📉95】─1─戦後教育である「詰め込み教育」を続ける日本人は国際社会で勝てない。〜No.216No.217 

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 2023年1月25日13:01 YAHOO!JAPANニュース 幻冬舎ゴールドオンライン「「詰め込み教育」を続ける日本人は国際社会で勝てない…脳科学者・茂木健一郎による警鐘
 かつての日本人は「本当の知性」を持っていましたが、時の経過とともに磨きがかかるどころか失ってしまいました。この原因は学校の「詰め込み教育」があると、脳科学者として活躍する茂木健一郎氏はいいます。みていきましょう。
 かつて日本に通底していた「わび・さび」の概念
 日本は教育大国だと、長年言われてきました。資源のない小さな島国が国際社会で存在感を発揮するには、僕たち1人1人が知性を磨かなければならない。日本では、人間こそがすなわち資源なのだ──。そんなことを学校の先生から教えられた人もいるのではないでしょうか?
 そう、本来、教育とは知性、本当の頭のよさを磨くもののはずです。しかし、僕には、ここ数十年の日本の教育が日本人の本当の頭のよさを磨いてきたとは、到底思えないのです。
 千利休明治維新の志士たちも…みな「情緒に流されない力」を持っていた
 たとえば僕は、千利休(1522~1591)はとてもクレバーだと思います。利休が発見した「わび」「さび」の概念は、世界中で尊ばれ、好まれる美意識、コンセプトです。
 ちなみに「わび」とは足りないものに美を見出すこと、「さび」とは時間の流れとともに変質していったものに美を見出すことです。
 大事なのは、千利休が発見したといっても、彼が「これがわび・さびです」と確立したわけではないということ。たとえば水墨画の大家、長谷川等伯(はせがわとうはく)や雪村(せっそん)などもわび・さびの極地と言っていいと思いますが、かつて日本に通底していた、そういった美意識を見出し、論理立て、わび・さびと名づけたのが千利休だったのです。
 また、明治維新という出来事も、全体を通じて非常な知性を感じさせます。
 外国から開国を求められている、しかし国内も一枚岩ではない、国内をまとめ外国の勢力に対抗しなければならない。「ペリーを怒らせるのは嫌だしなあ」「将軍の顔を潰しちゃいけないしなあ」「薩摩は長州より格が上だぞ」なんて、重要な登場人物の誰か1人でも情緒に任せて動いていたら絶対に成功しませんでした。
 明治維新を成し遂げた薩摩や長州の人たちは、いや、はからずも対抗勢力となってしまった江戸幕府の人たちも、我が藩の利益だけでなく、立場は異なっていても日本という国について考え、選択をしたはずです。
 千利休にしても、時は乱世なわけです。秩序が乱れ、戦乱や騒動が絶えない時代にあって人々の心はすさみ、厭世的な気分が国中を覆っていたはずです。そうした情緒に流される方向に添えば、生きるのは悲しい、苦しいみたいな方向に行ったって決して間違いではないわけです。もしくは人はすぐ死ぬ、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声だみたいな価値観だって当時すでにあったでしょう。
 しかし千利休はそこに「もののあはれ」的な美を見出すことはしませんでした。そうではなく、人は滅びる、しかしモノは滅びない、そして古びたモノ=時を経てなおそこにあり続けるモノは美しい、という非常に骨太な、情緒ではなくロジックに裏打ちされたセンスを示してみせるのです。
 そんな中世の千利休、近代の維新の志士たちが持っていた本当の頭のよさとは「情緒に流されない力」だったと僕は考えています。つまり、かつての日本人は「言語化されていない」けれど「情緒的ではなくてロジックに基づいた」感覚を正しくとらえる力を持っていました。
 日本の「詰め込み教育」が“本当の知性”を摘んでいる
 この情緒に流されずに正しく判断する力こそがいまの時代も必要なのであり、本来、教育とはそういった部分を伸ばしていくべきだと僕は考えています。
 そのためには、たとえば外国の学校現場で取り入れられているようなディベートを重視し、プロジェクトの企画から完成までを行なうプロジェクト型の教育が必要でしょうし、アートや一般教養についての深い学びも必要でしょう。それらは本来、テストで判定できるようなものではないはずです。
 しかし、日本の教育はいまだに暗記型、詰め込み型で、テストで成績を判定します。テストで判定できる知識で、社会に出てから役立つものがどれほどあるでしょうか。たとえば、いかに創意工夫してプロジェクトを立ち上げやり遂げるかは、趣味の世界でも、ビジネスの世界でも求められる普遍的な能力ですが、テストのしようがありません。
 英語における「用語のセンス」もテストできないでしょうね。もちろん、単純に英文を訳せるかどうかはテストできます。しかし、「これはペンです」を英語にできるかどうかはテストできても、そんなものは実際に外国人と話すときには役立たないでしょう。
 「あ、それはペンですよ」と、相手に教えるシチュエーションより、「心がざわっとして、ちょっと悲しくなって、でもそう言ってもらったことが嬉しかった」という複雑で曖昧な心の機微を伝えるシチュエーションのほうが、人生では絶対に多い。こうした用語のセンスを日本の英語教育で身につけられるとは、到底思えません。
 いまの日本の教育を受けた人の多くは暗記型、詰め込み型の勉強は得意でも、ディベートや質問は苦手です。しかし、世界の多くの国では暗記や詰め込みではなく、発想、交渉といった教育に力を入れている。これは実は由々しき事態です。
 茂木 健一郎
 理学博士/脳科学
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