🗡24〗─1─世界のトップクラスであった日本の航空産業。二宮忠八と航空機開発史。~No.74No.75No.76 @ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 草野仁「資源のないこの国は、人が資源。それを忘れてはいけないんです。
 私たちの世代は終戦後の物のない時代、『日本は資源がないから、人が資源だ』と聞かされて育ちました。だから、何事も一所懸命に取り組んでやるというのはあたりまえだと思ってきましたし、それが戦後の素晴らしい経済復興につながっていったと思うんです。ところが豊かさの中で、それが忘れられてきいる。そこそこ生きていければいいかなとか、そんな若者たちが増えてきています。違います。一人一人がいつも頑張っていかなきゃいけない国なんだということを、思い起こさせる必要性がある気がいたします。
 ……
 日本人らしさとは、誠実に自分の人生を生きようとすりこと。焼け跡から立ち上がった日本人の姿、謙虚で一所懸命な日本人の美徳を知っている世代は、それを今の社会に伝えていく務めがあると思うんです。だから枯れてはいけない。歯を食いしばって精一杯、生きるしかないと思っています」
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 日本の底力・凄技を持った人材とは、高等教育を受けていない現場の人間である。
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 日本の知識人・教養人は、高等教育を受け、功績をあげて出世し、人や組織のトップに立つと途端に無能に近い馬鹿になる。
 つまり、日本には優秀で有能なトップは生まれない。
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 パウロ「働こうとしないものは食べることもしてはならない」
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 二宮忠八は、1866年に愛媛県八幡浜市の海産物問屋に生まれ、子どもの頃から物理、化学、薬学に興味を持っていた。
 1882年頃 立体的飛行船凧や糸を引くと広告ビラを撒く凧など「忠八凧」を考案して学費を稼いだ。
 旧制高校帝国大学で最先端の高等教育を受けず、英語などの外国語を学んではいなかったが、1890年にカラスの滑空から飛行原理を発見した。
 1891(明治24)年 4枚羽根のプロペラと滑走用の車輪を持つゴム動力式の「烏型模型飛行器」を考案して飛ばした。
 1893年 前羽根で浮揚し後羽根で推進する有人操縦の「玉虫型飛行器」を開発するが、その発想を理解できる者がいなかった為に資金を得られず実現できなかった。
 二宮忠八は、エンジンで飛行機を飛ばす為の資金提供を陸軍に嘆願した。
 陸軍は、画期的な発想であったが欧米列強内で話題となり研究が行われていても、近代産業を持たない日本では不可能であるし、航空機なる兵器を研究開発するより輸入した方が手っ取り早いとして却下した。
 当時の日本は、兵器自主生産政策ではなく、兵器海外依存政策を採用していた。
 欧米列強にとって日本は、自国の軍需産業死の商人の上得意であった為に、日本に何かと便宜を図って大事にしていた。
 日本が兵器自主生産政策を採用した時、日本は国際軍事資本を敵に回し、欧米列強から敵視された。
 兵器を売る軍需産業が、国際産業における花形産業であり、欧米列強の富はそこから生まれていた。
 政府は、欧米列強の好意を得る為に、兵器自主生産率を低くして欧米列強の死の商人からの武器輸入率を高めに維持していた。
 近代化を成功させる為には、重工業を育成させる必要があった。
 重工業を発展させるには、同時に軍需産業の育成も不可欠であった。
 軍人は兵器自立論を掲げ、兵器海外依存ではなく兵器自主生産が急務として軍需産業の育成に力を入れた。
 日本の近代化は、軍需産業によって成功した。
 だが、日本は死の商人となって国際市場に武器を輸出をしなかった。
 武器を輸出して外貨を稼がず民族資本のみで武器開発を行ったが、取引先は自国の軍隊という閉鎖的市場の為に、規格製品の大量生産ではなく職人技による一点豪華主義に陥ってしまった。
 もし。この時、陸軍が航空機開発に乗り出せば日本が世界初のエンジン付き航空機飛行に成功していた。
 その夢をうち砕いたのは、「日本は劣等・西洋は優秀」と盲信する西洋礼賛主義者の柔軟性なき思考停止による。
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 1903年 ライト兄弟による初飛行成功。
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 1909年 陸海軍は、気球の有用性に着目し、合同で臨時軍用気球研究会を立ち上げ、軍用飛行の研究を始めた。
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 1910(明治43)年9月8日 東京・大崎で、人間が搭乗した山田式飛行船の初飛行が成功した。
 臨時軍用気球研究会も、独自に開発したイ号飛行船の初飛行に成功していた。
 開発計画には、後の中島飛行機創業者の中島知久平や陸軍工兵大尉の徳川好敏らが参加していた。
 日本の航空機時代の幕開けであり、それは軍需産業から始まった。
 12月14日 代々木練兵場。陸軍歩兵太尉の日野熊蔵は、ドイツ製ハンス・グラー
デ式単葉機を操縦して初飛行を行った。
 『日本航空史・乾』(昭和11年)「これが日本に於ける航空飛行の嚆矢(こうし)である」
 12月19日 陸軍大尉の徳川好敏は、東京の代々木練兵所でフランス製アンリー・ファルマン式複葉機の飛行に成功した。
 公式記録では、徳川好敏大尉の飛行が日本初と記録されている。
 アメリカ海軍は、巡洋艦に飛行甲板を仮設して航空機の離発着実験を行った。
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 1910年 民間人の奈良原三次の設計と東京飛行機製作所の大口豊吉が主任として製作した、ライト兄弟が使用したフランス製ノーム25馬力エンジン同じエンジンを装着した国産機「奈良原式一号機」の浮上実験に成功した。
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 1911年5月5日 所沢陸軍飛行場で、奈良原三次と大口豊吉が製造した「牽引式(トラクター)奈良原式第二号」(50馬力エンジン)の初飛行に成功した。
 世界の航空機に使用されているプロペラ・エンジンの主流は、航空機の後方に装着する推進式(プッシャー)であって、日本が採用した前方に装着する牽引式は性能に問題があるとされていた。
 日本は、自国の航空産業が発展するまで航空機を輸入していた。
 軍事用の航空機産業と造船業には最先端科学技術が用いられていた為に、両産業を独自で充実させられる国家が近代的一等国になれた。
 欧米列強は国境を超えた多国籍的国際資本で成功し、日本は自前の民族資本で成し遂げた。
 軍部は、外国の軍需産業に依存せず国内産業のみでの偵察・観測用の軍用機製造にこだわっていた。
 陸軍は、「会式」として、所沢の臨時軍用気球研究会で陸上機を製作した。
 海軍は「横廠(よこしょう)式」として、横須賀工廠で水上機を製作していた。
 民間でも、陸軍や海軍に負けまいとして、独自に航空機開発を行っていた。
 航空機産業は、陸軍、海軍、民間と三者三様の勝手な思惑で閉鎖的研究開発を行った為に、欧米のような世界を相手にした競争力の強い国際軍事産業死の商人には成長しなかった。
 陸軍国産第一号機である会式一号機が完成した。
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 1912年 千葉県稲毛海岸に、日本初の民間飛行場が開発された。
 民間国産機、奈良原式四号機が完成した。
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 1913年 民間の帝国航空協会が設立された。
 三菱航空機、中島航空機、川崎航空機、川西航空機、愛知時計などが、航空機製造業に参入し、日本は航空機製造大国への道を歩き始めた。
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 1914年7月(〜18年11月) 第一次世界大戦勃発。
 参戦国軍隊は、偵察監視用に、前線近くを飛行船で、遠距離を航空機で行っていた。
 飛行機は兵器として注目され、日本でも飛行機への関心が高まった。
 イタリアのジュリオ・ドゥーエ「将来の戦争は空軍、特に戦略爆撃の大群が勝敗を左右する」
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 1915年 アメリカにおける公式初飛行。グレン・カーチスは、自ら製作した牽引式飛行機「ジェーン・バグ」を操縦して飛行に成功した。
 カーチスは、航空メイカー「カーチス・エアロプレーン&モーター社」を創業した。
 戦争が長期化するや、偵察する敵機を撃墜する必要から、命中精度の良い機銃と空中戦能力の向上が求められた。
 敵軍や敵国都市への爆撃を行う為に、長距離飛行が可能な大馬力のエンジン開発も急ピッチで行われた。 
 攻撃性向上が、航空機の性能を飛躍的に高めた。
 航空機を独自で生産できる国は、ドイツ帝国アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本のみであった。
 戦争が科学や技術を飛躍的に高める。
 各国は、最先端兵器の航空機を開発する為に、エンジンや機体から無線機に到るまで機体から関連分野など考えられる限りの専門家を総動員して、必要なカネとモノを投じていた。
 偵察機から戦闘機、そして爆撃機へと、小型から大型へと開発が進んだ。
 それを可能にしたのが、石油精製技術の向上で生産された航空機燃料ガソリンであった。
 冒険飛行家アート・スミスは、カーチス機で来日し、曲芸飛行や夜間飛行を行った。
 6月 青森県北津軽郡金木村出身の白戸栄之助は、陸軍工兵曹長除隊後、民間のプロ操縦士として「白戸式旭号」で地方巡廻飛行を行って、航空時代の到来を伝えた。
 日本軍は、第一次世界大戦に参戦し、輸入軍用機を戦場に投入した。
 陸軍はモーリス・ファルマン機などを、海軍はモーリス・ファルマン式水上機を。
 国際軍需産業にとって、日本は最先端兵器航空機を購入する大事な顧客であった為に、連合国は日本を仲間に加えていた。
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 1918年 イギリス海軍は、未完成の客船を改造し、船体上部に全通した飛行甲板を備えた空母の原型である軍艦を建造した。艦名「アーガス」
  日本海軍は、世界に先駈けて正式空母「鳳翔」を建造し、大艦巨砲主義が主流の時代に空母の有用性にいち早く着目した。
 そして、世界最初の空母を中心とした機動部隊を編制した。
 1月(〜9月) 陸軍は、飛行機技術や操縦士技能を高める為に、フランスからフォール大佐ら60名を招聘して学んだ。
 11月 第一次世界大戦終結
 最新兵器として威力を発揮したのは、航空機と戦車であった。
 専守防衛を基本戦略にとって、日本の地形及び土壌の自然条件からすると陸上に於ける主兵力は戦車ではなく航空機であった。
 ただし、戦車も最新科学技術の塊である以上、軍事技術の発展の為には研究は不可欠であった。
 科学技術の発展は平和ではなく戦争で優先され、国家の発展は平和産業ではなく軍事産業に掛かっていた。
 戦争が終わって不用になった大量の軍用機とパイロットや整備員が民間に溢れるや、航空輸送や航空郵便や空撮地図作製など新しい航空関連事業が生まれた。
 日本軍用機が相手にしたのは青島の駐屯していたドイツ軍で、欧州戦線のような激烈な空中戦を経験しなかった為に、各国に比べて航空機技術や操縦士技能は数段劣っていた。
 中島航空機は、純国産機である中島式五型を製作した。
 日本では高性能なエンジンを生産できなかった為に、高額で輸入していた。
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 陸軍に於いては 戦闘機は戦車同様に重要な兵器であった。
 海軍においては、主力兵器は戦艦で、航空機は戦艦を支援する補助戦力でしかなかった。
 その考えは、日本軍部だけではなく世界の軍隊に於ける共通認識であった。
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 欧米の軍隊は、最新の人種優生学から、日本人は遺伝子的に劣った点があってエリート兵種であるパイロットには成れないと信じられていた。
 欧米の軍需産業は、日本の資本と科学技術及び工業生産では、欧米の航空機を真似できても独自の航空機は開発製造できないと分析していた。
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 1920年代 日本の航空産業は、イギリスとフランスから航空機を輸入するだけではなく、最先端科学技術を導入して委託生産を行っていた。
 陸軍はフランスから、海軍はイギリスから、それぞれ科学技術を学んだ。
 日本の航空機技術者達は、何時かは外国産航空機に負けないような国産航空機を生産するという意欲から、委託生産を行う事によって最先端の航空機技術を学び、ヨーロッパから優れた航空機技術者を招聘し航空機設計の指導を受けた。
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 1920年 海軍は、水上機母艦「若宮」からの航空機発進に成功した。
 5月31日 イタリア空軍のイタリア製複葉機・アンサルトSVA(ズバ)型戦闘偵察機2機が、国際親善飛行として東京・代々木練兵場に飛来した。
 2月から3月にかけてローマを飛び立ち、中央アジア上空を飛行するルートをとり、飛行距離1万7,920キロを、飛行日数107日、飛行時間112時間かけての飛来であった。
 7機がローマを飛び立ったが、東京に辿り着いたのは2機だけであった。
 日本国内は、航空機熱で沸き返った。
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 1921年 海軍は、操縦と整備の向上の為に、同盟国イギリスからセンピル海軍大佐を団長とする軍事使節団を受け入れ、航空機技術の発展の為に各種航空機をイギリスの軍事産業から購入した。
 三菱航空機は、イギリスからハーバード・スミスを招聘して指導を仰ぎ、数多くの軍用機を生産した。
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 1922年 海軍は、海に囲まれ平地が少ない地理的条件を補う為に航空母艦「鳳翔」を建造した。
 戦艦技術は欧米列強に劣っていたが、空母に関しては日本は先頭グループに立った。
 日本が軍事技術力を高め、海外依存を止める純国産に切り替え、国際軍事産業死の商人の得意客から脱却し始めた。
 国際軍事産業死の商人にとって、いつ終わるか分からない内戦を繰り返している中国大陸は大金が稼げる最後の市場であった。
 もし。日本が中国に安い武器を輸出し始めると、地理的に近い分だけ国際軍事産業死の商人にとっては深刻な脅威であった。
 兵藤精(ただし)が、三等飛行操縦士となり、日本での女性飛行士第一号となる。
欧米人女性以外では日本人女性が初めであった。 
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 1924(大正13)年 海軍は、三菱航空機が開発した国産機一三式艦上攻撃機を制式採用した。
 中島飛行機は、イギリスのグロスター・ガンベットを改造して三式艦上戦闘機を開発し、1930年に採用された。
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 1925年 陸軍は、海軍との航空機開発で遅れを取った為に、三菱航空機中島飛行機、川崎航空機に軽爆撃機の試作を命じた。
 三菱航空機はドイツ人技師アレクサンダー・パウマンを、川崎航空機はドイツ人技師リヒャルト・フォークトを、中島飛行機アンドレ・マレー技師とロバン技師を招聘し、戦闘機と軽爆撃機の試作機を開発した。
 7月25日 朝日新聞社は、20年5月のイタリア空軍機の国際親善飛行の答礼として訪欧機(フランス製ブレゲー19A2)2機4名をローマに向けて代々木練兵場から出発させた。
 訪欧する2機は、7月6日に「初風」と「東風」と命名されていた。
 チタ・モスクワを経由する飛行ルートをとり、飛行距離1万7,403キロ。飛行日数95日。飛行時間116時間21分。
 10月12日 訪欧機2機は、ロンドン近郊に着陸し、無事、国際親善飛行を果たし、同時に日本の底力を世界に示した。
 日本国民は、非白人の日本人が、外国産機であっても日本人のみでユーラシア大陸横断を成功させた事に熱狂した。 
 国民の航空機への関心はこの快挙で高まり、日本人航空機設計者達は国産機開発を望む国民の異常な熱を受けて熾烈な開発競争を始めた。
 12月 陸軍は、三菱航空機がパウマン技師設計で開発した鷲型試作軽爆撃機を不合格として採用しなかった。
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 1927年 陸軍は、三菱航空機中島飛行機、川崎航空機に対して戦闘機の試作を命じた。
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 1929(昭和4)年4月 将来の交通手段は航空にあるとして、日本航空機輸送株式会社(日航)が設立した。
 欧米資本以外での、非白人の航空会社は世界初であった。
 欧米の航空産業界は、日本人の猿真似で、白人の手を借りねば成功しないと嘲笑した。
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 1931年8月25日 日本人は、羽田の地に東京飛行場を開港した。
 開業当時は、大阪、福岡や京城(ソウル)など6空港を結ぶ空路が開設された。
 東京〜大阪間の、旅客機運賃は30円で、飛行時間は約2時間半であった。
 3等鉄道運賃は約6円で、所要時間は8時間半であった。
 欧米列強とソ連以外で、被白人種で独自に飛行場を開港し民間航空路を運航したのは日本だけであった。
 当時の大空を支配していたのは、欧米列強であった。
 12月 中島飛行機が開発した日本初の単葉機・九一式戦闘機は、制式採用された。
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 1932(昭和7)年2月22日 第一次上海事変。生田乃木治大尉が操縦する三式艦上戦闘機は、アメリカ人のロバート・M・ショートが操縦する中国軍機・ボーイング218戦闘機と空中戦をおこない撃墜した。
 アメリ軍需産業は、軍需産業が脆弱で独自に兵器を作れないファシスト中国に対して武器・弾薬・軍需物資の売り込みを行い、軍用機は目玉商品であった。
 軍国日本は、欧米列強の最新鋭武器で武装した中国軍と戦う為に軍事物資国産化に力を入れた。
 10月 川崎航空機が開発したフォークト技師設計の防空用九二式戦闘機は、制式採用された。
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 1933年 松本キクは、二等飛行操縦士に合格し、女性で初めて水上飛行操縦士の試験に合格した。
 日本人女性で初めて、年度の最優秀パイロットに贈られる「ハーモン・トロフィー」を授賞した。
 日本人女性は、女性への偏見・差別を意に介さず、男性に負ける事なく飛行士を目指していた。
 航空関係に携わる男性陣は、飛行士を目指す男勝りの女性達をからかいながら高価で貴重な航空機を提供し、操縦訓練と航空機の知識を教えた。
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