🗡28〗─3・C─本当は優れた爆撃機だった海軍一式陸上攻撃機(一式陸攻)。~No.93 

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 戦前の日本の軍事技術・科学技術は、現代の日本以上に欧米諸国に劣らぬ優れたものであった。
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 大日本帝国海軍 連合艦隊 WORLD WAR 2:太平洋戦争 海戦の記録
 深山/陸上攻撃機
 初飛行:1941年4月
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 大日本帝国海軍 連合艦隊 :航空機『深山/陸上攻撃機
 大日本帝国海軍連合艦隊の航空機【深山/陸上攻撃機
 陸上攻撃機『深山/しんざん』は、大日本帝国海軍航空機のなかで最大を誇る超大型航空機である。英名はNakajima G5N。中島飛行機が設計を行い、陸上攻撃機として試作機6機が製作されたが、機体各部でトラブルが続出したため実用化されることはなかった。しかし太平洋戦争(大東亜戦争第二次世界大戦)末期、輸送用に改造された深山改陸上輸送機は第1021海軍航空隊に配備され、様々な輸送任務で活躍した。
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 565. 海軍陸上攻撃機「連山」(中島十八試陸攻
 Nakajima Attack-Bomber "RENZAN" [JAPAN Navy]
 全幅:32.54m 、全長:22.94m、 総重量:26,800kg、 最大速度:593km/h
 発動機:中島「誉」24型ル 空冷複列18気筒排気タービン付2,000馬力×4 、
 搭載量:9,400kg、爆弾:2,000kg×2または60kg×18
 武装:20mm機銃×6、13mm機銃×4、乗員:7名
 初飛行:1944年10月
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 2022年10月20日 MicrosoftNews 乗りものニュース「「ワンショットライター」は嘘!? 敵の評価も高かった旧海軍「一式陸攻」ホントの性能は?
安藤昌季(乗りものライター)
 大型空母への搭載も検討された陸攻
 旧日本海軍が開発した「一式陸上攻撃機」を語るとき、「防弾装備が全くなく、機銃を撃ち込むとすぐに炎上・爆発したため、アメリカ軍から『ワンショットライター』などと呼ばれた」という俗説を聞くことがありますが、それは本当でしょうか。どうも、実際は違ったようです。
 【写真】編隊飛行や終戦後の連絡飛行etc、さまざまな一式陸上攻撃機をイッキ見
 © 乗りものニュース 提供 旧日本海軍の一式陸上攻撃機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 一般的に、攻撃機爆撃機は似たような性格の軍用機に思えますが、旧日本海軍では厳格に使い分けていました。旧海軍では、魚雷を搭載することができ、主にそれを使って敵艦船を攻撃する航空機のことを「攻撃機」と呼んでいました。そのため一式陸上攻撃機は魚雷を積み、対艦攻撃をメインに開発されていますが、加えて「陸上」と名称に入っている通り、空母などに積むことはせず陸地に開設された飛行場(航空基地)からの運用を前提としていました。
 ゆえに同機はエンジンを2基積み、航続距離もできる限り長く採れるよう設計されていたのですが、なぜ海軍はこのような航空機を導入・運用しようとしたのか。そこには当時、仮想敵国として定めていたアメリカの存在がありました。
 旧日本海軍は、航空兵力や空母数がアメリカよりも劣っていたため、その劣勢を補うべく、陸上基地から敵を攻撃できる陸上攻撃機を求めたのです。陸上攻撃機は、艦上攻撃機と異なり航空機の寸法の制約がありませんし、エンジンを単発にする必要もないため、より高性能な機体が得られると考えていました。
 では、ほぼ同時期に開発された九七式艦上攻撃機と、九六式陸上攻撃機の性能を比較してみます。名称に「艦上」「陸上」とある通り、前者が空母からの発着艦をメインにした機体で、後者が空母に搭載することのできない陸上発着専用の航空機になります。
 空母艦載機よりも高性能だった陸攻
 九七式艦上攻撃機の前期型である一号の場合、最大速力は377.8km/h、航続距離は過負荷状態で1993km、実用上昇限度は7640m。固有武装は7.7mm旋回銃1門、搭載量は800kg魚雷1発です。
 対して九六式陸上攻撃機二一型の場合、最大速力は373.2km/h、航続距離は過負荷状態で4379km、実用上昇限度は9130m。固有武装は7.7mm旋回銃3門と20mm旋回機銃1門、搭載量は800kg魚雷1発でした。
 2者を比べてみると、後者は速力で対等、航続力で2倍以上、実用上昇限度でも勝り(高高度を飛行すると、爆撃では敵戦闘機の迎撃が間に合いにくい)、防御武装も5~6倍は強力になります。ちなみに、こうした性能差から旧日本海軍は大型空母への陸攻搭載を真剣に検討していますが、実現はしていません。
 © 乗りものニュース 提供 空母搭載用として開発された旧日本海軍の九七式艦上攻撃機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 旧式の九六式陸上攻撃機でこの差ですから、その後継である一式陸上攻撃機では、さらに性能が強化されています。同時期のイギリス双発雷撃機「ボーフォート」、イタリア双発雷撃機「SM.84」とも比べてみましょう。
 まず、一式陸上攻撃機一一型は最大速力444km/h、航続距離2852km(正規)、5358km(過負荷)、実用上昇限度9520m。武装は7.7mm旋回銃3門、20mm旋回機銃2門で、800kg魚雷1発を積むことができました。
 対して、イギリスの「ボーフォート」の場合、最大速力は427km/h、航続距離は2575km、実用上昇限度は5030m。武装は7.7mm旋回銃4門で、搭載量は680kg爆弾または魚雷1発でした。
 一方、イタリアのサヴォイアマルケッティSM.84は、最大速力432km/h、航続距離1830km、実用上昇限度7900m。武装は12.7mm旋回銃4門で、爆弾1600kgまたは魚雷2発を搭載できました
 この3機種を比べてみると、日本の一式陸上攻撃機は、他国の双発雷撃機と比較しても飛行性能については、おおむね勝っていたと捉えることができます。搭載量を含む攻撃力ではイタリアのSM.84にこそ劣るものの、これは旧日本海軍が1.5t魚雷の開発に失敗したためで、機体設計の問題ではありません。
 随時改良が加えられ高性能化していった一式陸攻
 太平洋戦争の冒頭に行われた真珠湾攻撃などで名を知られた九七式艦上攻撃機と比較するなら、大きく性能で勝っており、開戦時における「日本最強の攻撃機」は、一式陸上攻撃機であったといえるでしょう。
 その一方で、一式陸攻は装甲がなく、敵戦闘機の攻撃で容易に炎上する「ワンショットライター」であり、人命を軽視した機体であるという説はどうでしょうか。
 © 乗りものニュース 提供 一式陸上攻撃機の前のモデルである九六式陸上攻撃機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 実際には「昭和十七年度以降研究実験に関する件」において「一式陸上攻撃機は燃料漕前後並びに側方に防弾ゴムを装備す」とされており、無防御ではありませんでした。1942(昭和17)年秋ごろから応急消火装置、1943(昭和18)年からは主翼下面への防弾ゴム追加と、できる限りの防御力強化も随時、行われています。
 後期型といえる、一式陸上攻撃機三四型では「航続力を犠牲にしても、防御力を大幅に強化する」という方針が立てられましたが、材質的な問題で高性能の防弾タンクを作れないまま終戦を迎えています。
 事実、太平洋戦争の全期間で撃墜された旧日本海軍の陸上攻撃機はトータルで1261機。一方、機体寿命から使用不能になった機体は2244機ですから、撃墜されなかった機体の方が多いのです。
 運用面を見てみると、一式陸攻は低空を飛行し、艦上戦闘機と対空兵器に阻害される対艦攻撃では、特に多くの損害を出しています。一方で、敵飛行場への爆撃などでは、高高度性能の高さと高速により、あまり被害を出していません。
 撃たれ弱さは米エースパイロットも否定
 たとえば、南太平洋のガダルカナル島を巡る攻防戦では一式陸上攻撃機は265機が出撃し、撃墜されたのは25機のため、損失率は9.8%に過ぎないという結果も残っています。
 これは高度8000mで進入する一式陸攻に対して、上昇力の低いF4F「ワイルドキャット」戦闘機は充分に追従できず、度々取り逃がしたためです。とはいえ、33機のF4F戦闘機に奇襲され、25機の一式陸攻が全機被弾したケースでも、撃墜されたのは5機のみで、高速が発揮できる高高度では「ワンショットライター」ではないこともわかります。
 © 乗りものニュース 提供 イギリス空軍のブリストル「ボーファイター」爆撃機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 対戦した連合軍の評価書には一式陸攻について「本機は最も近代的な日本機の一つだが、その能力は連合軍側の対応する機種よりも低い。本機の防漏タンクの能力は不十分で、貧弱な装甲しか持たず、機体構造は脆弱である。防御機銃は多数が配置されているが、充分な防御力を与えているとは言えない」と記されており、充分な防御を備えていたとも言えないのですが。
 一方で、26機を撃墜し、一式陸攻と対戦した経験も持つアメリ海兵隊のエースパイロット、フォス大尉は、パソコンのフライトシミュレーターを監修したさいに「一式陸攻は決して脆い機体ではない」と語ったとも言われています。
 一式陸上攻撃機は、イギリス戦艦を撃沈するなど、実戦でも活躍した高性能機でした。そうした機体なのに、容易に撃墜されるイメージが付いた理由は、日本と米英を始めとした連合国の航空戦力に開きがありすぎたからだといえるでしょう。筆者(安藤昌季:乗りものライター)としては、陸攻を護衛すべき零戦(零艦上戦闘機)が、もう少し速力重視で、かつ有効な無線を搭載していたなら、違うイメージが根付いていたのではないかと考える次第です。」
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 旧海軍の一式陸攻は本当に「ワンショットライター」なのか 覆るかもしれないその評価
 2021.04.28 斎藤雅道(ライター/編集者)
 tags: ミリタリー, 歴史, 航空, 軍用機, 一式陸上攻撃機, 旧日本海軍
 燃料タンクが無防備で炎上しやすく「ワンショットライター」とも呼ばれ、日本海軍航空機の人命軽視の象徴のひとつともされる一式陸上攻撃機。果たしてその酷評は正しいのでしょうか。実はそのイメージ、戦後についたものかもしれません。
 誰が「ワンショットライター」といい始めたのか
 「ワンショットライター」という名称に関して、ミリタリー好きな人ならばすぐに、旧日本海軍の「一式陸攻」こと一式陸上攻撃機のあだ名だということがわかるでしょう。「防弾装備が全くなく、機銃を撃ち込むとすぐに炎上・爆発したから、アメリカ軍からそう呼ばれた」といわれていますが、実際は違ったという意見も存在しています。
 旧日本海軍の一式陸上攻撃機
 「一式ライター」「フライングシガー」など、ほかにも蔑称がある同機ですが、実は当時の人々、特に敵だったアメリカなど連合国側からそう呼ばれていたという明確な証拠はありません。
 いつごろからそう呼ばれ始めたか、出典は定かではありませんが、戦後1952(昭和27)年に出版された『零戦 日本海軍航空小史』(堀越二郎 奥宮正武 著、日本出版協同)初版にはすでに記述があったといわれており、戦中にこのあだ名が生まれたとすると、当時の搭乗員たちの自虐の言葉が有力なようです。そういった自虐的蔑称は、たとえばアメリカのF2Aに対する「空飛ぶ棺おけ」、旧ソ連のLaGG-3に対する「保証付きの塗装済棺桶」のように、どの国でもありました。
 ただ『海軍空技廠―誇り高き頭脳集団の栄光と出発』(碇 義朗 著、光人社)など、数々の書籍や資料に記載がありますが、一式陸攻は九六式陸攻の後継機として計画された段階で、双発(エンジン2基)爆撃機にもかかわらず4発(エンジン4基)爆撃機なみの航続距離を要求されており、三菱側が提示した4発機案も海軍が却下しています。その際に、対弾性を犠牲にして主翼内をインテグラルタンク(この場合、主翼の構造材そのものをタンクとすること)とし、燃料搭載量を増やしたのは事実です。
 もちろん、軍が防弾について完全に無関心だったというわけではなく、明確な時期は判明していないものの、初期型の一一型にも本体の燃料タンクには防弾ゴムが装備されていました。しかし翼内のインテグラルタンクに関しては、諸説ありますが、初期のものに防弾処置は施されていなかったといわれています。『一式陸攻戦史』(佐藤暢彦 著、光人社)にはインテグラルタンクに関して、論議が重ねられたものの航続距離との関係で解決策は見つからず、燃料漏洩の問題を解消するだけで、防弾に関しては目をつぶったとされています。
 一式陸攻 その初期型から防弾装備はあった…?
 この判断には、一式陸攻は元々、九六式陸上攻撃機が敵戦闘機の迎撃により喪失が増えたことを教訓に作られており、“1941(昭和16)年当時の基準では”高高度を高速で飛ぶことができた、という背景があります。『戦史叢書79巻 中国方面海軍作戦(2)』(防衛省防衛研究所)には、一式陸攻の初陣である成都方面への攻撃において、敵機および敵対空砲圏外で爆撃ができたと記載されています。前出の『一式陸攻戦史』にも、図太い胴体でいい的だと思ったが、乗ってみると高速・高高度性能が高かったという電信員の言葉が記されています。
 そして、一式陸攻の損害が増え始めたといわれる1943(昭和18)年以降はインテグラルタンクにも防弾ゴムが施され、さらに消火装置も装備され、被弾後の火災についても対策が取られるようになりました。
 武装も、開発当初から7.7mm機銃4丁と尾部に20mm旋回機関銃1丁を備えるなど、当時の基準ならば問題ない火力で、後の改良型には13mm機銃や20mm機銃の追加搭載も行われます。
 海面スレスレを飛行する一式陸攻アメリカ軍機からの撮影(画像:アメリカ海軍)。
 ではなぜ、一式陸攻が特段、脆いイメージをもって語られるのでしょうか。
 これは仮説ですが、同機が護衛機をともなわず、やむを得ず出撃する機会が目立つ、という点がその理由のひとつとして考えられます。戦争序盤の1942(昭和17)年2月20日に発生したニューギニア沖海戦では、ラバウル空襲に失敗した空母「レキシントン」を中核とする第11任務部隊を追撃する形で出撃した一式陸攻17機が、艦載機の反撃に会い13機を撃墜され、2機を不時着水で喪うという大損害を被ります。この戦いが「ワンショットライター」というあだ名の生まれた説のひとつともいわれています。
 しかし当時は、世界中で提唱されていた、高速の爆撃機に重火力の防御をほどこせば撃墜されないという「戦闘機無用論」の名残がまだあった時代でした。イギリス軍なども第2次世界大戦勃発直後から、ウェリントン爆撃機をドイツ本土や北海へ護衛機をともなわない形で出撃させ、1939(昭和14)年12月の段階で作戦参加機の半分以上を喪うという、大損害を被っています。
一式陸攻の脆いイメージはその運用が原因か
 爆撃機攻撃機による護衛機をともなわない出撃は、夜間以外には大損害を覚悟しなければならいというのは、遅くとも1943(昭和18)年の段階では参戦各国が共通して感じていたことになると思います。
 一式陸攻の場合、対地攻撃に関しては、当時の同じような運用方法だったドイツ軍の双発爆撃機と大差ないか、爆撃場所によってはそれ以下の損害率で済んでいます。ただ対艦攻撃の場合が問題で、これには護衛機が満足に飛ばせなかった戦争末期の時代、レーダーピケット艦(レーダーによる敵捕捉を任務とする艦)に補捉される形で航空機や駆逐艦に迎撃され、喪われた一式陸攻が多く含まれており、損害率も高くなっています。このころの一式陸攻は、燃料タンクや操縦席の防弾装備をより強化したタイプであるのにも関わらず、多くの機体が喪われました。
 ちなみに、『我敵艦ニ突入ス』(平義克己 著、扶桑社)には、護衛空母「インディペンデンス」のアラン・ロビー艦長の証言として、F6F「ヘルキャット」4機が一式陸攻編隊を迎撃したものの、なかなか撃墜できなかったことが語られており、『歴史群像太平洋戦史シリーズ42 帝国海軍一式陸攻』(学研プラス)では、ガダルカナルの戦いで26機を撃墜してエースとなったジョセフ・J・ジョー・フォス氏が、フライトシュミレーターのアドバイザーとなった際、一式陸攻に関しては十分な耐久力と防御火力を持った機体にするようにとアドバイスしたとの逸話が紹介されています。
 運用方法に関しては問題ありかもしれませんが、当時、敵であった軍人の証言などもあることから、一式陸攻は現在いわれているような、特別脆い機体ではなかった可能性が高いです。
 【了】
 Writer: 斎藤雅道(ライター/編集者)
 ミリタリー、芸能、グルメ、自動車、歴史、映画、テレビ、健康ネタなどなど、女性向けコスメ以外は基本やるなんでも屋ライター。一応、得意分野はホビー、アニメ、ゲームなどのサブカルネタ。
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 一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日本帝国海軍の陸上攻撃機である。略称は一式陸攻(いっしき / いちしきりくこう、- りっこう)。日本海軍の呼び名は中型攻撃機の略の、中攻。連合国側のコードネームは「Betty」(ベッティー)。(Betty bomberが、一式陸攻の米軍側の名称)三菱重工業株式会社(改称前は三菱内燃機株式会社)の設計・製造。日中戦争・太平洋戦争で日本海軍の主力攻撃機として使用された。

 歴史
 開発
 1930年代大日本帝国海軍は、ワシントン海軍軍縮条約ロンドン条約で対米劣勢を余儀なくされた戦艦・巡洋艦航空母艦勢力を補うため、陸上基地から発進して洋上にいる敵艦を攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)の開発に力を注いだ。
 こうした目的に沿って試製されたのが、海軍広工廠の九五式陸上攻撃機三菱内燃機製造株式会社名古屋工場(1935年(昭和10年)10月1日三菱内燃機株式会社名古屋航空機製作所と改称)の本庄季郎技師を主務者として設計された九六式陸上攻撃機だった。細い胴体に双垂直尾翼を配したスマートな機体である九六式陸攻は当時としては高い性能を発揮したが、いわゆる「渡洋爆撃」で大きな被害を出したことから、九六式陸攻の防備能力を向上させた後継機として1937年(昭和12年)9月に「十二試陸上攻撃機」が発注され、再び本庄季郎技師を主務者とした設計陣で開発に取り組んだ。
 第一回一式陸攻打ち合わせ会で、本庄季郎技師(三菱)から「防備が不十分。小型で航続距離求めれば燃料タンクに被弾しやすいため、四発機にして搭載量、空力性能、兵儀装要求を満たし増えた二発馬力で防弾鋼板と燃料タンクの防弾、消火装置を備える」と提案があったものの、和田操(航空技術廠長)から「用兵については軍が決める。三菱は黙って軍の仕様通り作ればいい」と議論なく棄却された。
 1939年10月、一号機が完成。初飛行は1939年(昭和14年)10月23日、パイロットは志摩勝三。1941年(昭和16年)4月1日、「一式陸上攻撃機」として制式採用された。 このG4M1爆撃機が量産に入る以前に、重護衛戦闘機型を制作することが試みられた。この爆撃機の量産は1940年に開始され、量産1号機は1941年4月に生産ラインを離れた。
後継機として、陸上爆撃機「銀河」、十三試陸上攻撃機「深山」、十六試陸上攻撃機「泰山」(計画中止)、十八試陸上攻撃機「連山」、対潜哨戒機・輸送機「大洋」(計画中止)が開発された。
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三菱 一式陸上攻撃機 世界の戦闘機 No.50 戦闘機
アシェット 日本陸海軍機大百科 135号 一式陸上攻撃機24型 第763海軍航空隊 フィリピン クラーク基地 米軍捕獲仕様
青島文化教材社 1/144 双発小隊シリーズ No.3 日本海軍 三菱 一式陸上攻撃機 11型 2機セット プラモデル
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