🗡31〗─1─日本海軍航空隊は真珠湾攻撃の為に新兵器を開発して大戦果を挙げた。~No.100No.101No.102 ⑨ 

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 食糧・物資・エネルギーを海外に依存しなければ生きられない日本が生き残る為には、敵軍に必ず勝てる性能を備えた新兵器を開発するべく、武器の限界を超える為に智慧を絞り持てる技術を惜しげもなく投入した。
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 2021年12月8日06:22 MicrosoftNews 乗りものニュース「本当に「棺箱」? 真珠湾で活躍も超不名誉な称号 ダラリ脚艦上機「九九艦爆」実際の所
 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員
 飛行中もだらりと垂れ下がり続ける脚…
 1941(昭和16)年12月7日(日本時間8日)、アメリカ・ハワイの真珠湾へ、日本海軍が攻撃を仕掛けました。かの太平洋戦争の始まりを告げる「真珠湾攻撃」です。
 このとき、旧日本海軍艦上機の主力であったのが、九七式艦上攻撃機(通称九七艦攻)、零式艦上戦闘機(通称零戦)、そして九九式艦上爆撃機(通称九九艦爆)です。大戦前半の快進撃を支えたこの三機種ですが、九九艦爆は他の二機種とは異なるルックスと、はなはだ不名誉なニックネームを持ちます。
 発見! 真珠湾にあった「九七艦攻」の実機
 © 乗りものニュース 提供 九九式艦上爆撃機(画像:オーストラリア戦争記念館)。
 九九艦爆のルックスの特徴は、飛行中もダラリと垂れ下がり続ける脚。これは引き込み式の脚を備える九七艦攻や零戦と異なり、固定式の脚を採用したためです。そして不名誉なニックネームは大戦中期以降に広まった、「窮窮式棺箱」という衝撃的なもの。ただ、実態は本当にそうだったのでしょうか。
 ダラリと垂れ下がった脚は、どうしても「旧式」「鈍い」ともとられがちで、それがある意味で、不名誉なニックネームの説得力を強めてしまっているといえるでしょう。なお、この機構が採用された理由のひとつとして、飛行機による攻撃方法のひとつである「急降下爆撃」を担当する機種であるため、固定脚とすることで、急降下時において、空気抵抗によりスピードを適切に保つことがメリットでした。
 ただ、この九九艦爆の固定脚は、製造・整備のしやすさを向上させることにもなりました。
 「九九式棺桶」の実際の所
 真珠湾攻撃はもちろんのこと、サンゴ海海戦や、ミッドウェー海戦でも、旧日本軍の空母から発艦した九七艦攻、そして九九艦爆による攻撃部隊は、零戦による援護により、アメリカの空母やイギリスの空母を沈め、戦果を収めることができました。
 なかでも急降下爆撃は、水平爆撃より命中精度を高めるために、目標に対して機首を向けて降下し、中型爆弾を投下するため、目標からの銃撃にさらされます。そのようななか九九艦爆は、セイロン沖でイギリス艦隊を急降下爆撃により沈めた際は、82%という非常に高い命中率を達成したのです。
 軍用機の性能は、単に飛行機のスペックだけではなく、操縦者の能力、グループとしてどう使用するかなどでその後の評価が大きく変わります。太平洋戦争を見ると、開戦時には旧日本軍が全盛期を迎えていたものの、その後”打倒日本”へ大いに注力した米軍が、総合性能を著しい勢いで向上させたといえるでしょう。
 超不名誉なニックネームはなぜついた?
 九九艦爆のスペックは、最高速度が時速400km程度。時速500km以上を出すことが出来た零戦と比べても、アメリカの戦闘機からみれば「九九艦爆=足の遅い軍用機」に映ったでしょう。
 © 乗りものニュース 提供 パールハーバーの航空博物館にある「零式艦上戦闘機」。「九九艦爆」とともに真珠湾で戦果を挙げた(乗りものニュース編集部撮影)。
 また、零戦もですが、開戦前の旧日本軍による軍用機の要求仕様では、機体の軽量化により速度、搭載量が重視されました。そのため、装甲板は最小限で、燃料タンクへの防弾も考慮されていなかったのです。防御力は無いに等しかったと言えます。
 そして、太平洋戦争中期には、アメリカ軍も性能の高い戦闘機を投入した一方で、日本は後継機となる「彗星」の開発が遅れ、スペックの劣る九九艦爆で出撃しなければならない状況が続きます。――「窮窮式(九九式)棺箱」の名前は、そのようななか、搭乗員から自虐を込めて生まれたものだそうです。
 日本ではよく聞く話のような気がしますが、上層部が長期的な視野に欠けたばかりに、そのしわ寄せが、懸命に戦う現場(搭乗員たち)にくるという、悲しき実例のひとつといえるでしょう。
 ただ先述のとおり九九艦爆は太平洋戦争前半でそれなりの成果を挙げています。一定の条件下であれば、「窮窮式棺箱」は結果を出すことのできる“隠れ名機”なのかもしれません。
 九九艦爆は、いまや日本国内はもとより、世界を見渡しても機体の一部だけが残っているだけです。先の真珠湾にあるパールハーバー航空博物館にも、九九艦爆の展示機はありません。ただ、将来、この“隠れ名機”がどこかの水底から見つかるといいな――と筆者(種山雅夫、元航空科学博物館展示部長 学芸員)は考えています。
 ※誤字を修正しました(12月8日11時45分)。」
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 12月8日14:12 MicrosoftNews 乗りものニュース真珠湾で米戦艦を沈めた“新兵器” でも実は間に合わせ? 意外なモノの転用で大戦果
 白石 光(戦史研究家
 記録的完勝となったパールハーバー攻撃
 今から80年前の1941(昭和16)年12月8日、旧日本海軍は、「赤城」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」「蒼龍」「飛龍」の空母6隻からなる空母機動部隊で、アメリカにとっての太平洋の要、同国太平洋艦隊の根拠地であるハワイのパールハーバー真珠湾)を攻撃しました。
 結果、アメリカの戦艦5隻沈没(着底を含む)、同3隻中破、軽巡洋艦2隻大破、同1隻中破、駆逐艦2隻撃破、同1隻大破、そのほか艦艇多数を沈没または大破。そして航空機約190機を完全破壊し、陸海軍の軍人多数を死傷させるという、甚大な被害を与えて大勝利を得ました。
 【写真】米戦艦の艦内で見つかった800kg徹甲爆弾ほか
 九九式八〇番五号爆弾を胴体下に吊るした旧日本海軍の九七式艦上攻撃機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。© 乗りものニュース 提供 九九式八〇番五号爆弾を胴体下に吊るした旧日本海軍の九七式艦上攻撃機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 このとき、出撃した旧日本海軍の航空機は、第一波攻撃隊183機と第二波攻撃隊171機合わせて354機。このうち最も大きな戦艦への攻撃に投入されたのが、爆装した九七式艦上攻撃機およそ50機でした。
 とはいえ、目標であるアメリカ戦艦は防御力に優れていたことから、普通の爆弾では致命傷を与えることができません。そこで、とある応急兵器が用いられたのでした。
 世界最高の性能を極めた国産艦攻の誕生
 航空技術が急速な進歩を示していた1920年代末から1930年代中頃にかけて、旧日本海軍は、水平爆撃と魚雷攻撃(雷撃)を行う九六式艦上攻撃機の後継機を求め、その開発を中島飛行機三菱重工業に要請します。
 こうして両社で競作という形で始まった新型機開発は、甲乙つけがたい優秀機を双方の会社が生み出します。両者とも機体は全金属製、主翼は低翼単葉の折畳式でしたが、最も大きな違いといえるのが主脚の構造にありました。
 中島製の機体は引込脚で、一方の三菱製は固定脚でしたが、両者とも一長一短あったため、ともに採用されることとなり、1937(昭和12)年に中島案が「九七式一号艦上攻撃機」、三菱案が「九七式二号艦上攻撃機」として採用されました。なお、後に前者は九七式艦上攻撃機一一型、後者は九七式艦上攻撃機六一型へと改称されています。
 © 乗りものニュース 提供 旧日本海軍の九七式艦上攻撃機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 ちなみに九七式艦攻は、両者採用という形でしたが、実質的には中島製の九七式一号がメインで、三菱製の九七式二号は補助という形でした。そのため、前者が約1250機生産されたのに対して、後者は150機ほどであり、生産数では約8倍もの開きがありました。
 こうして生まれた中島製の九七式一号艦上攻撃機は、操縦性、兵装搭載量、航続距離、飛行速度のすべてにおいて当時の世界トップクラスの性能を誇っていました。これに練成を重ねた優秀な乗員が搭乗することで、パールハーバー攻撃時点において、旧日本海軍には世界最高の艦攻が揃っていたといっても過言ではない状況だったのです。
 高性能機+優秀な乗員でもクリアできない課題への対応 
 1941(昭和16)年、いよいよアメリカとの開戦が現実味を帯びてくると、旧日本海軍パールハーバーに攻撃を加えることにしました。同地は冒頭に述べたようにアメリカ太平洋艦隊の根拠地であるため、戦艦や空母といった戦力そのものに加えて、重要なインフラである航空施設や港湾施設も、先制攻撃で破壊する必要がありました。
 しかし、いくら高性能の九七式艦攻と優秀な乗員をもってしても、絶対にクリアできない問題がふたつありました。
 まずひとつは、パールハーバーの平均水深が12mと浅いせいで、通常の航空雷撃ができないことでした。これに関しては、浅い海でも投射可能なように改修された「九一式航空魚雷改2」が開発されました。
 © 乗りものニュース 提供 長門型戦艦の主砲である45口径41cm砲用に製造された四〇糎(センチ)九一式徹甲弾の模製弾(柘植優介撮影)。
 もうひとつは、アメリカ戦艦が備える分厚い150mm級の水平装甲を、水平爆撃によって貫徹可能な徹甲爆弾がなかったことです。しかし、作戦の発動は迫りつつありました。そこで妙案が考えられます。
 それは、何と長門型戦艦の主砲である45口径41cm砲用に製造された四〇糎(センチ)九一式徹甲弾を、航空爆弾に改造するというアイデアです。こうして造られた800kg徹甲爆弾は、新たに「九九式八〇番五号爆弾」と呼ばれました。
 ところが、今度は別の問題が。この九九式八〇番五号爆弾が、九七式艦攻に装着できないことが明らかになったのです。この事態を受けて、作戦に参加する本機には大急ぎで改修が施され、かろうじて間に合わせることができました。
 なお、このような「新兵器」の開発と並行して乗員らが猛訓練を行った結果、パールハーバー攻撃に参加する九七式艦攻は、きわめて高い爆弾命中率のアベレージを出すまでに至り、本番を迎えることになりました。
 奇襲とはいえど少なくなかった犠牲
 1941(昭和16)年12月8日0322時(日本時間)、攻撃隊の総指揮官である淵田美津夫中佐は、奇襲成功を告げる有名な無電略号のトラ信、いわゆる「トラ、トラ、トラ」を発信しました。そして彼が直接率いる赤城隊15機、加賀隊14機、蒼龍隊10機、飛龍隊10機の計49機から成る九七式艦攻の水平爆撃隊は、新兵器である九九式八〇番五号爆弾をパールハーバーに停泊するアメリカ戦艦群に対して投下します。
 投弾された49発のうち、11発から13発が命中したものと思われますが、九九式艦上爆撃機の急降下爆撃の命中弾との誤認もあって、正確な命中弾数はわかりません。しかし少なくとも同弾が、メモリアルとなって今もパールハーバーに眠る戦艦「アリゾナ」に致命傷を与えて沈没させたと考えられています。
 © 乗りものニュース 提供 ハワイ真珠湾上空を飛ぶ九七式艦上攻撃機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
 なお、九七式艦攻水平爆撃隊は、49機全機が帰還しました。また、第2波攻撃隊として出撃した九七式艦攻54機も、陸上施設に対する水平爆撃を実施し全機が帰還しています。一方、魚雷攻撃を担った雷撃隊約40機のうち、空母「加賀」から出撃した第一次攻撃隊の5機が未帰還でした。ただ、真珠湾攻撃に参加した九七式艦攻全体で見ると、喪失はこの5機のみとなっています。
 ちなみにほかの機体を見てみると、第1波で零式艦上戦闘機零戦)43機と九九式艦上爆撃機51機、第2波で零戦36機と九九式艦爆81機が出撃したので、両波合わせての全機数は354機。このなかで零戦は9機、九九式艦爆は15機が未帰還だったため、前述の九七式艦攻5機と合わせて計29機が失われました。
 パールハーバー攻撃は「九一式航空魚雷改2」と「九九式八〇番五号爆弾」という2つの有力な新兵器のおかげで得られた大勝利とはいえ、その陰には、やはり少なくない犠牲も伴っていたのです。
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