🍙11〗─1─軍国日本の農村型軍国主義は、不作と借金で娘を身売りした貧困の農村地帯から始まった。昭和8年~No.35No.36No.37 @ 

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   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 前年からの持ち越し(古米) 891万石。
 生産高 6,039万石。
 輸入量 1,275万石。
 移入量 1,175万石。
 供給量 8,205万石。
 消費量 7,245万石。
 人口 6,692万人。
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 百姓や町人は、庶民であって人民ではなく、労働者でもない。
 庶民は、神の裔にして祭祀王・日本天皇を滅ぼし天皇制度を廃絶しようとする共産主義を嫌い、共産主義から日本天皇天皇制度を守る為ならば戦争も辞さず、そして自分の命を犠牲にする覚悟を持っていた。
 共産主義が戦って相手は、勤皇の志を持った庶民であった。
 日本天皇天皇制度を守ろうとしたのは、日本民族日本人の庶民であった。
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 軍部は、借金と飢えに苦しむ貧困農村を救う為に暴走した。
 地方の貧困に苦しむ農村は、幾分でも豊かな都市の犠牲となっていた。
 軍隊の古参兵達の多くが行き場のない農村部出身の為に、自分達よりも恵まれた境遇で生活していた都市出身者を嫌い、いじめや嫌がらせをし、殴ったり蹴ったりの暴行を加えていた。
 気の弱い新兵達の内で、耐えられなくなって脱走する者や自殺する者もいた。
 日本の軍隊は、各国の軍隊に比べて、誇れないほどに人間性を無視した陰湿で陰険な体質を持っていた。
 その体質があった為に、死を恐れない勇猛果敢な軍隊であったが、同時に蛮行をふるって残虐行為もした。
 都市出身者の多い部隊は弱かったが、農村出身者の多い部隊は強かった。
 最強の部隊は、農村の部隊であった。
 農村の長男は、家を継ぎ、田畑を相続した。
 次男や三男は、田畑を相続ができず、学歴がなく、技術をなかった為に、多くが軍隊に入隊するしか生きられなかった。
 都市の青年は、徴兵されても学歴や技術を持っていた為に、退役して一般生活に戻る事ができた。
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 軍国日本は、労働人口の5割が農民という農業国家であった。
 耕作面積から、中小規模農家は53%、地主の土地を耕す小作農は47%、不在地主寄生地主は19%であった。
 問題は、零細農家の救済であった。
 一人当たりの耕作地面積。
・日本…内地‥0.45ヘクタール
    朝鮮‥0.57ヘクタール
    台湾‥0.31ヘクタール
アメリカ…12.8ヘクタール
・イギリス…3.9ヘクタール
・フランス…2.7ヘクタール
・ドイツ …2.1ヘクタール
・オランダ…1.4ヘクタール
・イタリア…1,3ヘクタール
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 日本の軍国主義は、不作と借金で困窮する農村地帯から始まった。
 政党政府は、不況下の日本経済を復興させる為に資本家の利益を優先し、貧困農家を後回しにした。
 政治家は、賄賂を貰って資本家の利益の為に政策を立案していた為に、信用をなくしていた。
 軍部は、借金と飢えに苦しむ農村を救う為に暴走した。
 天皇ファシズムとは、悲惨な農村地帯を基盤としていた。
 日中戦争から太平洋戦争まで、大陸や太平洋で戦った日本軍将兵は昭和8年・9年の飢饉を生き抜いた農村の青年であった。
 中国や韓国・北朝鮮や国際的反日世論が反対する靖国神社に祀られた祭神は、農村部の軍国青年であった。
 農村の青年は、軍部に騙されたのではなく、軍国主義者として積極的に協力して戦った。
 農村部は、困窮し食べていけない貧困家庭の若者を兵士として軍隊に供給し、軍部の犠牲者ではなく、軍部の母体であった。
 都市部は、体力のない貧弱な働き盛りの若者を、赤紙一まで軍隊に強制的に取られていた為に、軍部の犠牲者であった。
 農村部は、都市部よりも悲惨な生活をしていた。
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 極東国際軍事裁判所は、人道に対する罪及び平和に対する罪で、軍国日本を未来永劫許されることなき戦争犯罪国家と認定した。
 国際司法機関は、戦犯国日本の、如何なる証拠に基ずく弁護申し立ても却下し、やむを得ざる事情による正当防衛も認めず、避けられない条件下での自衛行為も否定した。
 戦犯国日本には、戦時国際法による有罪判決のみがあり、情状酌量の余地は全くない。
 自衛行為も、正当防衛も、国家及び個人の全権利を完全否定したのが、東京裁判史観である。
 GHQの民政局(フランクフルト学派ドイツ系ユダヤ人達が主導していた)は、日本を二度と戦争が出来ない様に、日本(大和)民族が2000年以上かけて培って来た伝統・文化・宗教・歴史・精神・習慣など全ての面を、反宗教無神論天皇制度打倒というマルクス主義で大改革を断行した。
 昭和天皇の戦争責任を理由にして、侵略戦争を命じる危険性のある神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度の廃止を訴え。
 靖国神社及び護国神社侵略戦争を賛美し美化する宗教施設と認定して、世界平和の為に破棄を求めた。
 軍国日本と昭和天皇への非難の声は、国連においても、国際裁判所においても、如何なる国際機関においても、やむ事がない。
 国際世論は、昭和天皇と軍国日本を戦争犯罪者として厳しく批判している。
 特に。昭和天皇の命令で、日本軍に軍事占領されたアジア諸国・諸民族の間で尽きる事なく沸き起こっている。
 戦後日本は、戦争犯罪を認め、侵略戦争と強制連行について謝罪し、反省し、賠償金を払った。
 侵略した中国と強制連行した韓国などに対しても、ことある事に、その罪悪を認めて土下座するほどに謝罪と反省を繰り返している。
 この反省と謝罪は、現在も続けられ、将来も続く。
 戦犯国日本の汚名が消滅しない限り、終わる事がない。
 日本国内には、こうした反日的国際世論に迎合するに、至る所で講演活動をし、数多くの出版物を出して、金儲けしている学歴高き国際派日本人がいる。
 社会的影響力のある彼等は、信念も覚悟もないだけに、その時々の世論動向に合わせて自説を変えて金儲けをしている。
 そこには、民族的な「絆」は存在しない。
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 ちなみに歴史的事件とは、実録としての年表上の記述であり、真実とか事実という権威ある特定個人が恣意的に作成した見解ではない。
 歴史の真実・事実は時代と共に書き換えられるが、歴史的事件は永遠に不滅である。
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 山下文男「子どもたちと食べ物をめぐる、衝撃的な出来事も各地で相次いだ。学校の朝礼の際、空腹のために倒れる児童、空腹のために集中力を欠き授業についていけない児童、腹が減るからと体操や唱歌の時間をなくした学校、給食のための握り飯を奪い合って掴み合いの喧嘩をする児童、学校で弁当の盗難があいつぎ、調べると、幼い弟や妹に食べさせるために家に持ち帰ろうとする欠食児童の仕業であった等々、どれもこれも痛ましいものばかりで、当時の子どもたちの食環境が筆舌に尽くしがたいほど貧しいものであったことを示している。そして哀れにも乞食をする者、義務教育の小学校6年をまっとうすることができず、奉公に出される子どもや、口減らしのために売られて行く子どもたちが後を絶たなかった。これらは、特定の県や町村、学校のことではなく、東北地方の農山漁村では、大なり小なりどこにでもあったことなのである」(『昭和東北大凶作』)
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 井口東輔『日本人口問題研究』
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 昭和8年 上田貞次郎「昭和2年の春、人口食糧問題が議会の問題となり、政府はこれに対する調査会を開くととなった。……吾人は外国に対して言うだろう。外国が人種の統一を保つためにわが国人の移住を好まぬとすれば、必ずしも移住の自由を要求しないでもよい。その代わりわが国において多くの人が維持されるように外国の安い原料や食糧を充分に分配し、且つわが国の製品に対して門戸を開放してもらわねばあらない。吾々は人力を外国へ送ってその天然資源を利用する代わりに外国の天然力を商品の形に直してわが国に取寄せ、これに尽力を加えるであろう。かくして職業多く得られるならば必ずしも人口多きを憂うる必要はない。これがわが国外交の大方針にならねばならぬと私は思う。……しかるに現在の日本の経済政策はこの根本政策と背馳して外国の原料及び食料の輸入を制限している。……吾人は外に向かって門戸開放を求むると同時に、日本自らの門戸をも開放しなければならぬ。……以上引用した所の議論は後になっていわゆる自由通商運動の根拠になったものである」
「(J・B・コンドリフ『極東に於ける人口の圧迫』。人口問題の核心は)飢餓及び貧乏というような積極的制限が終局的に現れ来る事にあるのではない。現代の覇気ある国民にあっては、その点に到達するはるか以前に、人口の資源に対する圧迫の結果、各種の社会問題が重大化する事になる。─階級対立、産業の競争、国際的協力等も、これが為に複雑化する事になるのである」(編著『日本人口問題研究』)
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 食料も原材料も海外に依存する無資源国家日本は、貿易立国を目指す為に、自由貿易の維持を求め保護貿易に反対し、過度な自国産業保護の関税障壁の上積みと日本製品ボイコットを警戒した。
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 『経済倶楽部講演第三十七輯(しゅう)』「(上田貞次郎)イギリスとかアメリカとかいうような国でも、成る程自給論というようなものはありますけれど、これまた算盤を弾いてみると、なかなか自給なんと云うような事は出来ない。……そうして見るとブロック政策も誇張してはならぬ、どうも事実には外戦の危機なしであるのに、一種不思議な非常時的心理状態が動いて危機ありという観察をするのではないかと思う」
 日本の有識者は、アメリカやイギリスが日本の人口過剰と食糧不足の危機を、自国の自給自足体制であるブロック体制への脅威と判断して対日政策を強化させているとみていた。
 上田貞治郎「人口の激増ということがわが日本のあらゆる経済的及び社会的状勢の根底に横たわる所の顕著なる事実であることは疑う余地がない。いずれの国でも産業革命の到来と共に人口激増するが、天然資源の豊富なる国、内外の事情が産業の発展に都合よき場合にありては、人口の増加と一般生活程度の上進に並行し得る時期は比較的長く続く。これに反して資源貧弱にして環境の有利ならざる国では人口増加の圧力を感ずる時期が早く来る。わが国は明治維新以降、欧米の技術と制度とを採用したる結果、産業の大発展を来すと共に人口は激増し、しかも生活程度は著しく高まってきた。そしてこの幸福たる状勢は欧州〔第一次〕大戦直後まで継続したけれども、近年変調を呈するに至ったようである。産業の発展が人口の増加に伴わず、各階級の人々は戦時戦後に急進したる生活程度を維持せんとして苦闘しつつある。かかる現象は世界的不況によることは言をまたないけれども、一面において人口増加の圧力が働いていることを看過するわけに行かない。わが国は今や明治大正の発展時代を終わって一の新しき時代に入ったものと思われる」(編著『日本人口問題研究』)
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 『語りつぐ東北15年戦争』「娘身売りは1928(昭和3)年ごろから東北各地に見られ、少しづつ増加し、1932(昭和7)年から翌年にかけて急増した」
 同様の娘身売りは、北海道・東北から九州までの全国で起きていた。
 売られたのは少女だけではなく、遺産相続が得られない次男三男の男の子も同様に売られた。
 身売りとは、日本が昔から持っていた民族の伝統的習慣であって、ある特定の地域に於ける異常な現象ではなかった。
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 2016年7月1日号 週刊朝日 「虎穴に入らずんばフジマキに聞け 藤巻健史
 危険な量的緩和、先人の知恵に学ぶべき
 ……
 今日の日銀を見ていると、ドイツのかつての中央銀行ライヒスバックを連想する。第1次世界大戦中、ドイツは戦費調達のために国債を大量に発行し、戦後に多大な賠償金を請求された。この結果生まれた財政赤字をまかなうため、ライヒスバンクは大々的なファイナンス(資金調達)を行い、天文学的なハイパーインフレを引き起こした。
 この異常な経験にもかかわらず、ライヒスバンクはナチス政権の言いなりとなり、再び大々的な量的金融緩和策に乗り出して。マネーサプライ(通貨供給量)は膨張し、戦争による供給力の破壊とあいまって、ドイツは再びハイパーインフレに見舞われたのだ。通貨は暴落した。
 こうした苦い経験から、政府服従ライヒスバンクは解体された。そして、世界で最も政府から独立性の強い現在の中央銀行ブンデスバンク(連邦銀行)が設立された。
 ライヒスバンクと同じことを続ける日銀が倒産し、その負債である紙幣が紙切れとなるリスクを私は危惧する。10枚の日銀券が一枚の新しく創設された中央銀行の銀行券と交換という事態だ。
 先のG7で、財政出動に強く反対したことでわかるように、ドイツが財政規律を極めて重視するのはこうした経験からだ。日本も戦後にハイパーインフレに襲われ、昭和2年と21年に貯金封鎖と新券発行が行われたが、学習能力がない。
 『ドイツのインフレは戦争に由来したのだから、今の日本には当てはまらない』と言うなかれ。現在の日本は戦費の代わりに多額の社会保障費を使っている。借金総額の対GDPは第二次世界大戦直後並みで、社会保障費の対GDP比は戦争中の軍事費並みだ。
 『戦争による供給不足が起こらないから、需要過多は起こらない』と言うなかれ。円が暴落すれば安価になった日本製品への需要が世界中から集まり、需要過多になる。
 速水優・元日銀総裁は退任会見で『私は、中央銀行が信認を失えば、いずれ、ほぼ確実に制御不能のインフレが起こると思っている。……政策当局がいったん失った信認を、後で都合よく取り戻すといったことができないことは、貴重な歴史の教訓である』と述べている。『(日銀法)第3条に書かれている通貨および金融の調節における「自主性の尊重」とその意思決定に関する『透明性の確保』というものは、ひとときも私の心から離れことはなかった』とも。
 また、白川方明・前日銀総裁は『わが国を含め、欧米諸国が現在発展している非伝統的な政策の評価も、いわゆる「出口」から円滑に脱出できて初めて、全プロセスを通じた金融政策の評価が可能となる。そうした性格のものだと思っています』と述べている。
 異次元の量的緩和は危険だ。黒田東彦総裁は先人の言葉をかみ締めるべきだ」
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 1月9日 ルーズベルトは、日本の中国侵略を非難する「スチムソン・ドクトリン」への支持を表明した。
 スチムソン陸軍長官は、日本をアジア市場から排除す為に戦争の危険のある排他的経済制裁を実行し、日本を破滅的戦争に暴発させる為のさまざまな謀略をめぐらした。
 レイモンド・モーレイ「極東に大きな戦争を招く政策を支持したのと同じ事だ。いずれ米英が日本に対して戦争を仕掛ける事になるかも知れない」
 アメリカの農村経済は、国際市場における農産物価格の大暴落で崩壊し、大量の農業労働者が流民と化して都市に流れ込んだ。
 アメリカ政府は、政府統制を強化して生産価格の制限をする為に、農業保護政策として農業調整法を制定した。
 さらに、企業支援策として、企業側に過剰な価格の吊り上げや大幅な賃金カットを制限する代わりに生産価格を決定する権限を与える、全国産業復興法を制定した。
 共産主義ニューディール政策により、「上手に管理された資本主義」(ケインズ)のもと、新たな世界大戦に備えた兵器生産の量産体制を推進した。
 アメリ共産党労働組合は、新たな戦争を創造させるというスターリンの革命構想に従って、ニューディール政策を積極的に支持した。
 政府の軍拡政策により、産業界は活況を呈し、軍需産業に関係した重化学工業のフル生産により、1,000万人以上の失業者は職を得て急速に減少した。アメリカは、平時にも関わらず、国益の為に世界の兵器廠となった。
 アメリカ議会は、統制を強化しようとする政府の決定に従属するだけの存在となり、日本の国会同様に権威を失って行った。
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 3月3日 昭和三陸地震。M8.1。
 大津波による被害も甚大であった。
 被害。死者1,522人。行方不明者1,542人。負傷者1万2,053人。家屋全壊7,009戸。流出4,885戸。浸水4,147戸。焼失294戸。行方不明者の多は、津波による被害であった。
 被災地約200ヶ所に災害記念碑が建立されたが、2011年3月11日の東日本大震災には生かされていなかった。
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 日本軍隊、警察官、消防士、消防団、自警団が、被災地に入って被災者達を助けた。
 皇室所縁の日本赤十字社と軍隊の軍医部は、救護班を派遣して、日本人や朝鮮人・台湾人に関係なくの全ての怪我人を差別せず、平等に、公平に治療し、病院に収容した。
 日本は、他国からの支援・救援をあてにせず、自力で乗り越えようとした。
 日本が自然災害多発地帯である以上、全ての災害で他国に依存するわけにはいかなかった。
 自分の事は自分でする、それが自然災害多発地帯で生きる大原則であった。
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 関東大震災の様な、朝鮮人虐殺事件は起きなかった。
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 日本各地には、津波による被害が存在していた。
 青森・岩手・宮城の三陸海岸一帯を大津波が襲い、溺死者3,000人以上、被害家屋4,000戸以上の甚大なる被害を出した。
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 5月4日 国民新聞「娘の死体を抱えて彷徨う老人。
 雨を交えた冷たい風が吹きすさみ、人影もまばらな東京駅前の広場を、3日、うら若い娘の死体を抱いて彷徨っている朴訥な老人が丸の内署に保護された。白昼、しかも都心での出来事なので、奇怪なこととして署員が取り調べたところ、死体を抱いた老人は、00村の桶屋職人山田松二郎(仮名)。死体は、同人の長女で兵庫県西宮市の遊郭00に00と名乗って勤めていた友子(23歳、仮名)であった。苦界に病人で明日をもしれない身になったのを、父親の手で故郷に引き取られて帰る途中、この日、品川駅近くを走っている列車の中で、娘は数年ぶりで見る故郷を前にしながら、ついに息を引き取ってしまったとのこと。父親は、東京駅に着くとともに、娘を抱いて医者を探して歩いていたものと分かった。
 老人の語る切々たる哀話によると、老人が娘を売るまでには、日に日に疲弊して行く農村の姿が如実に描き出されている。身売りの代金は、実質わずかに23円。老人の家は、近郷でも知られた代々の桶屋で、木桶一つで叩き出す金で一家を養っていたが、農村不況になって以来は、日に2円50銭の収入が、わずか5.60銭に下がってしまった。妻との間には3男4女いるが、致し方なく、既に北海道に渡って働いている前妻との間の息子に帰って来てもらうべく、息子を探しに北海道に渡った。しかし、息子はどうしても帰りたくないと云うので一人虚しく帰って来た。ところが留守中、妻の兄が、亭主の松二郎は北海道で死んでしまったという噂を妻に説くので、それを信じ込んだ妻がやむなく長女を身売りすること決め、松二郎の印鑑を押して、娘を長野県松本の遊郭に、前金1,500円の五年契約で売っていたことが分かった。しかし妻の手に入ったのはわずか33円にすぎなかったとおいう。
 帰宅してこのことを知った松二郎は、松本の山の中の遊郭では借金の重荷から身を抜くことが難しかろうと、兵庫県の西宮の遊郭に住み変えさせた。しかし、それも束の間、重病の床につく身となったので、痩せ細る娘の余命はおぼつかないと見てか、遊郭の主人は見向きもしなくなり、電報一本で父の松二郎を呼び寄せ、早く連れ帰れと云う。そして故郷へ連れて帰る列車の中で、ついに若い命を絶ち切られてしまったのであった。
 4日午後、父・松二郎は、今は変わり果てた娘の遺骨を町屋火葬場から受け取り、遺骨を抱いて一人寂しく故郷へ引き揚げたのである」
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 7月30日 大阪朝日新聞「3億円の対支債権 実力で回収を決意 対支借款はいわゆる西原借款などの政治借款と称されるものを合算すれば今や元利合計10億円にも達しているが、この政治借款について南京政府は全然責任なきが如く態度を取っており……」
 軍国日本は、中国に貸した借款を踏み倒された。
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 8月 国際社会からの非難で公娼に関する法律が改正されたが、雇い主から上前をはねていたヤクザや献金を受けていた悪徳政治家によって改善できなかった。
 下層階級は、誠意の欠片もない政治家に絶望し、党利党略で政権獲得を優先して政争を繰り返す政党政府に嫌悪感を感じ、単刀直入で直情的な軍人に社会改革の期待をかけた軍部を支持した。
 日本の軍国主義は、軍部に騙されたのではなく、有効な政策を実行できない無能無策な政党政府に絶望した国民が積極的に支持した結果である。
 昔も、今も、最大の問題は、大言壮語で天下国家を叫ぶだけの無責任な政治家の質の悪さである。
 自分の議席確保しか考えない劣悪な政治家によって、国家は衰退し、そして滅亡する。
 日本の軍国主義とは、社会改革を求めた国民が主導したものである。
 戦後の日本の責任体質は、国民がその責任を国家元首昭和天皇A級戦犯など軍人及び政治家に押し付け、非難をかわして安全地帯に逃げた事によるものである。
 それ故に、「一億総懺悔」であった。
 無責任体質の原因は、神の裔・万世一系男系天皇(直系長子相続)制度ではなく、そう誤魔化した戦後日本人の心の「さもしさ」にある。
 祭祀王・天皇を打倒する為にそう煽ったのが、反戦平和市民団体を主催する左翼・左派のマルクス主義者とキリスト教会と一部の国際派リベラリストである。
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 9月 満州事変。
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 朝鮮人労働者は、安い賃金で都会の町工場で働き、家賃の安い下町の部落に潜り込み、在日朝鮮人村を作って助け合っていた。
 職工として町工場に奉公に出された少女らは、薄汚い宿舎に住み込み、朝鮮人労働者よりさらに安い労賃で働かされた。
 日本人経営者は、身売りされた少女らに同情し、より多くの労賃を払うために朝鮮人労働者を解雇した。
 日本人労働者も、一日でも早く身売りされた少女らが金を稼ぎ家に帰れる様に、衣服や食べ物を分け合って物心両面で支援した。
 日本政府は、在日朝鮮人保護より少女らの身売り防止対策を優先し、製造業界に軽労働で賃金の良い仕事に在日朝鮮人労働者ではなく出稼ぎ少女らを配置する様に要請した。
 ここに、在日朝鮮人への企業責任問題が発生した。
 軍部は、職場から多くの日本人労働者を徴兵して大陸に送り込み、工場や職場での労働者不足を加速させた。
 後の、地方の少年少女らによる集団就職の始まりである。
 集団就職により、多額の借金を抱えた事例以外での身売りは減少した。
 朝鮮の貧しい村から、多くの屈強な朝鮮人青年達が仕事を求めて日本に渡り、当然の権利として日本人労働者と同額の賃金が得られる職場を探し回った。
 国内不況に喘ぐ軍国日本で、朝鮮人青年層の人口が急増した。
 在日朝鮮人は、数少ない職場を身売りされた少女らに奪われて失業し、職を求めて日本全国の労働環境の悪い飯場を渡り歩くか、都会の部落にとどまって日本人への逆恨みから犯罪に走った。
 在日朝鮮人は、理由だどうであれ、日本側の民族差別に激怒して反日感情を募らせた。
 コミンテルン(非ロシア系ユダヤ人達)は、日本国内で階級闘争を起こす様に共産主義者に指令を出した。
 食糧難にある日本に、大食漢の反日朝鮮人100万以上が不法上陸して来た。





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