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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代日本には、小栗上野介はいない。
小栗上野介のような日本の将来を見据えられる程の人物は、日本にはいない。
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2016年6月3日 週刊朝日「司馬遼太郎の言葉
明治の父(上)
〈政治・政治家ということばは、あたらしい〉
明治後に欧州語の翻訳として定着した言葉だという。
〈この新鮮な日本語に該当する幕末人の一人は、小栗上野介忠順(1827〜68)であったにちがいない〉
司馬さん『「明治」という国家』のなかでも、小栗について語る。
〈──新国家はどうあるべきか。
古ぼけて世界の大勢に適(あ)わなくなった旧式の徳川封建制度国家の奥の奥にいながら、そんなことを考えつづけていました〉
渾身の憂国家ながら、声高に叫ぶことはない。著書もなく、日記も簡単なものしか残していない。
〈徳川国家が極度に衰退していることを知った上で、歴史のなかでどのような絵を描くかということだけが、かれの生涯の課題でした〉
課題を果たしつつ、小栗は近代日本もつくり出すことになる。
幕府滅亡の危機のなか、周囲の反対の声ばかりだったが、小栗は横須賀製鉄所の実現にこぎつける。
〈三浦半島の一漁村にすぎなかった横須賀に、フランスのツーロン軍港を範とする一大艦船製造所を興した〉(三浦半島記)
ツーロンは当時世界でも最大規模の軍港だった。それに負けない、あらゆるものを生み出す日本近代化の基礎工場を小栗上野介は横須賀につくろうとしたのである。
横須賀製鉄所は幕府の瓦解後も、横須賀造船所、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変えつつ規模を拡大していく。横須賀にとって小栗は大恩人だった。
〈明治の父〉
と、司馬さんは『「明治」という国家』で小栗を表現する。
『このドッグは、明治国家の海軍工廠になり、造船技術を生みだす唯一の母胎になりかした』
つまりは『坂の上の雲』で司馬さんが描いた明治海軍の栄光も、スタート拠点に小栗がいたのである。
……
アメリカに渡ってからの小栗は、精力的な視察をしている。
『上陸したワシントン海軍造船所を「もう一度見たい」と希望して見学に行っています。私たちがイメージする造船所とは違い、鉄工場で蒸気機関を始めシャフト、歯車、パイプのほかに、大砲や鉄砲、ライフル銃、ドアノブまであらゆる鉄製品を作っていた。製帆所で帆、製鋼所でロープ、木工所が船体部品の工場でした。つまり蒸気機関を原動力とする総合工場が当時の造船所で、小栗はそれを横須賀につくろうとした』
小栗らが帰国したのは大老井伊直弼が暗殺された(桜田門外の変)あとだったが、ひるむことなく幕閣に兆直言している。
『攘夷の嵐が吹き荒れ、幕府財政も火の車なのに「欧米のものでもいいものは採り入れるべき」といって憚りません。小栗だけが造船所づくりを提言し続け、周りの人たちは辟易していたと書かれた文章があります』
その執念が実り、帰国4年後の元治元(64)年ついに許可が出る。小栗は当初、アメリカの技術援助を想い描いていたが、南北戦争の真っただ中。そこに西欧列強のなかで日本進出が後発組だったフランスと手を組むことで、実現へ一気に動いた。
起工は慶応元(65)年。フランソワ・レオンス・ヴェルニーという若き優秀な技術者の協力が大きい。ヴェルニーが仲間を引き連れ、機械や工具類をフランスで調達して来日。5年がかりで完成させた石造りの1号ドック(船渠、せんきょ)は、140年近くたった今も、在日米海軍横須賀基地内で実際に使われている。
『横須賀の特徴は3つあります。蒸気機関を原動力とした総合工場であったこと、蒸気機関を慶応年間という早期から使っていたこと。そして人づくりの教育機関もあったということです。いまのスバル(富士重工業)の前身とされる中島飛行機の中島知久平は、ヴェルニーさんがつくった学校の後身、海軍機関学校の卒業生。ほかにも多くの技術者が輩出していますね』
予算計画は年間60万ドル。4年で240万ドルと膨大だった。明治新政府が引き継いだとき、55万ドルの借金が残ったが、生糸の輸出などでなんとかやりくりし、ちゃんと返している。なお、ヴェルニーは明治8(75)年まで横須賀で働き、日本を去った。小栗と並んで銅像となり、いまも『ヴェルニー公園』から横須賀港を見守っている。
村上さんはいう。
『司馬さんの初期にお書きになったものでは、小栗は従来の悪役的な登場をしていましたが、その後、見方を変えられましたね。もっと小栗について書いていただきたかった。私が好きな小栗の言葉は「幕府の運命に限りがあろうとも、日本の運命には限りはない」というものです。幕府のためではなく、未来のために小栗は横須賀造船所をつくったと私は思います』
小栗が親友の栗本瀬兵衛(鋤雲、じょうん)に遺した言葉も有名だろう。幕末に横須賀ドックの施工監督をつとめている。ドック工事について、幕府はそんな大金を使って大丈夫かとたずねたところ、
『たとえ幕府が亡んでも〝土蔵付き売家〟ということになります』
もはや幕府が滅びることを小栗は知っている。ただし、幕府という〝あばら家〟が倒壊するわけではなく、あのドックのおかげで、日本の政権が土蔵付き売り家になったのだと、小栗はいいたかったようだ。
明治後は官に仕えず、新聞記者となった鋤雲は、その明るい小栗の声と言葉を終生忘れなかった。
『三浦半島記』に司馬さんは記している。
〈馬上にいるのはもはや幕府中心主義者の小栗ではなかった。一個の日本人だった〉」
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何故、幕藩体制国家・封建制度国家の日本が開国し、同じ日本人同士が殺し合って明治維新を行い近代国家になったのか。
西洋の進んだ科学技術や高度な知識を取り入れて文明国家となり、より豊かに、より幸せに暮らしたいと願ったからではない。
まして、西洋に負けないような大国となって世界で高い地位に就きたいと思ったわけではない。
島国に閉じ籠もり、閉塞した社会で、貧しいながらも「足る事を知る」を信条で生きてきた日本民族日本人は、知らない事に対する尽きる事なき好奇心と手にしたモノを極めないと気が済まないと探究心はあってがあったが、伝統的生き方を捨てて西洋人のように生きたいとは思わなかった。
そんな日本人が、日本国家の将来のあり方をめぐって持論を掲げて議論を重ね、激論で感情が高ぶるや論敵を「天誅」として暗殺・謀殺し、ついには内戦を起こして殺し合った。
日本人は、個人的な野心や私的な欲望で議論はしないし人殺しも行わなかった。
幕末から明治にかけて内戦を起こし、血を流してまで「国のかたち」を変えたのは、北から日本を侵略してきたロシアに対する国家防衛戦略の為であった。
幕府と開国派は、話し合いによる外交で時間を稼ぎながら軍備を整えるという平和志向の漸進論であった。
朝廷と攘夷派は、今すぐに軍備を増強しててロシアを打ち払うべきであるという戦争辞せずの急進論であった。
西洋の帝国主義政策は、呑気に議論を交わしている日本を呑みこもうとしていた。
世界が西洋列国の侵略で植民地にされ、非白人が白人の奴隷とされている現実から、日本は戦争辞さずの急進論が、平和志向の漸進論を内戦で打ち勝った。
日本は、ロシアの侵略から祖国を防衛する為に軍国主義政策を採用し、軍備強化の為に諸政策を実行した。
日本の軍備増強という軍国主義政策は、世界を敵に回しても、味方してくれる国家を得られず孤立化しても、植民地とらず奴隷とならない為の祖国防衛として正しい選択であった。
江戸幕府は解体されるべくして解体されたが、日本は古代から天皇制度国家で、政権が交替しただけで日本が変わったわけではない。
日本が生まれ変わった、新しい日本になった、それはウソである。
奈良時代は有力豪族政権で、平安時代は貴族政権で、鎌倉から江戸迄は武士政権で、そして明治以降は庶民の国民政権であった。
天皇は、何時の時代も実権のない飾りに過ぎなかった。
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ロシアが、日本の軍国主義を事あるごとに永遠と怨嗟の声を張り上げエゲツナイほど非難するのは、日本を侵略して植民地とし、日本人を大量虐殺し生き残った日本人を奴隷にできなかった自分達の不甲斐なさ、非白人・非キリスト教徒の小国日本に敗北したという惨めさを慰める為であった。
ロシアは、平和ではなく戦争をもって、中央アジアや中東などを侵略して領土とし、原住民の非白人・非キリスト教徒を虐殺して生き残った者を奴隷としていた。
宗教政策を統治に利用して、二等人間として扱って欲しければキリスト教に改宗する事を命じた。
愚民化政策として、ロシア語を公用語とし、習得する事を制限した。
改宗非白人に特権を与えてロシア語と近代教育を行い、ロシア語と近代教育を禁止された異教徒を支配させ搾取と弾圧を行わせて、ロシアへの怒りを改宗非白人に向けさせた。
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近代化として軍国主義政策を採用した事が、日本の誤りであったという言説は愚かな説であり、無知蒙昧の低能な人間の戯言である。
非暴力無抵抗主義で武器を取って戦い敵を殺す事を否定する反戦平和主義者の理想論は、拝聴する価値も値打ちもない話である。
彼らは、自分一人のみが生き残る事しか考ず、その他大多数の、それが女性であっても子供であっても見捨て助けようとはしない。
それは、死滅をもたらす魅惑の甘い囁きに過ぎない。
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島国日本は、急流に近い海流に守られていたというのはウソである。
古代日本は、軍船を建造して艦隊を編成し、度々、数万の軍団を朝鮮半島の倭人領に派兵して戦争をしていた。
日本は、新羅・百済に比べれば経済・軍事・造船技術もあったが、中華帝国に比べれば弱小に過ぎなかった。
中華帝国は日本を遙かに凌駕する経済力や軍事力を持っていた以上、日本が兵隊を朝鮮半島に派兵できれば、中華帝国が日本に大軍団を派遣できないわけがない。
日本を外敵から守ったのは、海ではない。
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身分低い百姓は、職人でもあった。
本業は年貢を納める農業だが、農閑期には手工業・林業・漁業・紡績・行商など現金収入に繋がる幾つもの副業を持っていた。
大金を稼いだ百姓は、町人と同様に武士株を買って武士になり、出世して町奉行、勘定奉行、郡奉行になった。
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職人とは、自分・家族の働きとムラ・集団・地域の仕事を欠かさない一人前の人の事をいう。
現代日本には、半人前の日本人、それより酷い四分の一以下の日本人が増えている。
職人は、現代風に言う所の労働の対価として金を貰う権利を有する人民ではない。
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職人は、厳しい仕事人であると同時に優しい家庭人であり、穏やかなムラ人である。
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職人は、理系的論理思考と文系的現実思考で、先代や師匠の古い教えや伝統的技術を忠実に守り、自分らしく新しい工夫を凝らし、腕を磨き、技術を向上させ、この世に一つしかない作品を来る日も来る日も、毎日、ひたすら心血を注いで作り続けた。
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日本民族日本人が手にしようとした匠・名人芸とは、職業神・八百万の神々が持っていた特殊な神業であった。
職人は、神業に到達する為に、命を削り、命を捨て、腕を磨き、技術を向上せ、極めようとした。
それは「死」に至る道である為に、作業を始めれば職場・仕事場を命の駆け引きを行い戦場と定め、女人禁制として年端もいかない幼児さえも死生の空間から排除した。
何もない処から形を生み出し作品に仕上げるという事は、欲得に塗れた人間としての自分を捨て去る事であった。
生み出した作品に生気・気魄を与えるという事は魂を込める事であり、作品の魂とは祖先から受け継いだ自分の有限な命を削って作品に捧げる事であった。
魂を込めて作った作品でも、不完全であれば世に出す事は出来ないとし壊して魂を奪った。
それは、自分の命を宿した掛け替えのない分身を壊す事である。
神仏に誓い、願を賭けて生み出した一生一代の作品が、不完全であれば、神仏への責任から自裁(自殺)して果てた。
それが、神仏に通じた真の職人が果たすべき自己責任、掟であった。
命を犠牲にしても作品を作るのが、職人であった。
道を極める、とはそういう事である。
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職人は、生きている草木を切り燃やして奪い、神仏が宿る大地を掘り起こし毀損して粘土や鉱物などを強奪する、因果な職業人であった。
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死をまとう職人とは、神に通じる特殊技能を持った異能集団であり、山の民・川の民・海の民などの部落民であった。
ゆえに、死を怖れない異能集団は敬遠され忌避される穢れた民であった。
部落民への差別は、現代の日本人と昔の日本人とは違う。
日本の伝統や文化を支えていたのは、庶民ではなく部落民であった。
部落民への差別は、日本の伝統や文化を無価値と否定する事である。
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死と血に塗られ呪われた最たる職業とは、武士、サムライ・浪人、ヤクザ・博徒である。
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昔の職場・作業場・仕事場には、例外なく職業神を祀る神棚があった。
職業神の正統性は、日本中心神話である天皇神話・高天原神話を絶対根拠としていた。
故に、職人は天皇・皇室を命を捨てても守ろうとして勤皇派・尊皇派であった。
職人にとって御上は存在せず、その時代だけの権力者である幕府や一時的な領主である大名に従う気はなかった。
日本には、その時々の俗世な政治権力・宗教権威と永遠不変の神聖な天皇の御威光という3つが存在していた。
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日本の道具や商品には魂・霊魂が籠もり、その生命力は神であると同時に物の怪・妖怪に通じていた。
その為に、使えなくなった・壊れた道具や商品は、感謝の念を込めて供養祭を行い燃やし、灰は埋めて供養塔・供養碑を建て、魂・霊魂は神として神社・祠に祀った。
心からの供養を怠ると、道具や商品の魂・霊魂は祟り神・怨霊・妖怪・物の怪となって不幸・災いをもたらすと怖れた。
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日本の一芸は百芸に通じる。
職人は本職の他に、家を建て、道を敷設し、橋を架け、河原の堤を築き、水路を切り開き、井戸を掘る、など生活に必要な諸事万端、得意不得意はあるにしろ多芸に通じていた。
日本列島で生きるとはそういう事は、何でもできて当たり前であった。
皆で助け合い協力する事はあっても、他人に頼る、他人に甘える、はあり得なかった。
日本民族日本人には、「甘え」意識はなかった。
甘え意識で生きているのは、日本の歴史上で現代の日本人だけである。
職人は、頑固で融通の利かない気質・魂・根性を持っていた。
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職人は、俳句・和歌、茶道・華道、古典や流行り本の読書、漢詩の詩吟、日本画、写経や仏画、各種の笛・三味線・琵琶・大小の鼓・琴などの楽器、素人の歌舞伎・能・文楽、奉納の相撲・神楽、日記などなどの多趣味多芸で柔軟な思考と臨機応変で生きていた。
寺社の春祭り・夏祭り・秋祭り、夏の盆踊りを、老いも若きもムラ人総出で歌え踊れやで心の底から騒々しく笑い合いながら楽しみ、なかには喧嘩もして本気でぶつかり合った。
旅人を泊め、酒を出し飯を振る舞ってもてなし、寝るまで諸国のよもやま話を聞いた。
旅芸人や巡業相撲を招いて興行を行った。
伊勢神宮・金刀比羅宮・善光寺や京・奈良などの寺社仏閣に参拝に出かけ、温泉地や景勝地・行楽地への旅も楽しんだ。
1度しかない人生を、思いっ切り、悔いのないように生ききる事であった。
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職人は、労働者でもなければ人民でもなかった。
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職人は、日本天皇と神の国・日本を共産主義(マルクス主義)やキリスト教の侵略から守るべく、命を捨てて戦っていた。
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