🍙19〗─4─幻と消えた紀元2600年記念日本万国博覧会。〜No.86No.87No.88 

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 紀元2600年記念日本万国博覧会は、1940年(昭和15年)に日本の東京市(当時)で開催予定であった国際博覧会である。 「東京万博」と呼ばれることが多い。しかし、日中戦争の激化など諸般の事情により中止された。
 概要
 1940年(皇紀2600年)は、神武天皇が紀元前660年に初代の天皇に即位して2600周年の節目の年であるとして、紀元2600年を祝賀する行事のほか、様々な国際的イベントも招致された。
 オリンピックも夏季大会が東京市(現・東京都区部)で、冬季大会が札幌市で開催されることが決定しており、万国博覧会東京市の月島の4号埋立地(現在の晴海)をメイン会場として開催されることが決定し、勝鬨橋は博覧会開催のための整備の一環で造られた。それ以外では6号地(東雲)の一部と台場公園、横浜の山下公園も会場予定地となった。
 開催期間は3月15日から8月31日までの170日間を予定しており、総動員4,500万人を見込むなど、国家的イベントになるはずであった。しかし日中戦争が激化したため、資源が使われることを危惧した軍部の反対、および参加国の減少が確実になったことなどで、1938年に中止が決定した。」
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 1940年東京オリンピック(1940ねんとうきょうオリンピック)は、1940年(昭和15年)に日本の東京府東京市(現・東京都区部(東京23区))で開催されることが予定されていた夏季オリンピックである。
 史上初めて欧米以外の有色人種国家であり、アジアで行われる五輪大会、そして紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたものの、支那事変の影響等から日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。

 概要
 当時アジアにおける数少ない独立国で、かつ「五大国」の一つである日本の首都の東京での開催は、1936年(昭和11年)の国際オリンピック委員会IOC)で決定し、それ以降には開催の準備が進められていたものの、支那事変の勃発や軍部の反対などから日本政府は1938年(昭和13年)7月にその実施の中止を決定した。1940年大会の代替地として、オリンピックの招致合戦で東京の次点であったヘルシンキが予定されたが、第二次世界大戦の勃発によりこちらも中止となった。
 日本は第二次世界大戦での敗戦後、1960年(昭和35年)の夏季大会に東京を開催地として再び五輪開催地として立候補、東京での開催は「東京五輪」として1964年(昭和39年)に実現した。これがアジアで初であると同時に、有色人種国家初のオリンピック開催となった。

 開催権返上へ
 国内からの反対意見
 このように開催に向けた準備が進む一方で、1937年3月20日衆議院予算総会では河野一郎(政友会、後に日本陸上競技連盟会長)が「今日のような一触即発の国際情勢において、オリンピックを開催するのはいかがと思う」旨を発言。実際に前年までヨーロッパとアフリカでは第二次エチオピア戦争が起きており、またこの発言のその4か月後に盧溝橋事件が起こり、その後日本軍と中華民国国軍の戦闘区域が拡大し「日中戦争」と呼ばれるようになると、陸軍が軍内部からの選手選出に異論を唱えた。また各種団体からの満州国選手団の参加を求める抗議行動が続いていた。
 1938年に入ると日中戦争の長期化により鉄鋼を中心とした戦略資材の逼迫した為競技施設の建設にも支障が生じ、東京市の起債も困難となってきた。さらに陸軍大臣杉山元が議会において五輪中止を進言し、河野が再び開催中止を求める質問を行うなど、開催に否定的な空気が国内で広まった。それまで五輪開催を盛り上げる一翼を担ってきた読売新聞や東京朝日新聞などでは、五輪関係の記事がこの年から打って変わって縮小している。 さらに、軍部からの圧力を受けた内閣総理大臣近衛文麿公爵は、同年6月23日に行われた閣議で戦争遂行以外の資材の使用を制限する需要計画を決定し、この中に五輪の中止が明記されていたことから、事実上五輪の開催中止が内定した。
 国外からの反対意見
 1938年3月にカイロ(エジプト)で開催されたIOC総会では、ベルリン大会組織委員会事務総長のカール・ディームが聖火リレーの実施を提議し、各国から実施の要望がなされるなど、開催へ向けて準備が進んだ上に、聖火リレーのルートに満州国を入れることで、当時イギリスやアメリカ、ソビエト連邦などの中国大陸での利権をめぐり日本と対立していた国の反対でオリンピック委員会への加盟がかなわず、そのために参加が危ぶまれていた満州国選手団の参加に弾みをつけた。
 しかしカイロ総会前には、中国大陸における利権のみならず、日独伊防共協定を巡り日本と対立していたイギリスやイギリス連邦を構成する自治領オーストラリア、ニュージーランドだけでなく、大会開催権を争って敗北していたフィンランドからも、東京開催の中止と「漁夫の利」を目論んでのヘルシンキでの代替開催を求める声が上がっており、さらに日中戦争の一方の当事国である中華民国も開催都市変更を要望してきた。
 このような状況下にあるにもかかわらず、「中国大陸での動乱が収まらなかった時は中華民国の選手の出場はどうするのか」という外国の委員の質問に対し、カイロ総会に至っても軍部のプレッシャーを受けて足並みが揃わなかった日本側委員は満足な回答をすることができず、外国委員を失望させた。
 また、イギリス以上に中国大陸に大きな利権を持つために、日中戦争に政府が否定的な態度を取り続けていたアメリカ人のIOC委員は、東京大会のボイコットを示唆して委員を辞任する事態となった。さらにド・バイエ=ラトゥール伯爵の元には東京開催反対の電報が150通も寄せられており、ついにド・バイエ=ラトゥールから日本に対し、開催辞退の話が持ちかけられてきた。
 返上決定とその後
 開催返上を報告するオリンピック組織委員会(1938年7月)
 さらに1938年5月、東京での開催に大きな役割を果たした嘉納治五郎がカイロからの帰途、氷川丸船上で病死するに至り、日本政府は7月15日、閣議で開催権を正式に返上した。東京市が1930年から返上までの間、拠出した五輪関係費用は90万円(2017年8月現在の価値で約23億4千万円)にのぼる。
 代わってヘルシンキでの開催が決定したが、1939年(昭和14年)9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発したため、こちらも結局開催できなかった。なお、夏季大会は開催返上・取りやめの場合でも第1回からの通し回次番号がそのまま残るため、公式記録上では東京・ヘルシンキそれぞれ1回は「みなし開催」となったことになる。
 こうして五輪の準備は一先ず中止され、組織委も大幅に縮小された。しかし、すでに工事をはじめ、竣工寸前であった東京市芝浦埋立地自転車競技場(現存せず)と、埼玉県北足立郡戸田村(現・戸田市)のボートコース(戸田漕艇場)は1939年までに完成し、使用された。自転車競技場の建設にあたっては、市内主要大学の学生3407名を中心とする帝都青年労働奉仕団が作業を担当した。また、駒沢に主会場をおく案はそのまま1964年大会に生かされた。
 なお中止運動の急先鋒に立っていた河野一郎は、皮肉にも1964年大会開催に当たって池田内閣で建設大臣(五輪関連施設や道路の建設の指揮監督を担当)および五輪担当国務大臣を務めた。
日本民族日本人は死を念いながら日々の感動と感謝で生きてきた。
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