⛻9〗─1─徳川家康は経済の成長より社会の安定を優先して国際交易国家を目指した。利根川東遷。江戸湾干拓。~No.30No.31No.32 @ 

利根川治水の変遷と水害

利根川治水の変遷と水害

  • 作者:大熊 孝
  • 発売日: 1997/07/01
  • メディア: 単行本
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 徳川家康は、日本人奴隷交易を手助けした宣教師を追放し、関与しなかった宣教師を通じて南蛮貿易を希望した。
 スペインと中世キリスト教会は、徳川家康を欺いてキリスト教を広め、日本をキリスト教国家へと生まれ変わらせる為にキリシタンを使って反乱を起こし、日本で神聖な宗教戦争を画策していた。
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 2016年3月11日号 週刊朝日「子孫が綴る
 400年後にみのった家康公の夢 徳川宗家19代目 徳川家広
 平和のために日本の人口を東へ移す大戦略を実行した。
 日本の民衆は、豊臣秀吉から『人はどこまでも出世出来る』ことを学んだ。
 身分固定による身分保障を通じて恒久平和すなわち永久政権を目指す徳川家康にとって、これだけでも頭の痛い話がある。もう一つの問題が、唐入り、朝鮮出兵の後始末だった。
 朝鮮王朝との和解自体も面倒臭かったが、さらに問題なのは、朝鮮で戦った武士たち、さらに海を越える形で動員された農民たちに『明も朝鮮も日本と比べて弱体である』という認識が広がったことだった。じっさい、朝鮮は陸軍を明に頼り切っており、その明は兵士の戦闘力が日本兵の10分の1という体たらくだった(薩摩兵にいたっては、明兵100人分の戦闘力だった)。 
 日本から朝鮮半島へ渡った総兵力は20万人。そのうち4、5万人が戦闘、病気、事故などで死亡している。当時の日本の人口は1,200万人強だったが、戦闘に参加したのは西日本の大名たちだけ、そして西日本のほうが人口が多かったから、母集団は800万から1,000万人ということになる。一つの村から少なくとも一人は戦争へ行った計算ではないか。
 そして帰還した武士たち、戦場から故郷の村へと戻った農民たちは、負け戦についてどう語ったであろう?
 『朝鮮の人たちひどいことをして慚愧(ざんき)の念に堪えない』
 『戦争はこりごり』
 こんなことは言うまい。
 『敵兵は弱い』
 『もう一度、不退転の決意で臨めば勝てる』
 こうであろう。
 つまり平和主義は、少数意見だった。徳川家康は、西日本全域に広がる戦争願望、反中・反朝鮮の感覚と闘わなくてはならなかったのだ。
これに対して、家康は日本史上空前の策でもって応じた。日本の人口を東へ北へと移すという『大工事』がそれである。中国や朝鮮からの距離を増し、目を違う方向へと向けさせる。
 また、倭寇の、ひいては水軍の人材供給源だった半農半漁の貧しい民衆を『転職』させるために、日本各地の沿岸部で大々的な埋め立てを行った。
 戦国・織豊時代と江戸時代とで、日本社会が突然変わったと感じさせられるは、実はこの点だ。
 徳川政権出現するとともに、倭寇が消滅してしまったのである。京都を上回る大都会、のみならず同時期における世界最大の都市としての江戸という異様な現象も、人口の東方移動という倭寇の再発防止、中国、朝鮮との接触との減少という大戦略の文脈を考えるとわかりやすくなる。
 さて、自らが世を去って400年目の日本を見た徳川家康の霊は。さぞや喜んだであろう。
 紆余曲折を経たとはいえ、今では日本の人口はわずかながら新潟、長野、静岡までの東半分が、それ以西を上回っているからである。秀吉の唐入りの記憶が希薄な東日本が多数派となったことで、現代日本としては近隣諸国と良好な関係が築かれやすくなった。
 戦国の余燼(よじん)の冷める間もない1615年に宣言された『元和偃武』」は未来志向の宣言だったが、400年を経てやっと完成したのである」
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 2015年9月号 新潮45
 「ニッポン 地形歴史学 三 竹村公太觔(日本水フォーラム代表理事・事務局長)
 家康の関東『大工事』と近代化
 1590年、秀吉に江戸へ〝左遷〟された家康が始めた関東平野のインフラ整備が近代化に大きな意味を持つ──
 19世紀、江戸は東京となり、全国の人材と富は東京に集中した。日本は幕藩封建制度から中央集権の国民国家へ変身した。
 社会制度の激変だけではなかった。産業構造も劇的な変化を見せた。富国強兵の掛け声のもとに、農業から水産加工産業、繊維産業、そして重化学工業へと近代産業国家に突入しいった。
 なぜ日本は、世界で例がないほど一気に近代化を成し遂げられたのか?
 この問いに対してはもっぱら、日本人の勤勉性、教育レベル、組織への忠誠心、異文化の受け入れなどの観点から語られ、それらはいつも日本人の性向と日本人論に向かっていく。
 しかし、日本人論だけでは、日本の近代化の謎を解く鍵は見いだせない。
 江戸から明治への転換は、日本文明の決定的な転換であった。過去2000年の日本の歴史を見ても、この明治近代化以上の文明の大転換はなかった。そのため、明治近代化を見るときは、文明全体を俯瞰する必要がある。
 文明全体への視線とは、『日本人』と『日本社会』と、そして物理的な『日本国土』への視線である。しかし、明治近代化の議論の中では、常にこの『日本国土』への視線が欠けている。
 近代化を成し遂げた日本を立体的に浮き上がらせるには、この日本国土の解明が不可欠となる。
 家康の江戸幽閉
 文明は上部構造と下部構造で構成されている。
 上部構造は、動物はしないが人間のみがする営みである。政治、産業、商業、法律、芸術、スポーツ、環境活動などである。下部構造は、動物にも人間にも必要な生存条件である。それは、安全、食糧、エネルギー、交流で構成されている。上部構造の人間活動は、下部構造によって支えられ、制約を受けている。
 文明は芝居のアナロジーで表現できる。文明の下部構造は、芝居にいえば舞台である。上部構造は、舞台の上で演じる役者たちである。役者たちは舞台に支えられて、舞台の制約を受けて、芝居の役柄の人生を演じていく。
 私たちの人生もそれと同じだ。どの時代でも、どの人間も、その時代の下部構造に支えられ、制約を受けて生きていく。
 芝居の観客は、つい、役者に目を奪われてしまう。しかし、芝居の役者は舞台に支えられ、舞台の制約を受けて演技をしている。地方の公民館の舞台で演ずる芝居と、大装置が整った歌舞伎座の舞台で演じるとでは、同じ役者たちの芝居は大きく異なっていく。
 この舞台を知らなければ、芝居を理解することはできない。
 江戸から明治への近代化は、間違いなく日本人たちが成し遂げた。その日本人たちは、当事の日本の下部構造という舞台に支えられていた。
 では、日本文明を激変させた日本人たちの舞台とは何か?一国の文明の舞台とは、その国土、それ以外にない。
 日本の近代化をするには、舞台となった国土を見る。国土を見ることで、明治の近代化を、21世紀の私たちのものと理解することが出来る。
 過ぎ去った時間は、過去の歴史に生きた人々のものだ。しかし、過去に生きた日本人と、現代を生きている私たちは、国土を共有しているのだ。どのような社会変化が起きようとも、国土は継続している。
 下部構造の舞台から見ると、日本の近代化は、奇跡的に、突発的に、非連続的に実現したのではない。江戸から明治へ連続した国土の上で、必然的に成し遂げられたものだ。
 その日本の国土は、近代化の主舞台となった東京が象徴的に表している。
 近代化の主舞台の首都・東京の形成は、1590年の徳川家康の江戸幽閉から開始された。
 この年、豊臣秀吉は関東の北条氏を屈服させた。秀吉が天下統一をした瞬間であった。その秀吉は、即座に徳川家康駿府から江戸へ転封させた。北条征伐で活躍した報奨として関東を与える、という名目であった。
 しかし、この転封は決定的な左遷であった。もっと適確に表現すると、秀吉は江戸に幽閉したのだ。現在の地形を見る限り、絶対にしれは分からない。しかし、1590年当時の関東の地形を見ればしれが分かる。
 ……縄文前期、海面は5メートル上昇していたので、現在の首都圏の多くは海面下にあった。
 ……江戸時代に入ると、海面はすでに低下し、海岸線は後退していた。その海だった跡地に、何本もの大きな河川が流入していた。それらの河川は関東南部に土砂を運び込み、広大なアシ原の湿地帯を形成していた。
 関東の西から北側一帯には、伊豆、箱根、日本アルプスの山々が連なっている。 
 江戸から西へ進軍するには、箱根路か甲府路を通ることになる。豊臣軍はその狭窄部を固めるだけで、家康軍を阻止できた、事実、秀吉は家康を江戸に幽閉したと同時に、1590年、甲府羽柴秀勝を送り込み、家康の西への進軍を阻止する姿勢を明確にした。それ以降も豊臣家の側近の武将たちが甲府城を強化し、防衛を固めていった。
 関東の東は、地形的に開けていた。しかし、その広大な空間は大湿地帯であった。秩父山帯からは、荒川が流れ込んでいた。群馬や長野の東アルプス山岳地帯からは、利根川が流れ込んでいた。栃木の足尾山岳地帯からは、渡良瀬川が流れ込んでいた。雨が少しでも降れば、これら河川の水が流れ込み、アシ原は何ヶ月間も水が引かない湿地帯となった。ここで、特に注意しべきは利根川である。利根川江戸湾に流れ込んでいたのだ。
 ……
 江戸の東には、湿地帯が広がり、荒川、渡良瀬川そして利根川が幾重にも流れていた。それらが東へ向かう進路を遮っていた。
 港のない江戸湾
 家康が江戸から外に展開するのは、唯一、南の海上となった。しかし、江戸湾制海権も、地形上、江戸には所属していなかった。
 ……江戸城の前面には広大な干潟が広がっていた。江戸湾に流れ込む多摩川、荒川、利根川が運んできた土砂で、一帯は広大な干潟を形成していた。江戸湾は日本で最大級の干潟を形成していたのだ。
 昔から大型船が停泊する港の条件は、大河川がなく干潟がないことであった。幕末から明治にかけて開港した函館、横浜、下田、神戸、そして長崎は、いずれも大河川がなく干潟がない。
 江戸城前面の遠浅の干潟には、大型の船は近づけなかった。近寄れないということは、外海への出ることも出来なかった。つまり、江戸は海からも隔離され、江戸湾制海権を握ることが出来なかった。
 では、誰が江戸湾制海権を握っていたのか。それは、房総半島の地形が全て決めていた。
 房総半島の南半分には干潟がない。……地形から見ると、江戸湾周辺で大型船が着岸できるのは、内房の南側のみだった。
 中世以降、房総半島は東日本への重要な戦略地点であった。
 関西から船で東へ向かうと、駿河湾相模湾を越え江戸湾に出る。そこからさらに東へ向かうと房総半島にぶつかる。その房総半島の先端は海の難所であった。南からの黒潮は、北からの親潮と銚子で出会う。
 ……二つの海流は合流して、太平洋の沖に向かっていく。この潮流に乗ってしまうと太平洋の彼方へ流されてしまう。土佐の漁師のジョン万次郎が太平洋上の鳥島に漂着したのは、この潮流に乗ってしまったあらだ。
 そのため、京都から船で来た人々は、船を下り陸路で東北に向かうこととなる。その上陸地点が房総半島であった。房総半島には大型船が接岸できる館山、富津、上総湊といった良港が連なっていた。
 房総半島は北部が『下総』、南部が『上総』と呼ばれる。それは、西日本と東日本を結んだ海路から見ると、房総半島は南部の方が京都(上)に近いからで。
 三浦半島にも接岸できたが、三浦半島は狭く急峻で、そこを進んでも閉ざされた江戸に着くだけで、東北地方には行けない。
 つまり、江戸湾制海権は、房総半島南部の上総の地形が握っていたのだ。
 西と北は険しい山岳地帯で阻まれていた江戸。東は大湿地帯と大河川で取り囲まれていた江戸。南は広大な干潟によって制海権がなかった。
 豊臣秀吉は、この江戸に徳川家康を幽閉した。このことだけでも、秀吉は極めて優れた戦略家だったことが分かる。
 しかし、家康は戦いに向かった。秀吉との直接の戦闘ではない。関東そしれ江戸の地形との戦いであった。
 この家康の地形との戦いの勝利品が、250年後の日本近代化の舞台として日本人に引き継がれていった。
 二つの大工事
 1590年、江戸に幽閉された家康の家臣団は、秀吉の仕打ちに激高した。しかし、家康は怒っている暇はなかった。一刻も早く、広大な関東を制する必要があった。
 時は関ヶ原の戦いの10年前、豊臣家との天下分け目の戦いは迫っていた。江戸入りして以来、家康は古びた江戸城の修復もせず、鷹狩りに出かけていた。
 家康の鷹狩りの言い伝えは関東各地に残っている。西の武蔵野台地多摩川から横浜、三浦半島、北の秩父、群馬、さらに東の房総半島に及んでいる。この鷹狩が遊びであるわけがない。家康の鷹狩りは、関東の地形調査であった。この調査は、関東の地形と戦うための必死の作戦行動であった。
 地形調査に基づいて家康は、二つの工事を指示し、直ちに着工させている。一つは、『利根川東遷』と呼ばれている工事。そして、もう一つは、神田の山を削って江戸前面の干潟を埋める工事であった。
 江戸の本格的な街づくりは、関ヶ原の戦いで家康が天下をとったあとに行われている。徳川幕府が各大名の資金で命じた『お手伝い普請』であった。
 しかし、この二つの工事は、関ヶ原の戦い以前に、家康の自らの資金で行われた。それほど、この二つの工事には重大な意味があった。
 第一の利根川東遷の工事は、北からの攻撃を防ぐためであった。……関宿の地点がそれを示している。渡良瀬川と合流した利根川は鬼怒川の間に陸地が南北につながっている。このわずかな隙間を南下すれば、陸路で房総半島にたどり着ける。
 江戸の家康が警戒すべき大名は、奥州の若き覇者の伊達政宗であった。北条氏と同盟関係にあった伊達政宗は、東北から関東を視野に入れる勢いを示していた。その伊達軍団が、利根川と鬼怒川の間の陸地を一気に南下すれば、房総半島と江戸湾制海権は伊達のものになり、江戸の家康は全く無力になってしまう。
 1594年から関宿で工事が開始されてた。利根川の会の川締め切り工事である。この工事の目的は、関宿で下総台地を開削し、利根川渡良瀬川の流れを銚子に導く。その流れが伊達政宗の南下の防衛線となる。
 1621年、下総台地が開削され、利根川の流れが銚子に向かった。
 家康の工事開始から30年が経過し、その2年後、天下は3代将軍家光の時代になった。
 もう東北の伊達の脅威はなかった。しかし、江戸幕府は憑かれたように利根川の拡幅と掘り下げを継続していた。1809年、11代将軍家斉の時代、利根川の川幅は90メートル以上に広がっていた。
 もう利根川東遷の目的は、伊達への防衛線ではなかった。この工事の目的は、江戸を襲っていた利根川の流れを銚子へ逸らし、湿地の関東平野を乾いた穀倉地帯にさせる目的に変わっていた。
 この利根川東遷によって、日本最大の湿地帯だった関東は、日本最大の穀倉地帯に変貌していった。
 家康が江戸で自ら行ったもう一つの重要な工事が、江戸湾の干潟の埋め立てであった。
 江戸城から見える一面の干潟は農作に適していない。大軍の部下たちを住まわせることもできない。さらに、この遠浅の干潟は、江戸湾へ進出する障害物でもあった。
 干潟の埋め立ては、神田の山を削って、江戸城の前面から開始された。江戸城眼下の日比谷の入り江が埋め立てられた。干潟の中に浮かんでいた大きな洲があった。今の銀座通りである。その洲が江戸城と陸続きになった。
 干潟の埋め立ては、江戸に新しい土地を生み出していったが、それは土地を生み出すだけではなかった。家康に待望のものを与えてくれた。水深であった。
 秩父の山々から流れてきた荒川は、江戸に入ると大川(現在の隅田川)と呼ばれた。この大川の流れは、河口の干潟に入ると、何本もの支流に分かれ、広く、浅い筋となって江戸湾流入していた。
 埋め立ては、浅く広がった何本もの筋を絞り込んでいった。埋め立て土砂を安定させる木杭が、大川の流路を狭め、水深を深くしていった。干潟の埋め立てで、水深が得られていったのだ。
 水深さえあれば、大型船が接岸できる。大型船が接岸できれば、江戸湾に進出し、制海権を握ることができる。江戸湾制海権を握れば、相模湾遠州、そして伊勢湾へと自由に進軍できる。
 家康は閉ざされた江戸の突破口を開いた。家康は秀吉に勝った。秀吉はすでに死んでいたが、秀吉の狙った江戸での幽閉の地形を破った。
 干潟埋め立ては、江戸の街を大きく成長させた。平坦な埋め立て地に、人々が集まり街を造っていった。街には水道が引かれた。街路が拡幅された。運河が張り巡らされ、堤防が強化され、住宅が建築されていった。
 江戸湾の干潟は、日本の首都にふさわしい住みやすい土地に変貌していった。
 近代国家を支えた関東平野
 1853年、ペリー提督の黒船が浦賀沖に姿を現わした。激動の幕末が幕を開けた。
 アフリカ、中東、南米、アジアを植民地化してきたヨーロッパの列国、太平洋諸島を植民地化してきた米国、そして北からロシア帝国が、鎖国していた日本に一斉に押し寄せてきた。日本は植民地になる危機に直面した。
 欧米列国の植民地政策は『分割統治(Divide and Rule)』であった。すなわち、国内の内部分裂を煽り、内戦に追いやり、国内が消耗した時期を見計らって傀儡政権を立て支配する。
 この欧米の植民地化の手法は、まさに日本に適していた。何しろ250年間の幕藩封建体制では、日本各地に権力が林立し、富と人材が分散していた。特に、外様の薩摩、長州藩連合を徳川幕府と戦わせる。いとも簡単に日本を分裂させ、支配することが出来る。
 ところが、欧米列強にとって信じられないことが起きた。
 1867年、突如として徳川家が朝廷に政権を返上する大政奉還を行った。1868年、王政復古の大号令が発布され、江戸は東京となり明治政府が発足した。1889年(明治22年)に明治憲法が制定され、1890年(明治23年)には帝国議会が開催された。
 幕藩封建体制は一気に崩壊し、国民国家が誕生した。
 国民国家特徴は、中央集権である。国民が一ヶ所に集まり、国民の合意形成システムを構築していく。つまり、国民国家とは、人材と富が中央に集中すること。中央主権の統治機構が形成されていくことであった。
 それを、地形とインフラからの視点で表現すると、国民国家とは、物理的に人々が集まる土地があること。土地があるとだけではなく、そこに人々が集まり、合議していくための社会インフラが存在することである。
 家康が開始した利根川東遷は、大湿地帯だった関東を日本最大の穀倉地帯に変えた。この広大な関東平野は、全国の人々を無尽蔵に受け入れることができた。
 家康が開始した江戸湾の埋め立ては、19世紀最大の大都会の江戸を誕生させた。250年間で水道、運河、街路、堤防、港湾、そして住宅のインフラを整えていた。この江戸は東京となって、日本人が集まり近代国家を創っていく主舞台となった。
 幕末、日本は欧米列国の植民地になる瀬戸際にあった。その日本は植民地になるどころか、世界の最後の帝国列強に滑り込んだ。
 この日本の変身は、日本人の結集力で実現した。それは、日本人が結集する舞台があったからだ。
 人々が結集できた舞台、それは、関東平野であり、江戸の街であった。
 この関東平野と江戸の街は、250年前、徳川家康が江戸に幽閉された時から生み出されていった」
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 2017年4月27日 産経ニュース「「伝馬朱印状」家康でなく、信長のものと判明 栃木県立博物館の古文書
 栃木県立博物館の調査で織田信長のものと判明した伝馬朱印状(同館提供)
 栃木県立博物館は27日、寄託された古文書を調査し、これまで徳川家康が出したとみられていた「伝馬朱印状」が、織田信長のものと分かったと発表した。同館によると、信長の伝馬朱印状と確認されたのは初めて。28日から同館で特別展示される。
 伝馬朱印状は、荷物などを運ぶ人馬の提供を命じる手形で縦約27センチ、横14センチ。馬の横顔を取り入れた朱印が押されている。1581年に家康の統治下だった三河遠江の宿場に対し、馬7頭を提供するよう命じる内容。
 これまでは家康が出したとみられていたが、大きさや質、朱印が異なっていたため、日付や内容などを分析し、信長の命令で秘書官が書いたと断定した。調査した同館の江田郁夫学芸部長は「これまで不明な点が多かった、信長による交通面の支配の解明につながる資料だ」としている。」
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 2017年7月11日 産経ニュース「【薬種商「天命」田邊屋五兵衞(2)】
祖先は朱印船貿易商 医薬品輸入の先駆け
 初代が土佐堀で開業していた頃の「大坂大繪圖」。田邊屋橋」が描かれている=元禄9(1696)年、国立国会図書館ウェブサイトから
 ▼(1)「時代は洋薬や!」と即決…から続く
 大坂はかつて「水の都」と呼ばれ、江戸の町、京都の寺と並んで「浪華(なにわ)の八百八橋」というほど橋が多かった。それも幕府ではなく、町人が私財を投じて、生活や商売のために架けたことはよく知られている。
 その中の一つ、土佐堀川に架かり、大阪市の西区土佐堀と北区中之島を結ぶ橋は現在、豪商・淀屋常安(よどや・じょうあん)にちなみ「常安橋」と呼ばれているが、それ以前は「田邊(たなべ)屋橋」と呼ばれていたのはご存じだろうか。その名は古くは承応2(1653)年の市街図に記載され、後の宝暦6(1756)年には「正式名称を常安橋、俗称を田邊屋橋とする」とある。由来は朱印船貿易で活躍した豪商・田邊屋又左衞門で、橋の南詰めにその屋敷があったからだ。又左衞門は田邊屋の祖、初代五兵衞の祖父とみられ、財力が豊かだった寛永年間(1624〜44年)ごろに橋は架けられたようだ。
 又左衞門は堺の豪商だった。記録によれば慶長9(1604)年と同10年の2回ルソンに、同13年にはシャム(現在のタイ)へ渡航している。いわゆる朱印船貿易で、姻戚関係にあった大坂・平野の旧家には、慶長13(1608)年、当時の将軍徳川家康の印が押された朱印状が残る。貿易品はというと、銀や硫黄などを輸出し、生糸や絹織物、東南アジアからの薬品原料などを輸入した。希少な輸入品は莫大(ばくだい)な利益をもたらし、後の田邊屋、さらに現在の田辺三菱製薬につながると考えると、又左衞門は同社における医薬品輸入の先駆けであったといえるだろう。その商いはやがて道修町(どしょうまち)の唐薬市場と深い取引関係を築いていく。
 ところで、又左衞門は貿易で巨万の富を築いたが、半面、渡海するには大きなリスクもあった。現在の貨幣価値で数億円の資金が必要だったとの試算もある。又左衞門の商人としての財力とともに、商売への確かな目があったからこその成功だったろう。
 そしてもう一つ、後の田邊屋の創業につながる主力商品も又左衞門がもたらしたものだった。なんと「薩摩・島津家ゆかりの薬」というのだから、歴史はおもしろい。  (山上直子)   =次回(3)は12日に掲載(先行し連載中の産経新聞の申し込みページ https://o-sankei-hanbai.com/ )」



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