🗡8〗9〗─1─失業武士・没落士族が日本を近代軍事国家にした。~No.29No.30No.31No.32No.33No.34 ④

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本にとって朝鮮は、古代から敵国であった。
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 日本民族系日本人にとって朝鮮人とは、信用できる友人ではなく、頼れる親友でもなく、命を預けられる戦友でもなく、その正反対に、油断ならない敵国人であり、信用できない隣人であり、とにかく憎悪・悪意・敵意を剥き出しにする恐ろしい知人であった。
 事実、朝鮮は日本を滅ぼす為に日本と戦争をする清国(中国)・ロシアに味方し、たえず日本を攻撃してくれる大国を探し、そして辿り着いた先が反天皇反日本であるプロテスタントアメリカ・キリスト教会であった。
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 統一新羅成立以来、日本は朝鮮との間での人が自由に往来できる国交を断絶した。
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 カトリック教会・バチカンローマ教皇と日本皇室は友好関係にあった。
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 2020年12月24日号 週刊新潮佐藤優の頂上対決 我々はどう生き残るか
 『産業遺産』の中に日本再興の鍵がある
 韓国の執拗な妨害工作を乗り越え、『世界遺産』となった『明治日本の産業革命遺産』。その概要を展示する施設が今年3月、東京にオープンした。幕末から明治の日本は、国内の技術のある人材を育成し、産業を興し、非西洋圏で初めて近代化を成し遂げた。その時代の気概がいま求められている。
 加藤康子
 佐藤 今年3月、内閣府の『産業遺産情報センター』が開設され、所長に就任されました。ここは2015年にユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録された『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』を紹介する施設ですね。
 加藤 はい、何とか開館までこぎつけました。6月から一般公開を始めましたが、事前予約をしていただいています。入館料は無料です。
 佐藤 世界文化遺産登録は、加藤先生の奮闘なくしては実現しませんでした。文化外交のプレーヤーとして、日本と世界に大きなインパクトをもたらしたと思います。
 加藤 幕末から明治後期にかけて日本が成し遂げたことは、世界史に残る重要な出来事です。西欧列強がアジアの国々を植民地化していく中、日本は殖産興業と富国強兵によって非西洋圏では始めて近代国家として認められました。たった50年で士農工商封建社会を崩し、人材を育成し、工業立国の土台を築いたのは誇るべきことです。
 佐藤 その担い手の多くは武士でした。
 加藤 そうとも言えますね。明治維新後、侍たちは失業者になりますが、彼らを糾合してカンパニーを作り、それが工業化の土台になりました。そして外国に人材を派遣したり、迎え入れたりしながら、ベスト・アンド・ブライテストを作っていった。
 佐藤 そこで明治政府は『システム』を作ったわけですね。
 加藤 そう、システムです。それまでの日本には匠の技はありましたが、産業システムはなかった。
 佐藤 日本ではいまも講座派(日本共産党系)の影響が強く、明治時代は絶対天皇制が誕生・強化された封建制で、それが軍国主義になったという歴史観があります。ですから、近代化をシステムの面から見ていく作業はとても重要だと思います。
 加藤 当時がどんな時代だったかと言えば、1842年にアヘン戦争で清国がイギリスに敗れ、1853年にはペリーが浦賀に来航します。江戸幕府も諸藩も海防への危機感から、鉄製大砲に挑み、また2世紀余り続けていた大型船建造の禁を解いて洋式船の建造にも乗り出しました。
 佐藤 『泰平の眠りを覚ます上喜撰』ですね。
 加藤 ただ鎖国していましたから、西洋科学の情報は限られている。蘭書の設計図を頼りに試行錯誤を繰り返しながら鉄製大砲の鋳造に挑みます。佐賀をはじめ、薩摩や韮山など全国に反射炉が11ヵ所、釜石など高炉が19ヵ所できます。さらには風力や水力しかなかったのに、蒸気船にも挑戦した。でも造船は高度な総合産業ですから、やっぱり書物の情報だけではうまくいかないんですね。
 佐藤 技術を持った人の出入りが必要となる。
 加藤 だから開港開国して、貿易商人やお雇い外国人を入れ、輸入に切り替えていきました。
 武士たちの明治
 佐藤 その中で明治維新が起きます。
 加藤 明治の新体制で士農工商が崩れると、侍が工業や商業に携わるようになり、外国にも留学して技術を学んで帰ってきます。そこでやっと人材が揃って、大量生産のシステムができていく。
 佐藤 例えば岩崎弥太郎が三菱を興すわけですね。
 加藤 三菱の三綱領は『所期奉仕、処事光明、立業貿易』です。薩摩は都に上がり、土佐の岩崎はカンパニーをつくり、工をもって国を興そうと考える。でも気位の高いお侍が、明日から商いをやれ、お客に頭を下げろと言われてもできないでしょう。そこで扇子に小判の絵を描き『これに頭を下げると思え』。またおかめの面を見せて『これに笑うと思え』と、お客さまへの笑顔の接客を教えます。おかめの面は三菱UFJ銀行本店の金庫に三菱の宝物として大切に保管されているそうです。
 佐藤 当然ながらそのシステムを作っていくのは、薩長土肥の武士たちですね。一方の佐幕派には興味深い傾向があります。実は日本のプロテスタントの多くは佐幕派出身です。その時代の佐幕派の鬱屈した青年たちは、新渡戸稲造にしても新島襄にしても、あるいは内村鑑三にしても、宗教や教育の道に進んだ。それなら頭を下げないでいいし、キャリアパスもありえましたから。
 加藤 それは面白い指摘ですね。逆に商いのため客に頭を下げることを学んだ侍たちは、工業においても、船を造るにあたってもすごく頑張ります。日本で最初の大型貨物船『常陸丸』の建造では、たいへん苦しみました。それまで1,000トン級の船しか造ったことがなかった三菱が6,000トン級の船に挑戦します。でも船舶建造と保守の基準を定めるイギリスのロイド船級協会がなかなか認定してくれない。例えば『リベットの打ち方が悪い』と難癖を付けられる。すると彼らは、灯明の明かりの中で六十余万のリベットを打検(だけん)したといいます。侍の意地というか、侍でなければできなかったと思いましたね。
 佐藤 できないと言うのは、武士として屈辱ですから。
 加藤 製鉄でも非常に苦労します。幕末に釜石で盛岡藩の大島高任が、蘭書片手に古来の知識に知識に工夫を重ね、地元の鉄鉱石を原料として、還元剤は木炭、送風動力は水車の木炭高炉法で出銑(しゅっせん)に成功します。日本にも砂鉄を原料とする『たたら』の伝統がありましたが、『たたら製鉄法』は毎回炉を解体して鉄を取り出していました。高任は炉を壊さず連続出銑できる高炉法への転換に成功し、近代製鉄への一歩を歩み出します。ただその後も苦難の連続で、明治政府はイギリスから設備を導入して官営釜石製鉄所を開設しますが、うまくいかず3年でギブアップ。民間の田中長兵衛に払い下げられました。田中製鉄所では48回失敗しても挫折せず、49回目にコークスを還元剤とした高炉の稼働に成功するんです。これが日本製鉄の始まりです。
 佐藤 釜石は太平洋戦争で英米連合艦隊から艦砲射撃されます。日本を支えている場所であることが十分認識されていました。
 加藤 明治の産業革命遺産は、九州、山口を中心に、この釜石や静岡県伊豆の国市韮山反射炉も加えて、8県11都市、23の遺産を日本の近代化の重要な要素として組み合わせ、シリアルノミネーションという形で申請して登録されました。
 佐藤 それがシステムとして定着するのはいつくらいですか。
 加藤 日露戦争のちょっと前です。日清戦争後に、例えば造船では、造船奨励法や航海奨励法が公布されます。それを受けて、造船業にお金をつぎ込んでいく。
 佐藤 法整備とリンクしている。
 加藤 大まかに時代を分けると、幕末、西洋の科学技術の情報が限られていた中で、海防への危機感から蘭書片手に反射炉や高炉を建設して大砲鋳造に挑んだ『試行錯誤の挑戦の時代』。次に開港後、西洋の貿易商人を介し、また明治新政府の下で、官営期のお雇い外国人などにより技術が輸入された『西洋技術の導入期』。この時期に多くの留学生が海外で学び、日本の職人たちも西洋技術に習熟していきました。そして人材が育ち、大量生産システムの確立した『産業基盤の確立期』になります。1910年には当時世界の工場だったイギリスで日英博覧会が開催されました。官営八幡製鉄所など日本の技術が世界にお披露目され、工業国として認知されました。
 文化庁との闘い
 佐藤 実際に世界文化遺産に登録されるまでは、たいへんな道のりだったと聞きました。
 加藤 もう闘いの連続でしたね。登録までに16年かかりました。その間に総理は7人代わっています。
 佐藤 そもそものきっかけは何だったのですか。
 加藤 産業遺産を研究していた私に、薩摩藩に縁のある島津公保氏から『集成館』を世界遺産にできないか、と相談があったのが始まりです。集成館は、島津斉彬のもと、大砲鋳造や蒸気船製造に取り組んだ工場群です。それが鹿児島県の伊藤祐一郎知事(当時)の賛同を得て、九州地方知事会に提案され、本格化しました。
 佐藤 問題はその後ですね。
 加藤 政府は毎年1件世界文化遺産を推薦しますが、当時は文化庁文化審議会しか推薦する権限を持っていませんでした。それで文化庁に行くと、その第一声は、明治後期の遺産は教科書問題になるから落としてくれ、というもの。また文科省も反発があり認めていただけませんでした。
 佐藤 韓国や中国に対する配慮ですね。でも私は、日韓や日中で共通の歴史認識を作るという試み自体に意味がないと思っています。
 加藤 歴史は国家の主権の問題です。
 佐藤 もし単一の歴史観ができるなら、それはどちらかが併合された時です。また韓国に北朝鮮と共通の歴史観があるわけではないし、中国と台湾も同じではない。歴史の話をするなら、まず相手側で共通の歴史認識を作ってからにしてほしい。
 ……
 加藤 逆に自民党の先生方は、文化庁の言うように幕末で収めておけばいいじゃないか、という人が結構いました。安倍前首相は別です。晋三先生はこの話に造詣も深く、よき理解者でした。
 ……
 佐藤 もっとも、根回ししようとしても、官僚はそう簡単に既存の政策を変えないでしょう。
 ……
 加藤 それもご存じ上げなかった。困り果てて、世界遺産のエキスパートであるオーストラリアの先生に相談して、こっそりオーストラリアから申請したんです。そうしたら日本で第1号の記憶遺産になりました。……。
 佐藤 同時期に『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』も世界文化遺産に向けて動いています。
 加藤 それがあったので、長崎は県議会、市議会が全会一致で明治の産業遺産には産業遺産には反対でした。最終的に文化庁が推薦したのがそのキリスト関連遺産で、明治の産業革命遺産は内閣官房が推薦しました。
 佐藤 あの隠れキリシタンの遺産については抵抗があるんです。あれは日本人がいかにキリスト教会の植民地主義に鈍感かということを表している。
 加藤 それはどういうことですか。
 佐藤 遠藤周作の『沈黙』を映画化したマーチン・スコセッシの『サイレンス』という映画がありますね。私が教える同志社大学神学部の学生たちに見せたら、一番優秀な学生がこう言いました。『これが起きたのは1633年で、30年戦争の最中です。カトリック派ヨーロッパでプロテスタント絶滅戦争を展開していたわけですから、日本でも同じことを考えてはいなかったでしょうか』と。
 加藤 なるほど、プロテスタントの視点で見るんですね。
 佐藤 さらに『彼は同じように日本の神社仏閣を全滅させようとしたから反発を受けたわけで、信徒たちを殉教にまで追い込んでいる』と指摘し、『非常に植民地主義的だ』と言いました。日本ではキリスト教徒をみな同じように考えますが、プロテスタントはあの世界文化遺産からまったく違った意味を読み取ってるのです。
 韓国の激しい反発運動
 加藤 産業革命遺産はそのキリスト教関連遺産の先立って世界文化遺産に登録されましたが、ユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)の審査から登録勧告、登録の過程も非常に大変でした。
 佐藤 韓国の反対ですね。
 加藤 政治利用は許されないのに、イコモスの審査中に韓国政府は正式に反対を表明し、軍艦島こと端島(はしま)の炭鉱に焦点を当て、ものすごい反対運動を展開しました。ユネスコ事務局、世界遺産委員国19ヵ国、イコモスの審査員を政府高官が訪問し、日本を糾弾して回った。登録を決める世界遺産委員会では『盗まれた国、拉致された人々』という小冊子や『目覚めよユネスコ、目覚めよ世界、目覚めよ人類』と書かれたパンフレットなどを大量に配布しました。そこに載っている写真は明らかな誤りだったり真偽不明だったりするものが多いのですが、端島朝鮮半島から強制連行された人々が奴隷労働させられた『地獄島』だという印象を参加各国に強く与えました。
 佐藤 そこは当然、韓国政府が全力を投入してくるでしょうね。
 加藤 トイレから出てきたら柱の陰で『ナチスの施設を世界遺産にするようなものだ』と委員に説明している。一番対応に苦慮したのは、議長国のドイツでした。マリア・ベーマー議長は、日本がドイツと同じことをやったと信じていた。しかもだんだん産業革命遺産とは価値の異なる第二次世界大戦の戦時徴用に論点が移っていきました。
 佐藤 外務省はどうでしたか。
 加藤 個人差はあると思いますが、歴史戦を戦うのが苦手でしょう・あまり味方になってくれませんでしたね。私も委員国を回って、端島のデータや死亡者の統計を見せてきちんと説明すると、外務省は慌てるんですよ。そんなことを話してはダメだって。
 佐藤 『触らぬ神に祟りなし』という方針ですね。
 …… 
 加藤 そうした体験からアメリカへ都市経済学を学びに行きました。閉山した炭鉱や、高炉が消えた鉄鋼の町がアメリカにもたくさんあります。そこに最後まで残っているのは何だと思います?
 佐藤 教会ですしょうか。
 加藤 飲み屋と葬儀屋です。失業者と高齢者は逃げられませんから。それで、あっ、日本もいつかこういう日が来るかもしれないと思った。
 佐藤 いつくらいのことでしょう。
 加藤 1980年代です。ただ同時に産業遺産を活用して復活した例もありました。それをまとめて『産業遺産』という本を書いたのですが、その中で思ったのは、やっぱり日本の力の源泉は技術だとうことです。明治の強さは、国内に技術のある人材を育成し、産業を興し、外に出て行く力を蓄えたことです。弛(たゆ)まず屈せず何度でも挑戦し、いまの日本の土台を作った。そんな活力ある日本を取り戻してほしいですよ。それには生産性を上げ、最新の技術を使って、日本はもう一度モノづくりに取り組まなければならない。世界遺産プロジェクトには、それを伝えるために取り組んでいるのです。」
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 現代の日本人と昔の日本人は別人と言っても良いほどに違う日本人である。
 特に、自粛警察やマスク警察などの空気圧・同調圧力に走る日本人は日本民族ではない、と言える。
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 殿様商法をバカにし否定する日本人は、歴史力・文化力・宗教力がない為に日本の近代化が理解できない。
 つまり、マルクス主義共産主義)価値観及びキリスト教価値観で歪曲・捏造された現代の歴史教育や歴史情報を信ずる限り日本の近代化の成功を理解できない。
 さらに、肉体労働は小人がする卑しい仕事として軽蔑する中華儒教朱子学)価値観も同罪である。
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 明治の近代化を成し遂げたのは、理数系武士団と和算職人集団であった。
 彼らは、確かな歴史力・文化力・宗教力そして技術理解能力を持ち、文系現実思考と理系論理思考をバランスよく持ち、不退転的な実行力・実現力・再現力を持ち、「窮鼠猫を噛む」的な脅威・危機・困難・苦境に追い込まれて想像だにしない発想で実力を発揮した。
 近代国家日本を破滅させたのは、変化・進化・進歩・発展・革新を嫌う儒教原理主義の文系エリートと蛸壺化・ガラパゴス化した理系エリートであった。
 同じような事が、バブル経済期に起き、バブル崩壊と共の日本の技術立国・科学技術立国・もの作り国家は破綻した。
 バブル崩壊後、教育は財政難を理由にして、高額資金と時間・年月がかかる理数系武士団や和算職人集団といった高レベル人材育成を放棄し、少額と短期間で大量生産できる低レベル即席人材育成に力を入れた。
 明治時代の理数系武士団と和算職人集団は、徳川幕府による鎖国の260年という長い年月と計算できない資金投下で生み出された傑出人材であった。
 それを推進させたのは、日本列島の自然環境と宗教的霊性、日本人の民族文化であった。
 現代日本の人材が数年かけても十数年で忙しく大量生産されるのに対して、昔の日本の人材は数十年かけてじっくりと少量生産された。
 現代日本の高学歴知的エリートとは、前者である。
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 世界最初にエンジン式飛行機を思いついたのは、日本人の外国語が分からない学歴のない名もなき青年であった。
 西洋礼賛と学歴優位が蔓延る時代に、欧米にない最新技術を日本人が思いついても、家柄が卑しく身分低く学歴のない若者に誰も資金を出さなかった。
 日本陸軍は、自動車のエンジンを取りつけた飛行機製造資金提供を求められたが「バカバカしい」として取り合わず拒否した。
 その後、1903年にアメリカのライト兄弟が動力飛行機を完成させ、世界初の飛行に成功した。
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 日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
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 日本には、古代から、日本を国際的反天皇反日本勢力に売り渡そうとする日本人が存在する。
 彼らの活躍で、国連と幾つかの国際小委員会そして国際機関は反天皇反日本となり、日本を批判し、日本に不利な勧告や告発を行っている。
 その最たる人物が、元総理大臣であり、保守派・リベラル派・革新派に関係ない元政治家達である。
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 近代国家日本は、明治から昭和初期まで日本を外敵から守る積極的自衛戦争を繰り返していたが、それ以外で、幾つもの歴史的意義深い平和貢献や人道貢献も自己犠牲で行っていた。
 現代日本の歴史は、戦前の日本が行った人類史的平和貢献や人道貢献を否定して葬っている。
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 明治日本(1868年9月~)の近代化は、江戸時代末期の1842年の阿片戦争や1853年のペリー来航よりも古い1793年の寛政日露交渉と1807年の文化露寇事件(ロシア軍艦の海賊行為)から始まっている。
 そして、ロシア軍艦による対馬不法占拠事件(1861年)である。
 開国・近代化の動機は、北からのロシアの侵略に対する恐怖であった。
 日本はロシアの脅威に直面し、ロシアの侵略に対抗する為に軍国主義へと暴走した。
 敗戦後、日本の自衛行動は全てが軍国主義による戦争犯罪として完全否定された。
 それ故に、現代の日本史における開国と近代化はペリー黒船艦隊来航から始まった事にされている。
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 日本人がロシアに恐怖し激怒し懲罰戦争を求めたのは、明治33(1900)年に起きたロシア人兵士による数千人のモンゴル人・満州人・漢族(中国人)を虐殺したアムール川大虐殺事件であった。
 昔の日本人は、強者・大国による弱者・小国に対して理不尽な行為が行われれば、我が事のように激怒し、弱者・小国を助け強者・大国に正義の鉄槌をくだす事を求めた。
 アジアの盟主たらんとして昔の日本人は、大アジア主義からモンゴル人・満州人・漢族(中国人)を助け、命や財産、自由や人権を守る為の聖戦を誓った。
 昔の日本は、アジアの希望の星であった。
 日露戦争は、明治37(1904)~明治38(05)年であった。
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 日本海軍首脳部と民族主義者の脅威と恐怖は、キリスト教勢力はハワイ王国を滅亡させ、ハワイ王家を廃絶させ、ハワイをキリスト教化して民族の文化・伝統・言語・宗教などローカルを全て消滅でさせた事である。
 日本海軍は、陸軍との軍事費獲得競争を繰り返しながら、アメリカ海軍との艦隊決戦に備えて軍艦を建造して軍備の増強を急いだ。
 現代日本の歴史は、日本海軍の対米戦派を戦争犯罪者として切り捨てている。
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 日本の近代化は、アヘン戦争で清国(中国)が西洋列強に敗れたからではない以上、日本人は中国の犠牲に感謝する事は一切ない。
 日本が歴史の教訓・歴史の手本とすべきは、清国(中国)ではなくムガル帝国(インド)である。
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 現代日本歴史教育は、日本側の対ロシア防衛戦略は大陸侵略を正当化する悪・犯罪として完全否定し、歴史から抹消している。
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 現代日本の中には、戦争をしない為に北方領土4島を放棄しようとする平和主義日本人が存在する。
 ロシア人共産主義者は、逃げ惑う数十万人の日本人避難民(主に女性や子供)を軍国主義者の手先として大虐殺した。
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 江戸時代後期の日本人が、短期間で近代国家を作り得たのは奇跡や偶然ではなく当然の事であった。
 江戸時代の武士・サムライそして庶民(百姓や町人)は、それだけの実力・能力・技術力を培っていたのである。
 つまり、当時の日本人は現代の日本人とは違うのである。
 江戸時代の武士・サムライそして庶民(百姓や町人)は、個々の才能は西洋人に負けないほどに優れていたが、それを結集して世界規模に拡げる為の方向性と組織化であった。
 鎖国政策が足枷となっていたが、時代の潮流と世界情勢からすれば国を閉ざすという鎖国策は正しい選択であった。
 つまり、江戸時代頃の世界は、日本が国を開き交流・交易・貿易ができるほどに平和で豊かではなかった。
 鎖国を否定する日本人には、歴史力・文化力・宗教力そして技術理解力はない。
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 武士・サムライにも、先取り精神のある優秀な武士・サムライと反発して僻み根性の武士・サムライと薬にも毒のもならない無能な武士・サムライもいた。
 前向きの優秀な武士・サムライは少数派で、後ろ向きの反発して僻み根性の武士・サムライや薬にも毒のもならない無能な武士・サムライは多数派であった。
 少数派を有能な人材として登用し優遇し適材適所に配置し、思う存分に働かした。
 多数派は、忠君愛国・滅私奉公を利用し、便利な駒として摺り潰れる・磨り減るまで酷使して使いものにならなくなって捨てた、不満を言えば自死・自決・腹切りを強要した。
 武士・サムライの社会はブラック社会であった。
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 日本の技術力・科学技術力は、好意的な称賛・絶賛そして親切心の改良意見ではく、難癖、クレーム、バッシング、嫌がらせ、罵声、差別、偏見そして悪意に満ちた基準変更・規格変更・ルール変更によって鍛えられてきた。
 つまり、日本人はあたたかく好意を持たれ、誉められ・煽てられ・大事にされると無能になる。
 日本民族を強くするのは、救いの少ない逆境・苦境である。
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 日本人をダメにするには「褒め殺し」、ウソ八百で褒めちぎるのが一番である。
 徳川家康は、そんな日本人の精神的ダメさ加減を知っていたから、関ヶ原の戦いの勝利に対して「勝って兜の緒を締めよ」と家臣の気持ちを引き締めた。
 戦前の日本が失敗した原因もそこにあった。
 現代日本人も同様に、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と誉められ、世界第2位の経済大国と認められてバカになった。
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 徳川幕府は、ロシアの侵略に備えて、東北諸藩に蝦夷地・北方領土樺太防衛の派兵を命じ、全国の沿岸防備に乗り出した。
 下級武士・身分低い庶民、差別される賤民、軽蔑される部落民、蔑視される芸能の民らは、日本天皇と神国日本を守るべく尊王攘夷派・勤皇の志士となって北を目指した。
 水戸藩は、神国史観・皇国史観からキリスト教勢力に侵略されるという危機感が強かった為に、他藩よりも先んじて西洋式近代化に着手し、大砲を作る為の反射炉と小規模ながらも西洋式要塞(助川城)を建設し、さらには蝦夷地への国替えかさもなくば水戸藩士の蝦夷屯田兵入植を願い出た。
 水戸藩の国防戦略は積極的自衛として、西洋式大艦隊を編成して敵艦隊を撃滅し、敵国内に軍隊を派遣して城下の盟を誓わせて日本への侵略を断念させる事であった。
 日本の近代化とは、侵略軍と戦う為の戦争準備の事である。
 それが、日本の聖戦、正しい戦争、正義の戦争の起源である。
 日本の近代技術・科学技術は、戦争の為にあり、戦争に勝つ為に開発され発展してきた。
 吉田松陰らは、対ロシア戦略から、日本の喉仏に短剣を突き付けている反天皇反日本の朝鮮及び中国東北部満州)を攻撃して占領し、親日国に改造するか、植民地にするか、領土にするべきだと訴えた。
 島津斉彬は、1855(安政2)年に日本の軍事力を強化する為に、朝鮮を領有し、福州を軍事占領する計画を立てていた。
 満州を手に入れれば、ロシアの日本侵略を阻止できる。
 それが、後の満州事変である。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、異教徒日本人を奴隷として金を稼ぎ、稼いだ金を使って布教活動を行い日本人キリシタンを増やし、日本をキリスト教国に大改造し、宗教・文化・言語など民族色を全て消し去り神の王国・天国を創ろうとした。
 日本人の命は金で買えた。
 ユネスコは、キリシタン弾圧を逃れた信者達の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を世界文化遺産に登録する事で、日本人が奴隷として売買された歴史的事実を闇に葬った。
 現代の日本人は「良い子」ぶりたいが為に、世界に喧嘩を売って告発する日本人奴隷売買を世界記録遺産にする事ようも、世界に謝罪する事で誉められたいが為にキリスト教関連遺産を選んだ。
 その意味で、現代の日本人の根性は汚く、薄情で、冷淡で、冷酷である。
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 徳川幕府が抱える最大の懸案が、地元の先住民であるアイヌ人が日本に味方して共に戦ってくれるのか、あるいはロシアの味方になって日本を攻撃してくるのか、であった。
 その運命の分かれを握るのが、蝦夷地・北方領土を支配する松前藩であった。
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 国連の小委員会や日本国内の反天皇反日的日本人は、アイヌ人や琉球人は日本民族とは違う先住民族であり、明治初期に日本の侵略によって強制的に併合された被害者である、と日本を告発している。
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 アイヌ人・琉球人そして日本民族は、同じ縄文人の子孫である。
 縄文人は、黄河流域・中原由来の漢族や朝鮮人とは別種のアジア人である。
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 日本の近代化は、北から侵略してきたロシアから神国日本を軍事力で守る為に始まった。
 日本の軍国主義化は、世界一の陸軍大国ロシアの侵略を撃退する為に必要な選択であった。
 日本の安全を脅かす敵は、ロシアだけではなく、隣国の清国(中国)と朝鮮(韓国・北朝鮮)であり、国内の利敵協力者であった。
 日本が北のロシアと戦争する時、清国(中国)と朝鮮(韓国・北朝鮮)は日本の側面にあって、友好的中立を保つか日本の味方になって共に戦ってくれれば安心できるが、敵対的中立となって利敵行為を行うか、ロシアに味方して日本を攻撃してくるか、であった。
 中国は、反天皇反日本戦略から、ユダヤ系国際金融資本、アメリカ・キリスト教会、マルクス主義共産主義勢力などと手を組んだ。
 中国と朝鮮は、何時の時代でも日本の敵に味方し、日本を滅ぼせるのなら神はおろか悪魔とさえ手を握ろうとしていた。
 朝鮮の日本に対する局外中立とは、日本を滅ぼす為の敵対的中立・悪意的中立であって、日英同盟の友好的中立・好意的とは正反対であった。
 明治時代の日清戦争日露戦争日韓併合は、こうして起きた。
 国内では、明治天皇暗殺未遂という大逆事件が起きた。
 日本には何時の時代でも、国内に外国勢力に憧れ誼(よしみ)を持とうとする獅子身中の虫が存在する。
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 現代の日本人は、当然、武士・サムライではないし、武士・サムライの子孫でもない。同時に、庶民でもなければ、その子孫でもない。
 では、誰の子孫かと言えば「分からない」と答え、しいていうのであれば「何処の馬の骨とも分からない日本人」と言うしかない。
 特に、そうした出自の分からない得体の知れない日本人は高学歴知的エリートに多い。
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 昔の日本人、武士・サムライそして庶民(百姓や町人)は、現代の日本人とは違って学歴はなくとも文系現実思考と理系論理思考をバランスよく持ち、実行力・実現力・再現力を発揮していた。
 何故か、そうしなければ生きていけない、公助があてにならない、自助・共助のブラック社会であったからである。
 現代日本人は、自助・共助より公助に頼り切っている。
 それが露見したのが、2020年の武漢コロナウイルスの感染蔓延である。
 その象徴が、自粛警察やマスク警察などの同調圧力である。
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 現代の日本人は、昔の武士・サムライそして庶民(百姓や町人)とは違い、知能指数は高くテストで高得点を取るが歴史力・文化力・宗教力そして技術理解力が劣っている。
 1980年代以降の政治家・官僚そしてメディア関係者を見れば、一目瞭然である。
 1990年以降の日本の科学技術は低下し、2010年以降には科学立国・最先端技術立国ではなくなった。
 2020年以降の政治家・官僚、企業家・経営者、メディア関係者は、有望な若者がいるにもかかわずは、短期成果優先・中長期目標切り捨てで、金をドブに捨てるように湯水のように使い時間をかけて人材育成をしなくなった。
 費用対効果から見れば、無能な日本人を大量に雇うよりも有能な外国人を厳選して雇った方が合理的であり効率が良い。
 日本は、先進国から後進国発展途上国並みへと下り坂を転がり落ち始めた。
 今や科学立国・最先端技術立国は幻であり、ウソである。
 全ての原因は、少子高齢化による人口激減である。
 人生100年時代とは、将来への夢も希望もない死が近い老人が多く、未来への好奇心が旺盛な生き生きとした活発な若者が少ない、事である。
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明治日本の産業革命遺産 近代化のなぞがとける (楽しい調べ学習シリーズ)
明治日本の産業革命遺産 強制労働Q&A