明朝にかけ
 【中央気象台廿一日午前十時発表特令暴風警報】今夕より明朝にかけ四国、近畿地方東海道方面及び付近海上は暴風になる惧れがありますから厳重な警戒を要します、特に海岸では満潮時の高潮や激浪に注意を要します。なほ中国地方、中部地方、関東地方、奥羽南部及びこれらの付近海上等も風雨がかなりつよくなりませう、中には暴風雨となるところもあるかもしれません、暴風雨になる見込みの時は測候所から特令暴風警報が伝達されますから御注意願ひます。
  出典:昭和17年9月22日読売新聞夕刊
 ただ、昭和18年(昭和43年)以降は、防災情報どころではないほど戦争が激化し、特令暴風警報も発表されていなかったようです。
 太平洋戦争中の気象報道管制
 天気予報などの気象情報は、戦争遂行のためには必要不可欠な情報です。
 このため、戦争になると、少しでも自国を有利にするため、自国の気象情報を隠し、相手国の気象情報の入手をこころみます。
 これは、昔の話ではなく、今でも状況は同じです。世界各地の気象情報が自由に入手できるというのは、平和の証なのです。
 タイトル画像の出典:アフロ。
 図、表1、表2の出典:饒村曜(昭和61年(1986年))、台風物語、日本気象協会
 表3の出典:「中央気象台(昭和19年(1944年))、秘密気象報告第6巻」より筆者抜粋
 饒村曜
 気象予報士
 1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2015年6月新刊『特別警報と自然災害がわかる本』(オーム社)という本を出版しました。
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 日本は、複合的災害が同時多発する自然環境において対外戦争・侵略戦争を行う時間的余裕も資源及び物資の余裕もなかった。
 それ故に、日本民族の歴史には殺し合いや戦争が少なかった。
 日本の自然は、哲学や思想を許してもイデオロギーの主義主張を許さなかし、崇拝と祈りの宗教を許したが奇跡と信仰の宗教を許さなかった。
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 2017年8月13日 YAHOO JAPAN!ニュース「気象報道管制の誤解 太平洋戦争中でも台風情報はラジオ放送されていた
 饒村曜 | 気象予報士
 太平洋戦争中でも国民に台風情報
 太平洋戦争が終わった8月15日前後に、マスメディア等で様々な特集が組まれています。
 その中で、太平洋戦争中の気象報道管制で「住民に気象情報が全く伝わらないため被害拡大」と、よく云われ、多くの人がそれを信じています。
 しかし、昭和17年8月の周防灘台風では台風という言葉は使っていませんが、台風情報がラジオや新聞で報道されています。
 例えば、NHKラジオは、第5群たる九州並に中国西部に対して、8月26日22時15分のニュースに引き続き、「8月26日午後中央気象台発表 今夜より明日にかけ、九州南部及西部並に其近海一帯は暴風雨となる厳重警戒を要す」と放送しています。また、中部地方から関東地方の第3群に対して8月27日19時のニュースの後「中央気象台27日午後6時発表 暴風警報中部地方、関東地方及其の近海は明日中に暴風雨となる警戒を要す。」と放送するなど、合計9種類のラジオ放送が行われています。
 さらに、昭和17年8月28日読売新聞朝刊に「暴風雨来る 中央気象台廿七日午後六時発表暴風警報中部地方、関東地方及びその近海は明日中に暴風雨となる、警戒を要す』北九州一部で家屋倒壊【福岡電話】廿七日午後博多、大牟田は不通となり、北九州地方一部に家屋の倒壊、電話、電灯線切断などの被害があった。」とあるように、新聞でも報道されています。
 また、この年の9月下旬に近畿~中部地方を台風が襲った時も、「特例暴風警報」が報じられていますので、太平洋戦争中は気象報道管制によって、気象情報が国民に全く伝えられなかったというのは誤解です。
 制約が多い中での伝達であり、効果が半減以下であったために、全く伝えられなかったと同様であり、多くの国民が「全く伝えられていない」と思ったのです。
 そして、敗色が強まった昭和18年以降は、制約が大きかった気象情報でさえも、伝達されなくなっています。

 {特例暴風警報出る
 今夕から明朝にかけ
 【中央気象台廿一日午前十時発表特例暴風警報】今夕より明朝にかけ四国、近畿地方東海道方面及び付近海上は暴風になる惧れがありますから厳重な警戒を要します、特に海岸では満潮時の高潮や激浪に注意を要します。なほ中国地方、中部地方、関東地方、奥羽南部及びこれらの付近海上等も風雨がかなりつよくなりませう、中には暴風雨となるところもあるかもしれません、暴風雨になる見込みの時は測候所から特例暴風警報が伝達されますから御注意願ひます
 出典:昭和17年9月22日読売新聞夕刊}

 太平洋戦争中の気象報道管制
 天気予報などの気象情報は、戦争遂行のためには必要不可欠な情報です。このため、戦争になると、少しでも自国を有利にするため、自国の気象情報を隠し、相手国の気象情報の入手をこころみます。これは、昔の話ではなく、今でも状況は同じです。世界各地の気象情報が自由に入手できるというのは、平和の証なのです。
 真珠湾攻撃が行われた昭和16年12月8日の午前8時、中央気象台の藤原咲平台長は、陸軍大臣海軍大臣から口頭をもって、気象報道管制実施を命令されています(文書では8日の午後6時、表1)。
 こうして、気象無線通報は暗号化され、新聞やラジオ等の一般広報関係はすべて中止されました。
 ただ、例外として、防災上の見地から、気象報道管制中であっても、暴風警報の発表は、特例により実施されることになっており、全てが禁止されていたわけではありません(表2)。
 この特例による暴風警報の発表が正式に決まったのは、昭和17年8月27日、大型の台風が九州の西海上を北上して長崎県に上陸し、西日本で大きな被害が出ている最中でした。
 特例暴風警報の実施は、9月1日からでしたが、これを先どる形で、ラジオ放送が行われ、新聞でも報道されたのです。
 周防灘台風
 昭和17年8月27日に長崎県に上陸した台風は、山口県を中心に大きな高潮が発生し、1158名が亡くなっています。図中の丸数字は、時刻ですが、27日の21時ころに山口県に一番接近し、163センチメートルの津波が満潮時刻におきています。
 このため、この台風を周防灘台風と呼ぶことがあります。
 周防灘沿岸は干拓地が多く、海岸低地に工業都市が発達していたこと、これまで災害に見舞われた経験が少なく防災設備が不備だったこと、気象報道管制下であったために、台風についての情報が住民にほとんど伝わらなかったことが高潮被害を拡大させた原因として指摘されています。
 このころの戦局というと、6月5日のミッドウェー海戦の敗北に続いて、8月7日にアメリカ軍のガダルカナル最上陸があり、開戦以来の日本軍の破竹の快進撃は止まり、米軍の本格的攻撃が始まりつつありました。
制約の多い特例暴風警報
 特例暴風警報は、戦争遂行に必要な情報でもある天気予報を国民に知らさせないが、大災害をもたらす台風などの時には、「原因を言わず、危ないということだけを国民に知れせる」というものです。
 特例暴風警報には次のような了解事項という制限がついていました。
{特例暴風警報の了解事項
 1 発表する内容は警戒の区域、警戒の時期及警戒の程度に限るものとし、台風等の位置、示度、進行方向及び速度等は表さざるものとす。例へば次の如し。「  地方  日  時   頃より暴風雨になる、警戒を要す」
 2 暴風雨の通過後と雖も観測せる結果は発表せざるものとす。}
 台風情報は進路や強度なので誤差を伴いますが、具体的な状況が分かっていれば、「台風の進行速度が予想より遅くなっているのでは」とか、「台風が予想より発達しているのでは」など、台風情報の誤差を補うこともできます。第一、具体的に分かっていれば、避難しようというはっきりした動機付けになります。
 周防灘台風の予報精度は、かなり良いものでした。そして、早い段階で中央気象台から各地の測候所に伝達され、役所などの限られたところのみに伝達されていました。
 しかし、国民に伝えられたのはその一部でした。そして、その一部は、一部であったがために住民の避難行動には結びつきませんでした。
 災害時に特別なことするという計画は、往々にしてうまく機能しません。
 私の限られた経験から言えば、災害時にうまく機能するのは、普段行っていることを増強して行う計画ではないか思います。
 日頃から見聞きしている天気予報で、台風の発生と移動を早い段階から知り、台風が接近してきたら台風情報に注意するという下地があって、各種の警報で避難行動を起こして災害を防ぐ(特に人的被害を防ぐ)ことができます。
 その意味では、日々の天気予報も防災情報の一つです。
 図、表1、2の出典:饒村曜(1986)、台風物語、日本気象協会
 表3の出典:中央気象台(1944)、秘密気象報告第6巻より筆者抜粋
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 周防灘台風(すおうなだたいふう、昭和17年台風第16号)は、1942年8月に九州に上陸し、九州〜近畿地方にかけて被害を出した台風である。特に山口県での被害が大きく、周防灘沿岸部での高潮の被害が顕著であったことからこの名称で呼ばれる。
 概要
 1942年8月21日6時頃に、サイパン島の東方約500 kmの海上で発生した台風16号は、発達しながら北西に進み、26日正午には 南大東島の北東およそ100kmの洋上を通り、同日18時頃から更に進路を北に変えて、九州西岸に向けて北上。27日には長崎県に上陸した。その際の勢力は、中心気圧950 mb(当時の単位。現在のhPaに等しい。)であった。その後は山口県宇部市に再上陸し、同県に大きな被害をもたらした後、29日の正午頃に日本海北部で消滅した。
 台風が九州へ接近すると、九州・四国地方は26日夜半頃から暴風雨に見舞われた。鹿児島県阿久根 (中心から約25 km) で、27日14時52分に最低気圧946 mbを記録したことなどから、南大東島を通過した26日頃から、北に進路を変えて九州に上陸した27日頃までが最盛期で、935 mb内外の示度であったと推定されている。
 被害
 台風の影響で、周防灘・有明海八代海・鹿児島湾などで高潮が発生したが、中でも周防灘で発生した高潮は、台風の通過が大潮の満潮時と重なったことからひときわ規模が大きくなり、沿岸部での被害も特に甚大となった。反対に、有明海側などでは大潮の干潮時と高潮の発生が重なったため、それほど大被害にはならなかった。また、周防灘の沿岸には干拓地が多く、工業都市が海岸低地に発達していたことや、過去の災害経験が少なく防災設備力が不備であったこと、太平洋戦争中の気象報道管制下であったため台風情報がほとんど住民に伝わらなかったことなどが、高潮被害を拡大させた原因になったと言われている。さらに山口県では、県西部を流れる厚東川での堤防の決壊により、被害がより拡大した。
 周防灘台風による死者・行方不明者の数は合計で1,162人にのぼり、うち被害が最も大きかった山口県内での死者・行方不明者数が794人(559人負傷)と大半を占めた。加えて、全壊家屋33,000戸、流出家屋3,000戸、船舶の流失・沈没4,000隻となった。しかし、これほどの大被害がもたらされたにも関わらず、この台風について当時大きく報道されることはなかったほか、中央気象台が精力的に行った調査報告である「秘密 気象報告第6巻」は、一般の人々の目に触れることもなかった。この調査報告は、台風研究 (特に高潮について) において有力な資料であるにも関わらず、「秘密 気象報告」があることすら知られていなかったため戦後になってもあまり利用されなかった。
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 防災情報新聞
○報道管制下の昭和17年台風第16号「周防灘台風」、200年来の高潮(70年前)
 1942年(昭和17年)8月27日~28日
 8月21日、サイパン島の東約500kmの洋上で発生した台風第16号は発達しながら北西に進み、鹿児島県奄美大島名瀬北方を通過した後、北から北北東に進路を変え、27日17時ごろ長崎県橘湾に上陸、18時ごろ佐賀県唐津付近を通り、19時過ぎ玄海灘に抜け、関門海峡の西60kmを通過して北上した。
 同台風は中心気圧940ヘクトパスカルという規模の割には雨量は少なかったが、強風により九州地方をはじめ西日本各地にかなりの被害を与えた。特に瀬戸内海西部や広島湾、愛媛県沿岸では台風の通過が満潮時と重なったため高潮が発生、被害は激しかった。
 中でも台風の進路と風向きの関係から、山口県小野田、宇部両市を中心とした周防灘西部沿岸では200年来といわれる高潮が発生した。それはこのあたりの海の深さが10m台と浅いため、下関で最大風速36.7m/秒と観測された強風が大きく作用したと考えられている。下関測候所の観測によると関門海峡の潮位は27日18時に290cmだったのが、19時に330cm、南の烈風が吹いた20時には380cmと急上昇し、21時に430cm、24時460cmと最高潮位を記録。この勢いが夜半の高潮となって沿岸部を襲い、甚大な被害を与え、台風に「周防灘台風」との異名がつくことになる。
 下関以外の各地の最大風速は、鹿児島県枕崎で37.2m/秒、長崎で35m/秒、広島で28.2m/秒。死亡・行方不明1158人(そのうち山口県が792人)、負傷者1438人。家屋全壊3万3283戸、同流失2605戸、同半壊6万6486戸、同浸水13万2204戸。船舶沈没・流失3936隻、堤防の決壊・破損3806か所、田畑流失・浸水266.2平方km(2万6846町歩)。
 台風も巨大なエネルギーを持っていたが、このような最大級の被害を出した背景には、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦により、軍部の機密防衛方針に基づき、新聞・ラジオの一般向け天気予報の発表がすべて中止されたところに一つの原因がある。周防灘台風は気象報道管制後、不幸にも初めて迎えた超大型台風だった。(出典:国会資料編纂会編「日本の自然災害」、宮澤清治著「日本気象災害史・戦時下の気象報道管制と猛台風」)
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 11月25日 YAHOO!JAPANニュース ダイヤモンド・オンライン「クリミア戦争、太平洋戦争、そしてウクライナ侵略…「戦争」と「天気予報」の意外な関係とは
 2022年2月12日から3月14日までのキーウの観測データ。気象庁ウェブサイトより。
 空が青い理由、彩雲と出会う方法、豪雨はなぜ起こるのか、龍の巣の正体、天使の梯子を愛でる、天気予報の裏を読む…。空は美しい。そして、ただ美しいだけではなく、私たちが気象を理解するためのヒントに満ちている。SNSフォロワー数40万人を超える人気雲研究者の荒木健太郎氏(@arakencloud)が「雲愛」に貫かれた視点から、空、雲、天気についてのはなしや、気象学という学問の面白さを紹介する『読み終えた瞬間、空が美しく見える気象のはなし』が発刊された。鎌田浩毅氏(京都大学名誉教授)「美しい空や雲の話から気象学の最先端までを面白く読ませる。数学ができない文系の人こそ読むべき凄い本である」、斉田季実治氏(気象予報士、「NHKニュースウオッチ9」で気象情報を担当)「空は「いつ」「どこ」にいても楽しむことができる最高のエンターテインメントだと教えてくれる本。あすの空が待ち遠しくなります」と絶賛されている。今回は、気象予報士太田絢子氏の原稿を特別に掲載します。

● 太平洋戦争時の大惨事
 その天気図をもとに作成された天気予報が、一般の人たちに届くのは当たり前のことではありませんでした。
 1941年12月8日に日本軍は真珠湾への奇襲攻撃を行い、太平洋戦争が勃発しました。この日から日本国内では気象情報は重要な軍事機密となり、天気予報や観測情報の報道は厳しく制限されたのです。
 というのも、戦争において自国の気象情報を隠しておくことは、戦争を有利に進めることにつながるからです。
 このため、1942年8月27日に台風が九州の西を北上して長崎県に接近・上陸した際には、多くの住民が直前にしか台風の接近を知ることができず、十分な対策が取れないままに台風の被害に巻き込まれました。
 死者700名以上にもなったこの台風は、山口県の周防灘沿岸に大きな高潮被害をもたらしたため、「周防灘台風」と呼ばれています。
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