🗡30〗─1─戦前の日本は貧弱な民族資本による科学技術大国であった。世界最先端の航空産業。1940年。~No.97No.98No.99 @ 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 日本の欠点は、人材と科学技術はあっても、金=資本と物=資源と石油=エネルギーがなかった事である。
 国際金融資本や国際的軍需産業は、日本を敵と見なして、日本の民族資本や工業力を潰そうとしていた。
 世界の大企業と比べれば、日本は地方・田舎にある中小企業・町工場に過ぎなかった。
 資本と技術において、アメリカやイギリスは水面下でナチス・ドイツやソ連と通じていた。
 それを知らなかったのは、ひとり日本だけであった。
   ・   ・   ・   
 日本は、石油やくず鉄などの資源をアメリカに依存していた。
 イギリスやオランダなど西洋諸国は、日本を中国・アジア市場をから追い出した為にアメリカの対日強硬政策に協力していた。
   ・   ・   ・   
 世界に依存している日本が、ナチス・ドイツやソ連のように「世界征服を企む野望」などあり得ない事である。
 田中議定書(田中メモランダム)など愚の骨頂であり、中国共産党の悪意に満ちた対日謀略書に過ぎない。
   ・   ・   ・    
 航空産業は、最先端技術を生み出す軍需産業であった。
 科学技術大国の証しは、戦艦や空母などの軍艦を建造する事でもなく、戦車や装甲車などを製造する事でもなく、戦闘機や爆撃機などを開発し生産し戦場に投入する事であった。
 戦前の日本は、最先端の科学技術大国であった。
 現代日本で、「戦前の日本軍部は科学技術を軽視していた」と酷評する著名人は科学技術の何たるかが分からない。
   ・   ・   ・   
 戦前の日本は、他国の支援も協力もなく一ヵ国のみで、欧米から知識や技術を盗む事なく、世界を相手に科学技術開発を行っていた。
 軍国日本には、現代の中国共産党政府・中国軍のような産業スパイはいなかった。
   ・   ・   ・   
 戦後の日本は、軍需産業の航空産業を戦犯産業として捨て、戦前の世界と互角に渡り合っていた科学技術力を否定した。
   ・   ・   ・   
 日本を西洋の恩恵に与る科学技術のない未開な劣った国家に墜とす事が、西洋礼賛主義者の理想国家である。
 西洋礼賛主義者の本意は、日本を西洋の智恵や技術で発展・進歩させすようするのではなく、日本を西洋の枠内に留めて西洋を凌駕し脅かさないように抑え込む事である。
   ・   ・   ・     
 戦後教育とは、「劣った国の日本・常識のない未発達の子供である日本人は、優れた西洋の御指導をありがたく拝受して一人前の大人になるべきである」と言う事を子供に叩き込むのが目的であった。
 その成果は1980年代後半から徐々に表面に現れ、2000年頃には日本全体に浸透し、日本人の心・精神を覆い蝕んだ。
 それが、日本の政治家、官僚、学者、経営者・企業家、メディア関係者と言われる高学歴出身知的エリートの実態である。
   ・   ・   ・   
ウィキペディア                              
 三菱MC-20は、三菱重工業が開発・製造した日本の旅客機。
 大日本帝国陸軍の軍用輸送機である一〇〇式輸送機(キ57)の民間転用型。中島飛行機のAT-2などと同様、戦前中の日本における国産旅客機の代表的機種である。本機種は中華民国満州国にも輸出された。
 概要
 朝日新聞社で「朝雲」号として使用されるMC-20-Ⅰ
 キ57は、中島の九七式輸送機(中島AT-2)に代わる新鋭輸送機の開発命令を受けて開発した双発輸送機(旅客機)である。九七式重爆撃機一型(キ21-Ⅰ)をベースにして、エンジンと主翼の設計を流用し、胴体を再設計して完成させた。 高速爆撃機であった九七重爆の特性を継承しており、快速性能はアメリカのベストセラー旅客機ダグラス DC-3(C-47輸送機)よりも上であった。そのため、当時の日本の輸送機・旅客機の中でも特に優れた性能を誇っていた。 1940年(昭和15年)に完成したキ57は帝国陸軍にて一〇〇式輸送機という制式名称が与えられた。太平洋戦争初期のパレンバン空挺作戦においては陸軍落下傘部隊の輸送を行うなど、陸軍主力輸送機として戦争の全期間を通じて活躍した。
 MC-20はキ57の民間型の名称である。1940年9月に羽田飛行場で完成披露式が行われた。機体は軍用および民用の通算で第4号機であった。大日本航空が取得して「妙高」号と名付けた。しかし、同年12月28日、同機は試験飛行中に東京湾(千葉県姉ヶ崎沖)に墜落する事故を起こした。機体に搭乗していた14名全員は死亡した。墜落機は海軍の掃海艇により引き上げられた。調査の結果、昇降舵のフラッターが原因と推測され、バランスウェイトの改修が行われた。
 MC-20は大日本航空のほか、満州航空中華航空チャイナエアラインとは別企業)といった航空会社でも使用した。また、朝日新聞、読売新聞、大毎東日新聞などでも社有機として使用された。特に朝日新聞の1号機「朝雲」号は、機内に通信機材や暗室を完備し、室内には机やソファを設置するなど、「空飛ぶ編集室」と呼ばれた。さらに、終戦後のいわゆる緑十字飛行にもMC-20および一〇〇式輸が使用され、YS-11が飛行するまで終戦後飛行した最後の国産旅客機となった。
 1942年(昭和17年)には、一〇〇式輸送機二型(キ57-Ⅱ)と同様に、エンジンの換装等を行った二型相当のMC-20-ⅡIが登場した。(従来機はMC-20-Ⅰと区別される)
 三菱における生産数は、一〇〇輸・MC-20合わせ、一型が101機、二型が406機で、合計507機。生産は1945年(昭和20年)1月以降、日本国際航空工業に移管されたが、移管後の生産数は不明とされている。この製造数は日本の輸送機のなかで最多である。
 また、九七重爆の武装や装備を取り外した上で大日本航空が払い下げを受けた機体にMC-21というものがあった。こちらは貨物輸送に使われたが、8席の乗客を収容できるようにした機体もあったという。読売新聞でもこのMC-21を4機使用した。
   ・   ・   ・  
 1940年 日本航空業界は、中国戦線における本格的戦闘は終わり平和が訪れるとして、軍用機開発で培った技術を念願の民間旅客機開発に生かした。
 日本の伝統技術・職人芸は、昔から武器の進歩ではなく日常生活の利便性と芸術性を極める方向に向かう傾向があった。
 日本航空産業界は、欧米の航空産業を「雲の上」として目指し、寝食忘れての努力によって肩を並べる所まで成長していた。
   ・   ・   ・   
 大空は、白人の所有物であった。
 航空機は、白人の権威であった。
 パイロットは、白人エリートのステータスとして将校しかなれなかった。
   ・   ・   ・   
 6月10日 非白人非国際資本の民間航空会社の国際航路参入。
 フランスは、日本旅客機が植民地・インドシナ半島上空を通過する事に猛反対していた。
 羽田空港から。日航は、三菱航空機の1型輸送機「松風」による日タイ航路の一番機をバンコクに向けて飛ばした。
 搭乗客を接待する女性乗務員「エア・ガール」が脚光を浴び、女性の憧れの職業となった。
 中島飛行機は、福岡─京城京城─大連、京城─新京などの国際線と台湾内線に、AT型旅客機を就航させた。 
 川西航空機は、横浜─サイパンパラオの南洋線に大型飛行艇を就航させた。
 航空機への関心が高まるや、活動的な女性達は仕事に追われる男達を尻目に、空に憧れグライダーの操縦桿を握って大空を滑空していた。
 9月 三菱航空機は、純国産の最新式低翼単翼双発「MC20型旅客機」を完成させ、羽田空港でお披露目飛行を行った。
 日本航空機産業は、国際資本の資金援助や欧米航空機産業の技術協力を得ず、民族資本と独自技術で欧米航空機産業と肩を並べた。
 日航は、三菱MC20型旅客機を東京─新京、東京─バンコクに就航させ、日本の優れた航空技術力を世界に見せつけた。
 この有頂天振りが、アメリカの航空業界の怒りを買い、戦後の日本航空機産業完全破壊を招いた。
 人種差別から、大空は、白人の所有物であり、白人のみが自由にする権利があるとされた。
   ・   ・   ・   
 1941年3月26日  川西飛行機は、日本海軍の要請を受けて九七式飛行艇の後継機として、大型高速で充分な防御火器を装備した高性能の4発大型飛行艇を開発した。
 4月 東条英機陸相は、陸軍の原爆開発計画書に署名した。
 4月 萱場製作所は、KD−1Aを修理しオートジャイロの試作機(原型一号機)を完成させた。
 5月26日 試作機を玉川飛行場で初飛行に成功した。
 陸軍技術本部は、試作機の試験結果が良好であったので、国産型2機(原型二号機と三号機)の製作を、萱場製作所と神戸製鋼所に依頼した。
 6月18日付け アサヒグラフルーズベルト大統領が、『アメリカの国境はラインにある』といって問題を起こしたのは一昨年2月のことだから、……アメリカの指導者達は、参戦は無論のこと、積極的にイギリス援助に乗り出す考へは、少なくともフランスが負けるまでは持つていなかった。……日支の紛争にも余計なチョッカイを出している。重慶政府にジャンジャン金を注ぎ込んだり飛行機その他を送ったりして、その抗戦力を持ちこたへさせいる一方、日本に対しては通商条約の破棄や、屑鉄、銅、高級ガソリンなどの禁輸で経済的に日本を参らせようと掛つているのがそれだ。この経済圧迫が万が一我が生存権を犯すようになった場合には、平出海軍大佐のラジオ放送にもあった通り、帝国としてはその自衛上当然決起しなければならないのだろう、ここに日米は開戦し、独伊両国はこれまた三国同盟の義理合から米国と戦端を開くことになるのだ。……本当のアメリカの敵は、独伊ではなくて日本なのだ。独伊の勝利はまだ我慢が出来る。が、日本の発展だけはどうしても許せないというのが、アメリカ指導者の腹なのだ」
   ・   ・   ・   
 8月9日(〜12日) 米英両首脳による大西洋上会談。
 両国は、独戦参戦の為に日本を利用する事で合意した。
 チャーチルは、ルーズベルトの対日戦準備が完了するまでは日本との和平交渉を続ける事を提案を受け入れた。
 日本は、アメリカとの戦争を回避する努力を続けていたが、日米英戦争は決定された。
   ・   ・   ・    
 日本軍は、明治以来、一等国の軍隊というモチベーションと天皇皇軍というプライドから敵国以上に戦時国際法順守に心がけていた。
 つまり、世界は白人の法律で支配されている以上、白人と戦うからには白人が定めた法律を遵守しなければ、勝っても負けても難癖を付けられて禍根を残す事が分かっていたからである。
   ・   ・   ・   
 12月8日 真珠湾奇襲攻撃。
 日本海軍攻撃部隊は、戦時国際法に従って、軍艦や軍用機、軍事港湾施設や軍用飛行場を攻撃したが、市街地、病院、学校など非軍事施設への攻撃はしなかった。
 石油貯蔵施設を破壊すれば、今後の軍事行動を長期的に阻止できるが、石油の炎上と流出による環境破壊は想像以上になるとして見送られた。
 ハワイは、東郷平八郎と縁が深かった。
 ハワイ人は、日本天皇を尊敬する親日派であった。
 そして、ハワイには多くの日系アメリカ人が生活していた。
 日本海軍には、軍事行動を優先してまでそれ等の人々に迷惑をかける石油貯蔵施設破壊をする意思はなかった。
 日本人軍人は、戦争の勝利の為には非情な攻撃をするほどの冷酷さを持ってはいなかった。
 つまり、殺す相手は武器を持って戦う意思のある敵兵であって、武器を持たない民間人ではなかった。
 日本軍は、非戦闘員である一般人への攻撃は行わなかった。
   ・   ・   ・   
 アメリカ軍は、優生学から、日本人には視力と平衡感覚に欠陥があり爆撃機パイロットには不向きであると分析していた。
 近眼は水平爆撃に向かない、平衡感覚異常は急降下爆撃に向かない。
 真珠湾の水深は、魚雷攻撃ができる水深はなかった。
 真珠湾の弱点は、上空からの爆撃であった。
 だが、日本人パイロットは近眼と平衡感覚異常で爆撃ができない。
 アメリカ軍が、真珠湾で油断したのはこの点である。
 日本人パイロットは、水平爆撃も急降下爆撃も成功させた。
 日本の科学技術・軍事技術は、真珠湾の浅い水深を克服し、世界最高の酸素魚雷を開発した。
 真珠湾攻撃は、卑怯な騙し討ちではなく、正当な奇襲攻撃であり、戦時国際法に違反する戦争犯罪ではなかった。
 愚かだったのは、日本軍ではなく、アメリカ軍であった。
 真珠湾攻撃は、失敗ではなく成功であり、称賛されこそすれ非難されるいわれはない。 
 もう一つ忘れてはならない事実は、ワシントン時間「7日午後1時」という時間指定である。
   ・   ・   ・    
 12月10日 日本海軍航空部隊は、イギリスが誇る最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと僚艦の巡洋艦レパレスをマレー沖で撃沈した。
 武士の情けとして、船を捨てて海上に漂う敵水兵への非常な追い打ちはせず 、水兵を救助する軍艦を攻撃せず見逃した。
 武士道精神において倒す相手は、雑兵や敵領民ではなく敵の大将一人だけであった。
 日本海軍攻撃部隊が撃沈すべき相手は、敵旗艦と主要艦のみであり、漂流者を救助す護衛艦や補助艦ではなかった。
 そもそも、民族資本による軍需産業の生産能力が低くかった。
 その為に、日本軍は慢性的な弾薬不足であり、漂流する敵兵を機銃掃射する銃弾も漂流者を救助する敵軍艦を撃沈する爆弾も無駄にはできなかった。
 陸軍にしろ海軍にしろ、弾薬不足に苦しむ日本軍の攻撃目標は軍事施設のみであり、敵が学校・病院・教会などの民間施設を拠点として攻撃した場合は敵軍陣地として攻撃した。
 病人や怪我人、子供や女性であっても、武器を取って攻撃してくれば敵兵と見なして殲滅した。
 だが、この事が戦争犯罪として裁かれ、日本人将兵はB級・C級戦犯として有罪と成って処刑された。
 戦時国際法に基ずく国際軍事法廷は、如何に正当防衛であっても、武器を取って攻撃してくる病人、怪我人、子供、女性などの弱者を殺してはならないとし、もしそうした弱者の抵抗を受けたら戦術戦略に基ずく軍事行動でも制圧するのではなく退却すべきであると、裁定した。
 その認識が、戦争犯罪である第二回南京事件シンガポール虐殺事件に採用だれた。
 有罪として処刑されたB級・C級戦犯は、靖国神社の祭神として祀られた。
 航空機で戦艦は撃沈できないというのが、大艦巨砲主義を軍事常識とする軍事専門家の統一認識であった。
 真珠湾で撃沈されたアメリカ海軍の戦艦は旧式であり、停泊中で水兵がいなかった為で、戦闘配備として水兵が臨機応変に対処していればおめおめと撃沈されなかったと、考えられていた。
 だが、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ撃沈は違っていた。
 プリンス・オブ・ウェールズは、イギリスが総力を挙げ最新装備を施して完成させた最新軍艦であった。
 そのプリンス・オブ・ウェールズをいとも簡単に撃沈された為に、チャーチルは驚愕し言葉を失った。
 イギリスは、プリンス・オブ・ウェールズの復讐として、日本の航空機産業を徹底的に解体し、重工業産業壊滅させ、日本を農機具しか生産できない農業国家へと追い落とす事を誓った。
   ・   ・   ・   
 1942年 陸軍は、中島飛行機のキ44二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」を制式採用した。
 2月 世界で最高傑作の飛行艇である川西2式飛行艇大艇)が、制式採用された。
 陸軍は、川崎航空機のキ45改二式複座戦闘機「屠龍」を制式採用した。
 2月5日 日本海軍は、「二式飛行艇大艇)11型 H8K1」を制式採用した。
 機体性能である時速、航続力、搭載量、武装装備、任務能力である爆撃、哨戒、偵察、輸送は、当時世界最高の飛行艇であった。
 3月4日 K作戦。日本海軍は、大航続力を生かして二式大艇3機による真珠湾再空襲を決行した
 二式飛行艇は、強力な武装でB17爆撃機を撃墜した事がある。
 11月 日本陸軍は、国産型オートジャイロ機をカ号一型観測機(カー1)として制式採用し、輸送船護衛と対潜哨戒に使うべく陸軍空母あきつ丸に搭載する事を決定した。
   ・   ・   ・    
 1943年 陸海両軍は、中島飛行機が極秘に進めている超巨大爆撃機開発計画である「Z機計画」を認可した。世にいう、「富嶽」開発計画である。
 日本を飛び立った富嶽は、アメリカ本土を空爆して大西洋を横断し、同盟国ドイツで給油して東回りで帰還するという作戦であった。
   ・   ・   ・   
 1943年 国産型カ号観測機の、胴体は萱場製作所製が、エンジンと駆動装置は神戸製鋼所製が完成させた。
 完成機は、多摩川河畔での飛行試験が成功して納入された。
陸軍航空本部は、43年度分に60機分、44年に毎月20機分の量産を発注した。
 陸軍は、川崎航空機のキ61三式戦闘機「飛燕」を制式採用した。
 8月 日本海軍は、B29爆撃機を撃退するべく、陸上双発多産戦闘機を夜間戦闘機「月光」に改造した。
 8月23日 陸軍は、中島飛行機の丙戦(夜間戦闘機)「月光」(J1N1-S)を制式採用した。
   ・   ・   ・   
 1944年 海軍は、三菱重工業のJ2M「雷電」のみを生産する予定であった。
 6月 北九州に配備されていた、川崎2式復座戦闘機「屠龍」は、本土爆撃の為に飛来したB29を迎撃した。
 10月 陸軍空母あきつ丸の母港である広島市宇品にる陸軍船舶司令部本部内に、日本初の回転翼機部隊として船舶飛行第2中隊が編成された。
 11月3日 日本軍は、特殊兵器・風船爆弾福島県勿来(なこそ)付近、栃木県大津付近、千葉県一宮の三ヶ所から飛ばした。
 軍部は、風船爆弾に爆弾の代わりにペスト菌などの細菌兵器を装着する計画を立案した。 
 梅津美治郎参謀総長は、戦争犯罪である細菌兵器使用を阻止するべく昭和天皇に計画を上奉した。
 昭和天皇は、非人道兵器である細菌兵器の使用を許可しなかった。
 空襲が激しくなり気球作りが難しくなって、風船爆弾作戦は1945年3月で打ち上げを中止した。
 飛ばした気球は、約9,000個であった。
 アメリカ西海岸参謀長ウィルバー大将「200個近くが完全な形で発見され、他に75個の破片が見つかった。少なくとも100個以上が空中で爆発した。内輪に見積もっても900から1,000個が到達した」
 アメリカ軍は、風船爆弾の事実を公表すると、風船爆弾は細菌兵器ではないかと疑心暗鬼を生じる恐れがあるとして情報封止を行い、国民にウソの知らせた。
   ・   ・   ・    
 1945年 日本軍は、高高度で侵入してくるB29爆撃機を撃墜するべく、3式12センチと5式高射砲を開発した。
 東京杉並区に配備された5式高射砲2門は、B29爆撃機2機を撃墜した。
 アメリカ陸軍航空部隊は、日本国内の情報提供者から報告で、5式高射砲が配置された空域を飛行禁止にした。
 日本国内には、アメリカやソ連に情報を流す日本人が多くいた。
   ・   ・   ・   
 航空機産業各社は、B29爆撃機を撃墜する為に、上空1万メートルまで上昇し迎撃できる高高度攻撃機の開発を急いでいた。
   ・   ・   ・   
 1月 日本海軍は、川西局地戦闘機紫電改」を制式採用した。
 4月12日 日本海軍の特攻兵機・人間ロケット爆弾「桜花」は、新鋭駆逐艦「マンナート・L・エイベリ」を轟沈した。
 6月 陸軍と海軍は、ドイツからの得たロケット戦闘機開発叙法を情報を元にして局地戦闘機「秋水」を完成させた。
 8月3日 海軍航空技術廠は、B29爆撃機を迎撃する局地戦闘機震電」試作1号機の初飛行を行った。 
   ・   ・   ・    
 2017年11月21日 産経ニュース「幻の“ジェットエンジン”発見?  戦闘機用に開発、試作段階で終戦 ICUキャンパスで発見
 排気ノズルと推測される部品を見る高柳昌久教諭(左)と古川英明さん(国際基督教大提供)
 東京都三鷹市大沢の国際基督教大学(ICU)のキャンパスで、先の大戦中に日本が開発を進めたジェットエンジン「ネ230」のものと推測される部品が見つかった。ネ230の開発は終戦で打ち切られ、図面も現存していない。その開発の舞台裏では、戦況が悪化する中、多くの人命を犠牲にした決死の作戦があったという。
 発見されたのは、ネ230の排気ノズルと推測される部品。大学構内の管理を請け負う会社の先代社長が戦後、構内で見つけたものらしく、構内の資材置き場に放置されていた。同大構内には戦時中、軍用機開発の拠点だった中島飛行機三鷹研究所があった。
 平成27年、同大教養学部2年(当時)の古川英明さんが、管理会社から謎の部品の話を聞き、高校時代の恩師、国際基督教大学高校の高柳昌久教諭に報告。興味をそそられた高柳教諭は文献資料を探し、専門家に写真を送るなどして調査を始めた。
 ネ230の形状などを示す資料はほとんど見つかっていないが、28年6月、中島飛行機の後身にあたる会社の技術者らが大学を訪れ部品を検分。さらに今年7〜10月、国立文化財機構東京文化財研究所で詳細な調査が行われ、最終的に「ネ230の排気ノズルである可能性が極めて高い」との結論に至った。
 日本のジェットエンジン開発は戦時中、燃料不足や高高度を飛ぶ米爆撃機対策の切り札として急がれたが、日本独力での開発は難航した。このため、日本海軍は同盟国ドイツの最新軍事技術を入手しようと潜水艦をドイツに送る作戦を敢行。計5回のうち3回は途中で撃沈されたものの、この作戦で日本に持ち帰られた図面がジェットエンジン開発の土台になった。
 ネ230は陸軍の戦闘攻撃機「キ201・火龍」に搭載される予定だったが、試作段階で終戦を迎え、日の目を見ずに終わった。
 発見された部品は溶接部分などに粗雑さが目立ち、航空機による体当たり攻撃が横行した戦争末期の製造技術のいびつさをうかがわせるという。
 高柳教諭は「このエンジン開発の過程でいかに多くの人命が失われたかにも思いをはせるべきだ。今後、新たな資料、証言の発掘につながることを願う」とコメントした。」
   ・   ・   ・   
 伊藤正徳「わが防空部隊が、B29を撃墜した総数は、じつに714機に達していたのだ。それは、出撃総機数の1.38パーセントに当たる旨(むね)をアメリカの公報が記録しているのだから間違いない(他に損傷行方不明1,226機)。これは日本の遅ればせの防空作戦から見て、大いに見上げた成績といわねばならない」(『帝国陸軍の最後』)
   ・   ・   ・    
 2017年8月5日 産経ニュース「【いまも飛ぶ大戦機】「零戦」と「隼」、どちらが優秀な戦闘機だったか? 実際に戦わせてみた
 さほど飛行機に興味のない方でも、「ゼロ戦」「ハヤブサ」という機体名はご存じだろう。「ゼロ戦」は帝国海軍「三菱零式艦上戦闘機」、そして「ハヤブサ」は帝国陸軍「中島一式戦闘機 隼」の略称である。
 零戦と隼は、太平洋戦争前のほぼ同時期に開発が始まった。両機は列国戦闘機を凌駕する運動性能と長大な航続距離が要求され、同型式のエンジンを採用したため、似通った性能とスタイルになった。それは設計上の必然であった。交戦した米軍は、しばしば両機を混同していたほどである。
 したがって「もし零戦と隼が戦ったら、どちらが強いだろう?」という疑問がわくのも当然である。そこで強烈なライバル意識が介在する帝国海軍と帝国陸軍は、面子は賭けるが記録には残さない、非公式な“手合わせ”(模擬空戦)を実施した。その結果、全般的に零戦の方がやや優勢だったと伝えられている。
 アメリカに現存する零戦22型と隼Ⅲ型甲を世界で初めて編隊空撮した際に、零戦の米国人パイロットは、「零戦は空気抵抗が小さいせいか、スピードが乗って減速しにくいので、隼を追い越しそうになり、編隊を組むのが難しかった」と証言している。同時代に開発され、同型式のエンジンを搭載していても、徹底して空力的洗練を追求した零戦の方が、性能的にやや勝っている証拠の一端といえるだろう。
 その反面、空力を追求するあまり、構造・工作が複雑になってしまった零戦は、生産性の悪が、資源・人材の乏しい当時の日本には足かせとなったことも事実である。生産性の悪さに関して、現在も零戦の新造作業を行っている米レジェンド・フライヤー社は、「欧米戦闘機と比較して、製造に四倍も手間がかかる」と語っていたほどだ。
世界で唯一、飛行可能な隼Ⅲ型甲(手前)は、千島列島占守(シュムシュ)島で回収した残骸。零戦22型はニューギニア・バボ飛行場跡で回収した残骸を基に、それぞれ新造された(Photo:Atsushi "Fred" Fujimori)
 かたや隼は、割り切った設計を導入することで、戦時下の必須条件である生産性を高めていた。あくまで性能を追求して、理想を達成するか? あるいは妥協しても、現実的な生産性を優先するのか? 零戦と隼は、スタイルこそ似通っていても、設計思想は対極に位置する戦闘機であった。(文・藤森篤
 【プロフィル】藤森篤(ふじもり・あつし) 日本大学理工学部航空宇宙工学専修コースで、零戦設計主務者・堀越二郎博士らに学ぶ。30余年間、飛行可能な第二次大戦機の取材・撮影をライフワークとする。著書は『零戦五二型・レストアの真実と全記録』『現存レシプロ戦闘機10傑』(エイ出版社)など。」
   ・   ・   ・   
 9月23日 産経ニュース「【いまも飛ぶ大戦機】堀越二郎技師の遺産 現存するただ一機の局地戦闘機雷電
 モノ造り大国を自認する我が日本で、ホンダといえば本田宗一郎氏、スカイラインGTと聞けば桜井眞一郎氏など、偉大な技術者たちの名前が、すぐに思い浮かぶ。しかし、国運を担って太平洋戦争を戦った日本陸海軍機の技術者となると、なかなか名前が出てこない。そんな中で唯一の例外は、零式艦上戦闘機零戦の設計主務者を務めた堀越二郎技師だろう。アニメ映画「風立ちぬ」の影響で、女性から子供にいたるまで、堀越技師の名前は、広く知られることとなったからである。
 とはいえ堀越技師が、零戦の次に手掛けた局地戦闘機雷電」は、大戦機ファン以外にはあまり知られていない。山積する技術的な問題を、完全に解決できなかったため、零戦ほど活躍できず、また生産機数も少数に留まったからだ。ちなみに局地戦闘機とは、来航する敵機を迎え撃つ迎撃戦闘機を示す、日本海軍独特の名称である。
 緊急発進して急上昇、敵編隊を迎撃する局地戦闘機には、なによりも大馬力エンジンが要求される。しかし当時の日本には、戦闘機に搭載できるコンパクトな大馬力エンジンは、まだ存在しなかった。そこで堀越技師は知恵を絞り、爆撃機用で大型の三菱重工製「火星」エンジンを、通常よりも後方に搭載することで、胴体を紡錘形(前後が細い流線形)とし、空気抵抗の低減を図ったのだ。零戦と比べて胴体が極太にもかかわらず、雷電が繊細なフォルムを備えているのは、まさに堀越技師の英知なのである。
 わずか621機しか生産されなかった雷電の一機が、カリフォルニア州チノにある「プレーンズ・オブ・フェイム航空博物館」(通称POF)に静態保存されている。大の日本軍機通であるPOF創始者・故エドワード・マロニー氏は、1960〜70年代にかけて、所蔵する四式戦闘機「疾風」と零戦52型の再飛行を成功させた。そして次には、この雷電21型の再飛行も計画していたのだ。しかし残念ながら、火星エンジンの予備部品がないことから、再飛行は断念せざるをえなかったという。熱心な日本の大戦機ファンなら、誰しも独特の爆音を轟かせて大空を翔ける雷電の勇姿を見たかった……と思わずにはいられないだろう。
 POFには世界中でただ一機だけ現存する雷電21型、そして栄エンジンで飛行する唯一無二の零戦52型、すなわち堀越二郎技師の“遺産”が、翼を並べて展示されている。大戦機ファンでなくても、米国を訪れる機会があったら、ぜひPOFまで足を運んで、モノ造り大国の礎となったこの二機を見て、何かを感じ取って欲しい。(文・藤森篤
 【プロフィル】藤森篤(ふじもり・あつし)
 日本大学理工学部航空宇宙工学専修コースで、零戦設計主務者・堀越二郎博士らに学ぶ。30余年間、飛行可能な第二次大戦機の取材・撮影をライフワークとする。著書は『零戦五二型・レストアの真実と全記録』『現存レシプロ戦闘機10傑』(エイ出版社)など。」


   ・   ・   ・