🗡29〗─5・B─日本陸軍の四式重爆撃機「飛龍」とイ号一型甲無線誘導弾(誘導装置付ロケット)。~No.98 

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 日本陸軍は、戦車よりも航空機を選択していた。
 インベンション
 昭和10年頃 1,000円程度の金があれば東京都内で家が建てられた。
 戦闘機1機、7万円、爆撃機1機、20万円、戦車1台、35万円。
 戦車は高額な特殊鋼を大量に使う為に値段が高かった。
 日本陸軍が、戦車ではなく航空機を主力兵器としたのは正しい判断であった。
 陸軍主力戦闘機「隼」の製造を許可したもは、東條英機であった。
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 2024年1月2日 YAHOO!JAPANニュース 乗りものニュース「「大東亜決戦機」と呼ばれた四式重爆撃機「飛龍」のスゴさとは? 戦争末期 使われ方は“想定外”ばかりに
 堅牢で機動性に優れた爆撃機
 四式重爆撃機「飛竜」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 大戦中の兵器で「飛竜」といえば、真珠湾攻撃に参加し、ミッドウェー海戦にて沈没した空母「飛竜」が有名です。しかし、実は旧陸軍の方にも同じ愛称の爆撃機がありました。四式重爆撃機「飛竜」(以下:四式重爆)です。
 【戦時中の実験なの!?】これが、日本初の対艦ミサイルを搭載した「飛龍」です(写真)
 同機は、実戦に投入された機体の中では、旧陸軍が最後に開発した双発爆撃機となりました。卓越した性能で四式戦闘機「疾風」と共に「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」とも呼ばれた機体です。
 もともとは一〇〇式重爆撃機「呑龍」の後継機として開発されていました。一〇〇式重爆撃は戦闘機を振り切り速度と重武装を兼ね備えた爆撃機として当初計画されていましたが、実戦投入されると、防御火器以外は平凡な性能でエンジントラブルも相次いだことから、旧式の九七式重爆の方が使いやすいとまで現場から言われてしまいます。
 その一〇〇式重爆の穴を埋めるべく開発が急がれたのが四式重爆で、開発は三菱重工業が担当。陸軍の重爆撃機の設計思想である「長い航続距離」「堅牢な防御力」が継承された機体となっており、海軍の九六式陸攻や一式陸攻とは違い、始めから操縦席や銃座への防弾板・防弾ガラスを設置し、燃料タンクにも防弾ゴムが施されていました。
 爆弾の搭載量は満載時で1000kg以内なので、それまでの陸軍重爆撃機や海軍陸攻機と変わりませんでしたが、その速力や運動性能、航続距離は大幅に向上。航続距離3800km、2000馬力級エンジンのハ104を2基搭載し、双発機でありながら急降下爆撃が可能で、爆弾を搭載していない場合は曲芸飛行もできたといわれています。また、日本の爆撃機としては初めて胴体部を分割式にしており、量産性も考慮された機体となっていました。
 性能は良かったが登場時期は遅すぎた?
 飛行する四式重爆撃機「飛竜」(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 1942(昭和17)年12月27日に初飛行した四式重爆は、翌年から生産が始まり、本格的な配備が始まったのは1944(昭和19)年に入ってからでした。もう戦争も後期に入り、急速に戦局が悪化している時期です。四式重爆は大陸での地上攻撃以上に、太平洋各地へ散らばるアメリカ軍基地アメリカ艦隊に対する攻撃に比重が置かれることとなります。
 そのため、1944(昭和19)年1月には、生産中の機体のうち100機が魚雷を積める雷装機型に改良され、以降はこのタイプが標準装備型として使用されることになります。海軍機ほどではないものの、一〇〇式重爆の航続距離が3000kmに対して四式重爆は3800kmと大幅に伸びており、陸軍として初めて本格的な洋上攻撃が可能な爆撃機となりました。
 雷装した四式重爆は、海軍航空隊に組み込まれ、1944(昭和19)年10月の台湾沖航空戦に参加し艦隊の攻撃を担当しました。爆撃任務としては同年11月、12月に硫黄島経由でサイパンへの夜間爆撃も行いました。試作された、対艦ミサイルである「イ号一型甲無線誘導弾」の発射実験機としても使用されたこともありました。
 その後も、四式重爆は、フィリピンの戦い、九州沖航空戦、沖縄戦などでアメリカ艦隊と戦うことになりますが、戦局の悪化に伴い、1945年4月には胴体に体当たり爆弾「桜弾」を搭載した特攻機仕様まで登場。敗戦後は、降伏全権団の移動用機体としても使用されました。卓越した性能を持っていたものの、戦局が悪化してから投入された機体ということで、満足な性能を発揮できる場はかなり限られてしまいました。
 斎藤雅道(ライター/編集者)
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 四式重爆 飛龍+イ号一型甲 誘導弾
 陸軍で開発された新鋭双発爆撃機キ67四式重爆撃機「飛龍」です。
 軽快な運動性を誇り、機外懸架ながら魚雷装備も可能な本機に、空対艦ミサイルの始祖的存在であるイ号一型甲無線誘導弾の試作型を装備した誘導弾搭載機です。
 陸軍航空の技術者が目指した対艦誘導弾。量産の暁には、新型襲撃機キ102乙などへの実戦配備も計画されていました。
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 四式重爆撃機(よんしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の重爆撃機。キ番号(計画名称)はキ67。愛称は飛龍(ひりゅう)。略称・呼称は四式重爆、四重、ロクナナなど。連合軍のコードネームはPeggy(ペギー)。開発・製造は三菱重工業
 概要
 航空撃滅戦に適した九七式重爆撃機(キ21)以降の重爆撃機に対する運用思想から、本機も重爆と称されながら同時代・同クラスの他国の機体と比べて爆弾の搭載量は低いが、強力なエンジンによる良好な飛行性能、急降下爆撃に耐える機体強度、長大な航続距離により大戦後期の実戦投入にも関わらず際立った活躍を見せた。
 実戦に使用されたものでは、日本陸軍が最後に開発した双発重爆撃機である。
 特徴
 本機の開発に当たり、九七式重爆の欠点の一つであった縦安定性の不良を改善するため、本機は前部胴体を長く設計されている。
 搭載量を減らした機体に2000馬力級のハ104を搭載していることもあり運動性能は単発機並と評され、爆弾を搭載していない状態であれば曲技飛行もできると言われた。また、機体も運動性に相当する強度を持っており、重爆にもかかわらず急降下爆撃用の急降下速度計が装備され、600 km/h以上を示しても何ら異常は無かった。
 プロペラの選定に当たっては一式戦や零戦に使われていたハミルトン・スタンダード製の油圧式可変プロペラ(陸軍向けは日本楽器製造によるライセンス生産)が性能不足とされ、住友金属がドイツのVDM社からライセンス生産権を得た電動式ガバナーを備えた定速4翅プロペラが選定されたが、構造が複雑なため生産工程数や部品点数が多く、振動対策としてプロペラ翼の厚みを増したことで空力特性がやや犠牲となっている(雷電も同様)。より高性能のプロペラへ換装するため日本楽器製造がライセンス生産権を得ていたユンカース式にフランスのラチェ社の機構を組み合わせた「ぺ・33」が試作され、生産直前までこぎ着けたが、間に合わなかった。
 歴史
 四式重爆(キ67)
 戦後、アメリカ軍に接収され同国軍の国籍標識が描かれた四式重爆(キ67)。左横は陸軍航空軍のP-51
 四式重爆の試作1号機は1942年(昭和17年)12月27日に飛行している。後に陸軍から四式戦闘機「疾風」(キ84)と共に「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として期待され、重点生産機に指定された。
 1944年(昭和19年)1月、四式重爆の飛行性能から陸軍は三菱に対し、生産中の四式重爆100機に雷撃装備を搭載するよう命令が下り、試作機2機は横須賀海軍航空隊で海軍の指導の下、雷撃試験が行なわれた[1]。結果は良好で、161号機以降は雷撃装備型が標準型式として採用され、本機は陸軍機でありながら雷撃機としての運用が可能となった。海軍の一式陸攻や陸上爆撃機「銀河」と異なり、爆弾倉の長さが魚雷より短いため、魚雷は機外懸吊とされた。また、451号機以降の機体は後方の12.7 mm機関砲が連装(双連)に変更された乙型(キ67乙)となっており(砲架の生産が間に合わず、一部単装の機もあり)、これに伴い450号機以前の機体は甲型(キ67甲)とされた。
 1945年4月に完成した体当たり爆弾「桜弾」は、使用機種を四式重爆に限定したが多くは使われなかった。四式重爆の胴体内に桜弾が装着され、特攻機(キ167)として沖縄作戦で使用されている。沖縄戦では飛行第62戦隊に配備され実戦投入し、1945年4月17日に初出撃するも行方不明となる。その後、大刀洗陸軍飛行場から何度かの特攻作戦に出撃したが、戦果は確認されていない。
 無線誘導弾発射母機型
 イ号一型甲無線誘導弾を搭載した四式重爆(キ67)
 詳細は「イ号一型甲無線誘導弾」を参照
 無線誘導弾たる対艦ミサイルとして1944年中頃より開発された、イ号一型甲無線誘導弾(キ147)の発射および誘導母機として改修された機体。イ号一型甲の開発は同じく三菱であり、800 kg 爆弾を弾頭に備えたミサイル(誘導装置付ロケット)であった。イ号一型甲は試製を経て四式重爆を用いての発射試験が行われたものの、その不具合から実用には至らなかった。しかし並行して開発が進められ、既に実用化の域に達していた川崎航空機開発のイ号一型乙無線誘導弾(キ148。300 kg タ弾を備えたミサイル。発射誘導母機は九九式双軽爆撃機ないしキ102襲撃機)にシフトしており、実戦投入こそできなかったもののこれは150発が量産されていた。なお、1944年中頃の同時期に海軍は人間が搭乗・操縦する「人間ロケット」たる特攻兵器「桜花」の開発を行っているが、陸軍のこのイ号一型甲/乙無線誘導弾は遠隔操縦される純然たる無人兵器「対艦ミサイル」である。
 誘導爆弾発射母機型
 詳細は「イ号一型丙自動追尾誘導弾」を参照
 イ号一型甲/乙無線誘導弾と並行して開発されていた、対艦誘導爆弾イ号一型丙自動追尾誘導弾の発射母機として改修された機体。イ号一型丙は無線誘導式対艦ミサイルであるイ号一型甲/乙と異なり、撃ち放し能力を持つ自動追尾式の誘導爆弾であったが、実験中に終戦を迎え実戦投入はされなかった。
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 イ号一型甲無線誘導弾(イごういちがたこう むせんゆうどうだん)は、大日本帝国陸軍が開発、試作した空対地誘導弾である。同時期のドイツでも過酸化水素を推進剤とする誘導弾であるヘンシェル Hs 293が開発されていた。
 歴史
 誘導弾の研究は1930年代から行われており、日本においても小規模な研究が進められていた。
 1944年5月下旬、陸軍飛行第5戦隊長高田勝重少佐らの敵艦船への特攻を受け、第一陸軍航空技術研究所の大森丈夫航技少佐と第二陸軍航空技術研究所の小笠満治少佐は、100%戦死する体当たり攻撃は技術者の怠慢を意味する不名誉なこととして親子飛行機構想を提案、これによりイ号誘導弾の計画が進められた。
 同年7月19日にはドイツから日本海軍へとロケット・ジェット技術に関する情報が伝達された。これは陸軍にも伝えられた。この開発計画は陸軍を中心とし、まず800 kg爆弾と300 kg爆弾を搭載するための二種類の誘導弾を実用化することが決定された。この二種類の誘導弾はそれぞれイ号一型甲無線誘導弾、イ号一型乙無線誘導弾と呼称された。開発と試作は甲が三菱、乙が川崎の担当である。本誘導弾にはキ147の試作番号が与えられた。一型甲の開発指示は昭和19年7月に行われ、エンジン、機体ともに三菱が担当した。
 1944年9月5日、陸海民の科学技術の一体化を図るため、陸海技術運用委員会が設置され、研究の一つにイ号も含まれていた。
 試作一号機は昭和19年10月に完成し、11月には10機が完成した。投下試験が行われたが、ジャイロ安定装置の不調、操作用の無線機器の調整に困難があり、実用に至らなかった。
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丸メカニック NO.32 マニュアル特集 四式重爆撃機「飛龍」 (世界軍用機解剖シリーズ)
ハセガワ 1/72 日本陸軍 三菱 キ67 四式重爆撃機 飛龍 飛行第14戦隊 プラモデル 02205
日本陸海軍機大百科 第53号 四式重爆撃機「飛龍」一型
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 昔の日本には民族的な優れた職人魂・技術者根性や秀でた職人技・匠はあったが、現代日本の非民族系左派系人民労働者には民族的なものは何もかもが「ない」。
 ある意味、現代日本の科学技術力・モノ作りの衰退・低迷の元凶は、民族的伝統的文化的宗教的神話的な技術・技能が崩壊・破壊されているからでる。
 現代日本の非民族系左派系人民労働者では、経済再建、経済発展はありえない。
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 戦前の日本は、自国の民族資本と軍需産業は世界の国際資本と世界的軍事産業と孤立無援の一ヵ国のみで、「最後の勝利」を信じて絶望的な戦争を続けていた。
 内心、誰もが勝てない事は分かっていた。
 サムライ・武士は、「弱音」を吐かなかったし、決して「諦め」なかった。
 つまり、同じ日本人であっても、昔の日本人は現代の日本人とは別人のような日本人である。
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