🗡28〗─2─海軍局地戦闘機「雷電」はB-29相手に勇戦奮闘、撃墜の戦果複数。~No.92 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 戦争の激化に伴い優秀な日本人技術者が徴兵され絶望的な戦場に送り出された為に、製作現場では労働不足に陥っていた。
 戦争継続の為には武器弾薬を生産し続けねばならない為に、労働者不足を兵役義務がない台湾人や朝鮮人に頼るしかなかった。
   ・   ・   ・   
 親日派台湾人は、内心なにを考えているか分からない朝鮮人よりも頼りがいがあった。
   ・   ・   ・   
 日本人にとって安心して背中を任せられるのは、親日派知日派の台湾人であり、反日派敵日派の朝鮮人でもなく中国人でもない。
   ・   ・   ・   
 2018年9月13日 産経ニュース「戦中の台湾少年工 神奈川で最後の歓迎大会「記録写真提供を」
 台湾の少年工らが生活をしていた寄宿舎=現在の神奈川県大和市(石川公弘さん提供)
 先の大戦末期、旧日本海軍の航空機工場「高座海軍工廠(こうしょう)」(現在の神奈川県座間市など)で、戦闘機の製造に従事した台湾の少年工の来日から今年で75周年。10月に「台湾高座会留日75周年歓迎大会」が開催され、台湾少年工をたたえる顕彰碑の除幕式が行われる。元少年工の高齢化により、節目節目に行われてきた歓迎式典は今年が最後となる。関係者は「台湾少年工と関わりのあった人々の経験談などをまとめ、後世に伝えたい」と記録写真などの提供を呼びかけている。
 昭和17年、アジア一帯に戦線を拡大していた日本は、戦時下の労働力不足を補うため、台湾から約8400人の少年工を募集した。募集条件は、日本で航空機を製造しながら勉強すれば、3〜5年で旧制工業中学校卒業の資格を得られ、将来は航空機技師への道が開けるというものだった。
 ■「雷電」を生産
 食費など生活費は公費でまかない、給与ももらえるといった破格の条件で、台湾の優秀な若者が競って志願したという。「学力優秀、身体強健」などの条件を突破した少年が、工廠付属の工員養成所で、日本人とともに学びながら働いた。
 同工廠では、終戦までの約2年間、厚木基地(同県)に配備する戦闘機「雷電」を生産した。少年工らは朝から日没まで働き、実際に卒業資格を得たのは約400人程度だったという。
 戦局が厳しくなるにつれ、生活の状況は変わっていった。工廠から寄宿舎に帰る途中で機銃掃射を受けるなどして、命を落とす少年工もいた。
 ■75周年で記念誌
 戦後、少年工らは台湾へ帰り、国民党による戒厳令(24〜62年)が解除された後、元少年工の同窓組織「台湾高座会」が結成された。18年5月の来日から、今年で75周年を迎えたことを記念して「台湾高座会留日75周年歓迎大会」が10月20日、同県大和市内で開催されるほか、座間市内の芹沢公園で台湾少年工をたたえる顕彰碑の除幕式が行われる。
 同会の李雪峰会長ら元少年工や親族らが来日予定だが、元少年工の高齢化が進んだことから、歓迎式典は今年が最後となる。元台湾少年工たちは、多くが90歳以上となっており、年々、数も減っているという。
 戦中、父親が少年工の寄宿舎の舎監だった縁でともに暮らしていたという「高座日台交流の会」会長、石川公弘さん(84)=神奈川県大和市=は「戦争の記憶が徐々に風化するなか、日本の若い世代に台湾少年工の歴史を知ってほしい」と話している。式典にともない、次世代に記録を引き継ぐため、来春に台湾少年工の歩みをまとめた記念誌も製作する計画で、記録写真や資料などの提供を呼びかけている。
 情報提供は、台湾高座会歓迎大会事務局((電)046・261・7501)。
 【高座海軍工廠
 昭和17年、旧日本海軍から神奈川県に海軍航空兵器製造工場建設の協力要請があり、翌年、現在の同県座間市や同県大和市などにまたがった場所に設置された。台湾から訪れた台湾少年工らが戦闘機「雷電」を製造。工場が完成すれば、日本最大の機体生産工場となるはずだったが、戦局が悪化したため、当初の目的を達成することはなかった。」
   ・   ・   ・   
 一等国民の日本人は戦場を送られ、二等国民の台湾人や朝鮮人は安全な工場へ送られた。
 徴用工問題とはここにある。
 日本の戦犯企業は、日本の勝利の為に台湾人や朝鮮人達を徴用工として雇っていた。
   ・   ・   ・   
 韓国は、徴用工問題と戦争犯罪企業問題で、日本を訴え、謝罪と賠償を求めている。
   ・   ・   ・   
 親日派台湾人は、日本人の戦友として、よく働いき、共によく戦った。
   ・   ・   ・   
 朝鮮人は、日本人とは違って勇敢な兵士・戦士でもなかったし、有能な働き手・労働者でもなかった。
 反日朝鮮人は、日本人の戦友ではなかったし、友・友人でも親友でもない。
   ・   ・   ・   
 2022年3月20日 MicrosoftNews 乗りものニュース「局地戦「雷電」が初飛行した日-1942.3.20 追求した高速&上昇力 B-29相手に勇戦奮闘
 とにかく早く上がる機体を
 1942(昭和17)年の3月20日は、旧日本海軍局地戦闘機雷電」が初飛行した日です。局地戦闘機とは、言葉のとおり「局地」すなわち限定されたエリアで用いる戦闘機という意味で、いわゆる要撃機のことです。陸上の飛行場や基地、人口密集地、工業地帯などに襲来する敵軍用機を迎撃するための任務に特化した戦闘機として開発されました。
 初飛行こそ1942年ですが、量産体制に移行するのはそれから約1年半後のことです。高高度への上昇能力と最大速力が重視されるものの、試験飛行するたびに不具合が見つかったためでした。高出力に寄与するも小型化できないエンジン、それゆえに胴体の形状を錘型にしたり、プロペラの枚数を変更したりするなど、試行錯誤が続きます。
 【写真】日の丸ではなく星を描いた「雷電
 © 乗りものニュース 提供 旧日本海軍局地戦闘機雷電」。写真は三三型(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 とはいえ、いくつかのモデルが製造されたなか、後期型では電気溶接やプラスネジが採用されたほか、機体の生残性を高めるべく、防弾ガラスの本格装備や主翼内の燃料タンクに自動消火装置を備えるなど、当時の最新技術が盛り込まれています。
 1944(昭和19)年に製造された機体になると、最高速度614km/h、上昇能力は高度8000mまで10分を切るようになりました。
 しかし徐々に戦局が悪化していくにつれ、物資や燃料の不足から量産数は徐々に低下、また不良率も高まり、出撃できない機体が多くなっていきました。とはいえ、本土にはアメリカ軍の大型爆撃機が姿を見せるようになり、時代が下るにつれ武装が強化されています。
 「雷電」は南方戦線にも投入されましたが、主な戦闘相手はB-29でした。「超空の要塞」とも称され、重武装したアメリカ軍のB-29に対しては、両翼の機銃や被弾しても持ちこたえる太い胴体などが功を奏し、撃墜の戦果も複数あげています。
 「雷電」は終戦までに、470機あまりが製造されたにとどまりました。なお製造は、現在の神奈川県中部にあった海軍工廠でも行われたことから、その縁で2020年に部品の一部が座間市へ寄贈されています。また、この工廠では台湾から来た少年工も製造に携わったといわれています。」
   ・   ・   ・   
 ウィキペディア
 雷電(らいでん)は、大東亜戦争(太平洋戦争、第二次世界大戦)後期に大日本帝国海軍が運用した局地戦闘機[注釈 1](乙戦[注釈 2])。略符号はJ2M。
 帝国陸軍の戦闘機とは異なり、「雷電」の名称は愛称ではなく制式名称であり、乙戦の場合は「雷」または「電」の字を含むことと定められていた。連合軍のコードネームはJack(ジャック)。
 詳細は「軍用機の命名規則 (日本)#大日本帝国海軍」を参照
日中戦争支那事変)の戦訓により陸上基地防空のため、速度、上昇力、火力を重視して開発されたが、初飛行後の不具合解消に手間取り実用化が遅れ、生産は縮小され生産数は比較的少数にとどまった。しかし南方や本土における防空戦闘に投入され、一定の戦果を挙げている。
   ・   ・   ・   
 時事ドットコムニュース>特集>【特集】日本の海軍機>局地戦闘機雷電
【特集】日本の海軍機
 局地戦闘機雷電
 雷電二一型。真横から撮影しているため、胴体の太さがよく分かる。初期量産タイプの一一型は20ミリ機銃と7.7ミリ機銃を各2丁搭載していたが、二一型は20ミリ4丁に強化し、装弾数も増やした。全長9.7メートル、全幅10.9メートルで、最高速度は時速617キロ。航続距離は約1000キロと海軍機としては極端に短く、雷電は特攻に1機も使われなかった(三菱重工業提供)【時事通信社
 日中戦争で大陸に進出した海軍航空隊は、航空基地を中国軍機に攻撃され、手痛い損害を被った。このため、海軍は拠点防空用の局地戦闘機が必要と判断し、1940(昭和15)年4月に三菱重工業が開発をスタートさせた。「14試局戦」と名付けられた試作機は、運動性や航続力を犠牲にし、あくまで高い速力と上昇力を追求した特異な海軍機となった。
 速度と上昇力を上げるにはハイパワーのエンジンが必要で、三菱は離昇出力1460馬力の「火星」を採用した。ただ、「火星」は大型機用のため直径が大きく、単発戦闘機に搭載すると、太めの不格好な機体になってしまった。しかも、技術的な問題点も次々と持ちあがり、試作1号機が完成したのは42(昭和17)年2月だった。試作機でも視界不良や異常振動などが発覚したが、改良を重ねて43(昭和18)年10月に量産型の配備を始め、「雷電」の名を与えられて実戦投入された。
 海軍は局地戦闘機として「紫電」に大きな期待を掛けていたが、エンジンや主脚の不調で思うような働きができずにいた。「雷電」は視界不良や離着陸時の操縦が難しいなど、ある程度の技量がある搭乗員でないと乗りこなせない気難しさを持っていたが、急降下性能と加速性、上昇力は抜群で、米軍の超大型爆撃機B29の迎撃では大きな戦果を上げた。総生産機数は630機程度にとどまったものの、エンジンの換装や武装強化、排気タービンの搭載など、さまざまな改良が加えられた。
   ・   ・   ・   
ハセガワ 1/72 日本海軍 三菱 J2M3 局地戦闘機 雷電 プラモデル A5
タミヤ 1/48 傑作機シリーズ No.18 日本海軍 局地戦闘機 雷電21型 J2M3 プラモデル 61018


   ・   ・   ・