☕131}132}─1─戦前日本の農業。台湾の蓬莱米・台中65号米がアジアや世界の飢餓民を助けた。~No.322No.333No.334No.335 @  

世界を変えた日本と台湾の絆

世界を変えた日本と台湾の絆

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。↗
   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・   
 国際社会は、軍国日本による台湾・朝鮮の植民地支配を非人道的犯罪行為と断罪している。
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 戦前の日本は、悪い事(戦争犯罪)もしたがいい事(人道貢献)もした。
 日本天皇は、平和を願って戦争を嫌い、人道貢献を心掛けていた。
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 日本にとって、台湾は親日派知日派で戦友であったが、朝鮮は反日派で敵日派でキリスト教系テロリストであった。
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 江戸時代から昭和初期までの世襲的エリートは、10年先、50年先、100年先、1000年先を見据えて行動していた。
 現代の高学歴出身知的エリートとは、四半期先、半期先、年期先、自分の任期中のみを考えて行動していた。
 戦前までのエリートと現代の高学歴出身知的エリートとは、本質からして違う。
 最高学府として狭き門であるはずの大学も、戦前と現代とでは違う。
 現代のリベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派は人間としての性根から違っているし、戦前を否定する日本人は日本民族日本人ではない。
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 日本の優れた土木技術と農業技術は、世界的大都市の江戸を築き上げた徳川家康に端を発している。
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 戦前日本は最先端の農業技術国家として、食糧不足解消、飢餓撲滅の為に新しい種子を作るべく品種改良の研究を続けていた。
 品種改良を行う為に、日本の伝統的農業技術に西洋の思想・哲学・文学・科学技術・農業技術を加えて新品種を創り出し、新種子で食糧増産を行い、日本産種子を食糧危機の世界に広め、飢餓に苦しむ人々餓死寸前の人々に食べ物を与えて助けた。
 だが、日本産種子を世界に広めたのは日本人ではなく欧米人、特にアメリカ人であった。
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 戦前日本の主力輸出品は、絹・絹糸、綿布・綿服などの繊維商品であった。
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 日本の農業技術・栽培方法は、文系的な知と理系的な知を結集した総合力で行われていた。
 日本の理系的な知を発展・進歩させる原動力は、文系的な知であった。
 文系的な知とは、寛容性と柔軟性で国内外の知を制限なく吸収する日本文化そのものであった。
 日本文化とは、日本国語である。
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 日本民族日本人は、南方系海洋民と揚子江流域民の混血児として稲作文化と漁労文化のを混合文化を深層文化として生きてきた。
 日本民族日本人は、黄河系草原民の子孫である漢族系中国人と朝鮮人とは別系統のモンゴロイドである。
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 戦前の日本は、農業国家であって商業国家ではなかった。
 現代日本は、商業国家であって農業国家ではない為に、商業は繁栄し農業は衰退する。
 農産物は、熟練農民が耕作地で年に1度しか作れなかった。
 工業製品・商品は、工員が工場内で機械を動かして毎日数百、数千、数万と生産できた。
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 日本が栽培していた米はジャポニカ種で、世界の米事情からすればローカル米として好まれざる少数派であった。
 世界で好まれて食されるグローバル米は、インディカ種であった。
 世界が食べて上手いと思う米は、ローカル米のジャポニカ種ではなくグローバル米のインディ種である。
 ジャポニカ種を上手いというのは、日本人だけである。
 和食は日本のみの料理で、中華料理や韓国料理とは別の料理である。
 つまり和食文化と中華食文化・朝鮮食文化とは、違う食文化である。
 だが、日本民族日本人が手塩にかけて改良し生み育ててきたジャポニカ種が、東アジアの食糧革命を起こし貧困と飢餓を減らした。
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 日本の自然環境は多岐に亘っていた為に、ジャポニカ種は一品種に統一化・画一化せず、その土地・風土に合った特性・特質を持った数多くの品種を創り出し、天候に頼り、気象を上手く取り入りながら、米を生産していた。
 日本農業は、日本国内はジャポニカ種の品種が数多く存在する、多品種による多種多様性に富んだ豊かな農業であった。
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 日本式の農業技術、栽培方法そして日本産種子が、東アジアの農業革命を起こし、農業の在り方を大転換させ、安定した収穫で空腹で栄養失調にあった人々を救った。
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 蓬莱米の父(磯永吉)と母(末永仁)の胸像が台湾大学に設置
 投稿日: 2012年3月12日 作成者: 愛知李登輝友の会
 昨年11月22日と23日、日本の「米・食味鑑定士協会」が主催して群馬県内で開催された米の品質とおいしさを競う「第13回米・食味分析鑑定コンクール国際大会」において、台東県玉里の李文煌さんという方が作った「台中149号」が、日本の全国都道府県および海外を対象とした地域別の特別賞部門で優勝米に選ばれた。
 「台中149号」という米の名称を見て、磯永吉(いそ・えいきち)と末永仁(すえなが・めぐむ)が台湾で心血を注いで品種改良に成功した「台中65号」を思い出した。「台中149号」は、恐らく「台中65号」を品種改良したものだろう。
 この「台中65号」は磯と末永により、10年にわたる試行錯誤を経て大正10(1921)年に改良に成功し、当時の第10代台湾総督だった伊沢多喜男(いざわ・たきお)により大正15年に「蓬莱米」と命名されている。
 磯永吉は「蓬莱米の父」、末永仁は「蓬莱米の母」として今でも台湾の人々から尊敬され、彰化県大村郷内にある台中区農業改良所には「台中65号」の記念碑も建てられている。
 最近になって、台湾大学農芸学科関係者らが磯永吉と末永仁の胸像を制作したと、産経新聞が伝えている。下記に紹介したい。
 胸像制作には、八田與一後藤新平などの胸像を自ら制作してきた奇美実業創業者の許文龍氏も寄与しているという。
 米の品質とおいしさを競うコンクールで、台湾の「台中65号」の後継種と思われる「台中149号」が優勝米に選ばれたことをもっとも喜んでいるのは磯と末永だろう。
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 【台北=吉村剛史】日本統治時代の台湾で、コメの品種改良に取り組んだ農学者を顕彰しようと、台湾大学農芸学科関係者らが寄付を募り、農学者、磯永吉(1886?1972年)と、磯を助けた農業技師、末永仁(めぐむ)(1886?1939年)の胸像を制作した。大学構内の「旧高等農林学校作業室」(台北市史跡)に設置を予定しており、10日にお披露目が行われる。
 磯は広島県出身。東北帝大農科大(札幌)を卒業後、1912年に渡台。総督府農事試験場などを経て30年、台湾大の前身、台北帝大の教授となり、台湾在来種のインディカ米と日本のジャポニカ米の交配を重ね、味がよく、台湾の気候にも適した「台中65号」(蓬莱米)を開発した。
 一方、末永は福岡県出身で、大分県の三重農学校を卒業後、農業技手として10年に渡台。台中の農事試験場技師などとして、磯の長年の改良を助けた。蓬莱米は台湾の米産力を飛躍的に発展させたため、磯は「蓬莱米の父」、末永は男性ながら「母」として知られている。
 台湾大の農芸学科関係者らは、磯が同大に残した貴重な関連資料が、日本語世代の減少とともに活用されなくなり、忘れ去られようとしていることなどを危惧して像の設置を計画。
 戦後の57年まで同大で教えた磯の元教え子らが寄付金を集め、昨年の東日本大震災の発生後に台湾から日本へ多額の義援金が贈られる中、学外の実業家らも多額の寄付金を寄せ、実現したという。
 生前の磯と交流のあった同大名誉教授の頼光隆氏(80)や、10万台湾元(約27万円)の寄付を寄せたABS樹脂などで知られる台湾の奇美グループの創設者、許文龍氏(84)らは「実り豊かな台湾に貢献した人々の存在を、日台双方の若者に知ってほしい」と話している。
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 2019年1月号 正論「小説 台湾 明治日本人の群像  渡辺利夫
 第1回『蓬莱米』 への道──磯永吉
 品種改良と一口にいうが、成功は容易なことではない。先のみえない試行錯誤を無限に重ね、ようやくにして手にできる、ほとんど僥倖(ぎょうこう)というべきものであろう。それがゆえにこそ、開発者には高い声望が与えられるのである。
 稲の品種改良とは、優れた特徴をもつ品種の雌蕊(めしべ)に、別の優れた特徴をもつ品種の花粉を付着させて交配し、双方の優れた特徴をあわせもつ新品種を創り出すことである。
 単位面積、例えば1ヘクタール当たりの収穫量のことを『単収』という。この単収が高いことが優良品種の第一の条件である。収穫の前に稲が風によって倒伏してしまっては、高い単収は期待できない。そのために、稲の茎が太く草丈は短いものでなければならい。また、稲の葉が直立して効率的な光合成を促すことも、高い単収を得るためには欠かせない。さらに、一株の穂数が多く、より豊かな籾(もみ)の収穫を可能にすることも重要である。いもち病など病虫害への耐性が強いこと、何より米の味が消費者の嗜好によく合うこと、その他、気象や土壌の相違によって、改良品種が備えなければならない条件は実に様々である。
 備えるべき条件の数は、実際には10ほどだといわれる。仮に10だとすれば、優に1,000を超える数の品種を人工交配によって育成し、この中から最適と思われるものに限定する。土壌条件や気象条件の異なる各地に見合うものを選んでさらに限定を繰り返す。しかも、栽培の成果を生かすためには、一期?ならば1年、二期作であったも少なくとも4ヶ月という時間を要する。
 往時の改良品種として、世界にその名を高からしめた台湾の高収量品種が『蓬莱米(ほうらいまい)』である。この品種は、粒々(りゅうりゅう)辛苦の努力の果てについに掌中にできた成果である。
 ……
 米騒動
 日清戦争を前後する頃から、日本は産業革命というに相応しい、都市部を中心とした工業発展の時代に踏み込んだ。生糸、綿花、造船、鉄、石炭などの生産が伸長し、これを支える労働力が農村から都市へと向けて流出した。食糧を供給する農村の労働力が減少する一方、食糧を需要する都市住民がにわかに増加し、日本の食糧不足は次第に深刻化していった。
 明治22年には凶作が起き、翌23年には米価が暴騰、同年1月には富山で貧民による騒動が発生、4月から8月にかけて、鳥取、新潟、下関、高岡などでも不穏な情勢が広がりをみせた。佐渡相川では鉱夫2,000人が騒擾(そうじょう)を起こし、軍隊が出動、これを鎮圧するという事態にまで及んだ。騒動はなおやまず、その後も福井、愛媛、宮城などにも飛び火した。
 米不足による農村各地の不安定性は、明治30年代の中頃まで収まることはなかった。不運にも、この時期、風水害や病虫害が連続して発生した。長野、富山、山形、新潟などでの農民貧困の実情には、特に厳しいものがあった。実際、日清戦争の勃発した明治27年を100として米生産指数は、明治30年には90を切るまでになった。明治36年といえば、翌年の2月に『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』が発せられる直前である。この明治36年の、先にみた米生産指数は99、日清戦争の勃発時を下回っていた。不作、凶作により米供給が思うに任せない状況下では、開戦はできない。開戦したとしても、米という最も重要な兵站が不足するのであれば、継戦は到底無理である。
 明治34年12月、山県有朋西郷従道井上馨大山巌松方正義の諸元老に、桂太郎小村寿太郎山本権兵衛などの新布陣を加えて開かれた元老会議において、日露戦争に備える日英同盟締結の意思が固まり、明治36年6月の御前会議を経て明治37年2月10日の『宣戦ノ詔勅』となった。
 軍需産業と雇用を支える重化学工業は、この間、格段に強化され、農村から都市への労働人口の移動はやまず、膨れ上がる都市労働者、大規模に徴用される兵員への食糧確保が、解決を要すべき重要な政治的課題となった。日本国内の米生産だけで、この一方的に増大する米需要を賄うことは不可能であった。かくして、新たに割譲された亜熱帯・台湾での米供給の拡大が不可欠の命題となった。
 住民の抵抗を力で抑えて台湾の治安を守ることに精力を注いだ、樺山資紀桂太郎乃木希典の3代にわたる軍政時代を経て、本格的な台湾開発が始まったのは、第四代の台湾総督として陸軍中将の児玉源太郎が赴任した頃からであった。総督就任は明治31年2月、後に台湾総督府民政長官として台湾近代化に辣腕を振るう官僚政治家・後藤新平を同道しての赴任であった。
 着任後、児玉は後藤に台湾全土にわたる土地調査、人口調査を徹底的に行わせ、みずからその経営を託させた台湾の現状を調べ尽くした。これらの調査を経て、児玉は明治34年11月、総督府官邸に日本、台湾の有力者を招き、台湾の殖産興業についての大方針を訓示した。
 児玉総督訓示
 台湾の領有以来、耕地拡大、水利設備拡張、栽培面積拡大、品種改良、品種検査などが個別にされてきた。これを個別で局所的な試行ではなく、台湾総督府による一元的なプロジェクトにするという大方針を、児玉は打ち出した。この訓示が台湾農業近代化の転機を画することになった。訓示はこういう。
 『……』
 {台湾における米の産出量いかんが、現在の最重要課題である。しかし、この広々とした水田は、天恵といっていいほどの気候風土に恵まれながら、水利がいまだ十分に整備されていないために、収穫量は土地面積に及ばず、米の質も劣悪である。これでは農家が米作を自らの天職と考えずに、授かられた天の恵みを捨て去っているに等しい。もし水利を整備し、耕作方法に誤りなければ、収穫量を現在の3倍にすることも難しいことではない。そうすれば、市井の人々は1日に3食を十分に摂ることができ、その上、余剰分を輸出することが可能となる。確かに、米は台湾の貿易品においてその中心を占めるべきである。}

 訓示を発した児玉の胸中に秘められていたのは、この大業を実現させれば、きたるべき日露戦争での勝利はおぼつかないという、悲壮な決意であった。
 当時の台湾の米生産は島内需要を満たし、さらには海峡を隔てた福建省を中心に大陸に輸出されていた。輸出先を日本に転じればよさそうにも思われるが、ことはそう簡単ではない。台湾の在来米は日本人の食生活にまったく合わないのである。生育不良で変色した『赤米』が多く含まれていた。何より在来種は、『インディカ種』といわれる、粒が長方型で粘り気がなく、飯味が淡白なものであった。日本で伝統的に食べられてきた内地米は『ジャポニカ種』と呼ばれ、粒は円く水分が多くて粘りが強く味が濃厚である。インディカ種の在来米を日本に輸入しても、日本人の嗜好にまるで合わないために需要は少なく、三等級と呼ばれる低価格のものたらざるを得なかった。
 末永仁の文章によれば、台湾では『御飯を炊いて汁が上がる時に粘りのある上澄みを取って豕に食べさせたり、衣服の糊にしたり、茶の代わりに飲んだりするので残った飯は箸にかかりにくいような完(まった)く粘りのない御飯です。元はおそらく副食に油濃いものを用いる結果ではないかと存じられます』という。
 訓示から3年後の明治37年には、日本の農商務省が日本国内の農事改良のための『必行事項』を発表し、その重要な項目として、塩水を利用して比重の重い充実した籾を選定すればことが推奨された。『塩水法』が日本国内で高い評価を得るや、はやくも翌年にはこれが台湾に導入された。導入のために総督府は、傘下の地方庁のすべてに補助金を交付して普及・拡大に努めた。
 明治37年まで、苗代の育成はそれぞれ個別の農家に任せられていた。しかし、これは非効率的な方法だとされ、共同苗代への転換がなされた。これによって地方庁と農会との連携のもとに、個別農家の苗代を農会単位の共同苗代に転換、さらに播種、灌漑、肥料、病虫害駆除法など画一化が図られた。台湾の米の品種改良は、塩水法の導入、共同苗代の導入、米作過程の画一化により、赤米の根絶という注目すべき成果を得た。これが、蓬莱米の創出にいある一連の長い苦難の道程の出発点となった。
 農会とは、総督府の指導により台湾全土のすべての地方庁のもとに組成された、肥料、農薬などの共同購入、農産物販売、営農指導、信用供与、保険業務などの多様な機能をもつ、日本の農業協同組合に相似た農民組織である。この農会が地方庁と連携して品種改良事業を担い、かつ、各地方庁におかれた総督府実験農場の成果の普及・拡大に大きな力を発揮した。農会は、総督府行政の地方末端組織として機能した。日本統治時代の台湾の行政区分は何度も変更されたが、児玉の訓示が出された頃は、20に及ぶそれぞれの地方庁が地方行政単位となり、庁のもとにおかれた農会が農民組織の中心であった。
 多くの在来種の中から選別に選別を重ねて、赤米が混入しない優良品種の抽出に成功したという事実は、総督府に驚きを与え、在来種の改良の可能性を拓くものとして受け止められた。
 この農会による赤米駆除の成功にいたるまで、総督府内では台湾米品種の改良については、議論がわかれていた。一方には、内地種を台湾の土壌と気象に見合うように改良していこうとする農業試験場主事の藤根吉春のグループと、他方には、在来種そのものの品種改良こそが台湾の米の品種改良の本道だとする、農務課米麦改良主任の長崎常のグループの主張である。この二つがぶつかり合い、総督府内で激しい論争がつづいていた。しかし、赤米駆除成功の事実が、長崎常の在来種改良への後押しとなり、総督府の方針はこの方向へと収斂することになった。
 末永仁が嘉義農場に、磯永吉がやや遅れて総督府農事試験場へと日本から渡ってきた明治の末期は、総督府が在来種の品種改良に総力をあげて取り組んでいた時期であった。
 末永仁 嘉義農場着任
 赤米の根絶には成功した。しかし、まだこれは在来種の品種改良努力の出発点に過ぎない。大正期に入り、品種改良はさらに熱を帯びていった。末永が嘉義農場の技手として赴任した明治43年は、総督府が米品種改良事業計画を発表した年であった。総督府嘉義農会に対して、米粒の形が内地米に近い円型の優良種を選別、これを特定地域に限定して栽培を促し、限定品種の中から一段と優れたものを抜粋して品種の『純系化』を図るべし。さらに、純系種を各地で試作し、それらのうちから最優秀のものを選んで普及・拡大に努めるべし、との通達を出した。
 この事業は相当の成果を収めた。事業開始前には1,365種であった在来種米が、485種に絞り込まれた。米品種が統一化の方向に進み始めたのである。
 しかし、末永にとっては、この成果はまだ道半ばであった。実際、在来種の普及はここまで進んでも、なお内地での不満には根強いものがあることを、末永はよく知っていた。末永は、赴任間もない頃から、在来種の改良には限界があり、いずれは内地種を改良して台湾の地に根付かせることが、この限界を突破する唯一の道だとずっと考えていた。
 ……
 品種改良は、固定観念を排したプラグマティズムでなければならない、末永はそう考えて改良努力を重ねてきたにちがいない。
 プラグマティズムといえば、徹底的にこれを追究した人物こそが、磯永吉である。
 ……
 台中農事試験場
 ……
 内地種の品種改良は、に近づく
 内地種の品種改良が台湾でうまくいかないのは、結局のところ、台湾の土壌と気象条件が内地と異なるからかもしれない。そのためにさまざまな工夫を重ねても、出穂(しゅっすい)が揃わず、病虫害にやられて、実験農場が全滅してしまうという惨憺たる結果に終わることもしばしばであった。
 ……
 これだけの欠陥をもつ内地種が、栽培熱を放って島内の平地に広がっていくさまを眺めて、欠陥をいちはやく克服しなければ危うい。もっと安定的な品種の純系固定を急がねばならない。磯と末永の苦心は並大抵ではなかった。
 『若苗挿植』
 ……
 苗代での苗の栽培日数が最適日数より長かったために、内地種の欠陥が露呈していたのである。後に蓬莱米を生むことになる『若苗挿植(そうしょく)』の端緒が、末永によって開かれた。『挿植』とは田植えのことである。
 末永は興奮して、このことを磯に告げた。磯もこの事実を確認しつづけた。しかし、内地種の若苗挿植がなぜ驚異的な成果をもたらすのかは不明であった。とはいえ、事実は事実だ。
 磯は、台中での大正8年から大正11年までの若苗挿植の出現にいたるまでの、膨大な実験結果の数値のすべてにわたる細密きわまる研究をつづけて、若苗挿植の理論化による純系固定を急いだ。
 ……
 かくして、総督府は在来種に代えて内地種の栽培奨励に踏み切り、精選された内地種の生産拡大に向けて走り出したのである。
 若苗挿種の驚異的効果は、単収の増加となってあらわれ、栽培はあたかも燎原の火のごとく台湾全土にひろまっていった。
 ……
 大正15年……
 第10代台湾総督・伊沢多喜男より、この新品種の命名に何かいい案はないかと尋ねられた磯は、『蓬莱米』『新高米』『新台米』の3つのいずれはどうかと提案、伊沢は足下に蓬莱米を選んで、これを発表した。蓬莱とは、中国東方の海上にあって不老不死の仙人の住まう仙境のことである。台湾はこの仙境だと語り継がれてきた。蓬莱米には、いかにもと思われる命名の妙がある。
 台中65号の創出
 しかし、蓬莱米は若苗挿種の創出によって完成したわけではない。若苗挿種を中心としながらも、いくつもの改良すべきことがまだあった。
 ……
 蓬莱米の原種として最もはやい時期に内地から移入されたものは、九州の『中村』である。時代が大正から昭和に変わる頃、中村を中心に台湾では蓬莱米の作付面積は11万ヘクタールを超えた。
 大正15年は、蓬莱米の栽培が盛大となったことを期して、大日本米穀大会が台北で開催された年だった。
 しかし、間の悪いことに、この年の第一期作時に天候不順となり、蓬莱米がいもち病に襲われ、全耕地面積の約4割、農会によっては全滅という損害が発生した。磯と末永は、この惨状にらくたんしたものの、もう引き返すわけにはいかない。いもち病に強い品種を内地種の中から選別導入し、新たに台湾に根付かせねばと意を固め、必死に内地種調査を重ねた。
 調査の甲斐あって、愛媛から移入した内地種の『愛媛仙石』を中村にかえて作付したところ、いもち病に対する耐性が強いという事が判明、これを『嘉義晩2号』として純系固定した上で栽培地を拡大することにした。昭和6年には、嘉義晩2号が中村の栽培面積を凌いだ。その頃を見計らうかのようにして、台中農事試験場での人工交配により『台中65号』が創生された。
 台中65号は、嘉義晩2号の栽培面積を超え、昭和11年には他を圧する蓬莱米種となった。以降、蓬莱米といえば、台中65号がその代名詞のようにみなされるようにいたった。
 台中65号の原種は、山形県庄内地方篤農家。阿部亀治が育成した品種『亀治(かめち)』の雌蕊(めしべ)に、兵庫県篤農家・丸尾重次郎が改良した『神力(しんりき)』の花粉を人工授粉し、ついに昭和4年にみるべき成果を得た内地種である。この内地種を台湾に導入して、さらに改良を加えた台中65号の栽培開始は、昭和4年であった。栽培面積の拡大には驚嘆すべきものがあった。
 この時点で、内地で栽培面積の最も大きかったのは『旭』の33万ヘクタール、これに次ぐ『愛国』が17万ヘクタール、『神力』16万ヘクタール、『銀坊主』『坊主』各14万ヘクタールであった。台中65号は面積のそれほど広くはない台湾での品種でありながら、25万ヘクタールであった。蓬莱米は、大日本帝国の第2の栽培面積を誇ったのである。
 蓬莱米の創生を機に、磯は研究論文として『台湾稲の育種学的研究』を執筆、この論文により北海道帝国大学農学博士号の称号を授与された。この成果を総督府は高く評価し、磯に台湾農業の一段と優れたリーダーとしての業績を積ませようと、1年半にわたり米穀、英国、ドイツに留学させた。蓬莱米の成功への論功行賞的な意味合いもあったのであろう。留学を経て台湾に帰ったとき、磯は台北帝国大学農学部教授の席を与えられた。44歳であった。磯は研究持続と同時に、次代を担う農学者を台湾で養成せねばと、大学では農業、特に熱帯農業についての実践と理論を学生達に授けつづけた。

 なぜ私が『小説・台湾』を書くのか   渡辺利夫
 『私が一日休めば、日本の近代化は一日遅れるのです』
 パリ留学中、夜を日に継ぐ猛勉強に体を壊しかねないと気遣う下宿の女主人が、ある朝、高熱でうなされながらなお大学に向かおうとする古市公威に、〝今日は一日休んだらどうか〟と声をかけたのだが、その際に古市の口から出た言葉だという。
 古市とは、信濃川阿賀野川などの河川工事の監督にあたり、明治期日本に河川、港湾工学の黎明を告げた人物である。西洋文明をいち早く吸収して独立不羈(ふき)の近代国家たらねば、日本は文明国の一員として生存できない。自分は、今、国費で賄われ西洋文明吸収の最前線にいる。高熱など恐れているゆとりはない。強烈なエリート主義とナショナリズムを背負う明治の技術者の気概をこのエピソードは物語っているのであろう。
 古市は、後に帝国大学工科大学長となり、その門下生に広井勇を得た。広井は、北海の激しい風浪の小樽港に防波堤を構築したことで知られる技術者である。広井は、古市の後を襲って工科大学教授となり、『広井山脈』と呼ばれる多くの逸材を近代日本に供給しつづけた。
 広井の門下生の青木士(あきら)は、工科大学を卒業するやパナマ運河の建設に加わることを決意、単身、熱帯病の猖獗(しょうけつ)する建設現場に赴き人夫となり、力量を買われて測量技師になった。帰国後の青山に任されたのが信濃川大河津分水事業という世紀の難事業であった。竣工を記念して建てられた川沿いの碑には、
 『人類ノ為メ、國ノ為メ』
 と刻印されている。何としなやかにも美しい表現であろうか。
 広井を師とし青山を先輩として畏敬する八田與一は、明治43年の工科大学卒業と同時に、迷うことなく未開のフロンティア・台湾に向けて出立、台湾総督府土木部の技術者となった。
 ……
 日露戦争を眼前に控えた頃の内地の米不足は著しく、全国各地で米騒動が頻発した。総督府幹部はかねて聞き及んでいた八田の構想を実現するように命じた。……あの荒涼たる平原が広大な緑の絨毯へと変じたのである。
 堰堤(えんてい)構築方法、『三圃制(さんぽせい)』といわれる欧州中世の農法の平原への援用、ハード・ソフトの両面でみせた八田独自の構想の実現であった。起工から竣工まで10年余の粒々辛苦の帰結であった。
 粒々辛苦といえば、『蓬莱米』の開発に、実に20年近い歳月をかけ、ついにこれを成功した人物に磯永吉がいる。磯が、東北帝国大学農科大学を卒業、台湾総督府に赴いたのは、八田よりやや遅れて明治45年であった。主食たる米の不足の解消という課題への挑戦であった。稲の品種改良とは、優れた特徴をもつ品種の雌蕊に別の優れた特徴をもつ品種の花粉を付着させて交配し、双方の優良な特徴をあわせもつ新品種を創出することである。人工交配というただひたすら単調な仕事を重ね、ようやくにして手にできるほとんど僥倖(ぎょうこう)というべきものである。
 前方に曙光(しょこう)のみえない作業をつづけることほど、人間をひどい無力感に貶(おとし)めるものはない。常人なら精根尽き果てるであろうが、磯永吉という人間の持ち前は根気であった。そして『蓬莱米』という単収が決定的に高い改良品種の創成にいたり、台湾はもとより日本本土の米不足解消にも貢献したのである。
 八田も磯も明治19年の出生である。いずれも帝国大学出身のエリートであり、技師であった。二人を衝き動かしていたものは全うすべき『職分』であったのに違いない。
 明治18年に陸軍大学校を卒業、明治19年には陸軍騎兵大尉に任じられた秋山好古に、司馬遼太郎はこう語らせている。
 『軍人というのは、おのれと兵を強くしていざ戦の場合、この国家を敵国に勝たしめるのが職分』『それ以外のことは余事であり、余事というものを考えたりやったりすれば、思慮がその分だけ曇り、みだれる』
 台湾統治にエリート技師としての職分を存分に果たした八田と磯という二人の日本人の中に、私は明治の精神をのぞきみている。
 磯永吉の『蓬莱米』は、後にさらに改良を加えられて、強い人口圧力により零細な営農を長らく強いられてきたアジアの全域に導入され、深刻な食糧不足に悩むこの地域に『グリーンリボリューション』といわれる革命を引き起こした。この革命がなかったらば、アジアはなお北朝鮮のような飢餓状態をつづけてきたのにちがいない。
 インドのパンジャーブ州の正視に堪えない酷薄の飢餓に深く心を痛め、磯永吉と台湾国民政府の協力を得て『蓬莱米』をインドのこの地に持ち込み、辛酸をなめながらついにパンジャーブ州を飢饉から救出した一人の『忘れられた日本人』がいる。杉山龍丸である。
 明治期日本の政治経済の多くの大事業の背景について政界と財界に隠然たる影響力を及ぼしつづけた杉山茂丸を祖父とし、怪奇小説で名を成した夢野久作を父として生まれた『昭和の明治人』が、杉山龍丸である。
 この連載物語は、アジア『緑の革命』の基点を成す磯永吉による画期的な米の改良品種『蓬莱米』の開発史を綴ることに始まり、杉山龍丸のパンジャーブ州への蓬莱米の導入のプロセスを追い、『蓬莱米』を台湾に根付かせるために生死を賭してその造成に当たった八田與一烏山頭ダム建設の苦闘のヒストリーを描く。
 そして、台湾とは近代日本にとっていかなる存在であったのかに話を移す。第4代の台湾総督にして、後に満州軍総参謀長となり日露戦争において日本を勝利に導いた機略の名将・児玉源太郎、児玉総督に同道して台湾近代化の基盤づくりのことごとくに総督府民政長官として偉大なる貢献をなした後藤新平、この二人の人物の思想と行動の中に、理性と豪気をあわせ持つ明治日本の指導者の原像を探っていきたい。台湾に生きた明治日本人の精神史の発掘でもある。」
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 太平洋戦争は、食糧を確保する為の戦争であった。
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 日本の軍需産業を潰すなら、地方の日本農業を破壊し、日本民族日本人の日本農家を消滅させる事である。
 つまり食糧自給率を回復させず、外国に依存しなければ生きていけない所まで抑え込む事である。
 その為には、日本が守ってきた日本独自の種子を国際穀物企業に売り渡し、日本民族日本人農民を排除する為に外国人移民を農業労働者として地方の農村に定住させ事である。
 事実、現代の日本はそうなっている。
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 食糧は、兵糧として戦争をする為に必要不可欠な軍需物資である。
 つまり、兵糧がなければ戦争は起きなし、兵糧などの補給を絶てば戦争を終わる。
 食糧生産技術こそが戦争技術である。
 日本軍部は、戦争する為には兵員と兵糧の確保が最優先課題として、政府の農村・農家政策に協力していた。
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 地方の日本農業、日本人農民が、日本ナショナリズムの源泉であり、軍国主義の温床であり、保守主義の実態である。
 日本軍部・日本軍は、地方の農業・農家によって支えられていた。
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 西洋キリスト教世界は、人は信仰の為に生きるのであってパンの為に生きるのではない。
 中華儒教世界では、人は信義の為に武器も食べ物の捨てるべきである。
 イスラム教世界は、食糧は神が与えてくれるし、食べて空腹を満たすも食べられず空腹に耐えるもすべて神の思し召しである。
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 人類史・国家史において、衣食住を満たした国家と国民は今有る平和に安住せず、更なる発展・進歩して富を得るべく周辺諸国へ攻め込む侵略戦争を行った。
 世界史の大帝国や王国は、こうして誕生し富み栄えた。
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 日本の歴史とは、戦争の歴史ではなく、異常気象が原因で稲が不作となって飢餓が発生し、食べ物がなく餓死者を出しながら生き残った日本民族日本人の歴史である。
 日本民族日本人の歴史は、農産物を生産し、食糧・食べ物を確保する歴史であった。
 天皇と日本神道は、その為に存在する。
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 日本民族日本人は、世界でも稀な「ひもじさ」を知る民族で、宗教・哲学・思想・主義・原理原則よりも「人として食べて生きる事」を最優先とした。
 それが、日本中心神話・日本神道における「稲神話」である。
 「ひもじさ」の解決として、周辺諸国を侵略して食糧・食べ物を強奪するのではなく、食糧・食べ物の増産の為に農業技術開発と稲・麦の品種改良を続けてきた。
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 戦前日本の品種改良技術は、西洋の科学技術を積極に取り入れて世界トップレベルにあり、日本・台湾・朝鮮・中国さらには世界の食糧事情に貢献し、餓死の危機に遭った飢餓民に食べ物を提供し助けた。
 日本民族日本人は生き残る為に、古代から文系と理系を併せ持ち、海外から大量の書籍を購入し、日本国語に翻訳し、読み、新しい技術を理解し、新しい道具を創意工夫で自分で作り、生産現場で使いながら改良して役立てていた。
 戦前日本の農産物品種改良は、金儲けの為ではなく、「餓死者をなくそう」という、世の為人の為、世界の為人類の為、という利他他愛で自利自愛ではなかった。
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 戦前の日本は、食糧生産が激減し深刻な食糧不足に陥り、食糧を確保する為に東南アジアの穀倉地帯に侵出した。
 戦前日本の対外戦争は、石油獲得戦争ではなく食糧強奪戦争であった。
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 現代の日本人は、「種子」の重要性が理解できない為に、目先の利益・金儲けをするべく種子法を廃止し、祖先が守ってきた種子を二束三文で売り出した。
 穀物メジャーである多国籍国際企業は、世界の食糧を支配するべく日本の種子を買い叩いて購入している。
 現代の日本人は、国内で農産物は作るものではなく国外で購入するものだと考えている。
 その証拠が、深刻な食糧自給率の低下である。
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 少子高齢化による人口激減は日本農業にも深刻な影響を及ぼし、農業後継者不足で農家は減少し始めている。
 日本政府は、日本人による農家件数回復が不可能と判断し、外国人移民(主に中国人移民)を農業労働者として日本農業を任せようとしている。
 つまり、農業・食糧政策として農産物生産を外国人移民に依存しようとしている。
 都市部の日本人は、地方の農村地帯に定住する外国人移民(主に中国人移民)が作る食糧・食べ物で生きる道を選んだ。
 日本は、外国人移民による農業労働者を増やす事で、日本人農家を救うのではなく日本農業を救う事に決めた。
 食べて働き生きられれば、農産物・食べ物を日本人農家が作っても外国人移民が作っても同じである。
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 全ての面での自給率が乏しい日本は、食糧・物資・エレルギーをアメリカの国内・支配地・影響地で購入し、金融・サービス・情報・通信をアメリカに頼り、交通・輸送・運搬をアメリカ軍の保護を受けて自由に安心しんして行っている。

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