⛻53】54】─1─算盤武士の諸改革が、260年間の「徳川の平和」を誕生させ、イギリスに迫る経済成長を遂げていた。~No.105No.106No.107No.108 @ 

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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・   ・  {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・   
 江戸時代は限定的鎖国政策で外国と切り離されていて、経済活動は日本国内だけであり、財政改革も日本国内のみに限定されていた。
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 田沼意次重商主義による経済政策と外交政策は、田沼の時代であって明和の改革ではない。
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 江戸経済は、限定的鎖国政策でオランダを通じて西洋経済とつながり、一国のみで世界規模の経済成長を遂げていた。
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 2016年4月号 歴史海道「実は斬新?リーダーの個性が決め手?
 『江戸の改革』を再評価する
 江戸時代の改革といえば、享保・寛政・天保の『三大改革』。
 どれもあまりうまくいかなかったと、学校では教わったかも知れません。しかし近年、新たな解釈が生まれています。
 どれも成功しなかったという見方は、厳しすぎ?
 実はこれ以外にも重要な改革があった?・・・教科書の記述とはひと味違う『改革の実態』を気鋭の経済学者が再評価します。
 各改革の達成度は、果たして何パーセント?
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 飯田泰之明治大学政治経済学部准教授)
 慶長 8(1603)年  江戸開府。
 享保 元(1716)年〜 享保の改革。将軍・徳川吉宗
 明和 4(1767)年〜 田沼時代。老中・田沼意次
 天明 2(1782)年〜 天明の大飢饉
 天明 7(1787)年〜 寛政の改革。老中・松平定信
 文化 元(1804)年〜 文化文政期。将軍・徳川家斉
 天保12(1841)年〜 天保の改革。老中・水野忠邦
 慶応 4(1868)年  明治維新
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 はじめに
 江戸の改革はすべて失敗なのか?
 改革につぐ改革の歴史だった江戸時代。
 幕府は何を目指していたのでしょうか。
 実は江戸幕府は、財政上『どうしようもない欠陥』を抱えていたのです。
 幕府は赤字が当たり前?
 教科書には江戸時代、享保・寛政・天保、3度の改革が行われたと書かれています。しかし細かく見ていくと、明和期の田沼意次の政策転換など、実は他にも多くの改革が試みられています。江戸時代は改革につぐ改革の歴史と言っても過言ではないのです。なぜそこまで改革が必要だったのでしょうか。
 安定的な政治を行うためには、政府にしっかりと財源、つまり税収が確保されていなければなりません。当時の税の基本は、米です。幕府が税を取れる領地──直轄地(天領)と旗本領の合計石高は、約700万石です。日本全国の石高は約3,000万石(天保期)ですから、幕府の税源は全国石高の4分の1程度しかないということになります。
 各大名たちの領地に対して、幕府が介入して税を取ることはできません。にもかかわず、幕府は、五街道の整備や国防といった全国統治を行わなければならない。経済的には日本の4分の1しか支配していないのに、支出は全国分なのですから、赤字になるのも当たり前です。
 しかも、直轄領の年貢率は大名家領地と比べて低く、これも幕府財政を苦しめる原因になりました。大名領の多くが6公4民(6割を税として納める)、島津家(薩摩)にいたっては7公3民に近い高税率だっらなかで、幕府直轄領の税率は3公7民程度です。実質的には税率が1割を切っていた地域もあったといわれます。
 なぜこのような甘い課税体制になっていたのでしょう。江戸時代初期は、佐渡金山や石見銀山などの鉱山を独占していた幕府の財政はむしろ潤っており、年貢に頼る必要がなかったのです。しかし次第に採掘できる金銀が枯渇し、幕府はその分を年貢率アップで補おうとしますが、農民の反発を考えると、やみくもにはできません。現代日本の消費税を巡る論争からも分かるように(欧州では20パーセント程度の消費税は当たり前ですが、消費税の歴史の浅い日本人には、8パーセントでも非常に高く感じますね)、税というのは『取られる方も納得するような』正当性がなければ反発・暴動を引き起こし、国の存亡にも関わりかねない・・・まさに『税は国なり』なのです。
 武士のメンツは潰さない
 さらに幕府には、もう一つ大きな課題がありました。武士の存在です。幕府という『軍事政権』を支える武士階級の本分は、もちろん戦(いくさ)で勝って褒美を得ること。しかし平和が続く江戸時代においては、戦がないのに幕府が家臣(旗本や御家人)を養うことになります。
 徳川家臣の80パーセント近くを占める御家人の給料は、米(蔵米)を単位に支払われました。といっても、実際に米で受け取る分わずかです。受け取る権利がある禄高(ろくだか)のほとんどをその年ごとの米価(貼紙値段)で現金化して受け取ります。そのため、米で見ると固定給なのですが、金額は毎年変動することになる。さらに、米以外の価格がどう変わるかによって、実質的な賃金の金額はさらに大きく変動することになるなるわけです。
 武士にとって一番ありがたいのは、米が高く売れ、他の物が安く買えること(『米価高の諸色〈物価〉安』といいます)です。とはいえ、幕府が恣意的に米価を上げれば、米を買う庶民の生活が苦しくなります。一方で、無理矢理に物価を下げれば景気は悪化する。『米以外の物価はそのままで、米価だけをほどよく上げる』という都合の良い状態を実現するのがいかに難しいかは、想像に難(かた)くないでしょう。景気は良くなってほしいが、武士の生活も困窮させたくない──このジレンマは歴代の為政者たちを悩ませ続けることになります。
 260年、悩み続けて
 幕府にとっては、財政赤字を改善すべく、『なんらかの方法で税収を増やす』ことが至上命題でした。米の生産量を上げて年貢を増やすのはもちろん、米の他にも税を取る手立てを考えなければ追い付かない。一方で、できるだけ倹約して支出を抑えることは言うまでもありません。
 さらに、武士の困窮を防ぎ、体面を守ること。すなわち米価を上げて物価を下げる(せめて米価が下がりすぎないようにする)必要があるのです。
 江戸幕府の改革は、この『税収を増やす』『支出を抑える』『武士の体面を守る』という3つを、いかにバランス良く成功させるかが鍵となりました。本特集では、これらの目標に着目して、各改革の達成度を私なりに評価しています。
 学校では、江戸の改革はいずれも成果を挙げられなかったと習ったかもしれません。江戸幕府は最終的には滅んだとはいえ、それはいささか厳しすぎる評価です。むしろ江戸幕府は、既に述べたような非常に難しい課題を抱えていたにもかかわらず、260年間もほぼ同じ体制を維持できた希有(けう)な政権だった、と捉えるべきでしょう。
 では、当時の幕府の立場に寄り添って、それぞれの改革を見直していきましょう。
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 享保の改革
 見習いたい米将軍の方向転換
 享保の改革の頃の幕府は、まさに『はじめに』でのべたような、財政赤字に悩まされていました。
 江戸開幕から100年余り経(た)ち、もう初期の政治をそのまま踏襲するのでは立ち行かないと考えた8代将軍・徳川吉宗は、大改革に乗り出します。
 米将軍は米だけじゃない!
 徳川吉宗は『米将軍』とあだ名されるように、米にまつわる政策に注力したといようイメージの強い将軍です。しかし、それだけで吉宗の改革を説明することはできません。何しろ吉宗は、前期と後期で改革の方向性を180度転換した、稀に見る果断な将軍だったのです。
 前期(享保期)の吉宗は、それまで幕政を担っていた新井白石間部詮房の方針(正徳の治)を継続しました。新田開発を奨励し、年貢率を上げるなど、保守的な農業重視政策をとったのです。金融についても、物価を下げるためには世の中に出回るお金の量を抑制される方が良い、と緊縮政策をとり、質素倹約を推し進めました。 
 結果、確かに新田開発によって米の生産高は増加、年貢高も増えはしましたが、経済はインフレーションが進み、物価も米価も下がり、景気は冷え込む一方となります。
 それもそのはずで、米を増産して貨幣を増やさず、質素倹約を続けていては、米価と物価の相対的な開きは変わりません。さらに大きな問題は、当時の中・下級武士の借金問題です。米価が下がっても借金の額は変わらない。収入が減ってもローンの額が変わらないとなったら、生活は苦しくなる一方です。結果として、吉宗前期の政策だけでは、武士の生活改善も景気の回復も果たすことはできないということになるのです。
 教科書に載せたい大成果
 ところが驚くことに、吉宗は後期(元文期)に入ると、商業重視の政策へがらりと方針を転換します。物を買ったり投機をしたり、という都市の経済活動を、抑制するのではなく活発化させることにしたのです。
 象徴的なのが、従来よりも金含有率の低い元文小判を鋳造(ちゅうぞう)・流通させた『元文の改鋳』です。従来の小判を窓口に持参すれば、百両につき元文小判165両の割合で交換する、増歩(ましぶ)という方法が取られ、市中の貨幣流通量は約1.4倍に増えました。これで一気にインフレーションが進み、景気は回復しましす。
 お金を手にした庶民は、雑穀ではなく、日常的に米を買うようになりました。都市の人間は自分では米を作らないのに米を買いますから、供給は変わらないのに需要が跳ね上がる──つまり米価が上がります。
 このように需要が急増した場合、供給が追い付かなくなって米価が上がりすぎ、むしろ都市生活は停滞してしまうというのが『よくある話』なのですが、実はここで、改革前期に行った新田開発が大きく生きてきます。ちょうど米の生産量が増大したすぐあとに、需要が増えた──現代風に言えば、構造改革を行ってから景気対策に乗り出した。政策の順番としては大正解、まるで経済の教科書のような手際の良さです。
 もちろん、インフレなので他の物価も上がりましたが、一番の消費物である米の値段は特に高騰し、問題となっていた物価と米価の開きはかなり小さくなりました。好景気でかつ米価も上がる・・・吉宗の改革は、武士と町人双方を満足させたことが後世の高評価につながったのでしょう。
 吉宗はやっぱり暴れん坊?
 吉宗は、米の増産や米価のコントロールなど、確かに米将軍と呼ばれるにふさわしい政策をとっていました。ただ、決して米のことだけを考えていたわけではなく、特に後期は商業全体に目を配った、先見性のある為政者だったと評価できるでしょう。
 とはいえ、これらの政策は吉宗が一人で考えたものではありません。事実、元文の改鋳を進言したのは町奉行大岡忠相大岡越前)といわれます。吉宗はむしろ人材登用に優れ、誰に何を委せるのが最適か判断できた、将軍らしい将軍だったというべきかもしれません。
 そうして私が最も評価したいのは、吉宗の『変わる力』です。前期の失敗を反省するや、施策を180度方向転換できる決断力。もちろん、すんなり政策転換できたのは吉宗が最高権力者だったからだ、とはいえ、並みのリーダーに為(な)せることではありません。我々も自分で一度言ったこと、やったことはなかなか覆せませんよね。この果断さは、彼の『暴れん坊将軍』のイメージにも結び付くでしょう。
 達成度 90%
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 田沼時代。
 画期的な商業課税と武士の妬み
 田沼意次はこれまで、賄賂に塗れた負のイメージで語られてきました。しかし近年は、時代に先駆け、革新的な政策をとってきた有能な政治家だったのではないかと再評価が進んでいます。
 商業課税を本格実施!
 享保の改革は、好景気の中で米価を上げることに成功しました。町人も武士も喜ぶ成果が上がり、幕府は一息つくわけですが、幕府の年貢が全国の4分の1からしか取れないという根本問題は、依然解決できていません。ここにメスを入れようとしたのが田沼意次でした。
 年貢が大名領からは取れなければ、米以外の税を考えるしかありません。となれば目につけるべきは、発展を続ける商業です。
 しかし、実は商業に課税をするというのは簡単なことではありません。米ならば、収穫高(石高)を基準に、税率を掛け算をした分を納めさせれば良いのですが、商業の場合は、単純に売上高だけ見るわけにはいきません。もちろん現代では、課税の基準は『利益』ですが、当時の日本には、きちんと利益を計算するための、いわば複式簿記の知識がありませんでした。それゆえ、商人に課税したくともその方法が分からなかった。
 そこで田沼は、『営業税』という形で商人に課税する方法(運上・冥加)をとりました。お陰で、それまで誰も切り込めなかった商業に、本格的に課税する足掛かりができました。とはいえ、一方的に徴税すれば商人の反発を買います。田沼は、税を取る代わりに自由な商業活動奨励し、株仲間というカルテルを作ることを承認して、商人の利益は確保しますとアピールしました。なさに飴と鞭です。
 さらに田沼は、国土の大半を占める大名領からも税を取る方法を考えました。全国の建物や農地に一律課税する全国御用金──現代でいう固定資産税のようなものを導入しようとしたのです。
 そして全国課税に先だって、南鐐(なんりょう)二朱銀という初の計数銀貨も導入しています。それまで、東日本では金貨、西日本では銀貨が主に用いられ、これらの両替レートは不定でしたが、田沼はそれを固定することで、通貨統一にむけての道筋をつけました。
 嫉妬で失脚?
 画期的な策を次々打ち出した田沼でしたが、既存の秩序が揺らぐことをよしとしない武士階級からは、猛反発を食らいます。
 商業が振興して町人が儲ければ、相対的に貧乏になった武士たちは面白くありません。全国御用金は、日本全国から広く薄く税を取ることを目指したという意味で中央集権的ですが、大名からすれば、自分の懐に手を突っ込まれているようなものですから、抵抗があります。結果として、全国御用金は実現に至らず、田沼は武士にひどく嫌われ、賄賂政治家というレッテルを貼られることとなりました。
 当時の幕府官僚にとって、賄賂はごく当たり前に受け取る『御礼』でした。今でいうチップのようなもので、幕府もそれを給料の一部と見なしていたふしすらあります。決して田沼だけが不当に金を得ていたわけではないのです。
 ただ、下級武士は賄賂とは無縁の苦しい生活を送っていたので、彼らの不満に乗じて田沼を引きずり下ろすためには、賄賂が格好のスキャンダルになったのでしょう。それに加えて天明2年(1782)、天明の大飢饉が発生します。『天変地異が起きるのは悪政のせい』という考えも根強い時代ですから、田沼への風当たりはますます強くなりました。結局のところ田沼は、賄賂というよりむしろ武士階級の妬(ねた)みによって失脚したと言うべきかもしれません。
 叩き上げだからこそ
 田沼は他の改革のリーダーと違って、父が紀州藩足軽という、家格の低い人でした。徳川吉宗に才を認められた叩き上げで、だからこそ将軍家への忠誠心は強く、中央集権的な政策を目指したのでしょう。しかし正統性のない老中が、武士に都合の悪い政策ばかり打つ立てるとなると、武士たちの反感を買うのも仕方がありません。
 逆に言えば、田沼は、政策方向性は正しかったものの、領国における大名たちのアイデンティティや、出世レースで追い抜かれた者たちの嫉妬に対する理解が甘かった、という見方もできます。それが改革の達成度において吉宗との差を生んだ、惜しい点です。
 達成度 60%
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 寛政の改革
 名君の倹約に消費は冷え込む
 田沼意次は、その手腕を信頼していた10代将軍・家治の死により失脚。後を継いだのは、吉宗の孫・松平定信でした。定信は、文句のない血筋に加え、『田沼とは正反対』の政策を掲げ、支持を集めましたが・・・。
 金は天下の回りもの
 田沼が試みた、大名領にも課税するという政策は、『700万石で3,000万石の政治を行なう』幕府財政の前提を丸ごと変える画期的な方策でした。経済振興による商業への課税もしかり。
 しかし、田沼への批判勢力に支えられた老中・松平定信は、この全国課税を白紙撤回します。さらに、商業や金融に対する姿勢も田沼時代とは対照的なものになるります。幕府財政は最大にして唯一の転換のチャンスを逃してしまうことになりました。
 しかし、定信はやみくもに田沼の逆を選んでいたわけではありますん。定信には、老中に就く以前の成功体験があったのです。
 定信がまだ白河藩主だった天明2年(1782)、天明の大飢饉が発生。定信は徹底した質素倹約、緊縮財政で危機を乗り切り、名君と称えられました。定信は、同じ手法で幕政を立て直そうと試みます。
 しかし、残念ながら一つの藩の経営と一つの国の経営とでは、事情は大きく異なります。藩の改革は、自藩の経済さえ上向けば成功です。白河藩の中で倹約し、これまで他藩(例えば江戸や北前船の商人)から買い付けていたものを減らせば黒字がでるでしょう。
 ところが国の改革となると、そうはいきません。倹約すればすなわち、国内の誰かの売り上げを下げることになります。『金は天下の回りもの』と言うように、国の為政者は、回りまわる経済全体を考慮する必要があるのですが、定信にはその理解が欠けていました。
 中途半端なエッセンス
 このため、寛政の改革は経済的には失策が続きます。倹約令で都市の経済活動を規制したため、消費は冷え込みました。まるで町の灯が消えたいうだと皮肉られたほどです。
 また、棄捐令(きえんれい)として武士の借金帳消しの法令を出しますが、これも経済衰退に拍車をかけました。多くの金融業者が破綻し、辛うじて残ったところも、また帳消しにされてはかなわないので武士には金を貸さなくなる。多くの武士は借金をやりくりすることで生活が成り立っていたので、いよいよ困り果ててしまいました。金を貸す人も、借りられる人も激減すれば、町にお金が回らなくなります。に、旧里帰農令(きゅうりきのうれい)。飢餓で荒れた農村から都市に流入した農民に援助金を与え、地元に帰って農業をやり直すこちを奨励する法令です。確かに民生の安定という意図は汲み取れますが、財政の観点からすると大間違いと言わざるを得ません。江戸にいれば多少なりとも幕府に税金を納めてくれた人々を農村に帰したら、みすみす税源を逃がすことになりかねないからです(帰った先も幕府直轄領ならいざしらず)。
 以上のように、寛政の改革は、吉宗前期の路線を踏襲しています。しかし享保の改革は、後期の金融緩和政策があってこそ生きた改革です。それを伴わない寛政の経済改革は、中途半端に終わってしまいました。
 鬼平とは相容れず
 ただ、藩主時代に未曾有な大飢饉を乗り切っただけあって、防災政策に関しては、定信はそれまでの改革には見られない、非常に意義深いものを残しました。災害に備えて事前に米やお金を貯めておく、囲い米の制、七分積金制などです。
 また、人足寄場の設立も特筆すべきです。江戸の石川島に置かれた、軽犯罪者の自立支援施設で、世界で初めて『教育刑』が実現した画期的な政策でした。これを献策したのが、鬼平の愛称で知られる江戸町役人・長谷川宣以のぶため。平蔵)です。鬼平は他にも、公費を銭相場に投機して増やすなど型破りの活躍を見せましたが、その経済観は田沼を髣髴(ほうふつ)とさせるものだったので定信に嫌われ、出世を阻まれました。
 定信は本来、将軍になれたはずの男でした。それが、同じく吉宗の孫である徳川治済によって白河藩に養子に出され、ルートを外されてしまった。結果として11代将軍になったのは治済の子・家斉です。定信は、将軍になりそこなったからこそ、『自分の治世』を求め、独自の手腕を見せつけたかったのかもしれません。スタンドプレーの目立つ鬼平を疎(うと)んじた根底には、あるいはそんな気持ちがあったのでしょう。
 達成度 45%
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 文化文政期
 爛熟の世は高度経済成長期?
 大奥に籠もって53人もの子供を作り、贅沢三昧・・・そんなイメージが定着してしまっている11代将軍・家斉ですが、実は彼の治世は、アジア1の高度経済成長に沸き、我々が思い浮かべる『江戸らしい文化』が最も花開いた時代でもありました。
 贅沢は公共事業?
 寛政5年(1793)、松平定信は改革の不振によって失脚。すると、それまで定信の陰に隠れていた11代将軍・徳川家斉が、徐々に力を振るい始めます。
 家斉は10代将軍・家治の急死に伴い、15歳で将軍に即位しましたが、政権運営は定信が掌握しており、政治の話には一切触れることができませんでした。幼少から定信には厳しい教育を受けていたようで、趣味で作っていた箱庭を『武士の遊びではない』と壊されたという逸話も残っています。オットセイ将軍と揶揄される家斉ですが、正直、大奥に籠もるくらいしか楽しみがなかったのでしょう。
 定信が幕閣を去ると、世論は再び商業自由化に傾きます。これに加え、個人的な鬱憤も溜まっていたのか、ようやく政治の実権を握った家斉は『とくかに贅沢がしたい』と考えます。しかし贅沢するには金が要る。そこで新しい老中・水野忠成(ただあきら)が献策したのが、『お金が無いなら増やせば良い』──文政の貨幣改鋳でした。銀含有量の低い文政南鐐(なんりょう)二朱銀を鋳造し、それを大いに使うことで市中のお金も量を激増させたのです。これは、家斉の放蕩(ほうとう)と非難されがちですが、見方を変えれば、金融緩和と財政出動を同時に行ったとも言えるわけで、実際に文政期の江戸はアジア一の高度経済成長を誇りました。将軍の贅沢三昧は、いわば『盛大な公共事業』だったのです。
 関東だけ近代化?
 また、文化文政期は、関東地方に限って言えば、田沼意次が模索した中央集権化への先鞭(せんべん)をつけることができた時代でした。関東一円の治安維持のため、関東取締役、いわゆる『八州回り』が設置されたのです。
 商業が発達すると、物資や人の行き来が活発化します。地域を股(また)にかけて犯罪も横行しましたが、当時は地方分権。警察権はそれぞれの藩内に制限されており、藩境を跨(また)いで犯人を追いかけることはできませんでした。特に関東は旗本領や小大名が多く、所領がひしめきあっており、警察まで『分権』では治安維持がままなりません。そこで関東全体を管轄する警察組織が作られ、さらに、領主に関係なく小さな所領をまとめた、行政単位としての村や郡が編成されました。このときの区分は、およそ1950年代の昭和の大合併まで生きていました。関東には、全国に先んじて、近代の市町村制度の原型が作られていたのです。
 これ以上、米は食えない
 町人には恩恵をもたらした文政期ですが、武士は相変わらず懐の寒いままでした。これまでは、享保の改革のように、都市経済が興隆せれば連動して米価も上がりました。しかし文政の改鋳の後、諸色(しょしき、物価)の上昇率30パーセントに対し、米価の上昇率は10パーセント程度。幕府が江戸時代を通じて悩まされた『米価安の諸色高』の状態に陥ったのです。
 恐らく、もはやこの頃の都市では、『余裕が出てきたらその分お米を食べる』時代は終わっていたでしょう。現代より遙(はる)かに米中心の食生活だったとはいえ、町人は1日1升(しょう)も米を食べることはありません。それ以上のお金があれば、別の美食や趣味に使いたくなるはず。文政期の江戸経済は円熟していたがゆえ、米価は上がらず、生活物資ばかりが高くなり、武士はいよいよ困窮したのです。
 ここが文化文政期の評価の難しいところです。現代風に言えば、『公務員給料を削減して民間経済を活性化した』正しい政策なのですが、『はじめに』で述べたように、江戸の改革の一つの柱は『武士の体面を保つ』ことでした。これに関しては、全くの逆効果だったのです。経済を立て直しながら米価を上げる・・・相反する二つの政策目標を抱えた江戸時代の難しさが、改めよく分かるのではないでしょうか。
 達成度 40%
 現代の目線で評価するのなら80%、でも当時の武士の感覚も考慮するなら・・・
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 天保の改革
 成功例のつまみ食いで空回り
 天保8年(1837)、モリソン号事件。天保13年(1842)、アヘン戦争清朝がイギリスに敗北──。
 従来の財政課題に加え、未曾有の国防危機に見舞われた水野忠邦は、過去の改革にヒントを求めますが・・・。
 絶対に老中になりたい!
 文化文政期を築いた徳川家斉や水野忠成が亡くなると、てんぽう12年(1841)から老中・水野忠邦による天保の改革が始まります。忠邦は若い頃から、幕政に携わることを夢見た男でした。
 江戸時代は、家格の高い家や豊かな所領を持つ者は幕閣になれないという暗黙の了解がありました。全ての面で恵まれた者(大名)をつくらないというのは、当時の社会の均衡を保つ重要なルールです。そこで忠邦は、豊かな唐津藩に生まれながら、あえて相対的には貧しい浜松藩へのお国替えを嘆願。そして見事、幕府の重臣に仲間入りし、46歳で老中首座となったのです。
 その頃、日本には外国船が次々と来航、通商を求めていました。前例のない問題に悩まされる幕府でしたが、そもそも国防に費やすためのお金もありません。忠邦はこの危機を何とか乗り切るべく、幕府がこれまで行ってきた改革を見直し、そこから学ぼうと考えました。事実、天保の改革の各政策には、いずれも過去の改革の影響が窺えます。
 例えば、享保の改革を踏襲して、商品の値上げを禁止。さらに国防のため、江戸、大坂近隣の大名・旗本領を幕府に返上させる『上知令(あげちれい)』は、田沼時代の中央集権化が念頭にあったでしょう。寛政の改革からは、商人のカルテル・株仲間の解散や綱紀粛正を引用。天保小判の発行、つまり貨幣改鋳も行いましたが、これは吉宗後期や文政期の踏襲ですね。このように忠邦は、各改革で行われたことを少しずつ取り入れていったのですが、そこには『最終的にはこのような国を目指したい』という一貫したビジョンがありませんでした。
 政治はひとつのパッケージ
 実際、改鋳をして貨幣流通量を増やしておきながら、値上げの禁止や株仲間の解散という形で商人の経済活動を規制する、というのは矛盾しています。本来ならば増やした貨幣で商業を奨励し経済を活発化させる、あるいは貨幣を減らした上で商業を規制して経済縮小に導く、そのどちらかのはずです。しかし天保の改革は『貨幣増+規制』という筋の通らないっものでした。他にも忠邦は、将軍の日光参詣に莫大な費用を投じたり、『人返し令』という定信の旧里帰農令に似た法令を出したり、様々なことを試みますが、その全てが行き当たりばったりだったと評価せざるを得ません。
 政治は、個々の政策の良し悪しもさることながら、それらが有機的に組み合わさってひとつの『パッケージ』となってこそ結果がでるものです。いろいろな改革から成功例をつまみ食いしても、上手な政治にはなりません。
 結果、幕府の根本にある財政問題は解決されず、喫緊の課題である国防にもまともに取り組む余裕もないまま、天保14年(1843)、忠邦は失脚してしまいました。
 倒幕は人の心の問題?
 結果として、慶応3年(1867)、幕府は倒れてしまいますが、それは経済的な破綻が原因というよりも、人の心の問題だったのではと私は考えています。
 時代が進み、経済が米中心とは言い切れなくなるに従って、米を単位に給料を貰い、貧窮に喘ぐ『武士階級』に武士自身が高い価値を感じられなくなってきた。実際、旗本株・御家人株(武士という身分)の売買は珍しくなく、それは『武士によって成り立つ』幕府体制からの離反を意味します。人心が離れている政権は、調子が良ければ支持者が増えますが、旗色が悪くなると一気に揺らぐものです。幕末の武士の多くは、幕府に忠誠を誓っているわけでもなく、もはや『何となく固定給を貰って仕事をしているだけの人たち』になってしまっていたのでしょいう。
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 失敗だったと片付けられがちな江戸の改革ですが、丁寧に見ていくと、それぞれ何か功績を残しています(天保の改革は残念でしたが)。もともと非常に困難な税収構造を抱える江戸幕府は、各改革が前の改革の綻(ほころ)びを縫いながら、上手に延命を図ってきたのです。結果的に幕府は滅んでしまいましたが、260年も経済を回し続けた歴代改革のリーダーたちは、もっと評価されるべきではないでしょうか。
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 賄賂は給料? 改革こぼれ話
 なぜ田沼時代や文化文政は『改革』でない?
 田沼意次や文化文政期の政策は、保守的な寛政・天保の改革よりよほど革新的と言えるのに、なぜ『改革』と名がつかないのでしょうか。
 それは、江戸時代の世論が、積極的に記録を残していた武士の記述をもとに後世に伝わったいるからではないか、というのが私の仮説です。何しろ、太平の世において武士は暇を持て余していました。まめに日記をつけていた人も多かったようです。となれば、武士に都合の悪い政策を推進した──商業振興に熱心で、武士の家計を潤すことを蔑(ないがし)ろにした田沼や家斉の政治は、悪しざまに書かれるでしょう。
 明治以降、学者たちはその記録をもとに江戸の政治を論じました。また、明治期はまだ儒教的な価値観(保守、農本主義)が根強く、それが政策評価に反映されたとも考えられます。
 老中は無給だった?
 『田沼時代』の章で、賄賂は当時の幕閣にとっては当たり前だったと述べました。大名にとっては、幕府の役職についても給料が増えるわけではありません。もちろん、家格に応じて武士一般に支払われる固定給(家禄)はあり、それが低い家の者が高い役職に就いた場合は追加報酬もあったのですが、一律に役職手当がもらえるわけではなかったのです。だからこそ幕閣たちは、武士や商人からさまざまな名目で『口利き料』という名の賄賂を受け取り、それを給料と見なしていました。
 ちなみに、低い身分でも就くことができた役職の中で人気が高かったのは、町方の定廻(じょうまわ)り(警察官)です。時代劇でもおなじみの、着流し巻羽織の八丁堀同心の給料は決して高くはありません(30俵2人扶持)。しかし犯人からのお目こぼし代や、『いざこざに巻き込まれれば仲裁に入る』ことを約束して担当地域の商家から御礼を貰うなど、賄賂の実入りが良い仕事だったのです。幕府も、特にこれを取り締まることはせず、賄賂で儲けているなら手当をつけなくて済むのでありがたい、という感覚だったといいます。
 賄賂の日には大行列?
 賄賂というと、誰にも気づかれないよう隠密にやりとりされるイメージがありますが、当時は少し違っていました。老中の面会日が決まっていたため、人気老中の前には門前市おなすほど人が並んだといわれます。
 そんな一大事となると、通りすがりの町人や下級武士も『何事か』と訝(いぶか)るでしょうし、それがあいさつという名の賄賂の行列だと知れば、羨望(せんぼう)が妬みに変わるのも自然なことかもしれません。
 リーダーたちの経済の知識はどこから?
 インフレやデフレを上手く操る、各改革のリーダーやそのブレーンたちは、どこから経済や金融の知識を得ていたのでしょうか?
 一つには、中国から、糶糴斂散法(ちょうてきれんさんほう。豊作の時は米を多く買って保存し、凶作の時に安く売る、という古典的経済政策)をはじめとした経済学が伝わっていました。ただ実際にはそれに加えて、町奉行所の勝手方など現場役人の経験を蓄積した『実践的経済理論』に頼るところが大きかったのではないかと考えられます。
 だからこそ、長く『鎖国』状態が続いて欧米諸国の経済状況に疎(うと)い幕府役人は、開国後の金銀交換率の設定を見誤りました。
 当時、海外では金:銀=1:15だったのに対し、日本は1:5。少しの銀で多くの金が手に入ったため、外国商人はこぞって日本で銀を金に換え、海外で転売して莫大な利益を得ました。これに警鐘を鳴らした水野忠徳など先見的な人材もいたものの、国内から貴重な資源である金が大量に流出。そして明治期に日清戦争に勝利し賠償金を得るまで、日本は金不足に悩まされることになります」

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 江戸時代とは、こうだと一つのイメージで説明できないほど時代によって複雑な様相を示している。
 普遍的マルクス主義階級闘争史観による固定観念では、武士と百姓町人の江戸時代は理解できない。
 同様に、絶対的キリスト教救済史観でも、日本神道と日本仏教の江戸時代を解き明かす事はできない。
 江戸時代が特段優れているのではなく、日本的な曖昧で掴み所の少ない平々凡々とした生活が流れていただけである。
 江戸時代は、世界の常識から逸脱した、ごく平凡にありふれた時代である。
 日本の常識は世界の非常識として世界に通用せず、日本の常識が世界の平和や繁栄に貢献する事はない、役には立たない。
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 江戸中期までに、人口約1,500万人は未開地開墾に伴う食糧増産で約3,000万人に爆発した。
 消費者の急増で需要が増え生産すれば売れる為に、田畑の相続権がなかった百姓の次男や三男は荒れ地を開墾して増産した。
 全国で城下町、街道宿場町、神社仏閣の門前町、温泉地や景勝地の宿泊町などの大建設ラッシュが起きるや、農作業に適さないか嫌がる若者は建設現場に流れ、新たな消費者が生まれた。
 町の消費者に日常生活品を生産して売る町人(職人や商人)が、新たな産業を興した。
 百姓や町人達は、生産者であり消費者として豊かになっていった。
 江戸時代初期は、需要と供給の好バランスで高度経済成長となった。
 百姓や町人は、収入が安定し時間的余裕ができるや金儲け以外に生きる意味を探し、生活を楽しむ為に娯楽を求め、心を豊かにする為に教養や趣味を極めようとした。
 徳川家康は、僧侶や学者など一部の教養人が独占していた読み書きを武士はおろか百姓や町人に広める為に読書を奨励し、全国的に識字率は高くなった。
 町人や百姓の教養・趣味活動によって、元禄文化など世界的にユニークな庶民文化が誕生した。 
 中期以降は、人口増加に伴う消費拡大と開墾地増加に伴う生産促進が止まり、高度経済成長時代は終わりゼロ成長時代となった。
 武士達は、人口増加の伴う消費の落ち込みによって生産しても商品が売れない現状を改善する為に、諸改革に挑戦した。
 問題は、増えもせず減りもしない人口と生産で、如何に米価と物価を安定させるかであった。
 生産者である百姓の増産を行えば、消費者が増えない為に米余りから米価は値崩れを起こした。
 都市部の貧しい町人達には歓迎すべき事であったが、だが彼らは好ましい消費者ではなかった。
 好ましい消費者は武士であり、武士は生産をせず消費するだけの存在であった。
 米価が下がっても、物価が下がらなければ武士は生活に困窮した。
 シンプル・ライフ的に質素倹約すれば、贅沢な嗜好品はおろか生活必需品の消費も落ち込んで経済全般は衰退した。
 最初は供給過剰で物価は一時下落するが、売れなければ生産しても無意味として生産しなくなり品不足によって物価は急騰した。
 物価を下げると、都市部の生産者・職人の収入が減って生活ができなくなり、生活不安によって打ち壊しが起きる恐れがあった。
 問題は、物価を維持しながら米価を上げる事であった。
 消費拡大の人口増加が望めなくなった時に、どうやって経済を支えるかであった。
 人口爆発の時は、消費も増加して生産すれば何もしなくても飛ぶように売れ、経済は発展した。
 人口が増えず頭打ちになり、最悪、減り始めるや消費は冷え込み、生産しても売れず経済は低迷する。
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 専制君主制のヨーロッパとその周辺地域では、文化は王侯貴族と豪商達の独占で、教養は教会や学者の独占で、民衆は読み書きができず教養も文化も持ってはいなかった。
 中華的専制君主制の中国や朝鮮でも、文化は王朝と豪商が独占し、教養は読書人が独占し、人民は教養や文化を持たなかったし、人権すら認められず虫けらのように扱われ牛馬の如く使役を強要されていた。
 読み書きは叛逆の源として民衆や人民には認められず、読み書きできる事は場合によっては重罪とされて弾圧された。
 日本は鎖国政策によって、世界の文明・文化そして教養や科学技術から取り残され未開国とされた。
 明治は、日本的なモノを捨て西洋を無条件で取り入れる事で近代化を目指した。


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「名君」の蹉跌―藩政改革の政治経済学 (叢書「世界認識の最前線」)

「名君」の蹉跌―藩政改革の政治経済学 (叢書「世界認識の最前線」)