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報告書(1896 明治三陸地震津波)
災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月
1896 明治三陸地震津波
報告書の概要
<概要>
明治29(1896)年6月15日、午後8時ごろ三陸沖で発生した地震に伴う大規模な津波により、三陸沿岸を中心に死者約2万2千人、流出、全半壊家屋1万戸以上という我が国津波災害史上最大の被害が発生した。
<教訓>
迅速な避難が生死を分けたことに鑑み、避難の際には出来るだけ高い土地に最短距離で到達することにし、その道筋を平素から確認しておくべき。高台が付近になければビルの高層階を利用すべき。
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ウィキペディア
明治三陸地震(めいじさんりくじしん)は、1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmの三陸沖(北緯39.5度、東経144度)を震源として起こった地震である。マグニチュード8.2- 8.5の巨大地震であった。さらに、東北地方太平洋沖地震前まで本州における観測史上最高の遡上高だった海抜38.2mを記録する津波が発生し、甚大な被害を与えた。
なお、当地震を機に「三陸海岸」という名称が広く使用され始めた(参照)。
1888年(明治21年)の磐梯山の噴火や1891年(明治24年)の濃尾地震のときから新聞報道が全国的にされるようになり、義援金が集まるようになった。
被害
日本国内
行方不明者が少ない理由について、震災後当初は宮城県の一部や青森県では検死を行い、死者数と行方不明者数を別々に記録し発表していたが、「生存者が少ない状況で煩雑な検死作業をしていられなかった」というなかで「検死を重視していなかった」などの社会背景により、「行方不明者」という概念はなくなり、死亡とみなされる者はすべて「溺死」あるいは「死亡」として扱われた。
人的被害
死者・行方不明者合計:2万1959人(北海道:6人、青森県:343人、岩手県:1万8158人、宮城県:3,452人)
死者:2万1915人
行方不明者:44人
負傷者:4,398人
・概要
各地の震度は2 - 3程度であり、緩やかな長く続く震動であったが誰も気にかけない程度の地震であった(最大は秋田県仙北郡の震度4)。地震動による直接的な被害はほとんどなかったが、大津波が発生し、甚大な被害をもたらした。
低角逆断層(衝上断層)型の海溝型地震と推定される。三陸沖地震の一つと考えられ、固有地震であるが、震源域は特定されていないため、発生間隔は数十年から百数十年と考えられる。
鳴動現象はこの地震でも報告があり、水澤町や二戸郡福岡町では地震動の到着から数分から10分後に遠雷あるいは発砲のような音を聞いた。
日本国外への余波
アメリカ合衆国のハワイ州には全振幅2.4- 9.14mの高さの津波が到来し、波止場の破壊や住家複数棟の流失などの被害が出た。また、アメリカ本土ではカリフォルニア州で最大9.5ft(約2.90m)の高さの津波を観測したが、被害は記録されていない。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「明治三陸地震津波」の解説
明治三陸地震津波
1896年6月15日午後7時32分頃に三陸沖(→三陸海岸)で発生した地震により引き起こされ,三陸沿岸を襲った大規模な津波。日本の歴史上,最悪の津波災害の一つ。地震によるゆれは最大でも震度 4程度と小さく,震害はなかった。しかし地震発生の約 30分後に巨大な津波が岩手県の沿岸を中心に来襲した。津波の高さは最も高かった岩手県綾里村での 38.2mをはじめ,岩手県の沿岸で 10~30m,宮城県北部でも数mから10mに達した。ハワイでも 9mほどの津波が来襲した。この津波による死者は約 2万2000人,負傷者は約 4400人に達した。この津波を引き起こした地震は津波地震で,通常の地震よりゆっくりと断層がすべる特徴がある。このため人の感じるゆれは小さいが,断層の規模が大きかったので,大規模な津波が発生した。震源は日本海溝に近い岩手県沖で,北緯 39.5°,東経 144°,地震の規模はマグニチュード(M)8.2,日本海溝に沿う断層の長さは 200km程度と推定されている。慶長16(1611)年10月28日に発生した慶長三陸津波もほぼ同じ場所で発生した地震によると考えられている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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特定非営利活動法人 失敗学会
事例名称 明治三陸大津波
事例発生日付 1896年06月15日
事例発生地 東北地方三陸
事例発生場所 沿岸沿い
事例概要 三陸沖約150kmを震源とするマグニチュード8.5という巨大地震によって、三陸のリアス式海岸の特殊な地形と満潮時に重なったため、大きな津波が三陸沿岸に襲来、村落を飲み込んだ。最大の津波高さは38.2mであった。死者は22,066人、流失家屋は8,891戸の大きな被害をもたらした。
事象 弱い地震を感じたのちに、津波が三陸沿岸に襲来、最大の津波は38.2mであった。死者は22,066人、流失家屋は8,891戸の大きな被害をもたらした。
写真1、図1はその被害状況である。
経過 1896年(明治29年)6月15日は、日清戦争に従軍して凱旋した兵士たちを迎え、三陸の村々で祝賀式典が開かれ、兵士を迎えた家では宴もたけなわだった。またこの日は旧暦の端午の節句であった。男の子がいる家では親族が集まって祝い膳を囲んでいる最中の午後7時32分、小さな揺れを感じた。この地方は3月頃から小さな地震が続いていており、井戸水が枯れたり、水位が下がったり、いわしの大群が連日押し寄せマグロの大漁が続くなど、沿岸の漁村では例年と違う不思議な現象が起こっていた。
その日も、朝に弱い地震があり、何回も続いた後にこの地震が発生して、それは5分間ほど揺れた。そして、その10分ほど後にもまた揺れた。が、春以来の地震の中でも小さいほうであったので誰もあまり気にもしていなかったし、震害もなかった。
(しかし、実際はその地震は三陸沖約150kmを震源とするマグニチュード8.5という巨大地震であった)。
ところがこの地震発生後35分たった午後8時7分に津波の第一波が三陸沿岸に襲来、続いてその8分後の午後8時15分に津波の第二波が襲った。第一波で残った家もすべてさらって流し去った。その時間はちょうど満潮と重なっていたため、一段と波高を高くし、リアス式海岸が波のエネルギーをさらに高めて襲来するという悪条件が重なった。
最初に海の異変に気づいたのは、魚を荷揚げしていた海産物問屋の若者たちであったといわれる。海の遠雷のような怪音が聞こえ、船が大きく傾き、いままで海底にあった岩がむき出しになるのが見えたという。
最大の津波は綾里村で実に38.2mという想像を絶する高さであった。普通津波での死者は溺死と思われるが、綾里地区の「明治三陸大津波伝承碑」の碑文には「綾里村の惨状」「綾里村の如きは、死者は頭脳を砕き、或いは手を抜き、足を折り名状すべからず」と書かれているように、犠牲者は打撲が多く、原型を止めないほど遺体が損傷する悲惨なものである。地震の揺れによる被害はまったくないにもかかわらず、これほどの津波が襲うと誰も考えていなかったのである。また、この地震でハワイにも2.4m-9.1mの津波をもたらせ多くの被害を出した。
この津波で、死者は22,066人、流失家屋は8,891戸に上った。
原因 三陸沿岸に津波来襲回数が多いのは、海岸特有の地形によるものである。北は青森県の八戸市東方の鮫岬から宮城県牡鹿半島にわたる三陸沿岸はリアス式海岸として、日本で最も複雑な切り込みの多い海岸線として知られている。海岸には山肌がせまり、鋭く入り込んだ湾の奥に村落が存在する。沖合いは世界有数の海底地震多発地帯で、しかも深海のため、地震によって発生したエネルギーは衰えずそのまま海水に伝達し、大陸棚を伝って海岸線とむかう。三陸沿岸の鋸の歯状に入り込んだ湾はV字形をなして太平洋に向いている。このような湾の常として、海底は湾口から奥に入るにしたがって急に浅くなっている。巨大なエネルギーを秘めた海水が、湾口から入り込むと、奥に進むにつれて急激に海水は膨れ上がり、すさまじい大津波となってしまうのである。また今回は、満ち潮の時刻と重なったことも大きな要因である。図2は三陸地方の海岸の地形を示す。
犠牲者が多くなったのは、地震の体感程度が小さく、これほど大きな津波とは誰も考えず、高所への避難をしなかったためであった。
対処 大津波の来襲した翌日の6月16日午後3時、災害発生の電報は東京の内務省に届き、内務大臣はその旨を明治天皇に上奏するとともに内務省から各省に緊急連絡されて本格的な救援準備に着手した。天皇は、侍従東園基子爵を慰問使として派遣、災害地で生存者を激励して廻った。政界・官界からも視察員が派遣され、仙台の第二師団では、津波の報と同時に多数の軍医を災害地に急行させ、治安維持のため憲兵隊も派遣した。また工兵隊員多数も死体処理等のために出動、海軍は軍艦3艦を派遣し、海上に漂流している死体の捜索にあたった。日本赤十字や福島赤十字支社、看護婦会から派遣された医師、看護婦、看護人たちは日夜負傷者の治療に奔走した。
対策 特に津波災害防止法はとられなかった。
本津波の37年後の1933年に再び大津波がこの地域を襲い、ようやく各被災県が中心になって、防潮堤、防潮林、安全地帯への避難道路等が新設され、災害防止の趣旨を徹底するため、県庁から「地震津波の心得」というパンフレットが一般に配布された。
それには津波を予知する方法として、
・緩慢な長い大揺れの地震があったら、津波のくるおそれがあるので少なくとも1時間位は辛抱して気をつけよ。
・遠雷或は大砲の如き音がしたら津波のくるおそれがある。
・津波は激しい引き潮をもって始まるを通例とするから、潮の動きに注意せよ。
また避難方法として、
・家財には目もくれず、高い所へ身一つで逃れよ。
・もし船に乗っていて岸から2,3百メートルはなれていたら、むしろ沖へ逃げた方が安全である。
などが書かれている。
知識化 地震にしても津波にしても過去の事例にだけとらわれていると危険である。常に最悪を考えて行動する必要があると、この災害は教えてくれている。
大災害にも小さな予兆(この場合は小さな地震)があり、ハインリッヒの法則がこの場合でも当てはまるのは興味深い。ただし、現在も地震の予知方法はまだ確立されていないが、津波予報はかなり進歩している。
背景 本事故までに、三陸沿岸を襲った津波を調べてみると
1611年(慶長16年)、1616年(元和2年)、1651年(慶安4年)1676年(延宝4年)、1677年(延宝5年)、1687年(貞享4年)、1689年(元禄2年)、1696年(元禄9年)、1716~1735年(享保年間)、1781~1788年(天明年間)、1835年(天保6年)、1856年(安政3年)、1868年(明治元年)、1894年(明治27年)とおびただしい頻度で発生していた。
過去の津波による被害としては特に1856年(安政3年)の大津波が大きかった。
このときは今回の災害時と同様に、大津波の襲来前はイワシやマグロの大漁であったという。
後日談 これまで小さな揺れの地震でこれほど大きな津波が襲った例がなかった。以来、地震による震害より津波被害の多い災害を「地震津波」と称するようになった。
シナリオ
主シナリオ 未知、異常事象発生、非定常動作、状況変化時動作、破損、大規模破損、身体的被害、死亡
情報源 吉村 昭著:海の壁 中公新書(1970)
社団法人 日本損害保険協会:津波防災を考える、想像しにくい津波の実像
死者数 22066
物的被害 流出家屋8,891戸
マルチメディアファイル 写真1.流出した宮城県志津川町の大森地区
図1.釜石町津波被害後の状況
図2.三陸地方のリアス式海岸
備考 津波による大被害
分野 機械
データ作成者 張田吉昭 (有限会社フローネット)
中尾政之 (東京大学工学部附属総合試験所総合研究プロジェクト・連携工学プロジェクト)
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塾生新聞
企画, 明治ニ學ベ, 特集 《明治ニ學ベ》明治三陸地震と東日本大震災 正しい知識が命を救う
企画
《明治ニ學ベ》明治三陸地震と東日本大震災 正しい知識が命を救う
2018/10/28 企画, 明治ニ學ベ, 特集
『時事新報』では義捐金の募集が行われた
死者、約1万5千名。行方不明者、約2500名。2011年の東日本大震災は、多くの命を一瞬にして奪った。被災地は復興への道を着実に歩んでいるが、震災から8年が経とうとしている今もなお、多くの人が仮設住宅で暮らしている。震災が与えた傷は、あまりに大きく、根深い。
一方で、震災で大津波に襲われながらも、被害を免れた地域がある。岩手県宮古市の姉吉地区。明治・昭和期に相次いで起きた三陸地震の悲劇を繰り返さないよう、石碑にこう刻まれた。「此処より下に家を建てるな」。その教えを守った住民たちは、未曽有の大災害を生き抜いた。明治三陸地震の教訓が、百年の時を越えて町を救った。
明治三陸地震は、1896(明治29)年に三陸沖を震源として起こった巨大地震である。地震の規模を示すマグニチュードは8・2で、死者は2万人を超えた。明治三陸地震と11年の東北地方太平洋沖地震は、発生のメカニズムこそ異なるものの、共に津波により多数の犠牲者を出した。日本人はこのような巨大地震・津波を何度も経験してきた。
「喉元過ぎれば熱さも忘れる」、「天災は忘れたころにやってくる」という言葉がある。人類は過去に起きた災害の被害を忘れ、同じ過ちを繰り返してきた。この悲しみの連鎖を食い止めるためにはどうしたらよいのだろうか。
災害の伝承というと、石碑が思い浮かぶ。実際、姉吉地区は石碑により救われたし、東日本大震災以降は被災地に多くの石碑が建てられた。しかし、石碑に刻まれた先人の思いは、伝わらないことも多い。宮城県名取市の閖上地区にも、津波への用心を訴える石碑があったが、震災では多くの人が津波に飲まれ亡くなった。
災害伝承のあり方は、モノに限らない。形には表せない「価値観の伝承」で、命が救われた事例もある。その一つが、三陸地方に伝わる「津波てんでんこ」という考え方だ。「てんでんこ」とは「それぞれ」という意味。津波が来たら親兄弟構わず各自で逃げよという伝承だ。
慶應義塾普通部・太田教諭
防災教育に詳しい慶應義塾普通部の太田弘教諭は、「どんなに過酷な自然環境でも、そこに人がいなければ人的な災害は起こらない。まずは逃げることが大切だ」と、「津波てんでんこ」の有用性を評価する。経験に裏打ちされた正しい理解に基づき、的確な対策法を受け継いでいくことが大切だ。
地震を科学的に検証した記事を掲載した=『時事新報』(明治29年6月21日付)
実は、慶應義塾ゆかりの「時事新報」は明治三陸津波と深い繋がりをもつ。時事新報は、1882(明治15)年に福澤諭吉により創刊された日刊新聞。明治三陸津波の発生時には、他紙が津波被害の悲惨さを中心に伝えたのに対して、災害のメカニズムを科学的に分析した記事をしばしば掲載した。
福澤研究センター・都倉准教授
慶應義塾福澤研究センターの都倉武之准教授は「災害を過剰に恐れることなく、冷静に捉えている。実学の精神が反映された記事だ」と分析する。都倉准教授によれば、ここでの「実学」とは、すぐに役立つ実践的な知識ではなく、物事を科学的・合理的に分析し、自分の把握可能なものにしていく営みを指すという。
政府の地震調査研究推進本部によると、今後30年の間に、南海トラフ地震は80%、首都圏におけるマグニチュード7クラスの地震は70~80%の確率で起こると予測されている。太田教諭は「地震がいつ・どこで起こるのかを完全に予知することは不可能。緊急地震速報の出た直後と発生後の対応が大切」と訴える。
災害大国、日本で生きる私たち。命を守る行動をとるには、過去の教訓を生かすこと、そして災害のメカニズムを正しく理解することが大切だ。正しい知識はいつでもどこでも、自分を守る強い味方になる。次の災害が近づく今、過去を冷静に振り返ることが求められている。(太田直希)
慶應塾生新聞会
三田オフィス
〒108-0073
東京都港区三田3-4-8
佐野ビル4階
Tel:03-3454-7966
Fax: 03-6435-2573
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平成20年度東京大学附属図書館特別展示
「かわら版・鯰絵にみる江戸・明治の災害情報-石本コレクションから」
11.明治三陸津波(1896年)
明治三陸津波は、明治29年6月15日午後8時頃、青森県から宮城県の太平洋沿岸を中心とした地域で発生した。マグニチュードは6.8程度と推測されているが、甚大な被害を被った三陸沿岸でも震度は小さく、地震の被害は殆ど皆無であったため、人々は津波を想起しなかった。また、当日は旧暦の節句(5月5日)や、日清戦争の戦勝祝賀式典のため、夜になっても祝いの宴が続いていたこともあり、避難が遅れ、合計22,000人が死亡した。想定を超えた被害に、政府の災害対応でも特例措置が取られ、被災地復興のため、通常の備荒儲蓄金の他に予備金や国庫剰余金などが投入された。
以下の錦絵は、近世期の伝統的スタイルを踏襲した刷物で、明治中期の段階でもこのようなメディアに対する需要が確認できる。ただし、記述内容は現地取材などに基づくものではなく、三陸津波の話題を巷間に提供することを狙ったものであった。このようなメディアにより現地の惨状が伝えられると、恩賜金17,500円のほか、各地から3県合計63万円余りが集まり、衣類や食料といった義捐品も多く寄せられた。
[参考文献]
宇佐美龍夫 『新編日本被害地震総覧』 東京大学出版会 1987年
渡辺偉夫 『日本被害津波総覧』 東京大学出版会 1985年
北原糸子 『近世災害情報論』 塙書房 2003年
首藤伸夫 「津波地震で発生した津波 1896年明治三陸大津波」(『月刊地球』 Vol.25, no.5 2003年)
国立歴史民俗博物館編 『ドキュメント災害史1703-2003 地震・噴火・津波、そして復興』 国立歴史民俗博物館 2003年
越村俊一「1896年明治三陸地震津波」 (『広報ぼうさい』No.28 2005年)
『1896明治三陸地震津波報告書』 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会 2006年
(白石睦弥)
Copyrights © 2008 東京大学附属図書館
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日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
死への恐怖。
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日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
生への渇望。
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日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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